2016年8月25日(木) 18時半~21時 国立能楽堂
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》前場からのつづき
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也 働キ 塩津圭介
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
【後場】
光長師が入った出端の囃子で後シテの出。
後シテは青灰色の袴に履き替えただけなのに、前場とはまったくの別人。
面・装束を替えないため、芸の力による前後シテの変化がよく分かる。
ハコビのスピード・軽やかさ、バネのような姿勢のハリ、身体のしなやかさ。
内側から湧き出るような躍動感。
たんに打ちひしがれた老人から純真な少年になっただけでなく、
全身に亡霊めいた儚げな透明感を帯びている。
手には金地に老竹色の模様が描かれた唐団扇。
団扇の色の取り合わせが黄味がかった色紋付と青灰色の袴となじんで
爽やかで絶妙なコーディネートになっている。
「同じく打つなり天の鼓」で、シテは唐団扇を置いて撥を持ち、
「打ち鳴らすその声の、呂水の波は滔々と打つなり打つなり」で
軽やかに、浮き立つように天の鼓を打ち鳴らす。
さらに撥を腰に差し、再び唐団扇を手にして、いよいよ「楽」の舞に入っていく。
友枝昭世の天鼓の楽は、ひたすら美しく、どこか悲しげで、
「湖の夜明け、ピアノに水死者の指ほぐれおちならすレクイエム」という
塚本邦雄の歌を思わせる。
帝の逆鱗に触れたために同じく湖に沈められた数多の寵童・寵妃たち。
彼らと天鼓自身の魂を弔う水葬の舞のように見えたのだ。
やがて水死者たちのさまよう魂が昇華され、
天鼓という鼓の精、音楽の妖精のなかでひとつになって、
鎮魂の舞から、何物にもとらわれない天衣無縫の舞へと変化する。
(そのようにわたしには見えた。)
月が涼やかに照り輝き、恋人どうしの星たちが寄り添う初秋の夜空。
波の音、管弦の音色、鼓の精の夜遊の舞。
月に嘯き、水に戯れ
夜空と水面のあいだを自由に飛び跳ね、無邪気に舞い戯れる。
シテが上げた水しぶきがクリスタルのようにきらめきながら弾け飛ぶ。
詩的で幻想的な景色のなか、夜が白々と明けはじめ、
シテの姿は透き通る影のように徐々に薄れて、
夢のように消えていった。
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2016年8月27日土曜日
2016年8月26日金曜日
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》前場
2016年8月25日(木) 18時半~21時 国立能楽堂
国立能楽堂企画公演・仕舞《頼政》からのつづき
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也 働キ 塩津圭介
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
袴能は初めて観る。
《天鼓》のように二場で別人を演じる曲を、面・装束なしでどう表現するのだろう?
そんな疑問を抱いていたが、この日の袴能はもはや人間業とは思えず、
シテは完全に神の領域に入っていた。
わたしなど途中から感動で身体が震えてきて、
あんなに胸が物理的にブルブル震えるなんて滅多にない経験。
【前場】
鞨鼓台の作り物が正先に置かれる観世流とは違い、
喜多流では鞨鼓台が目付柱手前に、一畳台が脇正側に置かれる。
この日は囃子方も極上の布陣。
氷が砕け散るような六郎兵衛さんの笛の音が響き、
大小鼓が秋の空のように澄み切った音色を奏でてゆく。
この繊細でやわらかな打音は忠雄&源次郎師ならでは。
そこへワキの勅使が登場する。
紋付袴姿の欣哉さんは、いつもにも増してハコビと姿勢の美しさが際立つ。
胸を突き出した前傾姿勢のまま上半身がスーッと伸びて、バレリーナのよう。
つづいて、いよいよシテの王伯が登場。
幕が上がり、やや間が合って姿を見せた前シテの出立は、
クリーム色の紋付(越後上布かな?)にベージュ色の袴。
薄い青に染められた家紋が朝顔のように見えて涼やか。
顔には完璧な直面をつけている。
素顔とはまったく違う、直面という能面。
芸の力によって生みだす「本物の仮面」を素顔につけるのが直面だと
この袴能を観て初めて分かった。
いや、自己という素顔をはずして直面をつける、というべきだろうか。
(直面は眼の動きが素顔とはまるで違う。
瞬きはもちろん、視線を左右に動かすこともない。
感情のわずかな起伏や息の乱れさえも感じさせない。
それを演能の最初から最後まで貫き通す驚異的な集中力!)
その直面をつけて、白を基調にした紋付袴を着た友枝昭世師は
どこからどう見ても、子に先立たれ憔悴しきった老人・王伯だった。
橋掛りを進むシテの姿には、
生きることに疲れ果てた老人のよぼよぼ感・よろよろ感が漂っている。
とはいえ、シテの足取りがよろよろしているわけでもなく、
左右の重心が不均衡なわけでもない。
ハコビはどこまでも美しく、身体の軸にもブレはなく、
頭の位置も一ミリの狂いもないほど同じ高さで平行移動している。
背中をほんの少しかがめたり、足をごくわずかに引きずり加減にしたりと、
微妙なニュアンスの集積が老いの影を生み出しているのだろうか。
老人らしい弱々しさをどこから漂わせているのか謎なのだが、
かろうじてこの世にとどまっている寄る辺のない雰囲気がその姿にはあった。
いにしえの人にとって、神の如き為政者の気まぐれは天変地異のようなもの。
青天の霹靂のように家族に降りかかった厄災はただ受け入れるしかなかったのだろう。
本来は怨むべき相手から「管弦講で弔う」と言われてモロジオリするのも、
地震で行方不明になっていた息子の遺体が発見され、ようやく供養できるようになった親の気持ちと共通するのかもしれない。
抑制され、抑圧された老人の胸のうち。
感情をむき出しにしないからこそ、
老人の深い悲しみと恨みがひしひしと伝わってくる。
そしてその胸のうちを切々と謡い上げる地謡も素晴らしい!
喜多流の地謡は終始姿勢を正して微動だにせず、ビシッと決まっている。
武士のストイックな美学を体現したような地謡が舞台を引き締め、
凛とした空気を送り込んでゆく。
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》後場へつづく
国立能楽堂企画公演・仕舞《頼政》からのつづき
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也 働キ 塩津圭介
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
袴能は初めて観る。
《天鼓》のように二場で別人を演じる曲を、面・装束なしでどう表現するのだろう?
そんな疑問を抱いていたが、この日の袴能はもはや人間業とは思えず、
シテは完全に神の領域に入っていた。
わたしなど途中から感動で身体が震えてきて、
あんなに胸が物理的にブルブル震えるなんて滅多にない経験。
【前場】
鞨鼓台の作り物が正先に置かれる観世流とは違い、
喜多流では鞨鼓台が目付柱手前に、一畳台が脇正側に置かれる。
この日は囃子方も極上の布陣。
氷が砕け散るような六郎兵衛さんの笛の音が響き、
大小鼓が秋の空のように澄み切った音色を奏でてゆく。
この繊細でやわらかな打音は忠雄&源次郎師ならでは。
そこへワキの勅使が登場する。
紋付袴姿の欣哉さんは、いつもにも増してハコビと姿勢の美しさが際立つ。
胸を突き出した前傾姿勢のまま上半身がスーッと伸びて、バレリーナのよう。
つづいて、いよいよシテの王伯が登場。
幕が上がり、やや間が合って姿を見せた前シテの出立は、
クリーム色の紋付(越後上布かな?)にベージュ色の袴。
薄い青に染められた家紋が朝顔のように見えて涼やか。
顔には完璧な直面をつけている。
素顔とはまったく違う、直面という能面。
芸の力によって生みだす「本物の仮面」を素顔につけるのが直面だと
この袴能を観て初めて分かった。
いや、自己という素顔をはずして直面をつける、というべきだろうか。
(直面は眼の動きが素顔とはまるで違う。
瞬きはもちろん、視線を左右に動かすこともない。
感情のわずかな起伏や息の乱れさえも感じさせない。
それを演能の最初から最後まで貫き通す驚異的な集中力!)
その直面をつけて、白を基調にした紋付袴を着た友枝昭世師は
どこからどう見ても、子に先立たれ憔悴しきった老人・王伯だった。
橋掛りを進むシテの姿には、
生きることに疲れ果てた老人のよぼよぼ感・よろよろ感が漂っている。
とはいえ、シテの足取りがよろよろしているわけでもなく、
左右の重心が不均衡なわけでもない。
ハコビはどこまでも美しく、身体の軸にもブレはなく、
頭の位置も一ミリの狂いもないほど同じ高さで平行移動している。
背中をほんの少しかがめたり、足をごくわずかに引きずり加減にしたりと、
微妙なニュアンスの集積が老いの影を生み出しているのだろうか。
老人らしい弱々しさをどこから漂わせているのか謎なのだが、
かろうじてこの世にとどまっている寄る辺のない雰囲気がその姿にはあった。
いにしえの人にとって、神の如き為政者の気まぐれは天変地異のようなもの。
青天の霹靂のように家族に降りかかった厄災はただ受け入れるしかなかったのだろう。
本来は怨むべき相手から「管弦講で弔う」と言われてモロジオリするのも、
地震で行方不明になっていた息子の遺体が発見され、ようやく供養できるようになった親の気持ちと共通するのかもしれない。
抑制され、抑圧された老人の胸のうち。
感情をむき出しにしないからこそ、
老人の深い悲しみと恨みがひしひしと伝わってくる。
そしてその胸のうちを切々と謡い上げる地謡も素晴らしい!
喜多流の地謡は終始姿勢を正して微動だにせず、ビシッと決まっている。
武士のストイックな美学を体現したような地謡が舞台を引き締め、
凛とした空気を送り込んでゆく。
国立能楽堂八月企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》後場へつづく
国立能楽堂企画公演・素の魅力~仕舞《頼政》・狂言謡《御茶の水》・語《文蔵》
2016年8月25日(木) 18時半~21時 国立能楽堂
仕舞《頼政》 梅若玄祥
山崎正道 小田切康陽 角当直隆 川口晃平
狂言謡《御茶の水》 山本東次郎 山本則俊
狂言語《文蔵》 野村萬
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
前日、この公演を合わせ鏡のように反転させたNHK主催の公演「幽玄の花」が国立劇場であったらしく、番組・配役・演出・開演時間・劇場を比較すると、NHKと国立能楽堂のカラーの違いがよく分かる。
(「幽玄の花」の一部は後日、Eテレで放送されるそうなので楽しみ。)
いずれにしろ国立能楽堂の「素の魅力」、凄かった!
体調不良だったけれど、演能中は不調も忘れて無我夢中で拝見。
終演後は余韻に浸って、雲の上を歩くような幸せな気分で帰途に就いた。
仕舞《頼政》
玄祥師の偉大さをあらためて実感した一番。
足拍子ひとつ取っても、余人には真似のできない表現力。
ひとつひとつの足拍子が、それそれ異なる状況、異なる思いを語っている。
活弁士のように雄弁な足拍子。
「くつばみを揃へ河水に」で、床几に掛かったまま地響きのような足拍子を踏むと、
三百余騎がドッと大河になだれ込み、先を争うように渡っていく情景が映し出される。
「白波にざっさっと打ち入れて」で扇を使い、
波をもろともせずに河を行く馬の大群を活写する。
床几に掛かって手と足を動かすだけなのに、この臨場感。
途轍もない謡の力。
声の魔法。
魂から滲み出る存在そのものの迫力。
一騎も流れずに岸辺にたどり着いた平家の大軍を前に、
もはやこれまでと観念する頼政。
芝の上に扇を敷いて、兜を脱ぎ、刀を抜いて、辞世を詠み、割腹する。
この最期の場面がじつに潔い。
未練や無念さは露ほども感じられない。
埋木の花さくこともなかりしに身のなるはてはあわれなりけり
この歌には自己憐憫の情がただよっているが、
それを詠んだ玄祥師扮する頼政は、武士の鑑のような剛毅な最期を遂げる。
おそらく玄祥師は、自分が頼政だったらこうありたいという死にざまを
鮮やかに描いてみせたのかもしれない。
玄祥師にしか描き出せない世界。
胸が震えた仕舞だった。
大蔵流・狂言謡《御茶の水》
東次郎さんは、わたしが好きなあの藍色の袴をお召になっていた。
顔を真っ赤にして謡っていた則俊さんはいぶし銀の味のある謡。
《御茶の水》って、若い男女がいちゃいちゃするホンワカした狂言だと思っていたら、
謡になると、わりとシリアスな印象。
大蔵流東次郎家だから?
