2017年9月13日(水)18時~20時35分 国立能楽堂
舞囃子《絵馬・女体》 小舞《景清》一調《山姥》からのつづき
能《楊貴妃・干之掛》 梅若万三郎
ワキ 森常好 アイ 山本則俊
松田弘之 大倉源次郎 亀井忠雄
後見 加藤眞悟 山中迓晶
地謡 梅若紀彰 観世喜正 鈴木啓吾 伊藤嘉章
角当直隆 小島英明 坂真太郎 川口晃平
楊貴妃が最高に似合うシテ。しかも、この囃子陣。
この日は舞囃子から感動の連続で、とどめを刺すように、この舞台。
もう胸がいっぱいで、いまでも余韻に浸っています。
〈ワキの出→蓬莱宮に到着→シテの出〉
「げにや六宮の粉黛の顔色のなきも理や」で、太真殿の作り物の引廻しが外され、まばゆく輝く天冠と豪華な壺折大口に身を包んだ楊貴妃が姿を現す。
生身の美女というよりも、仙女に還った楊貴妃が、華麗な外見とはうらはらに、深い憂いに沈んでいる。
「また今更の恋慕の涙」で二度シオル、あの白く美しい手の、情感豊かなシオリ。
透き通った水晶玉の涙が、きらり、きらりと零れ落ちるよう。
こんなに悲しそうな万三郎のシテを見たのは初めてだった。
定家の時よりも、野宮、朝長の時よりも。
〈イロエ→序之舞〉
悲しそうに見えた原因は、シテの佇まいだけにあるのではなく、
松田さんの笛、そして、スーパーコンビの大小鼓が、サブリミナル効果のように潜在意識に作用して、観客の心に、強くダイレクトに訴えかける。
梅若紀彰師率いる地謡は、シテの心の襞をメロディアスに優しくそっとなぞるように繊細で、高音の箇所が美しい。かなりゆっくりめなのはシテの要望だろうか、それとも曲の解釈・位によるものだろうか。
会者定離ぞと聞くときは、逢うこそ別れなりけれ
ここでシテは、方士を通して玄宗皇帝に語りかけるようにワキをじいっと見つめる。
「羽衣の曲」と、地謡が上音で謡い、それに呼応するように、笛が序之舞の序を高音で吹き出す。
楊貴妃の、言葉にならない悲哀、悲痛な叫び、むせび泣きのようなガラス質の音色を、松田さんの笛が奏でてゆく。
「干之掛」の小書のため、序を終えて地に入る前に、笛が干(甲)の調子の譜を吹く。
これにより、舞の哀切で女性的な、高貴な雰囲気が高められるように感じた。
この日はほかにも初段オロシなどに特殊な演奏が入ったのかもしれない(と、素人の耳に聞こえただけなので、違うかもしれません。いずれにしろ能の囃子って、ホントによくできている)。
最高の囃子陣が最高の技と特殊演奏で、《楊貴妃》という位の高い曲の品格をあますところなく表現する。
とりわけ詩趣に富む松田さんの笛が、楊貴妃の心のうちを代弁するかのよう。
風に乗って、貴妃のせつない声が聞こえてくるようだった。
そのなかで最高の舞手が、気品あふれる究極の序之舞を舞う━━。
その時間はもう、この世の時間ではないような、幽明の境で見た夢のような、幻のような、なにか途方もなく美しい世界が目の前に展開して、美しいなかにも、楊貴妃の悲しみと孤独が伝わってきて、胸が戦慄くようにふるえるのを止められなかった。
楊貴妃の悲しみと孤独が憑依して、自分も悲しいのに、このうえなく幸せだった。
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2017年9月16日土曜日
2017年9月15日金曜日
小舞《景清》一調《山姥》東京能楽囃子科協議会定式能九月夜能
2017年9月13日(水)18時~20時35分 国立能楽堂
舞囃子《絵馬・女体》からのつづき
狂言小舞《景清》 山本東次郎
地謡 山本則俊 山本則重 山本則秀
一調《山姥》 宝生和英×三島元太郎
能《楊貴妃・干之掛》 梅若万三郎
ワキ 森常好 アイ 山本則俊
松田弘之 大倉源次郎 亀井忠雄
後見 加藤眞悟 山中迓晶
地謡 梅若紀彰 観世喜正 鈴木啓吾 伊藤嘉章
角当直隆 小島英明 坂真太郎 川口晃平
小舞や一調という、簡潔な表現形式のなかに、時空を超えた広がりと奥行をもたせる日本の舞台芸術って、やっぱり凄い!
