2019年4月17日水曜日

「北野天満宮信仰と名宝」展&フィルムシアター

2019年4月13日(土) 京都文化博物館
北野天満宮の神輿(桃山-江戸期)

会期終了間近、いつもながら滑り込みセーフで展覧会場へ。思ったよりもすごい人。予想以上に充実した内容だった。

目玉は何といっても、《北野天神縁起絵巻》(承久本)。これは、北野天満宮で御神体のように扱われる国宝の絵巻物であり、全9巻のうち、1~6巻は菅原道真の一生と怨霊になるまで、7~8巻は日蔵像上人の六道めぐり、9巻は7~8巻の裏面に張り込まれていた白描下絵をまとめたものとなっている。


《北野天神縁起絵巻》(承久本)といえば、天満天神の眷属である火雷火気毒王が清涼殿に禍をもたらす第6巻が有名だが、この巻の展示は前期のみ。
後期の展示は、無間地獄を描いた第8巻と、白描下絵の第9巻だった。

北野天神縁起絵巻・第8巻

第8巻に描かれた地獄が迫力満点。
尻尾が三叉になった幻獣や真っ赤な口の大蛇たちがまるでビームのように炎を吐き、亡者たちは炎に焼かれ、蛇に呑み込まれ、八つ裂きにされている。


つづく餓鬼道では、ガリガリに痩せて骨と皮だけになった亡者たちがお腹を巨大な球体のように膨らませ、仲間の餓鬼たちをむさぼり喰うカニバリズムの世界が展開する

餓鬼のなかには、お腹を破裂させて水を噴き出す者や、背中に石をのせられて火あぶりにされている者もいる。


恐ろしく、残酷な世界。だけど、どこかコミカル。劇画チックなユーモアがそこかしこにあふれている。

生き物のようにグルグル逆巻く炎には、まるで岡本太郎の絵のような強烈なインパクトがある。アヴァンギャルドな絵巻物だ。


後代の北野天神縁起絵巻には見られない洗練されていない粗削りなパワーとプリミティブな生命力が画面全体に躍動する。この絵巻を手掛けた絵師たちは、きっと心底楽しみながら、ノリにノッて描いたのではないだろうか。



《太刀 銘・安綱 号・鬼切丸》(別名・髭切)11-12世紀・平安期
坂上田村麻呂が鈴鹿山で鈴鹿御前との戦いに使用。
伊勢神宮に奉納されたのち、源頼光の手に渡り、家臣の渡辺綱が一条戻橋で美女に化けた鬼に遭遇し、その腕を斬ったことでも知られる。

さまざまな伝説を孕んだこの霊刀は、最終的に北野天満宮に奉納された。

刀の中ほどに小さな瑕がいくつかついているのは、希代の英雄たちが魔物や鬼と闘った跡だろうか? 鬼の血を吸った妖刀が目の前にあるなんて、ロマンティック。


それにしても、なんて美しいのだろう。
名工・安綱の研ぎ澄まされた技と、最高品質の出雲産砂鉄から作られた最高純度の玉鋼のもつ霊気、平安時代のものとは思えないほどの鋭利なみずみずしさ。
刀剣女子ではないけれど、彼女たちの気持ちがわかるような気がした。



《雲龍図屏風》17世紀・桃山期、海北友松
こちらも、「文道の太祖・風月の本主」たる天神さんに奉納された社宝。
右隻の龍は、雲中というよりも、昏い深海の泥のなかで蠢くような不気味さ。左隻の龍は、直線的な雲の層から鋭い爪と恐ろしい顔をのぞかせる、どこか飄々とした風情。

力強く無駄のない描線と大胆な筆致は、江戸中期の絵師・曽我蕭白を思わせ、時代を先取りしている。





《十一面観音立像》(12世紀・平安期、曼殊院門跡)
縁起文では、菅原道真(北野天神)は十一面観世音菩薩の垂迹とされる。この立像はもとは、神仏習合の聖地だった北野天満宮に安置されていたが、明治の神仏分離によって曼殊院に移されたという。

いかにも平安仏らしい、ほっこりしたやさしいお顔。お姿も輪郭がやわらかく、和やかなオーラをまとっている。お腹がぽっこりしているのも、微笑ましい。

若いころは、鎌倉初期の慶派による仏像の、凛とした精緻な造形が好きだったが、最近は平安初期・中期のおっとりしたお顔の仏像に惹かれる。わたしも少しは人間が丸くなったのかな?



《北野遊楽図屏風》(17世紀・桃山期、狩野孝信筆)
狩野永徳の次男・孝信の筆。
1・2扇には右近馬場あたりで酒宴や遊戯、歌舞音曲を楽しむ人々が、3・4扇には調理・配膳の様子が、5・6扇には経王堂前で輪舞する人々が描かれる。茶店の屋台や、北野名物・みたらし団子を焼く店も見え、生き生きとしたにぎわいが伝わってくる。

女のように美しい若衆や男装した遊女など、当時の倒錯的な美意識も垣間見える。群集の一人ひとりに、その人ならではの生活・人生・個性が感じられ、いつまで見ていても、見飽きない。




展覧会を見た後は、フィルムシアターで黒澤明の初期の作品『素晴らしき日曜日』を鑑賞。
同館の今月のテーマは「映画が伝える 名もなく、貧しく、そして美しい生活」。なので、『素晴らしき日曜日』も終戦直後の貧乏カップルの極貧の生活を描いた作品だ。

クロサワにもこんな時代があったんだ。。。という内容だったが、ヒロインに抜擢された中北千枝子の演技が光っていた。
最初は、平凡な顔立ちの小太りの女性に見えていたのが、映画が進むにつれて、しとやかで献身的な日本女性に見えてくる。うつ伏せになって泣きじゃくるところや、相手役の男性を物問いたげ見つめるまなざしなど、『羅生門』の京マチ子を彷彿とさせる。監督の演出とカメラワークによって新人女優が磨かれていく、その過程がつぶさにわかる作品だった。

この時代の女優さんって、しぐさや物腰の端々に女らしさが滲み出ていて、顔が十人並みでも、観ているうちに美人に見えてくる。男性を立てる気配りや、ずけずけとモノを言わない奥ゆかしさが、昔の日本女性を美しく見せていた。





0 件のコメント:

コメントを投稿