2015年12月13日日曜日

片山九郎右衛門の《殺生石・白頭》前場~国立能楽堂12月普及公演

国立能楽堂普及公演 ~解説、狂言《鶏聟・古式》からのつづき


能 《殺生石・白頭》 シテ里女・野干 片山九郎右衛門
         ワキ玄翁上人 舘田善博  アイ能力 河原康生
         寺井宏明 幸正昭 亀井広忠 梶谷英樹
         後見 味方玄 梅田嘉宏
          地謡 観世喜正 山崎正道 馬野正基 永島充
             角当直隆 坂真太郎 谷本健吾 川口晃平


休憩をはさんで、お待ちかねの《殺生石・白頭》。

「白頭」の小書がつくと石の作り物を出さない場合もあり、
個人的には作り物なしのヴァージョンを期待していたのですが
(そのほうが九郎右衛門さんの芸をより堪能できると思ったから)、
この日は常のごとく、大小前に一畳台と石の作り物が置かれました。


次第の囃子とともに源翁上人と、佛子を担いだ能力登場。
ワキの舘山さんは相変わらずの美声と美しいハコビ。
最近とみに貫録もついて頼もしい。

道行を経て、奥州から那須野の原に着いた一行。
このとき、ある石の上を飛ぶ鳥たちが次々と落ちていくのを能力が目撃します。

あら(鳥が)落ちるわ落ちるわ落ちるわ



不審に思った源翁上人は、「立ち寄り見うずるにて候」と
石に近づいて(実際にはワキ座に近づいて)行こうとします。

すると、僧に呼びかける声が、


なう、その石のほとりへな立ち寄らせ給ひそ



いつのまに幕が上がったのか、
まるでホログラムで出現したかのように
気配を消したまま幕際に佇む前シテの里女。


面は、口角の上がった肉感的な唇とコケティッシュな目元をもつ万媚。
(近江作で銘は「化生」だそうです。《殺生石》や《紅葉狩》にぴったり。)


装束は鮮やかなダークブラウンの地に、
「狐蘭菊の花に隠れ住む」の詞章を思わせる朱・黄・白の大輪の菊花と
秋草をあしらったインパクトのある唐織。


背後に鬼火がメラメラと燃えるような、
女の強烈な個性と執念を感じさせます。


石に近づいてはいけない理由を尋ねる僧に、女は、
それは触れると、人も動物もたちまち命を落とす殺生石だと
強い調子で答えます。


正直に言うと、この冒頭の詞を聴いた時点で、
九郎右衛門さんが本調子ではないように感じました。
風邪を悪化させてしまったのでしょうか。
発声が苦しそうだったし、
作り物の石に入る時も一畳台の側面に足先をぶつけるなど、
抜群の空間把握能力をもつ九郎右衛門さんらしくない場面もありましたが、
でも、後場ではそういう危惧は覆され、
舞台の後半で九郎右衛門さんの本領が発揮されたのでした。


シテは橋掛りを進みながらワキとの掛け合いをして舞台に入り、
正中下居でクリ・サシ、さらに居グセで地謡によって宮中での怪異が語られ、
居グセの途中の「光を放ち」から立ち上がり、短い舞事に入ります。


そして再び下居し、
自分はかつての玉藻の前で、
いまは殺生石の精であることを明かすのですが、
このとき、源翁上人は意外なことを口にします。


げにやあまりの悪念は、かへって善心となるべし。


禅僧によって語られた悪人正機説のようなこの言葉こそ、
数千年ものあいだ悪の限りを尽くしてきた妖狐が渇望した
救いだったのではでしょうか。


このとき、万媚の面が、フッと憑き物が落ちたように、
優しく、そして少し寂しげな表情を浮かべたのでした。


女は、
昼間は自分のあさましい姿をお見せできないので、
夜になって闇の中に灯火のようなものが見えたら、
それがわたしの姿です、
正体を表して、懺悔の姿をお見せします、と言い残し、
石の影に消えていきます。



追記:
中入での作り物の中での物着は、主副後見&お運びの連係プレーと
装束付けのパフォーマンスが見事。
味方さんの動きは手早く無駄がなく、しかも丁寧で確実。
そして何よりも、姿勢と物腰が美しい。
とても大切な人に大切な晴れ着を着付けているような、
そんな思い入れさえうかがえる。

ちょうど一年前に銕仙会の《殺生石》を観た時の
後見・野村四郎師の装束着付けを思い出す。

一流の能役者は、後見の時も観客を魅了する。


片山九郎右衛門の《殺生石・白頭》後場につづく


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