第32回テアトル・ノウ【東京公演】仕舞・舞囃子《三山》からのつづき
能《山姥 雪月花之舞 卵胎湿化》 味方玄
谷本健吾 宝生欣哉 大日方寛 梅村昌功
石田幸雄
藤田六郎兵衛 成田達志 亀井広忠 観世元伯
後見 清水寛二 味方團
地謡 片山九郎右衛門
観世喜正 河村晴道 分林道治
角当直隆 梅田嘉宏 武田祥照 観世淳夫
公演前半だけでも濃い内容だったのですが、いよいよ《山姥》です。
【前場】
都で「山姥の曲舞」を謡って一世を風靡した遊女・百萬山姥が善光寺詣でを思い立ち、従者とともに越後・越中の境にある境川にやって来ます。
ツレ・ワキ・ワキツレともにきれいなハコビ。
ツレの面は小面でしょうか、スラリとした身のこなしとともに今をときめく遊女らしい垢抜けた華やかさを感じさせます。
遊女一行はアイの里人に善光寺に向かう道を尋ね、如来の通る修行の道となる最も険しい上路越を通ることにしますが、日暮れでもないのに、にわかに辺りが暗くなり途方に暮れていると――。
ここで幕内から「のうのう」というシテの呼掛け→登場となるのですが、このときの第一印象は、(《砧》や《定家》と比べて)やはりこの曲は味方玄さんの得意分野ではないかもしれない、というものでした。
(《山姥》自体が非常に手ごわい曲で、シテの技術や巧さだけでは如何ともしがたいものがあります。)
シテの出立は、ダークグレーを基調にした渋い色柄の段替唐織。
深井や近江女ではなく、痩女系の面を選んだのは、輪廻をめぐる象徴としての山めぐりの苦しみを暗に示すためでしょうか。
前シテを痩女で演じるのは難しい選択肢であり、シテはあえて険しい上路越を自ら選んだのだと思いました。
(補記:《山姥》で小書がつくと前シテで痩女を使用することが多いそうです。)
シテのこの鄙びてやつれた雰囲気と、遊女一行の都会的な雰囲気との対比はさすがで、異質なものが突然入りこんだような印象を観る者に与えます。
それからおそらく、山姥の化身というアイデンティティを表わすためだと思いますが、膝が開き気味のやや豪放な下居姿と、頬のこけた女面とのバランスが――ここも難しいところです。
中入前のシテ詞「すはやかげろふ夕月の」で、シテは夕月を眺める風情で脇正斜め上方を見上げるのですが、このときの表情が、今は亡き人を恋い慕うような、その人との大切な思い出の数々にしばし耽るような、なんともいえない趣深いまなざしを見せたのが、とても心に残りました。
替間「卵胎湿化」
石田幸雄さんによる替のアイ語り、よかったです。
最初は通常の《山姥》の間狂言のように、「山姥は何からなるのか?」という山姥の正体について語ります。
山姥は、靫(うつぼ)が山姥になる、古い桶がなると言い、
”木戸”がなるというところで、ワキの欣哉さんの「それは”鬼女”だろ?」というツッコミが入るところまでは常と同じ。
ここから「ある智者の物語を承り候に、卵胎湿化の四生として生類の品々を法華経にも説き給へり」となり、替間「卵胎湿化」独自の語りに入っていきます。
(以下は月刊「観世」掲載の詞章と当日のアイ語りとを照合した拙抄訳。)
百歳の狐は美女に、千年の松は青い羊に、万歳の樹木は青い牛となる。
水中には水神魍魎という霊的な存在があり、深山には木霊魑魅というものがいる。
ある時は小人のように現れ、ある時は巨人のように現れ、鼓のように見えることもあるが、いずれもすべて山の精であると山海経にも書かれている。
そのほかさまざまな姿で現れるが、形はあれど、実体はない。
山姥もそういう存在である。
迷いの眼で見れば、ないものもあると見える。
悟った者が見れば、一切ないと見える。
あると言おうとすればない、ないと言おうとすればある。
あるとも、ないとも、はっきりとは定めがたい。
それゆえ
怪しいものを見て、怪しめば怪しく、
怪しまなければ怪しくないともいえる。
――という、煙に巻くような内容です。
とはいえ、これは後場の「邪正一如と見る時は色即是空そのままに、仏法あれば世法あり、煩悩あれば菩提あり……」に一脈通じる世界観かもしれません。
結局、山姥の正体はよく分からないまま、最後のほうで六郎兵衛さんのアシライ笛が入り、「ここで、かの山姥の真の姿を見ようではないか」、ということになります。
テアトル・ノウ【東京公演】《山姥 雪月花之舞 卵胎湿化》 後場につづく
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