2017年3月5日日曜日

《須磨源氏》~若手能 東京公演

2017年3月4日(土) 13時~16時10分 国立能楽堂
若手能《吉野静》《文蔵》からのつづき

能《須磨源氏》シテ尉/光源氏 松山隆之
    ワキ藤原興範 村瀬慧 従者 村瀬提 矢野昌平
    アイ里人 竹山悠樹
    成田寛人 田邊恭資 佃良太郎 大川典良

    後見 松山隆雄 小田切康陽
    地謡 梅若玄祥 山崎正道 角当直隆 山中迓晶
       坂真太郎 谷本健吾 川口晃平 小田切亮磨




先月の《錦木》のツレで、キラリと光るものを感じさせた松山隆之さん。
シテで拝見するのは初めてでしたが、期待以上のものでした。
最近、注目したい役者さんが増えてうれしい。


前場】
玄祥師が地頭の時は、中入りで地謡後列が抜けるのはよくあること。
膝・腰が悪いなどの理由があるのだろうから致し方ない。

ただ、この日は最初から地頭不在で、
地取りも地頭抜きで謡われ、
初同の直前になってようやく地頭が定位置に着くという異例の事態。
(これもよくあること?)

地頭は舞台のマエストロであり、要石のような存在だと思うし、
とくに曲の冒頭では、シテが本舞台に入るまで後見も不在だから、
それを補うべく舞台をしっかり見守り、土台を支えるのが地頭の役目だと認識している。

この公演の前日にEテレで一部放送された《利休―江之浦》を観ると、
主後見の九郎右衛門さんが緻密な集中力で
舞台の流れとシテの動きを注視されていた。

後見と地頭を中心に、出演者全員が舞台とシテに全神経を集中させ、
その集中力の交差するところにシテが存在する。
そのようにして舞台に「気」が集まり、強い磁場が形成されていく。

ゆえに、地頭・後見ともに不在だったこの日の冒頭には
隙間風が吹くようなスカスカの欠如感が立ち込め、
地頭の存在の大きさ、重要性を実感した出来事だった。

(カリスマ性のある玄祥師だからよけいにそう感じたのかもしれない。
玄祥師が加わった地謡は文句なく最強だった。)


〈ワキの出〉
村瀬慧さんをワキで観るのは二度目。
以前は《巻絹》の臣下役で、そのときも長絹に白大口姿。
この方は僧侶よりも、勅使や廷臣などの貴族風の出立のほうがよく似合う。
以前よりも堂々と落ち着いていらっしゃって、謡もワキツレともによかった。


〈シテの出〉
一声の囃子でシテが登場。
田邊さんの小鼓が好い味わい。
チ・タ音もきれいだし、掛け声にも覇気があり、以前にもまして綿密な皮の調整。
構えや立ち上がり方もそうだけど、皮を湿らす所作も源次郎さんそっくり。


幕から静かに姿を現したシテの姿には、そのハコビとともに気品があり、
「光源氏の化身としての老人」という難しい雰囲気を見事に体現していて、
期待以上の出来。

老人らしさを写実的に演出することなく、
姿勢の品格やハコビの速度・間合いでそれを表すのは容易ではないと思うけれど、
尉面と姿・所作がしっくり馴染んでいて、このシテの可能性をあらためて感じさせた。

使用された三光尉の面が庶民性を感じさせず、貴人的に見えたのは、
シテの力量によるものだろうか。


正中で下居する姿も美しく、鑑賞に値する。
この方は、静止の時にとりわけ光を放つ。

シテは光源氏の故事を語ったのち、送り笛で中入り。


【後場】
ワキ・ワキツレの趣きある待謡が、清澄な月を須磨の浜辺に描き出す。

出端の囃子で後シテ登場。
小鼓と太鼓の掛け合いが聴きどころ。

後シテの出立は、渋い青緑地の狩衣に灰紫の指貫、初冠・黒垂。
面は中将。
シテは「天もうつるや須磨の浦の」で露を取り、
「荒海の波風えんえんたり」で常座にて達拝、早舞へと入っていく。

盤渉早舞はきれいだった。
ただ、こちらがいまひとつ没入できなかったのは、
笛が息切れ気味だったのと、
シテの足拍子が気になったからだろうか。

拍子を踏む時に、足の甲が床と平行になるように足を上げるのではなく、
後ろに蹴り上げるようにして足を上げていて、
せっかくきれいなのに足の裏が見えたりするのがもったいない気がした。


とはいえ、袖を巻き上げ翻す所作も貴公子らしい優雅さで、
満足のいく舞台だった。





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