東次郎さんはどちらかいうと、舞などの身体の動きが入ったほうが
芸が冴えるのかもしれない。
狂言語《文蔵》
これも素晴らしかった!
野村萬師の仕方話、凄いとしか言いようがない。
扇が弓や刀など、さまざまなものに変化して、
その扇を扱う手の所作がなんとも美しい。
床几に掛かりながら舞を舞っているよう。
(実際にこれは「座る舞」なのですね。)
手の指先の先の先の先、扇の先の先の先まで、
意識が行き届いてキラキラしている。
声に磨き抜かれた艶があり、透明感がある。
そして、全身から発散する気のエネルギーが途方もない!
15分間の狂言語だったけれど、あっという間に終わってしまった。
拝見できてよかった!
萬師の舞台をなるべく観ておきたいと思う。
国立能楽堂企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》前場につづく
仕舞《頼政》 梅若玄祥
山崎正道 小田切康陽 角当直隆 川口晃平
狂言謡《御茶の水》 山本東次郎 山本則俊
狂言語《文蔵》 野村萬
袴能《天鼓》 前シテ王伯/後シテ天鼓 友枝昭世
ワキ勅使 宝生欣哉 アイ従者 野村万蔵
藤田六郎兵衛 大倉源次郎 亀井忠雄 前川光長
後見 中村邦生 友枝真也
地謡 香川靖嗣 大村定 長島茂 友枝雄人
佐々木多門 内田成信 金子敬一郎 大島輝久
前日、この公演を合わせ鏡のように反転させたNHK主催の公演「幽玄の花」が国立劇場であったらしく、番組・配役・演出・開演時間・劇場を比較すると、NHKと国立能楽堂のカラーの違いがよく分かる。
(「幽玄の花」の一部は後日、Eテレで放送されるそうなので楽しみ。)
いずれにしろ国立能楽堂の「素の魅力」、凄かった!
体調不良だったけれど、演能中は不調も忘れて無我夢中で拝見。
終演後は余韻に浸って、雲の上を歩くような幸せな気分で帰途に就いた。
仕舞《頼政》
玄祥師の偉大さをあらためて実感した一番。
足拍子ひとつ取っても、余人には真似のできない表現力。
ひとつひとつの足拍子が、それそれ異なる状況、異なる思いを語っている。
活弁士のように雄弁な足拍子。
「くつばみを揃へ河水に」で、床几に掛かったまま地響きのような足拍子を踏むと、
三百余騎がドッと大河になだれ込み、先を争うように渡っていく情景が映し出される。
「白波にざっさっと打ち入れて」で扇を使い、
波をもろともせずに河を行く馬の大群を活写する。
床几に掛かって手と足を動かすだけなのに、この臨場感。
途轍もない謡の力。
声の魔法。
魂から滲み出る存在そのものの迫力。
一騎も流れずに岸辺にたどり着いた平家の大軍を前に、
もはやこれまでと観念する頼政。
芝の上に扇を敷いて、兜を脱ぎ、刀を抜いて、辞世を詠み、割腹する。
この最期の場面がじつに潔い。
未練や無念さは露ほども感じられない。
埋木の花さくこともなかりしに身のなるはてはあわれなりけり
この歌には自己憐憫の情がただよっているが、
それを詠んだ玄祥師扮する頼政は、武士の鑑のような剛毅な最期を遂げる。
おそらく玄祥師は、自分が頼政だったらこうありたいという死にざまを
鮮やかに描いてみせたのかもしれない。
玄祥師にしか描き出せない世界。
胸が震えた仕舞だった。
大蔵流・狂言謡《御茶の水》
東次郎さんは、わたしが好きなあの藍色の袴をお召になっていた。
顔を真っ赤にして謡っていた則俊さんはいぶし銀の味のある謡。
《御茶の水》って、若い男女がいちゃいちゃするホンワカした狂言だと思っていたら、
謡になると、わりとシリアスな印象。
大蔵流東次郎家だから?
東次郎さんはどちらかいうと、舞などの身体の動きが入ったほうが
芸が冴えるのかもしれない。
狂言語《文蔵》
これも素晴らしかった!
野村萬師の仕方話、凄いとしか言いようがない。
扇が弓や刀など、さまざまなものに変化して、
その扇を扱う手の所作がなんとも美しい。
床几に掛かりながら舞を舞っているよう。
(実際にこれは「座る舞」なのですね。)
手の指先の先の先の先、扇の先の先の先まで、
意識が行き届いてキラキラしている。
声に磨き抜かれた艶があり、透明感がある。
そして、全身から発散する気のエネルギーが途方もない!
15分間の狂言語だったけれど、あっという間に終わってしまった。
拝見できてよかった!
萬師の舞台をなるべく観ておきたいと思う。
国立能楽堂企画公演・素の魅力~袴能《天鼓》前場につづく
2016年8月23日火曜日
「能」という瞑想 ~ 能楽セラピーPart2
(二年前に当ブログに投稿した「能楽セラピー」という記事の続編です。)
先日、Eテレで「マインドフルネス」の科学的効用について取り上げていた。
マインドフルネスとは、禅などで行われる瞑想から宗教性を除いた心理療法のことをいう。
マインドフルネスを短期間実践するだけでも脳内で変化が起こり、ストレスマネジメント力や集中力のアップ、うつの再発予防などに効果があり、ひいては慢性の炎症に関与する遺伝子の活動を抑制する作用もあるという。
この番組を観ながら、ふと、能を観ることもマインドフルネスなのではないかと思った。
わたし自身、かつて八王子の禅寺で定期的に坐禅を組んでいたことがあり、その経験から感じるのは、能を観ていると坐禅堂で坐禅を組んでいる時の感覚と似たものを覚えるということである。
五感を研ぎ澄まし、集中力を高めて能を観る時の、
舞台に溶け込み、演者と一体化したようなあの感覚。
身体のどこかに苦痛を感じても、ストレスを抱えることがあっても、
演能のあいだは苦痛が和らぎ、精神的ストレスが軽減する。
自己を忘れるような、あの三昧の境地にも似た感覚は、
わたしにとって「愉しむ禅」であり、マインドフルネスそのものなのだ。
そもそも能を観はじめた根本的なきっかけは、仕事で身体を壊したことだった。
日常生活もままならない状態になったため仕事を減らして恢復に努め、
そのリハビリとして何か好きになれる趣味を探してたところ、
出会ったのが「能」だった。
それから今に至るまでの三年ほどのあいだに、
かつての状態に比べると格段に健康になったと思う。
ストレスも以前と比べて感じにくくなったし、
短気で怒りっぽい性格も(あくまで自分比で)少しは穏やかになった気がする。
なによりも能楽堂にいくと、心身のバランスが整い、
「気」のエネルギーが充電されるように感じる。
禅の隆盛期につくられた能には、観ているだけで禅を実践できる
さまざまな癒しの装置がひそかに組み込まれているのかもしれない。
追記:
脳内に作用する癒しの装置が組み込まれた能楽には、
麻薬のように「やみつき」になる側面もなきにしもあらず。
先日、Eテレで「マインドフルネス」の科学的効用について取り上げていた。
マインドフルネスとは、禅などで行われる瞑想から宗教性を除いた心理療法のことをいう。
マインドフルネスを短期間実践するだけでも脳内で変化が起こり、ストレスマネジメント力や集中力のアップ、うつの再発予防などに効果があり、ひいては慢性の炎症に関与する遺伝子の活動を抑制する作用もあるという。
この番組を観ながら、ふと、能を観ることもマインドフルネスなのではないかと思った。
わたし自身、かつて八王子の禅寺で定期的に坐禅を組んでいたことがあり、その経験から感じるのは、能を観ていると坐禅堂で坐禅を組んでいる時の感覚と似たものを覚えるということである。
五感を研ぎ澄まし、集中力を高めて能を観る時の、
舞台に溶け込み、演者と一体化したようなあの感覚。
身体のどこかに苦痛を感じても、ストレスを抱えることがあっても、
演能のあいだは苦痛が和らぎ、精神的ストレスが軽減する。
自己を忘れるような、あの三昧の境地にも似た感覚は、
わたしにとって「愉しむ禅」であり、マインドフルネスそのものなのだ。
そもそも能を観はじめた根本的なきっかけは、仕事で身体を壊したことだった。
日常生活もままならない状態になったため仕事を減らして恢復に努め、
そのリハビリとして何か好きになれる趣味を探してたところ、
出会ったのが「能」だった。
それから今に至るまでの三年ほどのあいだに、
かつての状態に比べると格段に健康になったと思う。
ストレスも以前と比べて感じにくくなったし、
短気で怒りっぽい性格も(あくまで自分比で)少しは穏やかになった気がする。
なによりも能楽堂にいくと、心身のバランスが整い、
「気」のエネルギーが充電されるように感じる。
禅の隆盛期につくられた能には、観ているだけで禅を実践できる
さまざまな癒しの装置がひそかに組み込まれているのかもしれない。
追記:
脳内に作用する癒しの装置が組み込まれた能楽には、
麻薬のように「やみつき」になる側面もなきにしもあらず。
2016年8月17日水曜日
第47回 相模薪能~狂言《二人袴》・能《杜若・恋之舞》
2016年8月15日終戦記念日 17時半~20時半 曇り時々小雨 寒川神社
相模薪能~能《俊成忠度》からのつづき
狂言《二人袴》 親 野村萬斎 舅 石田幸雄
太郎冠者 月崎晴夫 婿 野村裕基
後見 中村修一
働キ 内藤連
能《杜若・恋之舞》 シテ 杜若の精 観世喜正
ワキ 旅僧 殿田謙吉
一噌隆之 鵜澤洋太郎 國川純 小寺真佐人
後見 奥川恒治 遠藤喜久
地謡 五木田三郎 弘田裕一 鈴木啓吾 駒瀬直也
小島英明 坂真太郎 中森健之介 斎藤比佐晃
働キ 河井美紀 久保田宏二
狂言《二人袴》
萬斎父子が親子を演じる親子共演。
花のある二人に実力派のベテランが加わり、とっても面白く華やかな舞台でした。
会場は終始爆笑の渦で、誰もが楽しめた様子。
裕基さんはすでに萬斎さんの背丈を抜いていて、しかも小顔。
息子さんに袴を着付ける時の萬斎さんの手つきが丁寧かつ的確で、紐をキュッと締める時、「しっかりやれよ」と気合を入れると同時に、慈愛のような深い愛情がこもっているのがこちらにも伝わってきて、なんだかじい~んと来ました。
萬斎さんの舞台はとにかくメリハリが利いていて、間合いやテンポも良く、表情豊かで、幅広い客層を引き込む術を心得ている。
そして、スッと座っている時の姿勢がきれい。
能《杜若・恋之舞》
喜正さんの御舞台は神遊最終公演《姨捨》ぶり。
楽しみにしてたのに最後に思わぬ伏兵が! 薪能、恐るべし。
ワキの殿田さんが連続出演。
茶水衣・無地熨斗・角帽子・白房二つの数珠というスッキリとした出立で、都から三河の国に着いた僧は、沢辺の杜若に眺め入る。
正面席のあたりに咲き誇る杜若の群生を描き出す視線の表現力はさすが。
こちらも沢辺にいるような気分になってくる。
そこへ、「のうのう、御僧」と呼び掛ける謎の女性が登場する。
女の装束は杜若・鴛鴦、流水文といった水辺の文様を施した朱と水色の段替唐織。
面は増と思う。
強力な照明塔でフラットに照らされているせいか、女面は通常よりも黒い瞳が小さく見え、どこか焦点の定まらない、情緒不安定な年かさの女性という印象を与える。
でも、物着のあとは印象ががらりと変わり、臈たけたミステリアスな大人の女性に変化する。
このあたりが装束の変化とともに気を変えるシテの力量のなせる技でしょうか。
物着を終えて振り返ったシテは業平菱の紫長絹をまとい、真ノ太刀を佩き、初冠に梅花を挿して、緋色の日蔭の糸を垂らすという倒錯美の極致。
「恋之舞」の小書ゆえクリ・サシ・クセはカットされ、地次第「はるばる来ぬる唐衣、着つつや舞を奏づらん」から「花前に蝶舞ふ」にワープする。そして序ノ舞へ。
序ノ舞の途中から橋掛りへ行き、一の松で右袖を被いて欄干の下を見込む。
さらに袖を返して、愛おしい人を抱きしめるように左袖を胸に引き寄せ、橋掛りから脇正を見下ろし、左右に面を使う。
その姿は、業平のようでもあり、高子のようでもあり、杜若の精のようでもあり、恋の化身として昇華されたシテの姿にうっとりと見入っていたその時、
シテの視線の先にいた高齢女性集団が、何を思ったか、いきなり大声でしゃべり始めるという事態が勃発。
よりによってなぜこのタイミングで!?
