2018年11月5日月曜日

天河大弁財天・神事能《葵上・梓之出》

2018年11月2日(金)13時  天河大弁財天社
天河大弁財天社・秋季大祭からのつづき
深山幽谷の清浄な空気に包まれた天河神社の舞殿

神事能《葵上・梓之出》シテ六条御息所の霊 片山九郎右衛門
   ツレ照日の巫女 河村浩太郎 アイ左大臣家の男 泉愼也
   ワキ横川小聖車僧 原大 ワキツレ朝臣 原陸
   杉信太朗 林大和 河村大 前川光範
   後見 青木道喜 橋本光史(地謡と兼業)
   地謡 味方玄 橋本光史 分林道治
      梅田嘉宏 宮本茂樹 河村和貴


拝殿と五十鈴
舞殿は、拝殿に正対して建てられており、この演能がひたすら神々と向き合い、神々だけに捧げられるものであることが分かる。ここでは、人間はただの傍観者にすぎない。

拝殿の奥には、毘沙門天・大黒天および弁天十五童子とともに、弁財天像が安置されている(神社とはいえ、祀られているのは仏教の天部像。神仏習合時代の信仰がそのまま息づいている)。

「御開帳物」であるこの弁財天像は、とぐろを巻く蛇身の宇賀神を頭上に戴き、その上から鳥居形の宝冠を被っている。弁財天を龍神(龍女蛇体)の現れとする修験道の信仰にも通じる造形だ。
ちなみに、長谷寺能満院に伝わる天河曼荼羅には、三つの蛇の頭をもつ龍頭人身という異様な図像として天河弁財天(宇賀神)が描かれている。

拝殿に灯されたヴェネチアングラスのランプ「一千年の灯」

【前場】
前置きが長くなったが、この日の《葵上》はこれまで観たどの神事能よりも、その構成や演出に「神々の存在」「神々への意識」が強く感じられた。

照日の巫女が梓弓を鳴らして「天清浄地清浄」と謡うところも、脇座で謡うのではなく、正中で下居し、正先に置かれた「出し小袖」に向って合掌しながら口寄せをする。
つまり、巫女の口寄せの型が、そのまま拝殿に鎮座する弁財天への合掌(拝礼)にもつながるという、二重の意味をもつ演出になっていた。

梓弓に引かれて現れたシテは、シオリの型のまま橋掛りを進んでくる。
実際、これほどシオリの型で埋め尽くされた《葵上》を観るのは初めてだと思えるくらい、この日の六条御息所の生霊はよく泣いた。

一の松で立ち止まってはシオリ、欄干にもたれてはシオリ、若き日の栄耀栄華を回顧してはシオル。
身も世もなく泣き崩れた、悲しみの化身。それがこの日の御息所だった。
面は泥眼かもしれないけれど、わたしには増に見えた。
近寄りがたいほど冷たく、美しい増に。

天河社の舞台は背後に鏡板がなく、壁のない吹き抜けになっているため、シテの動きの角度によって、能面の眼の穴から外光がチラチラと射しこみ、女面がぞっとするほど虚ろな表情を見せる。
そのことが、御息所の身体からひとりでに抜け出た生霊らしさを、よりいっそう強めていた。

救いを求めるように泣いていたシテは、「いまは打たでは叶ひ候ふまじ」から一転、急に強い調子になり、前に進んで、小袖をひとつだけ打つ。
しかしこのときでさえ、葵上への憎しみはあまり感じなかった。
感じたのは、泰然と生きられず、自分の感情に翻弄される我が身への苛立ちだった。
(そう思うのは、見る側の性格を投影しているだけなのかもしれないけれど。)

九郎右衛門さん演じる六条御息所の生霊の打擲は、他者にではなく、わが身に、わが心に向けられているように思えた。

それにしても、前シテが退場する際の、壺折にした唐織をサッと脱いで頭に被くところ、なんてなめらかで流麗な動きなのだろう! 


【後場】
後シテの般若の面は、通常の《葵上》で使われる上品な般若よりも「蛇」的要素が強いように見えた。蛇神たる弁財天へのオマージュかもしれない。

横川小聖とのバトルでは、打杖を振る所作に気品と奥ゆかしさが感じられ、小聖に祈り伏せられるにつれ、般若の面の表情が和らいでいく。

祈りのことば、読経の声に心が和らいだシテは成仏得脱の身となり、常座で合掌留。

(拝殿に鎮座する弁財天への)ツレの合掌で始まり、シテの合掌で終わる。

「祈り」と「救済」を前面に押し出した《葵上》の演能が、そのまま天河弁財天の神徳への賛美にもなっていた。

こうして演者たちは、神々に愛されてゆくのだと思った。
神々に祝福され、愛されて、芸位を高め、それをまた神々に返してゆく。
プラスの連鎖が働いて、社の森の「気」がさらに清められ、ここに集う人々をも祓い浄めてゆく。
そのおかげだろうか、風邪を引きかけていたが、山を下りたころにはすっかり回復していた。









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