なによりも、その醍醐味を観客に存分に堪能させた演者の方々の力量に感服。
狂言小舞《景清》 山本東次郎
「能の舞は謡から遅れ、狂言の舞はその字に当てる」という大蔵流の口伝がある。
稽古の時も、謡が表現するものに、舞の型をピタリピタリと合わせていくという。
そうしたアテブリ的な狂言小舞に東次郎さんの名人芸が加わると、過剰や誇張に傾きがちな写実表現を様式美の枠内にキチッと嵌め込みつつ、型の存在を忘れさせるほど、自然で実体感のある表現世界が生み出される。
錣引きの場面では、勇猛果敢な景清の腕力、三保谷四郎の首の骨の強さ、戦場のざわめき、兵たちの息遣いが、リアルに伝わってくる!
引き合う錣の向こうに相手の存在が感じられる、たしかな張力と弾力。
そしてそれを俯瞰的に回顧する盲目の景清の幻影さえも浮き上がってくるよう。
それにしても、あれだけ縦横無尽に舞台の隅から隅まで舞い進みながらも、息がまったく乱れない強靭な足腰・心肺はいつもながら驚異的だ。
大倉源次郎師による解説にあった、「皆様にとっては出来ることが出来なくなってから出来たことは何でしょうか?」という問いかけが胸に響く。
一調《山姥》 宝生和英×三島元太郎
これほど一調に引き込まれたのは、はじめてかもしれない。
当代銕之丞さんがインタビューで「(息を)引くという技術に特化している流儀の謡が宝生流なんです」とおっしゃっていたが、それはこういうことなのだろうか。
観世のような朗々とした強い息遣いではなく、いったん内に深めてから放出されるような謡。
とはいえ籠った感じではなく、聞き取りやすく、独特の旨味がある。
「都に帰りて世語にせさせ給へと」で謡いだした謡に、太鼓が、最初は寄り添うように音色を響かせ、しだいに盛り上げながら、クライマックスの「山また山に、山めぐり、山また山に、山めぐりして、行方も知らずなりにけり」で、謡と太鼓が溶け合い、互いの呼吸を図って引き立て合いながら、最高潮に高めていく。
和英宗家の非凡な芸力と、三島元太郎師の包容力のある太鼓。
最後は、山々の梢間を吹き抜けてゆく一陣の風を感じさせた。
能《楊貴妃・干之掛》につづく
舞囃子《絵馬・女体》からのつづき
狂言小舞《景清》 山本東次郎
地謡 山本則俊 山本則重 山本則秀
一調《山姥》 宝生和英×三島元太郎
能《楊貴妃・干之掛》 梅若万三郎
ワキ 森常好 アイ 山本則俊
松田弘之 大倉源次郎 亀井忠雄
後見 加藤眞悟 山中迓晶
地謡 梅若紀彰 観世喜正 鈴木啓吾 伊藤嘉章
角当直隆 小島英明 坂真太郎 川口晃平
小舞や一調という、簡潔な表現形式のなかに、時空を超えた広がりと奥行をもたせる日本の舞台芸術って、やっぱり凄い!
なによりも、その醍醐味を観客に存分に堪能させた演者の方々の力量に感服。
狂言小舞《景清》 山本東次郎
「能の舞は謡から遅れ、狂言の舞はその字に当てる」という大蔵流の口伝がある。
稽古の時も、謡が表現するものに、舞の型をピタリピタリと合わせていくという。
そうしたアテブリ的な狂言小舞に東次郎さんの名人芸が加わると、過剰や誇張に傾きがちな写実表現を様式美の枠内にキチッと嵌め込みつつ、型の存在を忘れさせるほど、自然で実体感のある表現世界が生み出される。
錣引きの場面では、勇猛果敢な景清の腕力、三保谷四郎の首の骨の強さ、戦場のざわめき、兵たちの息遣いが、リアルに伝わってくる!