それまでもあちこちで飴を配って食べたり、おしゃべりしたりといろいろ騒がしく、集中力でなんとかカバーしていたのですが、この序ノ舞の橋掛りで見込む場面だけは、頼むから静かにしてほしかった。
見所に潜むテロル。
過激派による古代遺跡の破壊を目のあたりにしたようなショック。
序ノ舞あと、「蝉の唐衣」でシテが正先で左袖を愛おしそうに眺め入る場面など見どころがあり、せっかく好い舞台だったのに、あまりのショックにもはや杜若の世界に入っていけなかった。
相模薪能~能《俊成忠度》からのつづき
帰り道の太鼓橋から |
狂言《二人袴》 親 野村萬斎 舅 石田幸雄
太郎冠者 月崎晴夫 婿 野村裕基
後見 中村修一
働キ 内藤連
能《杜若・恋之舞》 シテ 杜若の精 観世喜正
ワキ 旅僧 殿田謙吉
一噌隆之 鵜澤洋太郎 國川純 小寺真佐人
後見 奥川恒治 遠藤喜久
地謡 五木田三郎 弘田裕一 鈴木啓吾 駒瀬直也
小島英明 坂真太郎 中森健之介 斎藤比佐晃
働キ 河井美紀 久保田宏二
狂言《二人袴》
萬斎父子が親子を演じる親子共演。
花のある二人に実力派のベテランが加わり、とっても面白く華やかな舞台でした。
会場は終始爆笑の渦で、誰もが楽しめた様子。
裕基さんはすでに萬斎さんの背丈を抜いていて、しかも小顔。
息子さんに袴を着付ける時の萬斎さんの手つきが丁寧かつ的確で、紐をキュッと締める時、「しっかりやれよ」と気合を入れると同時に、慈愛のような深い愛情がこもっているのがこちらにも伝わってきて、なんだかじい~んと来ました。
萬斎さんの舞台はとにかくメリハリが利いていて、間合いやテンポも良く、表情豊かで、幅広い客層を引き込む術を心得ている。
そして、スッと座っている時の姿勢がきれい。
能《杜若・恋之舞》
喜正さんの御舞台は神遊最終公演《姨捨》ぶり。
楽しみにしてたのに最後に思わぬ伏兵が! 薪能、恐るべし。
ワキの殿田さんが連続出演。
茶水衣・無地熨斗・角帽子・白房二つの数珠というスッキリとした出立で、都から三河の国に着いた僧は、沢辺の杜若に眺め入る。
正面席のあたりに咲き誇る杜若の群生を描き出す視線の表現力はさすが。
こちらも沢辺にいるような気分になってくる。
そこへ、「のうのう、御僧」と呼び掛ける謎の女性が登場する。
女の装束は杜若・鴛鴦、流水文といった水辺の文様を施した朱と水色の段替唐織。
面は増と思う。
強力な照明塔でフラットに照らされているせいか、女面は通常よりも黒い瞳が小さく見え、どこか焦点の定まらない、情緒不安定な年かさの女性という印象を与える。
でも、物着のあとは印象ががらりと変わり、臈たけたミステリアスな大人の女性に変化する。
このあたりが装束の変化とともに気を変えるシテの力量のなせる技でしょうか。
物着を終えて振り返ったシテは業平菱の紫長絹をまとい、真ノ太刀を佩き、初冠に梅花を挿して、緋色の日蔭の糸を垂らすという倒錯美の極致。
「恋之舞」の小書ゆえクリ・サシ・クセはカットされ、地次第「はるばる来ぬる唐衣、着つつや舞を奏づらん」から「花前に蝶舞ふ」にワープする。そして序ノ舞へ。
序ノ舞の途中から橋掛りへ行き、一の松で右袖を被いて欄干の下を見込む。
さらに袖を返して、愛おしい人を抱きしめるように左袖を胸に引き寄せ、橋掛りから脇正を見下ろし、左右に面を使う。
その姿は、業平のようでもあり、高子のようでもあり、杜若の精のようでもあり、恋の化身として昇華されたシテの姿にうっとりと見入っていたその時、
シテの視線の先にいた高齢女性集団が、何を思ったか、いきなり大声でしゃべり始めるという事態が勃発。
よりによってなぜこのタイミングで!?
それまでもあちこちで飴を配って食べたり、おしゃべりしたりといろいろ騒がしく、集中力でなんとかカバーしていたのですが、この序ノ舞の橋掛りで見込む場面だけは、頼むから静かにしてほしかった。
見所に潜むテロル。
過激派による古代遺跡の破壊を目のあたりにしたようなショック。
序ノ舞あと、「蝉の唐衣」でシテが正先で左袖を愛おしそうに眺め入る場面など見どころがあり、せっかく好い舞台だったのに、あまりのショックにもはや杜若の世界に入っていけなかった。
2016年8月16日火曜日
第47回 相模薪能~能《俊成忠度》
2016年8月15日終戦記念日 17時半~20時半 29℃ 寒川神社
神事 修祓、宮司一拝、献饌、祝詞奏上、謡「四海波」中森健之介、
玉串奉奠(宮司・奉行・能楽師)、撤饌、宮司一拝
火入れ式
能《俊成忠度》 シテ 平忠度の亡霊 中森貫太
ツレ藤原俊成 佐久間二郎 トモ従者 中森健之介
ワキ岡部六弥太 殿田謙吉
一噌隆之 鵜澤洋太郎 國川純
後見 弘田裕一 河井美紀
地謡 五木田三郎 駒瀬直也 遠藤喜久 奥川恒治
鈴木啓吾 小島英明 坂真太郎 久保田宏二
働キ 斎藤比佐晃
狂言《二人袴》 親 野村萬斎 舅 石田幸雄
太郎冠者 月崎晴夫 婿 野村裕基
後見 中村修一
働キ 内藤連
(休憩10分)
能《杜若・恋之舞》 シテ 杜若の精 観世喜正
ワキ 旅僧 殿田謙吉
一噌隆之 鵜澤洋太郎 國川純 小寺真佐人
後見 奥川恒治 遠藤喜久
地謡 五木田三郎 弘田裕一 鈴木啓吾 駒瀬直也
小島英明 坂真太郎 中森健之介 斎藤比佐晃
働キ 河井美紀 久保田宏二
去年に引き続き、虫よけスプレーと雨具を携えて行ってきました!
寒川大明神のご加護でしょうか、
今回も見やすい席を確保できたし、お天気も奇跡的にもって良かったです。
(こういう微妙な天気の日は、演者・主催者ともにさぞかし苦労されたかと。)
ここの薪能は質・内容ともに充実していて遠方まで出かけた甲斐がありました。
ただ見所が、わたしのなかのワースト1の記録を更新するほどだったのが無念。
いろんな人が観にくる市民薪能だから、そういうカオスもひっくるめて楽しむものだと思っておこう。
まずは例年のごとく戦没者慰霊の神事から。
今年、《四海波》を謡われたのは鎌倉能舞台三代目の中森健之介さん。
お父上から受け継いだ謡いのうまさ。将来が楽しみなシテ方さんです。
火入れ式のあとは、お待ちかねの能《俊成忠度》。
世阿弥作の能《忠度》が、
平忠度が岡部六弥太に討たれた最期を再現しつつ、「行き暮れて木の下蔭を宿とせば」の歌を中心に桜の老木と忠度のイメージをダブらせて、散りゆく者の美を描いた複式夢幻能であるのに対し、
内藤河内守作《俊成忠度》は、
能《忠度》において六弥太の視点から語られた部分を起点に、六弥太をワキに仕立て、俊成を登場させて、「さざ波や志賀の都は荒れにしを」の歌を中心に和歌の徳を説き、さらには修羅道の闘争地獄、和歌の徳による救済を描いた単式能で、どちらかというと《清経》に似た趣き。
まずは名ノリ笛もないまま、太刀持の先導でワキの岡部六弥太が登場。
出立は侍烏帽子・掛直垂・白大口、腰には短冊のついた白羽の矢。
暑そうな装束だけど、名ノリの謡で1500人以上の観衆の心をガッチリつかみます。
京の五条にある俊成宅を訪ね、みずから討ち取った忠度の辞世の歌(「行き暮れて木の下蔭を宿とせば、花や今宵の主ならまし」)がしたためられた短冊を俊成に渡します。
このとき、短冊のついた矢を腰からさっと抜き出す殿田さんの手さばきが見事。
着付けもさすがです。
矢が落ちないように、でも抜き取りやすいようにと、さじ加減が難しそう。
しかし! ワキの活躍はここまで。
初同で囃子が入ると、切戸口(舞台上手奥の通路)から早々に退場。
和歌を読んだ俊成が忠度の冥福を祈っていると、忠度の亡霊が登場楽もなくそっと登場し、橋掛りを進みます。
この登場の時のシテの姿があまりにもきれいで目が釘付けになりました。
タンポポらしき花をあしらった青灰色の長絹肩脱、梨打烏帽子、厚板、白大口という出立。
繊細優美な中将の面が装束としっくり合っていて、貴公子然とした美しい佇まいです。
忠度の亡霊は『千載集』に選ばれた自作の歌「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」が詠み人知らずになっているのがどうも気になる、と俊成に訴えます。
しかし、俊成に「あれは朝敵なので致し方なかった、でもこの歌が残ればあなたの名も残るから大丈夫」と諭され、あっさり納得。
長々と文句を言わない、良い子なのでした。
そしてサシから正中下居になり、素盞鳴尊と八重垣姫の結婚にまつわる和歌の起源が地謡によってクセで語られ、「さてもわれ須磨の浦に」からシテが立ち上がり、「人麿世に亡くなりて」でアゲハ、上ゲ扇のあと、さらに和歌の徳が地謡によって謡われます。
この男女和合と和歌の功徳を結びつけた穏やかなクセから一転、
大小鼓が勢いを増してカケリとなり、シテは修羅道の苦患を力強く激しい舞で表現します。
(國川さんと鵜澤洋太郎さんの大小鼓がカッコイイ。とくにこの日は小鼓が冴えていて、ポンポン弾けるようなみずみずしい音色と掛け声。)
あれご覧ぜよ、修羅王の、梵天に攻め上るを、
帝釈出て合い修羅王を、もとの下界に追っ下す
和歌の醍醐味を舞ったところから、修羅王(阿修羅)VS帝釈天・梵天という神々の戦闘場面へと大きく変わるシテの謡の変容、声や息の変化が素晴らしい!
貫太さんは舞もいいけど、謡が断然良くて、
謡の強さ、息の詰め方に合わせて、腹筋がグッと動くのが装束の上から分かるほど。
だいぶお痩せになったのかな。
以前拝見した時よりも身体が引き締まって見えました。
技術・経験・肉体ともに円熟期を迎えた好いシテ方さんです。
「喚(をめ)き叫べば忠度も」で右手で太刀を抜き、左手で開いた扇を楯に見立てて突き出し、「修羅王の責めこはいかに浅ましや」でガックリ安座。
しかし、「さざ波や」の歌に梵天が感銘を受けたおかげ(和歌の功徳)で、忠度の亡霊は剣の攻め苦を免れ、山の木陰に姿を消すのでした。
上演時間40分ほどの短い曲でしたが、能のエッセンスがギュッと濃縮された舞台。
薪能はパイプ椅子でお尻が痛いから、一曲がこれくらい短めのほうがいいのかも。
第47回 相模薪能~狂言《二人袴》・能《杜若・恋之舞》につづく
開演前の特設能舞台 |
神事 修祓、宮司一拝、献饌、祝詞奏上、謡「四海波」中森健之介、
玉串奉奠(宮司・奉行・能楽師)、撤饌、宮司一拝
火入れ式
能《俊成忠度》 シテ 平忠度の亡霊 中森貫太
ツレ藤原俊成 佐久間二郎 トモ従者 中森健之介
ワキ岡部六弥太 殿田謙吉
一噌隆之 鵜澤洋太郎 國川純
後見 弘田裕一 河井美紀
地謡 五木田三郎 駒瀬直也 遠藤喜久 奥川恒治
鈴木啓吾 小島英明 坂真太郎 久保田宏二
働キ 斎藤比佐晃
狂言《二人袴》 親 野村萬斎 舅 石田幸雄
太郎冠者 月崎晴夫 婿 野村裕基
後見 中村修一
働キ 内藤連
(休憩10分)
能《杜若・恋之舞》 シテ 杜若の精 観世喜正
ワキ 旅僧 殿田謙吉
一噌隆之 鵜澤洋太郎 國川純 小寺真佐人
後見 奥川恒治 遠藤喜久
地謡 五木田三郎 弘田裕一 鈴木啓吾 駒瀬直也
小島英明 坂真太郎 中森健之介 斎藤比佐晃
働キ 河井美紀 久保田宏二
去年に引き続き、虫よけスプレーと雨具を携えて行ってきました!
