第九回 広忠の会 《定家》前場からのつづき
能 《定家》 シテ味方玄
ワキ宝生欣哉 ワキツレ大日方寛 御厨誠吾
アイ野村萬斎
杉信太郎 大倉源次郎 亀井広忠
後見 観世銕之丞 山崎正道
地謡 片山九郎右衛門
観世喜正 坂真太郎 谷本健吾
坂口貴信 林宗一郎 鵜澤光 観世淳夫
ワキ・ワキツレの待謡のあと、習ノ一声の囃子が入る。
この日のもう一人の主役・広忠さんは薄橙色の袴姿。
前場では小鼓の繊細な音色に対して大鼓の打音がきつすぎるように感じたが、
この習ノ一声では、もう、何と言えばいいのだろう、
いま思い出しても胸が熱くなるような大鼓だった。
果てしなく孤独な老狼の咆哮を思わせる長く伸びた哀切な掛け声。
冬の夜空に響き渡る澄んだ音色。
両サイドの二人を終始リードしサポートした源次郎師の洗練された小鼓。
そして全力で舞台に立ち向かった信太郎さんの渾身の笛。
三者が一体となった素晴らしい出端事。
夢かとよ、闇の現の宇津の山。月にもたどる蔦の細道。
暗く、悲しげな声が闇の底の塚の中から響く。
『伊勢物語』で業平が東下りの途上で蔦の細道をたどったように、
蔦葛に這いまとわれた塚の細道を式子内親王の霊がたどってくる。
このとき、光源氏が蔦の細道を通って明石の君のもとに通ったように、
定家が式子内親王のもとに通った日々が二重写しになって
彼女の記憶の底から立ちのぼる。
塚の中のシテと地謡との掛け合いのあと大鼓が入り、
「外はつれなき定家かづら」で引廻が外され、ワキが立ち上がる。
後シテの出立は、浅葱色の大口に青灰色の長絹(露は薄朱色)。
長絹には……桐の模様だろうか、
わたしには蔦葛が絡まっているように見えた。
裾には笹があしらわれている。
見事としかいいようのない配色と文様の取り合わせ。
面は前シテと同じ増だったが、面にも顔映りというものがあるらしく、
後シテの装束にあでやかに映え、シテの気の変化とあいまって、
優婉さと品格がさらに増していた。
薬草喩本の功徳によって定家葛の呪縛が溶ける。
「定家葛もかかる涙もほろほろと解け広がり」でシテは袖を開き、
「よろよろと足弱車の火宅を出でたる」で、立ち上がり塚から出、
「ありがたさよ」で、ワキに向かって合掌。
後シテは僧へのお礼として
宮中での華やかな時代を再現するべく舞を舞う。
序ノ舞の狂おしいほどの美しさ。
式子内親王の霊が憑依したようにシテは彼女と完全に一体となり、
女という悲しい生き物の化身そのものが、
身を焦がすような甘い恋の記憶に耽溺しながら静かに舞う絶美の世界。
被いた袖の下から見つめるまなざしには夢見るような陶酔感がただよい、
煩悩の、妄執のなかこそが安息の地であることへの気づきと悟り、
そして諦観が潜んでいる。
もとのごとく這ひ纏はるるや定家葛、這ひ纏はるるや定家葛の
儚くも形はうづもれて失せにけり
シテはもとのごとく定家葛の纏いつく塚に戻り、
蔦葛の絡まるさまを表現するべく、
見所から見て右前の柱を反時計回りに二度まわったのち、
左前の柱を時計回りに一度まわり
作り物の中央で安座して
何かに抱擁されて安らかに眠るように枕ノ扇。
堂内は水を打ったように静まりかえり、
閉じる扇の骨の音だけが鳴り響く。
あとは、
静寂のなかの無限の余韻。
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