"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2015年5月29日金曜日
多武峯・談山能~国立能楽堂企画公演《恋重荷》
2015年5月21日(木)18時開演 国立能楽堂
能 《恋重荷》
山科荘司 梅若玄祥 女御 片山九郎右衛門
ワキ臣下 福王和幸 アイ 茂山逸平
一噌康二 観世新九郎 山本哲也 観世元伯
後見 観世銕之丞 山崎正道 谷本健吾
地謡 大槻文蔵 観世喜正 上田公威 角当直隆
坂真太郎 角幸二郎 坂口貴信 川口晃平
臣下と下人を従えて、九郎右衛門扮する女御が橋掛りを粛然と進んでくる。
(この日、九郎右衛門さんと源次郎師は京都・西本願寺と掛け持ちだった。)
女御がワキ座で床几に優雅に腰をかけると、天冠がほんの微かに揺れ、
そのゆったりとしたリズムが彼女の嫋やかな高貴さを物語る。
女御がつける談山神社所蔵の女面は、若女や小面に細分化する前の古風な顔立ち。
切れ長の細く冷たい目が、笑顔を見せない絶世の美女・褒姒を彷彿とさせる。
臣下に呼びつけられてシテの山科荘司登場。
面は国立能楽堂所蔵の三光尉。
談山神社所蔵の面に比べると、ごく一般的な能面という印象を受ける。
着痩せすることで定評のある玄祥師だが、着痩せにも限界があるようだ。
天災に見舞われるかのように、図らずも身分・年齢違いの恋に落ちてしまった山科荘司に向かって、恋重荷を持って庭を千度回れば、拝謁がかなうと女御の意向を臣下が伝える。
奮闘むなしく、老いの身では重荷を持つことはできないと悟った荘司は、
よしや恋ひ死なん。報はばそれぞ人心。乱恋になして思ひ知らせ申さん。
と、恋のために死んで、女御を祟ることを心に決め、腰に差していた1本の白菊を取り出し、重荷の上にそっと置く。
恋の形身か、横たわる骸の象徴か、それとも怨嗟の置き手紙か。
(この白菊を使った演出はじつに巧みで、後場の見せ場の伏線となっている。玄祥師の考案なのだろうか。)
〈中入〉
臣下の勧めで、庭に出た女御は荘司の遺体を見て、
恋よ恋、わが中空になすな恋、恋には人の死なぬものかは
と、シオってその死を憐れむ女御だが、どこか他人事で、空涙を流す風情。
ところが次の瞬間、金縛りにあったように身体が硬直し、立ち上がることができなくなる。
この場面、
シテ方によっては、詞章通り、盤石に押されたように身体をガクガクさせて、硬直感を演出する人もいるが、九郎右衛門さんはそのような仰々しい(美しくない)演技はせず、抑制の効いた品のある静止の姿勢で金縛りの状態を表現されていた。
出端の囃子に乗って、鹿背杖をついた荘司の怨霊が登場。
半切は、荘司の怒りを表すかのような鋭い直線的なデザイン。
使い込まれて、裾がだいぶ擦り切れているが、それが談山神社蔵の古い悪尉の面とほどよく調和している。
悪尉の面は彩色が剥落したせいで角度によって多様で複雑な表情を見せ、
恐ろしいというよりもどこまでも悲しげで、
恋の妄執にとらわれたゆえに悲劇を招いたオペラ座の怪人を思わせる。
荘司の霊は怨みを言いつつ女御に詰め寄る。
玄祥師はお能の型を踏襲しながらも、写実的な表現をされるシテ方さんで、この復讐の場面でも哀しみと怒りをじつにリアルに演じていらっしゃった。
衆合地獄のおもき苦しみ、さて懲りたまへや懲りたまへ
のところで、後シテは重荷の上に置いていた白菊を手に取り、女御の前に投げつける。
愛憎の入り混じったサディスティックな恋の表現。
怨霊は怨みを晴らしつつ、女御を苛むことに悦びを見出しているかのよう。
苛まれる女御のほうも、このとき、荘司の中に「男」を感じて、
氷のように冷たい心が溶け、モロジオリの手をほんのりと朱に染めて、
甘美な快感に陶然と身悶えしているように見える。
名人2人による官能的な場面だ。
そしてこの瞬間、(新演出によって)荘司の恋は成就し、「姫小松の葉守の神」になることを誓って、冥土へ還ってゆく。
再びしずしずと橋掛りを渡ってゆく女御は、荘司の後を追い、
鏡の間の奥で2人は結ばれたのだろうか。
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