寒川大明神のご加護でしょうか、
今回も見やすい席を確保できたし、お天気も奇跡的にもって良かったです。
(こういう微妙な天気の日は、演者・主催者ともにさぞかし苦労されたかと。)
ここの薪能は質・内容ともに充実していて遠方まで出かけた甲斐がありました。
ただ見所が、わたしのなかのワースト1の記録を更新するほどだったのが無念。
いろんな人が観にくる市民薪能だから、そういうカオスもひっくるめて楽しむものだと思っておこう。
まずは例年のごとく戦没者慰霊の神事から。
今年、《四海波》を謡われたのは鎌倉能舞台三代目の中森健之介さん。
お父上から受け継いだ謡いのうまさ。将来が楽しみなシテ方さんです。
火入れ式のあとは、お待ちかねの能《俊成忠度》。
世阿弥作の能《忠度》が、
平忠度が岡部六弥太に討たれた最期を再現しつつ、「行き暮れて木の下蔭を宿とせば」の歌を中心に桜の老木と忠度のイメージをダブらせて、散りゆく者の美を描いた複式夢幻能であるのに対し、
内藤河内守作《俊成忠度》は、
能《忠度》において六弥太の視点から語られた部分を起点に、六弥太をワキに仕立て、俊成を登場させて、「さざ波や志賀の都は荒れにしを」の歌を中心に和歌の徳を説き、さらには修羅道の闘争地獄、和歌の徳による救済を描いた単式能で、どちらかというと《清経》に似た趣き。
まずは名ノリ笛もないまま、太刀持の先導でワキの岡部六弥太が登場。
出立は侍烏帽子・掛直垂・白大口、腰には短冊のついた白羽の矢。
暑そうな装束だけど、名ノリの謡で1500人以上の観衆の心をガッチリつかみます。
京の五条にある俊成宅を訪ね、みずから討ち取った忠度の辞世の歌(「行き暮れて木の下蔭を宿とせば、花や今宵の主ならまし」)がしたためられた短冊を俊成に渡します。
このとき、短冊のついた矢を腰からさっと抜き出す殿田さんの手さばきが見事。
着付けもさすがです。
矢が落ちないように、でも抜き取りやすいようにと、さじ加減が難しそう。
しかし! ワキの活躍はここまで。
初同で囃子が入ると、切戸口(舞台上手奥の通路)から早々に退場。
和歌を読んだ俊成が忠度の冥福を祈っていると、忠度の亡霊が登場楽もなくそっと登場し、橋掛りを進みます。
この登場の時のシテの姿があまりにもきれいで目が釘付けになりました。
タンポポらしき花をあしらった青灰色の長絹肩脱、梨打烏帽子、厚板、白大口という出立。
繊細優美な中将の面が装束としっくり合っていて、貴公子然とした美しい佇まいです。
忠度の亡霊は『千載集』に選ばれた自作の歌「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」が詠み人知らずになっているのがどうも気になる、と俊成に訴えます。
しかし、俊成に「あれは朝敵なので致し方なかった、でもこの歌が残ればあなたの名も残るから大丈夫」と諭され、あっさり納得。
長々と文句を言わない、良い子なのでした。
そしてサシから正中下居になり、素盞鳴尊と八重垣姫の結婚にまつわる和歌の起源が地謡によってクセで語られ、「さてもわれ須磨の浦に」からシテが立ち上がり、「人麿世に亡くなりて」でアゲハ、上ゲ扇のあと、さらに和歌の徳が地謡によって謡われます。
この男女和合と和歌の功徳を結びつけた穏やかなクセから一転、
大小鼓が勢いを増してカケリとなり、シテは修羅道の苦患を力強く激しい舞で表現します。
(國川さんと鵜澤洋太郎さんの大小鼓がカッコイイ。とくにこの日は小鼓が冴えていて、ポンポン弾けるようなみずみずしい音色と掛け声。)
あれご覧ぜよ、修羅王の、梵天に攻め上るを、
帝釈出て合い修羅王を、もとの下界に追っ下す
和歌の醍醐味を舞ったところから、修羅王(阿修羅)VS帝釈天・梵天という神々の戦闘場面へと大きく変わるシテの謡の変容、声や息の変化が素晴らしい!
貫太さんは舞もいいけど、謡が断然良くて、
謡の強さ、息の詰め方に合わせて、腹筋がグッと動くのが装束の上から分かるほど。
だいぶお痩せになったのかな。
以前拝見した時よりも身体が引き締まって見えました。
技術・経験・肉体ともに円熟期を迎えた好いシテ方さんです。
「喚(をめ)き叫べば忠度も」で右手で太刀を抜き、左手で開いた扇を楯に見立てて突き出し、「修羅王の責めこはいかに浅ましや」でガックリ安座。
しかし、「さざ波や」の歌に梵天が感銘を受けたおかげ(和歌の功徳)で、忠度の亡霊は剣の攻め苦を免れ、山の木陰に姿を消すのでした。
上演時間40分ほどの短い曲でしたが、能のエッセンスがギュッと濃縮された舞台。
薪能はパイプ椅子でお尻が痛いから、一曲がこれくらい短めのほうがいいのかも。
第47回 相模薪能~狂言《二人袴》・能《杜若・恋之舞》につづく
2016年8月12日金曜日
下掛宝生流 能の会 《紅葉狩・鬼揃》~ワキがクセを舞う
2016年8月10日(水) 18時~20時45分 宝生能楽堂
下掛宝生流 能の会~《月見座頭》からのつづき
ワキ宝生欣哉
大日方寛 館田善博 森常太郎 殿田謙吉
アイ山本則秀 山本則重
杉市和 曽和正博 國川純 観世元伯
後見 片山九郎右衛門
清水寛二 馬野正基
ワキ後見 則久英志
地謡 梅若玄祥 浅井文義 西村高夫 柴田稔
山崎正道 小田切康陽 角当直隆 大江信行
秋の夜気たちこめる月見座頭から一転、燃え立つ錦秋の奥山を舞台にした紅葉狩・鬼揃。
配役もゴージャスで、ツレ・囃子・地謡ともに東京では珍しい組み合わせ。
【前場】
冒頭の次第の囃子から秋の風が吹き寄せる。
大小鼓はもちろん杉市和さんの笛の音がことのほか美しく、舞台の空気が浄化されたように澄みわたってゆく。
そこへ総勢6名の美女軍団登場!
舞台がさながら百花繚乱の様相を呈するなか、プログラムとツレの方々を交互に見ながら、この美女はあの方で、あの美女はあの方? と想像するのも一興です。
勝手に推察するに、
脇座で床几に掛かったシテ・銕之丞師の隣から順に淳夫さん、浦田さん、味方さん、谷本さん、川口さん(プログラムの記載順)、
そして最初に欣哉さんとクセを舞ったペアが浦田さん(地謡側)と玄さん(脇正側)、裾クセから中ノ舞途中まで舞ったのが谷本さん(地謡側)と川口さん(脇正側)かな?
そうこうしているうちに、この日の主役・ワキ平維茂一行が一声の囃子で登場。
次第の囃子でシテ・シテツレが登場し、一声でワキ・ワキツレが登場する――この登場楽だけをみても《紅葉狩》ってワキがメインのような扱いになっているのだとあらためて感じます。
維茂の出立は、優雅な緑地の長絹に緑とゴールドの厚板、白大口、梨子打烏帽子。
紅葉の赤の補色を多用したスッキリとした貴公子姿。
馬上の維茂は「駒の足並み勇なり」で、深く膝を折ったのち爪先だって伸び上がる。
興奮して後ろ脚で立つ馬を表現したこの型は、ダヴィッドの描くナポレオン騎馬像を思わせます。
シテの上臈による維茂誘惑シーンを経て、いよいよ酒宴のはじまり!
(シテの面はたぶん増? 唐織はゴールド地で絢爛豪華。豊満な美女です。)
お酌ガールの淳夫さんが甲斐甲斐しく維茂に酒を注いで、なんとも可愛らしい。
その後、興に乗った維茂が舞い始めるのですが、これが意外な展開でした。
当ブログで何度も引用するセルリアンタワーのプレ公演では欣哉さん一人が舞う仕舞だったので実際の能ではどうなるか想像もつかなかったけれど、
なんと、美女二人を背後に従えて三人で舞うんですね。
ハーレム状態、酒池肉林感が際立って、面白い!
とはいえ、三人がずっと揃って舞うわけではなく、時おりワキだけが舞ったり、シテツレ二人が足拍子を踏んだりと、ヴァリエーションも豊富。
見所も興味津々で見入ってました。
二番目に舞ったペアでは、地謡側の谷本さんと思しき美女はこちらからは見えず、脇正側の川口さんらしき美女の舞を拝見。
扇をもつ手がいかにも梅若風のフワッとした優雅でやわらかな印象でした。
(と、書いたものの、まったく別人だったりして。)
中ノ舞の途中からシテにバトンタッチ。
身も心もとろけて維茂が寝入ったのを確認した上臈は、本性を現したかのように激しく急ノ舞を舞い、紅葉山の蔭に中入り。
【中入】
九郎右衛門さんの物着着付けを初めて拝見しました。
味方玄さんが九郎右衛門さんの後見をされている時も思ったけれど、
片山家一門の方は鬘を整える時など、
恋人を扱うようにさも大事そうにシテを扱うんですね。
いっぽう維茂は、武内ノ神に鬼女を退治するよう神剣を授けられる霊夢を見る。
【後場】
鬼女たちとの壮絶バトル。
強弱の効いた太鼓が闘いの場面を盛り上げる。
神剣に恐れをなして逃げ去る鬼女たちが小気味良いスピードで橋掛りを駆け抜けていく。
最後に残ったボス鬼女も維茂に成敗され、ガックリとうなだれたまま、意気揚々と凱旋する維茂のあとについてトボトボと幕入り。
登場から退場までカッコいい主役の座に君臨したワキの欣哉さんなのでした。
(今月下旬に安曇野で九郎右衛門さん×欣哉さんの《紅葉狩》があるのですが、この日の舞台とどれだけ違うのか観てみたい気がします。)
最後は、
《東岸居士》の「万法皆一如なる実相の門に入ろうよ」と追加が謡われ、宝生閑師に手向けられました。
下掛宝生流 能の会~《月見座頭》からのつづき
能《紅葉狩・鬼揃》シテ観世銕之丞
ツレ観世淳夫 浦田保親 味方玄 谷本健吾 川口晃平ワキ宝生欣哉
大日方寛 館田善博 森常太郎 殿田謙吉
アイ山本則秀 山本則重
杉市和 曽和正博 國川純 観世元伯
後見 片山九郎右衛門
清水寛二 馬野正基
ワキ後見 則久英志
地謡 梅若玄祥 浅井文義 西村高夫 柴田稔
山崎正道 小田切康陽 角当直隆 大江信行
秋の夜気たちこめる月見座頭から一転、燃え立つ錦秋の奥山を舞台にした紅葉狩・鬼揃。
配役もゴージャスで、ツレ・囃子・地謡ともに東京では珍しい組み合わせ。
【前場】
冒頭の次第の囃子から秋の風が吹き寄せる。
大小鼓はもちろん杉市和さんの笛の音がことのほか美しく、舞台の空気が浄化されたように澄みわたってゆく。
そこへ総勢6名の美女軍団登場!
