能舞台に出現した舞楽空間 向かって左から、鉦鼓、太鼓、鞨鼓 |
解説 小野真龍
《採桑老》 一人舞 懸人(1人)
《甘州》 四人舞
《鮮莫者》 一人舞
京不見御笛当役
打物:鞨鼓1、太鼓1、鉦鼓1
管方:鳳笙3、篳篥3、龍笛3
装束方3
能《弱法師》シテ俊徳丸 大槻文蔵
ワキ高安通俊 福王和幸 アイ従者 善竹十郎
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 柿原崇志
後見 武富康之 大槻裕一
地謡 観世銕之丞 柴田稔 馬野正基 浅見慈一
長山桂三 観世淳夫 谷本健吾 安藤貴康
国立能楽堂で、雅楽の公演が催されるのは初めてとのこと。
今まで開催されなかった理由は、やっぱり、沓でしょうか……。
能舞台は足袋が基本だし、先日の神楽公演のときも演者は足袋を履いていたし。
観ていて抵抗がなかったといえば……うーん、どうかな。
《張良》でさえ沓は履かずに、投げて、拾いに行くだけですから。
(と、思ったら、調べてみると流儀によっては《張良》で沓を履いて歩く演出もあるのですね。ちょっとびっくりだけど、なるほどー。)
それはともかく、天王寺舞楽自体は素晴らしかったです!
(なんと!)小野妹子の末裔という小野真龍氏の解説では、天王寺舞楽と能との親近性が挙げられていて興味深い。
少し補足して、能と天王寺舞楽(or雅楽全般)との類似性をまとめてみると;
(1)能も雅楽も、秦河勝(もしくはその子息)を始祖とする点
『風姿花伝』には、天下に災いがあった時、聖徳太子が六十六番のものまね(神楽)を秦河勝に演じさせたのが、申楽の初めであることが書かれている。
いっぽう雅楽も、聖徳太子が外来音楽で仏教を称揚するべく、秦河勝の息子や縁者たちに、隋などから伝来した音楽を学ばせたことが始まりとされる。この河勝の子息たちが、四天王寺の四楽家(東儀・林・薗・岡)の祖となった。
(2)散楽(物まね芸)的要素が入っている点
大和申楽には、ものまね芸的な要素が入っているが、天王寺舞楽も、宮内庁の雅楽に比べると、リアルな写実的所作が多く含まれる。
(わたしが先日、宮内庁雅楽演奏会で観た《胡徳楽》にも、ヨタヨタと背中を丸め、腰をかがめて歩く所作など、観客の笑いを誘うようなリアルで物真似的な表現があり、まるで狂言の元祖みたいだと思ったのですが、宮内庁の雅楽にもそうした散楽的要素が残っているようです。)
また、世阿弥は京への進出にあたり、雅楽から序破急の概念を取り入れて、たんなる物真似芸を洗練させたとのこと(能の囃子の「盤渉」や「黄鐘」の概念も、雅楽から採用したものですね)。
(3)神仏習合
近世まで日本の宗教は神仏習合(混淆)が一般的だったが、明治以降、雅楽は天皇を荘厳するためのものとなり、仏教色が排除された。
しかし、天王寺舞楽では、聖徳太子の命日の法要である聖霊会に仏舎利をのせた神輿が出るなど、神仏混淆的要素がいまも残っている。
能楽でも、謡曲の中で神仏が習合されている。
雅楽も能楽も、その由来を聖徳太子と秦河勝に辿ることができるというのが面白い!
天王寺舞楽公演の様子は次の記事に掲載します。
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