ワキ 殿田謙吉
一噌隆之 観世新九郎 柿原崇志
地謡 山本順之
一噌隆之 観世新九郎 柿原崇志
地謡 山本順之
狂言 《千切木》 シテ太郎・野村萬斎 アド当座・深田博治
太郎冠者・月崎晴夫
立衆 竹山悠樹 中村修一 内藤連 岡聡史 妻 高野和憲
能 《殺生石》 シテ観世淳夫 ワキ玄翁道人・則久英志
アイ能力・石田幸雄
藤田貴寛 鳥山直也 安福光雄 梶谷英樹
地頭 観世銕之亟
アイ能力・石田幸雄
藤田貴寛 鳥山直也 安福光雄 梶谷英樹
地頭 観世銕之亟
今年最後の銕仙会定期公演。
能《通小町》
準シテ的なツレの里女・小野小町(長山桂三)。
小町が手にした木の実について語る「木の実尽くしの段」は秋らしくていいけれど、物語の内容とは無関係なのでは?
と思っていたけれど、百夜通い伝説によると、小町は、
深草少将が毎日運んできた榧(かや)の実で、少将が通った日数を数えていたという。
そして、深草少将は99日目の雪の日に榧の実を手にしたまま亡くなったとのこと。
(京都の随心院には、小町が蒔いて生長したとされる「小町榧」があるそうです。)
つまり、「己の願望を満たすために木の実を運ぶ」という深草少将の行為を、前場で小町の霊(里女)は(意識的にしろ、そうでないにしろ)ある意味、追体験していることになる。
もしかすると、深草少将の怨念が自らの苦悩を思い知らせるために、小町の潜在意識を操作して、少将自身の行動をなぞるように仕向けているのかもしれない。
さまざまな解読のできる、興味深い前場。
ツレの小町が後見座に退く中入り後の、ワキの待謡の前のところで、
大鼓の柿原崇志師がぼうっとしていたのか(?)、
中入のあいだ下に置いていた大鼓を取り上げるべきタイミングを逃し、
隣の新九郎さんが小鼓を取り上げてかまえに入った時も、それに気づかずに、袴の中に両手を入れたままだった。
あやうく出を逃すところで、後見の柿原光博さんが崇志師の背中をポンと叩いて知らせたので、事なきを得たけれど、どうされたのだろう?
いよいよ後場になって、一声の囃子でシテの深草少将(馬野正基)登場。
とはいえ、登場後もかなり長いあいだ無地熨斗目をかぶりっぱなしの被衣(かずき)の状態で中腰のままなので、とっても辛そう。
徐々に手や体が震えてきているのが分かるほど。
「包めど我も穂に出でて」で、ようやく被衣をとったシテ。
面は近江作の痩男。
馬野さんはがっちり・むっちりとした体格なのですが、
装束の袖を短く着付けて手首を出し、手の甲の血管が浮き出るように、
手や手首の角度をつねに角張った感じて曲げているので、全体的に骨ばり、痩せて見える。
妄念の塊と化し、やつれたイメージを演出すために、相当研究されたのではないだろうか。
腰をつねに30度くらいかがめ、顎を深く引いて、面の扱いもうまく、陰気な雰囲気を巧みに出していた。
百日通いを再現するシーンも、冷たい相手を怨みながらも、
小町に惹かれずにはいられない、自分ではどうしようもない気持が伝わってきた。
「月は待つらん。月をば待つらん。我をば待たじ。空言や」では、
相手は自分のことを待っていたのではない、それは最初から分かり切っていたことという、
情けなさ、空しさ、躍らされずにはいられなかった哀れな恋心がよく現れていた。
そしてその空しさをダメだしするように、
シテが辛い過去を物語っている間も、
(ワキはシテの気持ちに寄り添うようにシテの方を向いていたのに対し)、
ツレの小町は我関せずとばかりに、涼しい顔であちらの方を向いていた。
空約束を信じて勝手に死んでいった男になんの感情も抱かない、とでもいうように。
小野小町が関心があるのは、深草少将やその苦悩ではなく、
彼が恋い焦がれた若き日の自分の美しい姿にほかならない。
深草少将が酒を飲まず、戒を破らなかったおかげで、少将と小町はともに成仏したことになっているけれど、果たしてほんとうに二人仲良く成仏したのだろうか。
どこまでも通い合わない男女の姿を描いた曲のように思われたのだった。
(安易なハッピーエンドよりも、こういう終わり方の方がいい。)
狂言 《千切木》は面白かったけれど、ちょっと冗長。萬斎さんが出ると、狂言とかいうジャンルを超越して「萬斎さんの舞台」になるような気がするけれど、それはそれでいいと思う。
最近注目しているのが、深田さん。
独特の雰囲気のある狂言師さんだ。
能《殺生石》
前シテ・里女(観世淳夫)の面は近江作の万眉。
万眉はいかにも男性をたぶらかすような男好きのする顔立ちなのだけれど、ふくよかな丸顔なので、シテの全体的な丸いフォルムが強調されていた。
増女か、無難な若女のほうがよかった気がする。
テレビで《屋島》のツレを拝見した時も思ったのだけれど、淳夫さんはハコビがきれい。
片山家系の上下の揺れの少ない、スーッと平行移動するようなハコビ。
中入りでは、恒例の作り物の中での物着。
後見の野村四郎先生の装束替えにひたすら見惚れていた。
完璧なまでに無駄のない的確な動きというのは、なんて美しいのだろう!
能《小鍛冶》に相槌というのが出てくるけれど、作り物の奥でサポートする清水寛二師とともに、名工同士が刀を打つように息があっていて見事だった。
「後見」というのは、ひとつの独立した芸(アート)だと思う。
後シテの野干の面は、中村直彦作・牙飛出というのだそう。
小さな牙を生やした小飛出なのだけれど、普通の小飛出よりも、ちょっと寝ぼけ眼っぽい顔立ちなのが面白い。
後場は威勢良く一畳台を飛び跳ねて、水を得た魚のよう。
お囃子は、大鼓が気迫がこもっていた。
太鼓がいつになく沈鬱な雰囲気だった理由は、このあと、帰宅後に知ったのだった。
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