舞台がさながら百花繚乱の様相を呈するなか、プログラムとツレの方々を交互に見ながら、この美女はあの方で、あの美女はあの方? と想像するのも一興です。
勝手に推察するに、
脇座で床几に掛かったシテ・銕之丞師の隣から順に淳夫さん、浦田さん、味方さん、谷本さん、川口さん(プログラムの記載順)、
そして最初に欣哉さんとクセを舞ったペアが浦田さん(地謡側)と玄さん(脇正側)、裾クセから中ノ舞途中まで舞ったのが谷本さん(地謡側)と川口さん(脇正側)かな?
そうこうしているうちに、この日の主役・ワキ平維茂一行が一声の囃子で登場。
次第の囃子でシテ・シテツレが登場し、一声でワキ・ワキツレが登場する――この登場楽だけをみても《紅葉狩》ってワキがメインのような扱いになっているのだとあらためて感じます。
維茂の出立は、優雅な緑地の長絹に緑とゴールドの厚板、白大口、梨子打烏帽子。
紅葉の赤の補色を多用したスッキリとした貴公子姿。
馬上の維茂は「駒の足並み勇なり」で、深く膝を折ったのち爪先だって伸び上がる。
興奮して後ろ脚で立つ馬を表現したこの型は、ダヴィッドの描くナポレオン騎馬像を思わせます。
シテの上臈による維茂誘惑シーンを経て、いよいよ酒宴のはじまり!
(シテの面はたぶん増? 唐織はゴールド地で絢爛豪華。豊満な美女です。)
お酌ガールの淳夫さんが甲斐甲斐しく維茂に酒を注いで、なんとも可愛らしい。
その後、興に乗った維茂が舞い始めるのですが、これが意外な展開でした。
当ブログで何度も引用するセルリアンタワーのプレ公演では欣哉さん一人が舞う仕舞だったので実際の能ではどうなるか想像もつかなかったけれど、
なんと、美女二人を背後に従えて三人で舞うんですね。
ハーレム状態、酒池肉林感が際立って、面白い!
とはいえ、三人がずっと揃って舞うわけではなく、時おりワキだけが舞ったり、シテツレ二人が足拍子を踏んだりと、ヴァリエーションも豊富。
見所も興味津々で見入ってました。
二番目に舞ったペアでは、地謡側の谷本さんと思しき美女はこちらからは見えず、脇正側の川口さんらしき美女の舞を拝見。
扇をもつ手がいかにも梅若風のフワッとした優雅でやわらかな印象でした。
(と、書いたものの、まったく別人だったりして。)
中ノ舞の途中からシテにバトンタッチ。
身も心もとろけて維茂が寝入ったのを確認した上臈は、本性を現したかのように激しく急ノ舞を舞い、紅葉山の蔭に中入り。
【中入】
九郎右衛門さんの物着着付けを初めて拝見しました。
味方玄さんが九郎右衛門さんの後見をされている時も思ったけれど、
片山家一門の方は鬘を整える時など、
恋人を扱うようにさも大事そうにシテを扱うんですね。
いっぽう維茂は、武内ノ神に鬼女を退治するよう神剣を授けられる霊夢を見る。
【後場】
鬼女たちとの壮絶バトル。
強弱の効いた太鼓が闘いの場面を盛り上げる。
神剣に恐れをなして逃げ去る鬼女たちが小気味良いスピードで橋掛りを駆け抜けていく。
最後に残ったボス鬼女も維茂に成敗され、ガックリとうなだれたまま、意気揚々と凱旋する維茂のあとについてトボトボと幕入り。
登場から退場までカッコいい主役の座に君臨したワキの欣哉さんなのでした。
(今月下旬に安曇野で九郎右衛門さん×欣哉さんの《紅葉狩》があるのですが、この日の舞台とどれだけ違うのか観てみたい気がします。)
最後は、
《東岸居士》の「万法皆一如なる実相の門に入ろうよ」と追加が謡われ、宝生閑師に手向けられました。
2016年8月11日木曜日
下掛宝生流 能の会~狂言《月見座頭》
2016年8月10日(水) 18時~20時45分 宝生能楽堂
下掛宝生流 能の会~仕舞《大蛇》からのつづき
ワキ宝生欣哉
大日方寛 館田善博 森常太郎 殿田謙吉
アイ山本則秀 山本則重
杉市和 曽和正博 國川純 観世元伯
後見 片山九郎右衛門
清水寛二 馬野正基
ワキ後見 則久英志
地謡 梅若玄祥 浅井文義 西村高夫 柴田稔
山崎正道 小田切康陽 角当直隆 大江信行
東次郎さん×則俊さんの《月見座頭》は二年前の銕仙会(←あらすじもこちらに記載)で拝見したのでこれで二度目。
毎回、いろいろ考えさせられる。
前半の月見の酒宴の描写が秀逸で、意気投合した男との交流を屈託なく無邪気に描けば描くほど、後半の言いようのない暗さが引き立ってくる。
気の合う相手との出会い、楽しい舞や謡。
そして何よりも酒を飲む東次郎さんの表現力が素晴らしく、トロリとした芳醇な美酒がなみなみと注がれているように、盃に見立てた扇をさもおいしそうに、嬉しそうに飲み干してゆく。
座頭が「ただ松虫のひとり音に友を待ち、詠をなして、舞ひ奏で遊ばん」と、能《松虫》の一節を謡ったのも、虫の音を聞く酒宴の席にふさわしいということもあるけれど、相手に心を許したある種の友情のあかしかもしれない。
君子の交わりは淡きこと水のごとく、酒宴は切りのいいところでお開きとなる。
ところが、
座頭と別れた男は、ふと、もと来た道を引き返し、座頭を引き廻して、突き倒す。
橋掛りの二の松辺りで振り返る則俊さんは、魔が差したようでもなく、
ただたんにこのまま帰るのはなんとなく物足りないから、
「今ひとしほの慰みに」やってやろうという決然とした意志が感じられた。
そこには、良心の呵責や罪悪感はみじんもない。
彼にとっては、つい先ほどまで座頭と意気投合していたことと、
座頭をいたぶることとのあいだには何の齟齬も矛盾もないのだ。
ただ、座頭は目が見えず、
自分の行為は匿名性のヴェールに隠されているという思い込みだけが
彼をこの蛮行に駆り立てたように思えた。
もちろん、座頭には自分を攻撃した相手が誰なのかは分かっている。
分かったうえで、そのことをぐっと呑み込み、「先ほどの人とは違い、なんと酷いことをする奴がいるものだ」とつぶやく。
裏切られても、突き飛ばされても、
そのことをぐっと呑み込み、
素知らぬ顔でクシャミひとつして、
あとは、見えない月の光と虫の音を友として生きていく。
そういう生き方は東次郎さん自身の生き方とも重なる気がして、
そこに理想の生き方を見つけた気がして、
途中から涙が止まらなくなった。
下掛宝生流 能の会~《紅葉狩・鬼揃》につづく
下掛宝生流 能の会~仕舞《大蛇》からのつづき
仕舞《大蛇》片山九郎右衛門×宝生欣哉
則久英志 工藤和哉 殿田謙吉 御厨誠吾
連吟《鷺》王 野口能弘 ワキ 野口教弘、大臣 野口塚弘
吉田祐一 高井松男 森常好 梅村昌功 舘田善博
仕舞《遊行柳クセ》 梅若玄祥
宝生欣哉 則久英志 大日方寛 御厨誠吾
狂言《月見座頭》 山本東次郎 山本則俊
(休憩15分)
能《紅葉狩・鬼揃》シテ観世銕之丞
ツレ観世淳夫 浦田保親 味方玄 谷本健吾 川口晃平ワキ宝生欣哉
大日方寛 館田善博 森常太郎 殿田謙吉
アイ山本則秀 山本則重
杉市和 曽和正博 國川純 観世元伯
後見 片山九郎右衛門
清水寛二 馬野正基
ワキ後見 則久英志
地謡 梅若玄祥 浅井文義 西村高夫 柴田稔
山崎正道 小田切康陽 角当直隆 大江信行
東次郎さん×則俊さんの《月見座頭》は二年前の銕仙会(←あらすじもこちらに記載)で拝見したのでこれで二度目。
毎回、いろいろ考えさせられる。
前半の月見の酒宴の描写が秀逸で、意気投合した男との交流を屈託なく無邪気に描けば描くほど、後半の言いようのない暗さが引き立ってくる。
気の合う相手との出会い、楽しい舞や謡。
そして何よりも酒を飲む東次郎さんの表現力が素晴らしく、トロリとした芳醇な美酒がなみなみと注がれているように、盃に見立てた扇をさもおいしそうに、嬉しそうに飲み干してゆく。
座頭が「ただ松虫のひとり音に友を待ち、詠をなして、舞ひ奏で遊ばん」と、能《松虫》の一節を謡ったのも、虫の音を聞く酒宴の席にふさわしいということもあるけれど、相手に心を許したある種の友情のあかしかもしれない。
君子の交わりは淡きこと水のごとく、酒宴は切りのいいところでお開きとなる。
ところが、
座頭と別れた男は、ふと、もと来た道を引き返し、座頭を引き廻して、突き倒す。
橋掛りの二の松辺りで振り返る則俊さんは、魔が差したようでもなく、
ただたんにこのまま帰るのはなんとなく物足りないから、
「今ひとしほの慰みに」やってやろうという決然とした意志が感じられた。
そこには、良心の呵責や罪悪感はみじんもない。
彼にとっては、つい先ほどまで座頭と意気投合していたことと、
座頭をいたぶることとのあいだには何の齟齬も矛盾もないのだ。
ただ、座頭は目が見えず、
自分の行為は匿名性のヴェールに隠されているという思い込みだけが
彼をこの蛮行に駆り立てたように思えた。
もちろん、座頭には自分を攻撃した相手が誰なのかは分かっている。
分かったうえで、そのことをぐっと呑み込み、「先ほどの人とは違い、なんと酷いことをする奴がいるものだ」とつぶやく。
裏切られても、突き飛ばされても、
そのことをぐっと呑み込み、
素知らぬ顔でクシャミひとつして、
あとは、見えない月の光と虫の音を友として生きていく。
そういう生き方は東次郎さん自身の生き方とも重なる気がして、
そこに理想の生き方を見つけた気がして、
途中から涙が止まらなくなった。
下掛宝生流 能の会~《紅葉狩・鬼揃》につづく
下掛宝生流 能の会~仕舞《大蛇》・連吟《鷺》・仕舞《遊行柳クセ》
2016年8月10日(水)18時~20時45分 33℃ 宝生能楽堂
ワキ宝生欣哉
大日方寛 館田善博 森常太郎 殿田謙吉
アイ山本則秀 山本則重
杉市和 曽和正博 國川純 観世元伯
後見 片山九郎右衛門
清水寛二 馬野正基
ワキ後見 則久英志
地謡 梅若玄祥 浅井文義 西村高夫 柴田稔
山崎正道 小田切康陽 角当直隆 大江信行
お盆前にもかかわらず、ほぼ満席の盛会。
初めて行くのでよく分かりませんが、欣哉・新体制のお披露目みたいな会なのでしょうか。
もちろん追善の会でもあるけれど「流儀の未来に向けて」という意気込みを感じさせました。
仕舞《大蛇》
冒頭からいきなりお目当ての《大蛇》。
小次郎信光が八岐大蛇伝説を題材にして書いた能《大蛇》は宝生・喜多・金剛にしかなく、今回の仕舞《大蛇》は九郎右衛門さんご自身が型付をされたということでとても楽しみにしていました。
(復曲能《吉野琴》をテレビで観た時に、九郎右衛門さんの型付のセンスの良さを実感していたから。)
とはいえ観世流でも、かつて観世栄夫×宝生閑による《大蛇》(能or仕舞?)が上演されたことがあったらしく、こうして世代を経て片山九郎右衛門×宝生欣哉で拝見できるのも貴重な機会です。
喜多流(大島輝久さん)×福王流(福王和幸さん)の仕舞《大蛇》は、セルリアンタワーのプレ公演で拝見したので、比較を交えながらの感想;
(1)まず、大きな違いは、喜多流×福王流では、ワキが剣を持っていたこと。
一刀の剣で、最初は「十握の神剣」を、最後は大蛇の尾から出てきた「叢雲の剣」を表現し、鞘から抜く所作や大蛇退治に効果的に用いるなど、剣が仕舞の重要な要素となっていました。
それに対し、下宝では扇を剣に見立てて使用。
簡素を重んじる流儀なのかもしれません。
(2)「川風暗く水渦巻き」で、立ち上がるところは同じなのですが、
このあと福王流では剣を持って脇座に行き、下居したまましばらく待機。
ワキが舞台中央から退いたため、シテの大蛇の動きがクローズアップされます。
一方、下宝ではワキがシテの横で下居。
全体的に、福王流の仕舞《大蛇》では脇座から常座に移って「遥かの岸より下り給へば」でジャンプするなどダイナミックに動いて舞台全体を大きく使っていたのに対し、下宝では舞台の端から端までを使うわけではなく、やや抑制の利いた動き。
(そういう印象を受けたのは、福王さんが大柄なせいもあるかもしれません。)
それから、なるほど、凄いなーと思ったのは、
「頭を舟に落とし入れて」で、
シテが(大蛇の頭に見立てた)閉じた扇を逆さにしてズブズブと
突き下げていくところは喜多流と同様に感じましたが、
その前の「舟にうつろふ御影を呑まんと」で、
両手を頭の左右に上げて肘を直角に折り曲げる型をするところは
九郎右衛門さんのオリジナルかな?
