2016年4月18日月曜日

梅若会定式能4月《熊野・読継之伝・村雨留》花見の道中まで

梅若会定式能4月《熊野・読継之伝・村雨留》シテ登場まで」からのつづき

能《熊野・読継之伝・村雨留》シテ熊野 梅若紀彰
      ツレ朝顔 山中迓晶 
      ワキ平宗盛 舘田善博 ワキツレ 野口能弘
      藤田貴寛 幸清次郎 亀井実
      後見 梅若長左衛門 川口晃平
      地謡 会田昇 山崎正道 鷹尾維教 内藤幸雄
         鷹尾章弘 松山隆之 土田英貴 梅津千代司



朝顔とともに宗盛邸に着いた熊野は暇を乞うために、母からの文を宗盛に見せようとする。

読継之伝の文之段】
通常ならば宗盛が、「故郷よりの文と候ふや、見るまでもなしそれにて高らかに読み候へ」と、素っ気なく言うところを、「なにと老母の方よりの文と候や、さらばもろともに読みて候べし」となり、熊野と2人で(実際には交代で)手紙を読むことになる。

ワキが独特の抑揚(節)で朗々と謡い、シテもよく響く声でしっとりと謡いあげて、オペラを思わせる情感のこもった音楽的なやり取り。


ワキの舘田さんは、大好きな熊野と何でも一緒にしたい、彼女と一緒にいると幸せなんだ!みたいな、熊野へのぞっこんぶりが伝わってくる愛すべき宗盛像を演じていらっしゃって、熊野と向き合って文を受け取る時の熱い視線などもじつに表現力豊か。
観客も二人の男女の心の交流に引き込まれてゆく。


ワキは地謡左端前で正面を向いて「老い鶯逢ふ事も、涙に咽ぶばかりなり」まで読み、正中下居したシテが宗盛の肩越しに文をのぞきこむようにして、「ただしかるべくはよきように申し」から引き継ぐ。


「読継之伝」の小書ってほんとうによくできていて、これで小書なしの時の暴君・宗盛のイメージがガラリと変わり、熊野の潜在意識のなかにも別れがたさと母への思いとの葛藤のようなものが芽生えたように感じとれるのだ。



車出シ→花見の道中
この春の桜はこの春一度きり、その桜を君と一緒に楽しみたい、どうか見捨てないでくれ。
そう言って宗盛は、花見車を出すよう従者に命じて、熊野を車に乗せて清水寺に向かう。
宗盛を襲うこの無常感は、自らの行く末を漠然と感じとったものなのかもしれない。


でも、誰にとっても桜は「この春ばかりの花」であり、自分も桜も、この世のすべてが明日どうなるかさえわからない。
だからこそ今この時を楽しみたいという彼の気持ちは痛いほどよく分かる。


威勢のいい車出シアシライで花見車の作り物が角に出され、熊野だけが車に乗り込み、朝顔はその後方に控え、宗盛は脇座前に立ち、ワキツレがその後ろに控える(牛車に同乗している設定)。


「東路とても東山せめてその方なつかしや」と、花見の道中が謡われるなか、シテが作り者の左前のポールを握って、脇座の方(東方向)に懐かしげに目をやりシオル型や、「四条五条の橋の上……色めく花衣袖を連ねてゆくすえの」で脇正にうつろな目を向けて、華やかな都の情景と憂いに沈んだ自分の心の対比とを表現する場面など、見どころの多い道中のシーン。


会田昇師率いる地謡も梅若らしさが存分に発揮され、美しい都の春のにぎわいが観客の脳内に再現される。



この道中の詞章が熊野の気持ちとリンクするように非常に巧く書かれていて、詞章を頼りに、宗盛・熊野一行の道中を現在の地図でたどってみると、


平宗盛邸(左京八条四坊五町)を出て、鴨川沿いに北上する際に、四条五条の橋の上をゆく花見客の華やかな装いを眺め、車大路(現在の大和大路という説もあるが、たぶん松原通の鴨川以東の道)を出たところで右折して東に進み、六波羅の地蔵堂(おそらく六波羅地蔵・西福寺?)を伏し拝み、六道の辻とされる愛宕の寺(六道珍皇寺)を過ぎ、右手に鳥辺山を望みながら清水坂を進み、産寧坂の角にある経書堂を目にして、子安塔(かつては仁王門のすぐ近くにあった)を過ぎ、清水寺境内に入ってゆく。



六道珍皇寺にはその昔、小野篁が夜毎に地獄に下りて閻魔大王に仕えた際に通ったとされる「冥土通いの井戸」が今でもあって、六波羅密寺とともに異界感あふれる場所。

松原通も、わたしが関西にいたころは観光汚染されていない昔ながらの京の町の風情が残っていて、とても好きな通りです。


冥界のイメージが濃厚なこの地を通り過ぎる時、熊野の心に母の身を思う気持ちがさらに深まり、暗い影を落とす。
紀彰師演じる熊野のふうっと翳りのある表情が、そんな彼女の気持ちを物語っているようでした。



梅若会定式能4月《熊野・読継之伝・村雨留》終曲まで」につづく





0 件のコメント:

コメントを投稿