2019年12月22日(日)京都観世会館
《邯鄲》盧生 片山九郎右衛門
舞童 梅田晃熙 勅使 殿田謙吉
大臣 宝生欣也
輿舁 平木豊男 宝生尚哉
宿の女主人 茂山茂
杉市和 飯田清一 谷口正壽 前川光長
後見 小林慶三 大江信行
地謡 青木道喜 古橋正邦 河村博重
分林道治 味方團 宮本茂樹
河村和貴 大江広祐
《腹不立》出家 茂山七五三
アド 茂山逸平 茂山千之丞
仕舞《巻絹》河村博重
《車僧》橋本忠樹
武田邦弘 古橋正邦
田茂井廣道 清沢一政
《正尊 起請文・翔入》味方玄
義経 片山伸吾 静 味方慧
江田源三 分林道治 熊井太郎 大江広祐
姉和光景 大江信行
立衆 橋本忠樹 宮本茂樹 河村和貴
河村和晃 河村浩太郎
武蔵坊弁慶 宝生欣也
下女(くノ一?)松本薫
杉信太朗 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 片山九郎右衛門 味方團
ワキ後見 殿田謙吉 平木豊男
地謡 橋本礒道 橘保向 武田邦弘
青木道喜 古橋正邦 河村博重
田茂井廣道 清沢一政
【邯鄲】
忘れもしない、私が能を観はじめた5年前、初めて感動した舞台が片山九郎右衛門さんの《邯鄲・夢中酔舞》(国立能楽堂企画公演)だった。
あのときのクライマックスの光景は、いまでも胸に焼きついている。
盧生がゆっくりと身を起こしたあと、時間が凝固したような長い沈黙がつづいた。
はたしてシテは無事なのか?
もしかすると一畳台に激しくダイヴしたせいで、脳震盪でも起こしたのではないだろうか……?
緊迫した静寂ののち、シテはようやく沈黙を破り、「盧生は、夢醒めて……」と謡い出した━━「永遠の一瞬」ともいえる絶妙な「間」だった。
観世寿夫があの名舞台で井筒をのぞいた時のような、計算され、洗練しつくされたあの美しい「間」が、観能ビギナーだった私を能の世界へ引き入れてくれた。
この日の《邯鄲》でもあの時の「間」が再現され、盧生が身を起こしたあとに長い沈黙がつづいた。
ただ、5年前の《邯鄲》では舞台も見所も水を打ったように静まり返っていたが、この日は見所の物音で、あの「永遠の一瞬」が惜しくも乱されたのだった……。
一畳台での〈楽〉も、5年前とよく似た感覚を抱いた。
シテは、空気中とは異なる重力空間に存在していた。手足に水圧のような抵抗を受け、まるで水中で舞っているかに見える。引立大宮の四角い箱型空間が透明なアクアリウムと化し、シテは夢の中でゆらめくように遊泳していた。
生死の境で魚になって泳ぐ夢を見る『雨月物語』の「夢応の遊鯉」がふと頭に思い浮かび、《邯鄲》の世界と折り重なっていった。
ほかにも、とりわけ印象深かった箇所が2つある。
ひとつは〈楽〉を舞い終えて興に乗ったシテが、橋掛りで至福の境地に浸るところ。
昼夜・四季のすべての美しさが目の前に展開し、この世の頂点を極めた盧生は「面白や、不思議やな」とまばゆい栄華に酔いしれるのだが、この時シテは橋掛りの欄干にゆったりと腰をかけ、甘美な悦楽にしばし耽溺する。
橋掛りの欄干に無造作に腰をかけるという、大胆な型を観るのはこの時が初めてだった。
シテの創意だろうか?
クタッとくつろいだ姿勢から、いかにも圧倒的な幸福に浸りきって我を忘れた青年らしい、どこか生ぬるく隙のある、ぽわ~んとした脱力感が伝わってくる。
もうひとつは、盧生が夢から醒めて「何事も一炊の夢」と悟ったのち、「南無三宝南無三宝」と唱えるところ。
この時シテはおもむろに一畳台から立ち上がり、正中に出て、急に激しい調子で「南無三宝! 南無三宝!」と歓呼する。「なんだ! そうだったのか! そういうことだったのかぁ!!」と、全身から熱い感動がほとばしるように。
ここも、青い果実のようなちょっとベタな感情表現が、どことなく若者らしさを感じさせた。盧生のつかの間の「悟り」の先にあるのが何なのか、あれこれ想像をめぐらせたくなる。
アイの宿屋の女将は、5年前の《邯鄲》と同じ茂山茂さん。はまり役だ。ハコビがなんとも女らしく、婀娜っぽい。
笛も5年前と同じく杉市和さん。囃子方は俊英ぞろい。推しの大鼓方・谷口正壽さんがこの日も冴えていた。そして、端然と下居した大臣役の宝生欣哉さんの不動の佇まいが、ひたすら美しかった。
片山定期能《正尊 起請文・翔入》につづく
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