おそらく両手を左右に上げることで、大蛇の八つ首を表わしたのでしょうか。
このあたりが独創的。さすがです。
ほかにも九郎右衛門さんオリジナルの型がいろいろあったのかもしれません。
地謡がところどころ乱れて、シテ・ワキが呼吸を合わせづらそう。
(支障なく舞っていらっしゃいましたが、キレが若干損なわれた気が。)
ワキ方は次第や待謡で声を合わせて謡うことはするけれど、
立役の動きに合わせて謡うことは通常はないので致し方ない。
今までシテ方の地謡を普通に聴いていたけれど、
立役の動きに合わせて謡うのは単に謡うのとは違う難しさがあるのだと、
あらためて感じたことでした。
連吟《鷺》
こちらは下宝の謡の底力発揮、という感じで文句なく素晴らしかった。
(わたしの集中力が途切れてしまったので、あまり細かくは書けないけど。)
仕舞《遊行柳クセ》
これはすっごく珍しい!
やはり下宝はシテ方宝生流の謡に近い節で謡うのですね。
その謡で玄祥師が舞うという、チャレンジングな試み。
ただでさえ、《遊行柳》の仕舞って難しく、
あの柳の朽木感を出すのは相当大変だと思うけど、
それを他流の謡で舞うというのは玄祥師だから引き受けたのかも。
最後のほうで地謡がやや乱れましたが、
全体的には下宝ならではの息の強さのある謡で、
今回一度きりの上演というのはもったいない。
もっと聴いてみたい気がしました。
下掛宝生流 能の会~《月見座頭》につづく
仕舞《大蛇》片山九郎右衛門×宝生欣哉
則久英志
工藤和哉 殿田謙吉 御厨誠吾
連吟《鷺》王
野口能弘 ワキ 野口教弘、大臣 野口塚弘
吉田祐一 高井松男 森常好 梅村昌功 舘田善博
仕舞《遊行柳クセ》
梅若玄祥
宝生欣哉
則久英志 大日方寛 御厨誠吾
狂言《月見座頭》
山本東次郎 山本則俊
(休憩15分)
能《紅葉狩・鬼揃》シテ観世銕之丞
ツレ観世淳夫
浦田保親 味方玄 谷本健吾 川口晃平ワキ宝生欣哉
大日方寛 館田善博 森常太郎 殿田謙吉
アイ山本則秀 山本則重
杉市和 曽和正博 國川純 観世元伯
後見 片山九郎右衛門
清水寛二 馬野正基
ワキ後見 則久英志
地謡 梅若玄祥 浅井文義 西村高夫 柴田稔
山崎正道 小田切康陽 角当直隆 大江信行
お盆前にもかかわらず、ほぼ満席の盛会。
初めて行くのでよく分かりませんが、欣哉・新体制のお披露目みたいな会なのでしょうか。
もちろん追善の会でもあるけれど「流儀の未来に向けて」という意気込みを感じさせました。
仕舞《大蛇》
冒頭からいきなりお目当ての《大蛇》。
小次郎信光が八岐大蛇伝説を題材にして書いた能《大蛇》は宝生・喜多・金剛にしかなく、今回の仕舞《大蛇》は九郎右衛門さんご自身が型付をされたということでとても楽しみにしていました。
(復曲能《吉野琴》をテレビで観た時に、九郎右衛門さんの型付のセンスの良さを実感していたから。)
とはいえ観世流でも、かつて観世栄夫×宝生閑による《大蛇》(能or仕舞?)が上演されたことがあったらしく、こうして世代を経て片山九郎右衛門×宝生欣哉で拝見できるのも貴重な機会です。
喜多流(大島輝久さん)×福王流(福王和幸さん)の仕舞《大蛇》は、セルリアンタワーのプレ公演で拝見したので、比較を交えながらの感想;
(1)まず、大きな違いは、喜多流×福王流では、ワキが剣を持っていたこと。
一刀の剣で、最初は「十握の神剣」を、最後は大蛇の尾から出てきた「叢雲の剣」を表現し、鞘から抜く所作や大蛇退治に効果的に用いるなど、剣が仕舞の重要な要素となっていました。
それに対し、下宝では扇を剣に見立てて使用。
簡素を重んじる流儀なのかもしれません。
(2)「川風暗く水渦巻き」で、立ち上がるところは同じなのですが、
このあと福王流では剣を持って脇座に行き、下居したまましばらく待機。
ワキが舞台中央から退いたため、シテの大蛇の動きがクローズアップされます。
一方、下宝ではワキがシテの横で下居。
全体的に、福王流の仕舞《大蛇》では脇座から常座に移って「遥かの岸より下り給へば」でジャンプするなどダイナミックに動いて舞台全体を大きく使っていたのに対し、下宝では舞台の端から端までを使うわけではなく、やや抑制の利いた動き。
(そういう印象を受けたのは、福王さんが大柄なせいもあるかもしれません。)
それから、なるほど、凄いなーと思ったのは、
「頭を舟に落とし入れて」で、
シテが(大蛇の頭に見立てた)閉じた扇を逆さにしてズブズブと
突き下げていくところは喜多流と同様に感じましたが、
その前の「舟にうつろふ御影を呑まんと」で、
両手を頭の左右に上げて肘を直角に折り曲げる型をするところは
九郎右衛門さんのオリジナルかな?
おそらく両手を左右に上げることで、大蛇の八つ首を表わしたのでしょうか。
このあたりが独創的。さすがです。
ほかにも九郎右衛門さんオリジナルの型がいろいろあったのかもしれません。
地謡がところどころ乱れて、シテ・ワキが呼吸を合わせづらそう。
(支障なく舞っていらっしゃいましたが、キレが若干損なわれた気が。)
ワキ方は次第や待謡で声を合わせて謡うことはするけれど、
立役の動きに合わせて謡うことは通常はないので致し方ない。
今までシテ方の地謡を普通に聴いていたけれど、
立役の動きに合わせて謡うのは単に謡うのとは違う難しさがあるのだと、
あらためて感じたことでした。
連吟《鷺》
こちらは下宝の謡の底力発揮、という感じで文句なく素晴らしかった。
(わたしの集中力が途切れてしまったので、あまり細かくは書けないけど。)
仕舞《遊行柳クセ》
これはすっごく珍しい!
やはり下宝はシテ方宝生流の謡に近い節で謡うのですね。
その謡で玄祥師が舞うという、チャレンジングな試み。
ただでさえ、《遊行柳》の仕舞って難しく、
あの柳の朽木感を出すのは相当大変だと思うけど、
それを他流の謡で舞うというのは玄祥師だから引き受けたのかも。
最後のほうで地謡がやや乱れましたが、
全体的には下宝ならではの息の強さのある謡で、
今回一度きりの上演というのはもったいない。
もっと聴いてみたい気がしました。
下掛宝生流 能の会~《月見座頭》につづく
2016年8月9日火曜日
片山九郎右衛門の《野守・白頭》~観世会定期能八月
2016年8月7日(日) 梅若能楽学院会館
観世会定期能八月~《半蔀》からのつづき
能《野守・白頭》 シテ野守ノ翁/鬼神 片山九郎右衛門
ワキ山伏 宝生欣哉
アイ春日ノ里人 野村虎之介
杉信太郎 曽和正博 守家由訓 観世元伯
後見 関根祥雪→山階彌右衛門 武田尚浩 坂口貴信
地謡 野村四郎 林喜右衛門→休演 岡久広 井上裕久
高梨良一 小早川修 坂井音雅 武田文志 武田宗典
こういう演出が元々あったのか、それとも九郎右衛門さんの考案なのか、わたしのような観能番数の少ない素人にはわかりませんが、とにかく鮮烈で衝撃的なクライマックス。
十世片山九郎右衛門という人の大きさ、可能性に、またひとつ触れた気がした。
【前場】
草の生えた塚の作り物が大小前に出され、次第の囃子でワキの山伏が登場。
出立は篠懸、水衣、白大口。手には緋と緑(紺?)の房のついた苛高数珠。
この日の欣哉さんは心なしかいつもより力が入って、緊張している御様子。
(とりわけ今夏は九郎右衛門さんとの共演が多い。)
幕が上がり、ゆっくりと間を置いてからシテが姿を現すと、舞台の空気の色が替わり、気温がキュッと下がって、場が引き締まるのを肌で感じる。
それは、上下のブレがまったくない美しいハコビのせいでもあるが、水鳥が薄氷を歩くような独特の杖の突き方が、現実の人間でもなく、亡霊でも魔物でもない、そう、この世の何ものでもない「狭間の存在」めいた印象を観る者に与えるからでもある。
茶水衣肩下に無地熨斗目着流。面は朝倉尉だろうか。
どちらかというと小牛尉に近いような気品のある尉面に見えた。
「白頭」の小書つきなのでシテの一声のあと、サシ・下歌・上歌は省略され、いきなりワキが野守の鏡について尋ね、シテ・ワキの問答に入る。
初同の「立ちよれば、げにも野守の水鏡」で、シテは正中へ進み、ワキは脇座に座り、
「影を映していとどなほ」で、シテは正先にあるとされる水鏡をのぞき込み、
「老いの波は真清水の、あはれげに見しままの」で、老いの身を嘆くように数足下がり、
「昔のわれぞ恋しき」と、若き時代を懐かしむ。
《野守》のモティーフとなった「箸鷹の野守の鏡得てしがな、思ひ思はずよそながら見ん」は古今集・恋に収められた歌で、本曲全体に春日野ののどかな情景とともに華やかな恋の香りがほんのり微かに漂っている。
野守や春日野を詠んだ恋の歌は、万葉集や古今集にいくつかあるけれど、わたしは『伊勢物語』の「初冠」で昔男が美しい姉妹に贈った「春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れかぎり知られず」を思い出す。
そして九郎右衛門さん扮する野守ノ翁は、かつては恋多き「昔男」として名を馳せた在原業平の老いた化身であるかのような、品のあるやわらかな艶やかさを感じさせたのだった。
正中下居のときに杖を置き、袖をさばく所作がことさら丁寧で美しい。
こういうところは日常の心がけ、行住坐臥から違うのだろう。
この方の舞台を拝見するにふさわしい人間になるべく、心に刻みつけておきたい。
【後場】
中入で、塚の作り物なかで物着。
ノットの囃子に合わせて、ワキが緋房を前に出しつつ苛高数珠を押し揉み、塚に向かって祈祷する。
そこで太鼓が入って出端の囃子。
ずっと待ち望んでいた九郎右衛門さん×元伯さんの組み合わせ。
わたしがこのお二人のファンになったのも、(そして能の舞台を観て初めて感動したのも)、二年前の《邯鄲・夢中酔夢》を拝見したのがきっかけだった。
わたしにとっては素晴らしい舞台を生み出すミラクル・コンビなのだ。
太鼓の音色と掛け声によって「天地を動かし鬼神を感ぜしめ」るような神秘的な空気がたちこめ、塚のなかから地の底から湧き上がるように何ものかの声が響いてくる。
やがて囃子が急調に変わり、テンポよく引廻しが下ろされると、丸い鏡を楯のように持った鬼神が力強く正中へ飛び出す。
面はたぶん白癋見?