引き合う錣の向こうに相手の存在が感じられる、たしかな張力と弾力。
そしてそれを俯瞰的に回顧する盲目の景清の幻影さえも浮き上がってくるよう。
それにしても、あれだけ縦横無尽に舞台の隅から隅まで舞い進みながらも、息がまったく乱れない強靭な足腰・心肺はいつもながら驚異的だ。
大倉源次郎師による解説にあった、「皆様にとっては出来ることが出来なくなってから出来たことは何でしょうか?」という問いかけが胸に響く。
一調《山姥》 宝生和英×三島元太郎
これほど一調に引き込まれたのは、はじめてかもしれない。
当代銕之丞さんがインタビューで「(息を)引くという技術に特化している流儀の謡が宝生流なんです」とおっしゃっていたが、それはこういうことなのだろうか。
観世のような朗々とした強い息遣いではなく、いったん内に深めてから放出されるような謡。
とはいえ籠った感じではなく、聞き取りやすく、独特の旨味がある。
「都に帰りて世語にせさせ給へと」で謡いだした謡に、太鼓が、最初は寄り添うように音色を響かせ、しだいに盛り上げながら、クライマックスの「山また山に、山めぐり、山また山に、山めぐりして、行方も知らずなりにけり」で、謡と太鼓が溶け合い、互いの呼吸を図って引き立て合いながら、最高潮に高めていく。
和英宗家の非凡な芸力と、三島元太郎師の包容力のある太鼓。
最後は、山々の梢間を吹き抜けてゆく一陣の風を感じさせた。
能《楊貴妃・干之掛》につづく
2017年9月14日木曜日
東京能楽囃子科協議会定式能~舞囃子《絵馬・女体》九月夜能
2017年9月13日(水)18時~20時35分 最高気温30℃ 国立能楽堂
舞囃子《絵馬・女体》 友枝昭世
ツレ 香川靖嗣 塩津哲生
一噌幸弘 曽和正博 國川純 観世元伯→小寺真佐人
地謡 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
内田成信 金子敬一郎 大島輝久
狂言小舞《景清》 山本東次郎
地謡 山本則俊 山本則重 山本則秀
一調《山姥》 宝生和英×三島元太郎
能《楊貴妃・干之掛》 梅若万三郎
ワキ 森常好 アイ 山本則俊
松田弘之 大倉源次郎 亀井忠雄
後見 加藤眞悟 山中迓晶
地謡 梅若紀彰 観世喜正 鈴木啓吾 伊藤嘉章
角当直隆 小島英明 坂真太郎 川口晃平
囃子科協議会の九月夜能は去年も良かったけれど、昨年以上に企画力がパワーアップして、観客の潜在ニーズを汲みとった夢の選曲・配役。
アンケートで要望が多かったのか、全席指定席制になっているのも有難い。
とにかく、舞囃子・小舞・一調・能、どれをとっても超一流。
息をのむ舞台が次々と展開し、観能砂漠だったわたしの心に、沁み込む、しみこむ……。
【舞囃子《絵馬・女体》】
喜多流を代表する三名手による、ありえないほどの贅沢な布陣。
舞囃子といっても、ワキと作り物が出ない半能+袴能のように充実していて、上演時間も30分。
「われは日本秋津島の大頭領」で、シテ・ツレ三人が立ち上がり、シテは大小前に立ち、ツレの天鈿女命(香川靖嗣)と手力雄命(塩津哲生)は、それぞれ笛座前と常座で下居して待機。
〈シテ・天照大神の神舞〉
「女体」の小書なので、シテは中之舞ではなく、神舞を急の位で舞う。
神舞といえば、男神が颯爽と舞うイメージが強い。
女体のシテが急の位で神舞を舞うものが、この曲のほかにもあるのだろうか。
十四世六平太は、「絵馬女体の神舞は、滞りなくスーッと舞っちまはなくちゃいけない」と言っているが、「女体」だからどうすべきなのかは芸談では述べていない。
友枝昭世の絵馬女体の神舞には、王者たる女神の気品と気高さが香り高く漂い、曲線の美しい川を流れ下るように、緩急のつけ方やスピード感にも優美な空気が一貫して流れていた。
いつまでも観ていたかった……。
