おはなし
俳優(わざおぎ)の起源について 三田誠広(武蔵野大文学部教授)
喜多流と武蔵野大学 リチャード・エマート(文学部特任教授)
土岐善麿先生の作詞した校歌 土屋忍(文学部教授)
土岐善麿先生と新作能 岩城賢太郎(文学部准教授)
能《実朝》解説 佐々木多門
能《実朝》シテ老翁/実朝 狩野了一
能《実朝》シテ老翁/実朝 狩野了一
ワキ舘田善博 アイ深田博治
藤田貴寛 森澤勇司 柿原光博 大川典良
後見 塩津哲生 佐藤寛泰
地謡 長島茂 友枝雄人 内田成信 金子敬一郎
粟谷充雄 大島輝久 友枝真也 塩津圭介
藤田貴寛 森澤勇司 柿原光博 大川典良
後見 塩津哲生 佐藤寛泰
地謡 長島茂 友枝雄人 内田成信 金子敬一郎
粟谷充雄 大島輝久 友枝真也 塩津圭介
武蔵野大学教授陣によるお話と佐々木多門師の解説までついていて至れり尽くせり。
ロビーの階段には土岐善麿関連資料の展示も。
おはなしを簡単にまとめると以下の通り;
まずは、俳優(わざおぎ)の起源のおはなし(三田氏)。
天の岩戸伝説の際に、アメノウズメが岩戸の前で俳優(わざおぎ)をしたことが始まり。
アメノウズメがサルタヒコと結婚し、猿女(さるめ)と呼ばれたことから猿楽の祖となったとか。
また、大化の改新の際には、俳優(わざおぎ)がパントマイムのような芸をして蘇我入鹿を油断させ、腰から剣を外させた。これにより入鹿は暗殺され、クーデターが成功したなどの話。
土岐善麿について(土屋氏)
土岐善麿(1885~1980年)は94歳で没するまで歌人、作詞家、国文学者、編集者(啄木の『悲しき玩具』も土岐が編集)、エスペラント研究者として多彩な活動を精力的に行い、後年の武蔵野女子大(現・武蔵野大)文学部日本文学科の解説にも深くかかわったとのこと。
また能楽界においては、初めは観世流で稽古をしていたが、やがて喜多流に転向して喜多実に師事し、実とともに二人三脚で16編の新作能を創作した。
(一時期、喜多流に転向して同じく喜多実に師事した観世栄夫を思わせる。)
土岐善麿と新作能について発表した岩城氏のおはなしが特に興味深かった。
善麿が初めて新作能(《夢殿》)の脚本を書いた時には、喜多実は「(土岐善麿の書いた詞章は)とても、世阿弥なんか文章としちゃかなわない」と絶賛したという。
善麿の新作能は、1942年から1964年にかけて次々と初演されたが、当時は今以上に新作能に対する風当たりが強かったようで、『摂取の能面』(1946年)には懊悩する土岐善麿の次のような言葉が書かれている。
「能楽に何か新しい曲を作り加える必要があるか、そしてそれはまた可能なのであろうか。必要ならば可能か、可能ならば必要か。必要ではあるが不可能か。それが不可能であることは、現在の多くの能楽人の見解のようであるが、しかも同時に、それは必要のないことなのであろうか。」
(この言葉は現在にも通じる問いかけのようにも思える。)
また、今回上演される《実朝》には、百人一首にもとられた「世の中はつねにもがもな渚こぐ、あまの小舟の綱手でかなしも」の一部や、本曲の鍵となる「大海の磯もとどろによする浪われてくだけてさけて散るかも」など、『金塊和歌集』の13首が詞章にちりばめられているとのこと。
佐々木多門師による能《実朝》の解説
源実朝は鎌倉幕府の三代将軍でありながら実権を北条氏に握られており、そうした状況での自らの鬱屈した思いを和歌の創作にぶつけていた。
新作能《実朝》には実朝の歌「われてくだけてさけて散るかも」が繰り返し強調され、「大海ノ舞」と名付けられた早舞には緩急に工夫が凝らされ、穏やかで静かな海と荒れ狂う激しい海をあらわすとともに、実朝の言葉には表現できない思いも表現されている――。
というような内容を、誠実でおだやかなオーラを静かに漂わせながら話されていらっしゃいました。
能と土岐善麿 《実朝》を観る ~能《実朝》前場・後場につづく
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