眉間などに朱が入れられていて、さながら歌舞伎の隈取のような迫力みなぎる表情だ。
それに反して出立は法被はつけずに、厚板に半切という意外なほどの軽装なのだが、この理由はのちに判明する。
「台嶺の雲を凌ぎ」での足拍子は天地を鳴動させる重厚感。
とはいえ、決して荒々しくはなく、
神秘の鏡を司る鬼神の品格を感じさせ、脳に心地よく響く不思議な振動を伴っている。
「白頭」の小書により舞働はカットされ(残念!)、
「東方」から「降三世明王もこの鏡に映り」につながり、
《翁》のように天地人の順で鏡を照らしていく。
「南西北方を映せば」で、鏡を幕方向に向け、
「天を映せば」で、水平にした鏡をお盆を持つように両手で持って上方に向け、
「さて大地をかがみ見れば」で、角にて目付柱の下方に鏡を向け、
そこから一転地獄の様子を再現し、
「罪の軽重罪人の呵責」で、軽妙な足拍子を連続で踏み、
「打つや鉄杖の数々」で、右手で打つ所作、
さらに「さてこそ鬼神に横道を正す、明鏡の宝なれ」で、脇座前に行き、ワキの顔を鏡で照らして、その鏡をワキに差し出す。
そして、
「すわや地獄に帰るぞとて」から囃子が一気に急調に転じ、
シテの動きも激しくなり、舞台は劇的に変化。
正中での飛び返りで、シテの身体が宙に浮いたかと思うと、そのまま精巧な軌道を描いて、塚のなかに吸い込まれるように作り物の中央にピタリと着地。
鮮やか! 見事! 神業!
囃子の背後で身構えていた後見二人がサッと飛び出し、引廻しで塚を覆って終焉。
見所一同が「あっ!」と声にならない叫びをあげ、息を呑んだ瞬間だった。
(あの汗だくになった限られた視界で、あの狭く低いポールの間を少しもずれることなく、飛び返りですり抜けるなんて! 後シテの出で塚から飛び出してきたのを巻き戻すような演出――カッコよすぎる!!)
その後、シテは塚から出ることなく、作り物とともに幕のなかに運ばれていったのだった。
観世会定期能八月~《半蔀》からのつづき
能《野守・白頭》 シテ野守ノ翁/鬼神 片山九郎右衛門
ワキ山伏 宝生欣哉
アイ春日ノ里人 野村虎之介
杉信太郎 曽和正博 守家由訓 観世元伯
後見 関根祥雪→山階彌右衛門 武田尚浩 坂口貴信
地謡 野村四郎 林喜右衛門→休演 岡久広 井上裕久
高梨良一 小早川修 坂井音雅 武田文志 武田宗典
こういう演出が元々あったのか、それとも九郎右衛門さんの考案なのか、わたしのような観能番数の少ない素人にはわかりませんが、とにかく鮮烈で衝撃的なクライマックス。
十世片山九郎右衛門という人の大きさ、可能性に、またひとつ触れた気がした。
【前場】
草の生えた塚の作り物が大小前に出され、次第の囃子でワキの山伏が登場。
出立は篠懸、水衣、白大口。手には緋と緑(紺?)の房のついた苛高数珠。
この日の欣哉さんは心なしかいつもより力が入って、緊張している御様子。
(とりわけ今夏は九郎右衛門さんとの共演が多い。)
幕が上がり、ゆっくりと間を置いてからシテが姿を現すと、舞台の空気の色が替わり、気温がキュッと下がって、場が引き締まるのを肌で感じる。
それは、上下のブレがまったくない美しいハコビのせいでもあるが、水鳥が薄氷を歩くような独特の杖の突き方が、現実の人間でもなく、亡霊でも魔物でもない、そう、この世の何ものでもない「狭間の存在」めいた印象を観る者に与えるからでもある。
茶水衣肩下に無地熨斗目着流。面は朝倉尉だろうか。
どちらかというと小牛尉に近いような気品のある尉面に見えた。
「白頭」の小書つきなのでシテの一声のあと、サシ・下歌・上歌は省略され、いきなりワキが野守の鏡について尋ね、シテ・ワキの問答に入る。
初同の「立ちよれば、げにも野守の水鏡」で、シテは正中へ進み、ワキは脇座に座り、
「影を映していとどなほ」で、シテは正先にあるとされる水鏡をのぞき込み、
「老いの波は真清水の、あはれげに見しままの」で、老いの身を嘆くように数足下がり、
「昔のわれぞ恋しき」と、若き時代を懐かしむ。
《野守》のモティーフとなった「箸鷹の野守の鏡得てしがな、思ひ思はずよそながら見ん」は古今集・恋に収められた歌で、本曲全体に春日野ののどかな情景とともに華やかな恋の香りがほんのり微かに漂っている。
野守や春日野を詠んだ恋の歌は、万葉集や古今集にいくつかあるけれど、わたしは『伊勢物語』の「初冠」で昔男が美しい姉妹に贈った「春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れかぎり知られず」を思い出す。
そして九郎右衛門さん扮する野守ノ翁は、かつては恋多き「昔男」として名を馳せた在原業平の老いた化身であるかのような、品のあるやわらかな艶やかさを感じさせたのだった。
正中下居のときに杖を置き、袖をさばく所作がことさら丁寧で美しい。
こういうところは日常の心がけ、行住坐臥から違うのだろう。
この方の舞台を拝見するにふさわしい人間になるべく、心に刻みつけておきたい。
【後場】
中入で、塚の作り物なかで物着。
ノットの囃子に合わせて、ワキが緋房を前に出しつつ苛高数珠を押し揉み、塚に向かって祈祷する。
そこで太鼓が入って出端の囃子。
ずっと待ち望んでいた九郎右衛門さん×元伯さんの組み合わせ。
わたしがこのお二人のファンになったのも、(そして能の舞台を観て初めて感動したのも)、二年前の《邯鄲・夢中酔夢》を拝見したのがきっかけだった。
わたしにとっては素晴らしい舞台を生み出すミラクル・コンビなのだ。
太鼓の音色と掛け声によって「天地を動かし鬼神を感ぜしめ」るような神秘的な空気がたちこめ、塚のなかから地の底から湧き上がるように何ものかの声が響いてくる。
やがて囃子が急調に変わり、テンポよく引廻しが下ろされると、丸い鏡を楯のように持った鬼神が力強く正中へ飛び出す。
面はたぶん白癋見?
眉間などに朱が入れられていて、さながら歌舞伎の隈取のような迫力みなぎる表情だ。
それに反して出立は法被はつけずに、厚板に半切という意外なほどの軽装なのだが、この理由はのちに判明する。
「台嶺の雲を凌ぎ」での足拍子は天地を鳴動させる重厚感。
とはいえ、決して荒々しくはなく、
神秘の鏡を司る鬼神の品格を感じさせ、脳に心地よく響く不思議な振動を伴っている。
「白頭」の小書により舞働はカットされ(残念!)、
「東方」から「降三世明王もこの鏡に映り」につながり、
《翁》のように天地人の順で鏡を照らしていく。
「南西北方を映せば」で、鏡を幕方向に向け、
「天を映せば」で、水平にした鏡をお盆を持つように両手で持って上方に向け、
「さて大地をかがみ見れば」で、角にて目付柱の下方に鏡を向け、
そこから一転地獄の様子を再現し、
「罪の軽重罪人の呵責」で、軽妙な足拍子を連続で踏み、
「打つや鉄杖の数々」で、右手で打つ所作、
さらに「さてこそ鬼神に横道を正す、明鏡の宝なれ」で、脇座前に行き、ワキの顔を鏡で照らして、その鏡をワキに差し出す。
そして、
「すわや地獄に帰るぞとて」から囃子が一気に急調に転じ、
シテの動きも激しくなり、舞台は劇的に変化。
正中での飛び返りで、シテの身体が宙に浮いたかと思うと、そのまま精巧な軌道を描いて、塚のなかに吸い込まれるように作り物の中央にピタリと着地。
鮮やか! 見事! 神業!
囃子の背後で身構えていた後見二人がサッと飛び出し、引廻しで塚を覆って終焉。
見所一同が「あっ!」と声にならない叫びをあげ、息を呑んだ瞬間だった。
(あの汗だくになった限られた視界で、あの狭く低いポールの間を少しもずれることなく、飛び返りですり抜けるなんて! 後シテの出で塚から飛び出してきたのを巻き戻すような演出――カッコよすぎる!!)
その後、シテは塚から出ることなく、作り物とともに幕のなかに運ばれていったのだった。
2016年8月8日月曜日
観世会定期能八月~ 《半蔀》
2016年8月7日(日) 13時~17時15分 梅若能楽学院会館
観世会定期能八月《橋弁慶》《酢薑》からのつづき
能《半蔀》 シテ里女/夕顔の霊 観世清和
ワキ僧 殿田謙吉 アイ所ノ者 能村晶人
一噌隆之 亀井俊一 佃良勝
後見 武田宗和 坂口貴信
地謡 坂井音重→休演 観世恭秀 中島志津夫 関根知孝 浅見重好
北浪貴裕 野村昌司 坂井音晴 井上裕之真
(休憩15分)
能《野守・白頭》 シテ野守ノ翁/鬼神 片山九郎右衛門
ワキ山伏 宝生欣哉 アイ春日ノ里人 野村虎之介
杉信太郎 曽和正博 守家由訓 観世元伯
後見 関根祥雪→山階彌右衛門 武田尚浩 坂口貴信
地謡 野村四郎 林喜右衛門→休演 岡久広 井上裕久
高梨良一 小早川修 坂井音雅 武田文志 武田宗典
《半蔀》は類曲《夕顔》と比べると、「キレイなばかりでどうも奥行きに欠ける曲」と思っていたのですが、この日宗家の《半蔀》は優美ななかにもしっとりとした情趣にあふれ、、男性目線の理想の女性とはこういう人なのだろうと思わせる舞台でした。
そして何よりも、後シテの長絹が素晴らしい!
世の中にこれほど美しい織物が存在したのかと思うくらい素敵だったのです。
【前場】
舞台は、紫野・雲林院の僧による立花供養の場面からはじまります。
ワキの僧は、角帽子、茶水衣、無地熨斗目着流。
白い房を二つ付けた数珠を手に、正先に立花が置いてある心で「草木国土悉皆成仏」と唱えます。
これが、本物のお坊さんにお経を唱えてもらっているようで、聴いている側も供養され弔われているような、癒し効果の高い声とトーン。
お盆の時期というのもあるのでしょうか、大事な人の法事に参列している時のように胸にじんわり沁み込む殿田さんの誦経。
なるほど、
こうやってワキは舞台の空気を塗り替え、曲にふさわしい状況を設定していくのですね。
この立花供養に惹かれて、夕顔の亡霊が現れるのもうなずけます。
シテの登場はアシライ出シ。
この囃子とシテの登場の仕方が、僧の誦経に誘われて花の蔭からフラフラッと漂い出たような風情を醸し、夕暮れ時のほんの短い間にしか咲かない夕顔の儚さとリンクします。
前シテは輝くようなプラチナカラーの唐織、白衿二枚重・白地鬘帯という、白い夕顔をイメージした白尽し。
面は――、
これがよく分からなかったのです。
増にも見え、若い深井のようでもあり、若女といえなくもない。
(要するに、わたしの知識不足。)
年齢不詳というか、若く見えたり、臈たけて見えたり、後シテの面と同じようでもあり、違うようでもあり……。
たぶん、以前にも観たことがあるかもしれない。
でも装束や舞い手によって随分表情が違ってくるのですね。
それが能面の面白いところ。
今はこの世にない女は、「五条のあたり」という言葉を残して立花の蔭に消えます。
(シテは送り笛で中入り。)
【後場】
坂口さんと武田友志さんによって半蔀の作り物が一の松あたりに置かれます。
ワキの謡のあと、一声の囃子にのって後シテが登場。
冒頭でも書いたけれど、この時の装束が息を呑むほどの美しさ。
グレーがかったごく薄いアイスブルーの精緻な長絹。
蜻蛉の翅のような透明感がいかにも脆く儚げで、触れるとフッと消えてしまいそう。
裾にいくほど濃くなるようにグラデーションがついていると思ったのですが、白い内着の部分が明るい水色に、袴や内着の足りない袖の裾の部分が濃いブルーになっているのでそう見えたようです。
この繊細な(おそらく紗の)長絹には、水玉のような朝露と弓状の露芝が金泥と金糸であしらわれ、これが見方によっては夜空に瞬く星辰と流星のようにも見え、とてもロマンティックな雰囲気。
サーモンピンクのような明るい緋大口とそれにマッチする朱色の露とのコーディネートも秀逸で、全体的に甘美な印象です。
クセは居グセではなく、舞グセで、この艶麗な姿を惜しげもなく披露してくれます。
序の舞の途中で橋掛りに行き、半蔀の蔭で右袖を巻きあげ、懐旧に浸るように俯きがちに遠くを見込む。
源氏との思い出、そして頭中将との愛の日々。
彼女が待っていたのは、ほんとうに愛したのは、どちらの男性だったのか――?
