2015年2月8日日曜日

「何にもならない」一生を「ただ生きる」


                      

                                  
生きていると、どうしようもなく、むなしくなる時があります。


今まで何のために生きてきたんだろう。

今まで何のために努力してきたのだろう……。

そんな「生のむなしさ」にとらわれた時、手に取った本に救われることがよくあります。


昨夜、ふと繙いた本(ネルケ無方『ただ坐る』)の言葉が、自分にとっての啓示となりました。
(その言葉を以下に抜粋します:太字部分)




参禅者たちによく聞かれます。
 
「坐禅をして何になりますか?」
 
実は答えは極めて簡単、「何もならない」です。

(中略)坐禅をしても、本当に何にもなりません。

……「何にもならない」からこそ、坐禅がいいのです。

人間の一生も、結局、何かになるようなものではありません。

しかし、この「何にもならない」一生を、「ただ生きる」ことが重要なのです。

今の日本人に足りないのは、ただ生きることに自信を持つことだと思います。

何にもならない、この一生をただ生き抜くというキモが据わっていなければ、
 
芯のない生き方・中途半端な生き方になってしまいます。
 
              ――ネルケ無方『ただ坐る』(光文社新書)





何か価値のある目標を持ち、それを達成することが
人生の成功であり、幸せなのだという錯覚。

目標達成のために時間を費やすことこそが
時間の有意義な過ごし方だという思い込み。

私もそうした幻想にとらわれ、「何かを追い求める」「何かを達成する」
という呪縛からなかなか抜け出せない人間の一人です。


過去に自分の心の問題で悩んでいた時期、
八王子の松門寺という禅寺に数年間参禅したことがあります。

その時は参禅によって精神的危機から抜け出すことができたのですが、
その後、坐禅からはしばらく遠ざかっていました。

ネルケ師の著書を読んで、ふたたび禅に向き合ってみようと思いました。
久しぶりに姿勢を正して坐禅を組んでみると、頭がすっきりして気持ちのいいものです。


ネルケ師のわかりやすい坐禅指導はこちらのYoutubeにアップされています。
https://www.youtube.com/watch?v=FIV2H8QLn4w


さらにネルケ師は「坐禅をしても何もならない」ということについて、
著書の後半でこのように述べています。



坐禅しても、修行しても何もならないというのは、
先ず見返りなど何も期待してはならないということです。

修行の一つ一つを単なる手段と捉えず、
今ここ・この瞬間の修行に自分の命の全てを見出し、
全自己を投入することです。

志のない人が目の前にぶら下がっている人参をいくら追い続けても、
結局はそれを得られません。

坐禅にしても、人生にしても、挫折・幻滅して辛い思いをするのは
周りがそうさせているのではなく、本人が全身全霊を打ち込まず、
見返りばかり期待していることが原因である場合が多いのではないでしょうか。



ガツンッとくる言葉です。

私が「生のむなしさ」を感じるのも、
一瞬一瞬を、身を入れて真剣に生きていないからだと思い至ります。

失望するのも、幻滅するのも、
見返りばかりを求めてしまっているからなのです。


日々是修業。
(難易度高いですが)見返りを求めず、全身全霊で今を生きる生き方を目指したいものです。











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