が、舞囃子なので(?)神舞は早くも三段で終わり、シテは「天の岩戸に閉ぢ籠りて……御影を隠し」で、パントマイムのように観音開きの扉を開き、目に見えない作り物(岩戸)の中へと姿を消す。
〈ツレ・天鈿女命の神楽〉
「荒ぶる神々これを歎きて」から、囃子が急調になり、「取るや榊葉の」で、ツレは扇から幣に持ち替え、「神楽の韓神催馬楽」で、シテに向かって幣を振り、幣をもって神楽を舞う。
(神楽を幣で舞うところが舞囃子では異例。)
神を岩戸からおびき出すというよりも、女神の怒りを鎮めるような丁寧な神楽。
じつというと、神楽のあいだの半分は、大小前で床几にかかるシテの姿に無意識に吸い寄せられていた。
その胸を打つような彫刻美━━。
天岩戸に籠ったシテの姿は本来、扉の奥に閉じ込められ、隠されているべきもの。
しかし作り物がないために、美が必然的に露出され、意図せずおのずと輝いて、観る者をどうしようもなく、抗いようもないほど惹きつける。
沈黙と静止が、何よりも雄弁に太陽神アマテラスの存在を示し、舞台をおごそかに照らしている。
それはたとえば、広隆寺の弥勒菩薩を目の前にした時の感覚にも似ていて、仏像は黙して語らずとも不動のまま、心に強く、深く、訴えかけてくる、そんな感覚だった。
〈ツレ・手力雄命の急之舞〉
神楽の最後、天鈿女命が幣を振りながら、常座で待機する手力雄命に近づいていく。
囃子が神楽から急之舞に切り替わるタイミングで、手力雄命は下居姿から左足を大きく踏み出し、威勢よく立ち上がって、急之舞を舞い出す。
塩津哲生師が男性的でかっこいい!
装束をつけない紋付袴姿のほうが、膝の折り方や両脚の広げ方がわかりやすい。
手力雄命の名にふさわしく、力みなぎる雄渾な舞。
昨年、高千穂の夜神楽で鑑賞した「戸取」(天岩戸を取りはらう舞)の手力雄命を思わせる。たぶん、こうした民俗芸能の神楽由来の能なのかもしれない。
ツレの二人がそれぞれ陰と陽(女と男)の要素をあらわし、その中央で君臨するアマテラスは、あるときは男体、あるときは女体といった、小書の有無で、性が入れ替わる両性具有的な側面をもっている。
その陰陽・晴雨のバランスのなかで、国土が潤い、民が豊かに繁栄するというのがこの曲のテーマなのだろう。
そうした曲のテーマと呼応するように、シテ・ツレ三者の芸が見事に調和して古代神話の世界を舞台に現出させた。
能の名舞台を観たような高い満足感。
企画者、演者に感謝!
九月夜能・狂言小舞《景清》、一調《山姥》につづく
追記:お囃子も、もちろん良かったのですが、
やはり、あの方の太鼓で拝見したかった。
1年前の《融・笏之舞》の太鼓を思い出す。
能の舞台はほんとうに一度限り。 はかなく、貴い。
舞囃子《絵馬・女体》 友枝昭世
ツレ 香川靖嗣 塩津哲生
一噌幸弘 曽和正博 國川純 観世元伯→小寺真佐人
地謡 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
内田成信 金子敬一郎 大島輝久
狂言小舞《景清》 山本東次郎
地謡 山本則俊 山本則重 山本則秀
一調《山姥》 宝生和英×三島元太郎
能《楊貴妃・干之掛》 梅若万三郎
ワキ 森常好 アイ 山本則俊
松田弘之 大倉源次郎 亀井忠雄
後見 加藤眞悟 山中迓晶
地謡 梅若紀彰 観世喜正 鈴木啓吾 伊藤嘉章
角当直隆 小島英明 坂真太郎 川口晃平
囃子科協議会の九月夜能は去年も良かったけれど、昨年以上に企画力がパワーアップして、観客の潜在ニーズを汲みとった夢の選曲・配役。
アンケートで要望が多かったのか、全席指定席制になっているのも有難い。
とにかく、舞囃子・小舞・一調・能、どれをとっても超一流。
息をのむ舞台が次々と展開し、観能砂漠だったわたしの心に、沁み込む、しみこむ……。
【舞囃子《絵馬・女体》】
喜多流を代表する三名手による、ありえないほどの贅沢な布陣。