(《半蔀》の詞章には、夕顔が頭中将に送った歌「山がつの垣ほ荒るともをりをりに、あはれはかけよ撫子の(露)」も助詞を若干変えつつ織り込まれていて、後シテの長絹の露の文様もこの歌に掛けているのかもしれません。)
観客の想像力をかき立てるシテの余情あふれる姿。
やがて夜明けが近づき、僧の弔いによって花の精のごとく清らかに透明感を増したシテは、半蔀のなかに朝露のように消えていったのでした。
片山九郎右衛門の《野守・白頭》~観世会定期能八月につづく
観世会定期能八月《橋弁慶》《酢薑》からのつづき
能《半蔀》 シテ里女/夕顔の霊 観世清和
ワキ僧 殿田謙吉 アイ所ノ者 能村晶人
一噌隆之 亀井俊一 佃良勝
後見 武田宗和 坂口貴信
地謡 坂井音重→休演 観世恭秀 中島志津夫 関根知孝 浅見重好
北浪貴裕 野村昌司 坂井音晴 井上裕之真
(休憩15分)
能《野守・白頭》 シテ野守ノ翁/鬼神 片山九郎右衛門
ワキ山伏 宝生欣哉 アイ春日ノ里人 野村虎之介
杉信太郎 曽和正博 守家由訓 観世元伯
後見 関根祥雪→山階彌右衛門 武田尚浩 坂口貴信
地謡 野村四郎 林喜右衛門→休演 岡久広 井上裕久
高梨良一 小早川修 坂井音雅 武田文志 武田宗典
《半蔀》は類曲《夕顔》と比べると、「キレイなばかりでどうも奥行きに欠ける曲」と思っていたのですが、この日宗家の《半蔀》は優美ななかにもしっとりとした情趣にあふれ、、男性目線の理想の女性とはこういう人なのだろうと思わせる舞台でした。
そして何よりも、後シテの長絹が素晴らしい!
世の中にこれほど美しい織物が存在したのかと思うくらい素敵だったのです。
【前場】
舞台は、紫野・雲林院の僧による立花供養の場面からはじまります。
ワキの僧は、角帽子、茶水衣、無地熨斗目着流。
白い房を二つ付けた数珠を手に、正先に立花が置いてある心で「草木国土悉皆成仏」と唱えます。
これが、本物のお坊さんにお経を唱えてもらっているようで、聴いている側も供養され弔われているような、癒し効果の高い声とトーン。
お盆の時期というのもあるのでしょうか、大事な人の法事に参列している時のように胸にじんわり沁み込む殿田さんの誦経。
なるほど、
こうやってワキは舞台の空気を塗り替え、曲にふさわしい状況を設定していくのですね。
この立花供養に惹かれて、夕顔の亡霊が現れるのもうなずけます。
シテの登場はアシライ出シ。
この囃子とシテの登場の仕方が、僧の誦経に誘われて花の蔭からフラフラッと漂い出たような風情を醸し、夕暮れ時のほんの短い間にしか咲かない夕顔の儚さとリンクします。
前シテは輝くようなプラチナカラーの唐織、白衿二枚重・白地鬘帯という、白い夕顔をイメージした白尽し。
面は――、
これがよく分からなかったのです。
増にも見え、若い深井のようでもあり、若女といえなくもない。
(要するに、わたしの知識不足。)
年齢不詳というか、若く見えたり、臈たけて見えたり、後シテの面と同じようでもあり、違うようでもあり……。
たぶん、以前にも観たことがあるかもしれない。
でも装束や舞い手によって随分表情が違ってくるのですね。
それが能面の面白いところ。
今はこの世にない女は、「五条のあたり」という言葉を残して立花の蔭に消えます。
(シテは送り笛で中入り。)
【後場】
坂口さんと武田友志さんによって半蔀の作り物が一の松あたりに置かれます。
ワキの謡のあと、一声の囃子にのって後シテが登場。
冒頭でも書いたけれど、この時の装束が息を呑むほどの美しさ。
グレーがかったごく薄いアイスブルーの精緻な長絹。
蜻蛉の翅のような透明感がいかにも脆く儚げで、触れるとフッと消えてしまいそう。
裾にいくほど濃くなるようにグラデーションがついていると思ったのですが、白い内着の部分が明るい水色に、袴や内着の足りない袖の裾の部分が濃いブルーになっているのでそう見えたようです。
この繊細な(おそらく紗の)長絹には、水玉のような朝露と弓状の露芝が金泥と金糸であしらわれ、これが見方によっては夜空に瞬く星辰と流星のようにも見え、とてもロマンティックな雰囲気。
サーモンピンクのような明るい緋大口とそれにマッチする朱色の露とのコーディネートも秀逸で、全体的に甘美な印象です。
クセは居グセではなく、舞グセで、この艶麗な姿を惜しげもなく披露してくれます。
序の舞の途中で橋掛りに行き、半蔀の蔭で右袖を巻きあげ、懐旧に浸るように俯きがちに遠くを見込む。
源氏との思い出、そして頭中将との愛の日々。
彼女が待っていたのは、ほんとうに愛したのは、どちらの男性だったのか――?
(《半蔀》の詞章には、夕顔が頭中将に送った歌「山がつの垣ほ荒るともをりをりに、あはれはかけよ撫子の(露)」も助詞を若干変えつつ織り込まれていて、後シテの長絹の露の文様もこの歌に掛けているのかもしれません。)
観客の想像力をかき立てるシテの余情あふれる姿。
やがて夜明けが近づき、僧の弔いによって花の精のごとく清らかに透明感を増したシテは、半蔀のなかに朝露のように消えていったのでした。
片山九郎右衛門の《野守・白頭》~観世会定期能八月につづく
2016年8月7日日曜日
観世会定期能八月~ 《橋弁慶》《酢薑》
2016年8月7日(日) 13時~17時15分 33℃ 梅若能楽学院会館
能《橋弁慶》 シテ武蔵坊弁慶 寺井栄
子方・牛若丸 藤波重光 トモ従者 清水義也
アイ 都ノ者 河野佑紀
内潟慶三 古賀裕己 原岡一之
後見 武田志房 観世芳伸
地謡 角寛次朗 高橋弘 山階彌右衛門 津田和忠
上田公威 岡本房雄 坂井音隆 新江和人
狂言《酢薑》 野村萬 野村万蔵
(休憩20分)
能《半蔀》 シテ里女/夕顔の霊 観世清和
ワキ僧 殿田謙吉 アイ所ノ者 能村晶人
一噌隆之 亀井俊一 佃良勝
後見 武田宗和 坂口貴信
地謡 坂井音重→休演 観世恭秀 中島志津夫 関根知孝 浅見重好
北浪貴裕 野村昌司 坂井音晴 井上裕之真
(休憩15分)
能《野守・白頭》 シテ野守ノ翁/鬼神 片山九郎右衛門
ワキ山伏 宝生欣哉 アイ春日ノ里人 野村虎之介
杉信太郎 曽和正博 守家由訓 観世元伯
後見 関根祥雪→山階彌右衛門 武田尚浩 坂口貴信
地謡 野村四郎 林喜右衛門→休演 岡久広 井上裕久
高梨良一 小早川修 坂井音雅 武田文志 武田宗典
暑っいけど行ってきました! 観世会八月公演。
宗家の《半蔀》はもちろん、
九郎右衛門さんの《野守・白頭》が、もう、凄かった!
特に、エンディングが息が止まるかと思うくらい、ビックリ!?
帰りの電車のなかでもポワ~ンとひとり幸せな余韻に浸っていて、
興奮冷めやらぬうちに書き残したいけど、まずは《橋弁慶》から。
《橋弁慶》
予想通りというか、
もともとわたしが苦手な曲だからかもしれないけれど(「人気曲」って本当?)。
シテが線の細い方だから、直面の弁慶役はハードそう。
それでも、立ち姿や型の姿勢はさすがにきれいでした。
《橋弁慶》という曲自体がある意味、隠れた難曲なのかも。
子方さんは坂口貴信さんの《望月》で花若をされていた方。
真夏の三番立の初番はこれくらいサクッと終わる曲がいいのかもしれません。
狂言《酢薑》
万蔵さんの肩衣は、青地に松の染め抜き。
萬師の肩衣は、緑地に大きな満月と薄。
秋を感じさせる模様がまことに涼やか。
ハジカミにかけた「から(辛)」と、酢にからませた「す」のつく言葉や秀句を言い合い、最後は意気投合して仲良く一緒に商売をすることになるのですが、
ハジカミ(生姜or山椒)も、酢も、夏に食べるとスッキリする食べ物。
カラカラという笑いもスッキリ。
観世会定期能八月 《半蔀》につづく
能《橋弁慶》 シテ武蔵坊弁慶 寺井栄
子方・牛若丸 藤波重光 トモ従者 清水義也
アイ 都ノ者 河野佑紀
内潟慶三 古賀裕己 原岡一之
後見 武田志房 観世芳伸
地謡 角寛次朗 高橋弘 山階彌右衛門 津田和忠
上田公威 岡本房雄 坂井音隆 新江和人
狂言《酢薑》 野村萬 野村万蔵
(休憩20分)
能《半蔀》 シテ里女/夕顔の霊 観世清和
ワキ僧 殿田謙吉 アイ所ノ者 能村晶人
一噌隆之 亀井俊一 佃良勝
後見 武田宗和 坂口貴信
地謡 坂井音重→休演 観世恭秀 中島志津夫 関根知孝 浅見重好
北浪貴裕 野村昌司 坂井音晴 井上裕之真
(休憩15分)
能《野守・白頭》 シテ野守ノ翁/鬼神 片山九郎右衛門
ワキ山伏 宝生欣哉 アイ春日ノ里人 野村虎之介
杉信太郎 曽和正博 守家由訓 観世元伯
後見 関根祥雪→山階彌右衛門 武田尚浩 坂口貴信
地謡 野村四郎 林喜右衛門→休演 岡久広 井上裕久
高梨良一 小早川修 坂井音雅 武田文志 武田宗典
暑っいけど行ってきました! 観世会八月公演。
宗家の《半蔀》はもちろん、
九郎右衛門さんの《野守・白頭》が、もう、凄かった!
特に、エンディングが息が止まるかと思うくらい、ビックリ!?
帰りの電車のなかでもポワ~ンとひとり幸せな余韻に浸っていて、
興奮冷めやらぬうちに書き残したいけど、まずは《橋弁慶》から。
《橋弁慶》
予想通りというか、
もともとわたしが苦手な曲だからかもしれないけれど(「人気曲」って本当?)。
シテが線の細い方だから、直面の弁慶役はハードそう。
それでも、立ち姿や型の姿勢はさすがにきれいでした。
《橋弁慶》という曲自体がある意味、隠れた難曲なのかも。
子方さんは坂口貴信さんの《望月》で花若をされていた方。
真夏の三番立の初番はこれくらいサクッと終わる曲がいいのかもしれません。
狂言《酢薑》
万蔵さんの肩衣は、青地に松の染め抜き。
萬師の肩衣は、緑地に大きな満月と薄。
秋を感じさせる模様がまことに涼やか。
ハジカミにかけた「から(辛)」と、酢にからませた「す」のつく言葉や秀句を言い合い、最後は意気投合して仲良く一緒に商売をすることになるのですが、
ハジカミ(生姜or山椒)も、酢も、夏に食べるとスッキリする食べ物。
カラカラという笑いもスッキリ。
観世会定期能八月 《半蔀》につづく
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