能《小督》からのつづき
GINZA SIX館内アート《Living Canyon》 |
能《龍田・移神楽》シテ巫女/龍田姫 片山九郎右衛門
ワキ 福王茂十郎 ワキツレ 福王和幸 矢野昌平
アイ 善竹十郎
杉市和 大倉源次郎 亀井忠雄 観世元伯→小寺佐七
後見 観世清和 武田尚浩
地謡 野村四郎 観世芳伸 北浪昭雄 上田貴弘
武田文志 坂井音雅 北浪貴裕 大西礼久
九郎右衛門さんの東京での舞台はなぜか切能・脇能が多い。
もちろん鬼能もいいのだけれど、やっぱりいちばん観たいのは、天女物や女神物!
待ちに待った女神物《龍田》は、配役も特別公演かと思うほど豪華で、
しかも、「移神楽」の小書つきの、大好きな惣神楽。
元伯さんが休演であることを別にすれば、わたしにとって夢のような舞台でした。
【前場】
〈シテの出〉
ワキ・ワキツレの旅僧一行が登場。
晩秋から初冬へと移り変わる澄みきった冷気と、山の木々や枯葉のカサカサした乾燥感がそのハコビとともに運ばれてくる。
透明な氷のガラスの上を進むような、冷たく無機的な美しいハコビ。
僧たちの道行が神無月の大和路のうら寂しさを描き出し、龍田川に着こうとするその時、ワキが着きゼリフ「急ぎ候ふほどに」を言いだす前に、
ふと、気配がして振り向くと、
三ノ松に、忽然と、シテの姿が!
九郎右衛門さんがシテをされた《小鍛冶・黒頭》の時も《殺生石・白頭》の時も、「のうのう」の登場の際に、見所の意表を突くサプライズが用意されていた。
今回も、何かあるだろうとは思っていたのですが、まさか、ワキの着きゼリフの前に、風のようにふうーっと出現するなんて!
じつは、九郎右衛門さんが「のうのう」の呼掛のときに幕から出る瞬間を、わたしはいまだに見たことがないのです。
この日、わたしは幕が見えない席(この能楽堂のもうひとつの欠点)に座っていて、幕が実際に上がるところは見えないのですが、揚幕が上がるその影の動きが橋掛りの壁に映るため、《小督》のときは幕が上がるのが分かりました。
しかし、《龍田》の前シテの登場では、揚幕の影の動きが橋掛りの壁に映ったようには見えず、ほんとうに幕が上がったのか、それとも、かねてからの推察どおり、片幕で出てきたのか、定かではありません。
呼掛で九郎右衛門さんが幕から出る瞬間を見てみたいのですが、つかもうとしても、ひゅるりと腕をすり抜けていく妖精か、尻尾のつかめない妖狐のようで……。
こんなふうに煙に巻かれることも九郎右衛門さんの舞台の魅力のひとつです。
〈旅僧を案内して、龍田明神へ参詣〉
前シテの出立は、紅葉や菊を箔や刺繍であしらった紅地縫箔腰巻に、菊の文様を金箔で置いた白地縫箔壺折、手には幣付き榊。
面は前・後シテとも、片山家所蔵の出目満茂作・節木増(江戸中期)。
あの「うたたね」という銘のある節木増でしょうか。
冷たく神秘的なあでやかさと、優雅でメランコリックな倦怠が同居した不思議な表情の女面です。
龍田川の薄氷に閉じ込められた紅葉の錦。
その水面を乱すことを戒めた巫女は、僧を龍田明神の社に案内します。
このときも、「このたびは幣とりあえぬ」で幣を水平にとって床に置く所作や、巫女らしい立ち居振る舞いがじつに繊細で、見惚れるほどきれいだったのですが、とくに感動したのが、白足袋の足先。
その足首やつま先の曲げ方や、足の裏への気の行き届き方、白足袋の清らかな純白さにハッとしたのです。
ワキとともに作り物の社殿に向かって拝礼するときに、シテは観客に背を向けて下居します。
そのときに見せた、爪先立ったシテの右の足の裏が、本物の美しい女の足のように、いや、生身の女の足以上に、やわらかく、たおやかで、まぶしいくらい優美に見えたのです。
おそらくどんな美女でも、もっとも無防備になりがちな足のうら。
だからこそ、その人の本質が出るであろう足の裏の表情。
そこに、女らしさ、女性美のエッセンスと理想を表現するのが、九郎右衛門さんならではの芸の力。
これは意識して、細心の注意を払って表現されているものでもあるのだろうけれど、女らしさを徹底的に磨く、女の修業を積んだ美女たちに囲まれて育った環境のなかで、自然と培われたもののようにも思います。
(勝手な先入観かもしれないけれど。)
〈中入〉
「我はまことはこの神の龍田姫は我なり」と、正体を明かしたシテは、
「御身より光を放ちて」で、後光の輝きが四方に広がっていくように、
合わせた両手をパアーッと広げ、社殿の扉を押し開いて、
そのまま作り物のなかへと消えていきます。
《龍田・移神楽》後場につづく
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