舞囃子といっても、ワキと作り物が出ない半能+袴能のように充実していて、上演時間も30分。
「われは日本秋津島の大頭領」で、シテ・ツレ三人が立ち上がり、シテは大小前に立ち、ツレの天鈿女命(香川靖嗣)と手力雄命(塩津哲生)は、それぞれ笛座前と常座で下居して待機。
〈シテ・天照大神の神舞〉
「女体」の小書なので、シテは中之舞ではなく、神舞を急の位で舞う。
神舞といえば、男神が颯爽と舞うイメージが強い。
女体のシテが急の位で神舞を舞うものが、この曲のほかにもあるのだろうか。
十四世六平太は、「絵馬女体の神舞は、滞りなくスーッと舞っちまはなくちゃいけない」と言っているが、「女体」だからどうすべきなのかは芸談では述べていない。
友枝昭世の絵馬女体の神舞には、王者たる女神の気品と気高さが香り高く漂い、曲線の美しい川を流れ下るように、緩急のつけ方やスピード感にも優美な空気が一貫して流れていた。
いつまでも観ていたかった……。
が、舞囃子なので(?)神舞は早くも三段で終わり、シテは「天の岩戸に閉ぢ籠りて……御影を隠し」で、パントマイムのように観音開きの扉を開き、目に見えない作り物(岩戸)の中へと姿を消す。
〈ツレ・天鈿女命の神楽〉
「荒ぶる神々これを歎きて」から、囃子が急調になり、「取るや榊葉の」で、ツレは扇から幣に持ち替え、「神楽の韓神催馬楽」で、シテに向かって幣を振り、幣をもって神楽を舞う。
(神楽を幣で舞うところが舞囃子では異例。)
神を岩戸からおびき出すというよりも、女神の怒りを鎮めるような丁寧な神楽。
じつというと、神楽のあいだの半分は、大小前で床几にかかるシテの姿に無意識に吸い寄せられていた。
その胸を打つような彫刻美━━。
天岩戸に籠ったシテの姿は本来、扉の奥に閉じ込められ、隠されているべきもの。
しかし作り物がないために、美が必然的に露出され、意図せずおのずと輝いて、観る者をどうしようもなく、抗いようもないほど惹きつける。
沈黙と静止が、何よりも雄弁に太陽神アマテラスの存在を示し、舞台をおごそかに照らしている。
それはたとえば、広隆寺の弥勒菩薩を目の前にした時の感覚にも似ていて、仏像は黙して語らずとも不動のまま、心に強く、深く、訴えかけてくる、そんな感覚だった。
〈ツレ・手力雄命の急之舞〉
神楽の最後、天鈿女命が幣を振りながら、常座で待機する手力雄命に近づいていく。
囃子が神楽から急之舞に切り替わるタイミングで、手力雄命は下居姿から左足を大きく踏み出し、威勢よく立ち上がって、急之舞を舞い出す。
塩津哲生師が男性的でかっこいい!
装束をつけない紋付袴姿のほうが、膝の折り方や両脚の広げ方がわかりやすい。
手力雄命の名にふさわしく、力みなぎる雄渾な舞。
昨年、高千穂の夜神楽で鑑賞した「戸取」(天岩戸を取りはらう舞)の手力雄命を思わせる。たぶん、こうした民俗芸能の神楽由来の能なのかもしれない。
ツレの二人がそれぞれ陰と陽(女と男)の要素をあらわし、その中央で君臨するアマテラスは、あるときは男体、あるときは女体といった、小書の有無で、性が入れ替わる両性具有的な側面をもっている。
その陰陽・晴雨のバランスのなかで、国土が潤い、民が豊かに繁栄するというのがこの曲のテーマなのだろう。
そうした曲のテーマと呼応するように、シテ・ツレ三者の芸が見事に調和して古代神話の世界を舞台に現出させた。
能の名舞台を観たような高い満足感。
企画者、演者に感謝!
九月夜能・狂言小舞《景清》、一調《山姥》につづく
追記:お囃子も、もちろん良かったのですが、
やはり、あの方の太鼓で拝見したかった。
1年前の《融・笏之舞》の太鼓を思い出す。
能の舞台はほんとうに一度限り。 はかなく、貴い。
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