狂言《月見座頭》
名月の夜、一人の座頭(山本東次郎)が月を愛でる代わりに、
虫の音を聞こうと野辺に出たところ、そこへ月見に来た男と出会う。
二人は意気投合して、古歌を自作と称して詠み合い、酒を酌み交わし、
謡い舞って、楽しいひと時を共にした後、それぞれの帰途に就く。
だが、月見の男はふと邪心を起こして、いきなり座頭を突き倒し、
(関西風に言うなら)いちゃもんをつけて、走り去る。
打倒され、杖を放り出された座頭は、よろよろと身を起こし、
杖を手探りで探し当て、少し長い沈黙の後、立ち上がって、
酒を酌み交わした男と、自分を突き倒した男が同一人物だと分からない様子で
「先ほどの人とは違い、何と酷いことをする人がいるものだ」とつぶやきながら、
杖をついて去っていく。
……というお話。
男に突き倒された後、起き上がるまでの東次郎さんの長い沈黙が絶妙で、
この沈黙の間に、
おそらく座頭の胸の内にはさまざまな思いがよぎり、
それを座頭はぐっと呑み込んで、
何もかも知った上で、
「先ほどの人は……」というセリフを言ったのではないかと思わせる演技。
つまり、座頭は相手の声や気配で、
酒を酌み交わした男と自分と突き倒した男が同一人物であることに気づいていたのではないだろうか。
知っていて気づかない振りをする。
おそらくそれが、この盲目の座頭の生きる方便だったのでは?
そして、そうした心の平安を保つための生きる方便は、
この座頭に限らず、
人間ならば誰もが多少なりとも持っているものだと思う。
自分のことも他人のことも、
知っていて、気づかない振りをしながら、
杖をつきつつ、よろよろと、今日も明日も生きていく、
それが人間……。
そんなことを思わせる、東次郎さんの《月見座頭》でした。
普通の狂言よりも、こういうブラックでアイロニカルな狂言の方が好きだなあ。
能の《鵜飼》は、「空之働(むなのはたらき)」の小書つきで、
前場のサシ、下歌、上歌が省略され、鵜之段では橋掛りでの演技が中心となり、
間狂言もなくなって、早装束での登場となり、
型も減らされ(もちろん飛び安座もなし)ていた。
前場で松明をもって登場するシテ(野村四郎)は、特に謡の時に
どうしても手が激しく揺れてしまうのだけれど、それが松明の炎の
メラメラ燃えるさまにも見える。
鵜之段は精彩に富み、
たぶんこれまで見た中で(仕舞や舞囃子も含めて)一番心に残る鵜之段だった。
特に「闇路に帰るこの身の、名残惜しさを如何にせん」で、橋掛りを去っていく姿は
この年齢の野村四郎先生にしか出せないような何とも言えない風情があった。
(尉の孤独な後ろ姿に、地謡の醸し出す物悲しい情感がしっくり合っていた。)
後場の早笛は、驚くほどテンポがゆっくりだったのだけれど、
これは早装束の時間稼ぎなのだろうか。
間狂言なしで、尉から地獄の鬼に早変わりって大変そう……。
そんなわけで、登場した地獄の鬼は、髪がかなり乱れていたのだけれど、
それがかえって鬼らしい迫力となって、凄味が増していた模様。
野村先生の足の運びがとてもきれいで、見惚れているうちに
あっという間にエンディング。
《鵜飼》の後場は、早笛らしいノリの良さとアクロバティックな型がキモなので、
それがないと少し物足りない気がするけれど、前場が素晴らしかったので満足。
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