2018年6月28日(木)18時~20時35分 最高気温30度 大槻能楽堂
能《東北》シテ 高林昌司
ワキ 喜多雅人 アイ 中川力哉
貞光智宣 成田達志 山本寿弥
後見 高林白牛口二
地謡 高林呻二 佐藤寛泰 佐藤陽 谷友矩
狂言《柿山伏》小西玲央 禅竹隆司
後見 禅竹隆平
舞囃子《胡蝶》シテ 金春飛翔
野口眞琴 成田奏 山本哲也 中田一葉
地謡 金春穂高 佐藤俊之
仕舞《藤キリ》シテ 石黒空
地謡 辰巳満次郎 辰巳孝弥
居囃子《東岸居士》
貞光智宣 成田奏 山本哲也
地謡 大槻文蔵 大槻裕一 浦田親良 寺澤拓海
東京、大阪、京都の夏は暑さの質がそれぞれ違っていて、大阪の夏はムシムシ蒸し暑い! はじめて行った大阪能楽養成会の発表会は、時間帯・立地的に仕事帰りの人も多く、老若男女でにぎわっていて、湯気が立ち昇るような熱気。
体調は最悪だったけど、拝見するうちに疲れも吹っ飛び、徐々に回復していった。やっぱり行ってよかった!
それにしても大槻能楽堂は、東京の宝生能楽堂に比肩するほど音響がいい。エコーがかかっているのかと思うくらい。
能《東北》
「京都の喜多流」と思っていた高林家は、なぜか大阪養成会の所属。能楽師さんの所属関係って複雑だ……。
シテの高林昌司さんは謡がわりと個性的で、節というか、音程が独特なのだけれど、舞と所作にかんしてはかなり凄い!
おいくつだろう? と、喜多流のサイトで調べてみると、なんとまだ20代前半! 面装束をつけて、これだけ品格のある序ノ舞物を舞えるとは、ちょっと驚き。
きっと基礎(土台)がしっかりしているのだろう、そのうえで、
袖を巻いたり被いたりする袖の扱いも巧みで、随所に決めていたし、序ノ舞の位取りも《東北》にふさわしいように見受けられた。何よりも舞に人を惹きつけるチカラがある。
それから印象に残ったのは、貞光智宣さんの笛。
貞光家の笛を東京で聴く機会はほとんどなかったけれど、ほんと、ひと口に森田流といっても、家々でずいぶん違う。貞光さんの笛は京都の杉家の笛とは異なり、ブワンブワンしたうねるような感じが東京の寺井家(寺井政数系)に近いように聴こえた。好みの笛だ。
大鼓の山本寿弥さんは打ち方が男らしくてかっこいい。成田達志さんの小鼓と息がぴったり合っていて、よかった!
そして、久しぶりに聴いた喜多流の地謡。喜多流の《東北》って何度聞いても良いなあ(しみじみ)。
(狂言《柿山伏》、とても観たかったのですが、休憩時間がないため自主休憩に充てました……。)
舞囃子《胡蝶》
金春流って数えるほどしか観たことがないけれど、東京の金春流とはひと味違う。
なんというか、より古風で呪術的。
中田一葉さんの魔笛のような笛と相まって、ちょっと妖しげな独特の世界。
金春流の舞にこれほど魅力を感じたのは、はじめてだ。
舞姿の芯がしっかりしていて、そこに大和の地霊が宿っている、そんな舞だった。
仕舞《藤キリ》
辰巳満次郎さんの地謡、なつかしい~っ!!
石黒空さんの舞は、腰を落として重心をとても低くした、いかにも宝生流らしい舞。
九月の研究発表会では《経政》のシテを舞われるそう。
後見・地謡には満次郎さん・孝弥さんのほかにも、澤田宏司さん、山内崇生さん、辰巳大二郎さん、辰巳和麿さんが参加される予定とのこと。楽しみ!
居囃子《東岸居士》
《東岸居士》は未見。成田奏さんの解説にあるように、難曲(ナングセ)のクセ舞の場面からの演奏。解説に従って、言葉や謡の節に注目して拝見する。
なるほどー、とくに「身に於いて作る罪なり」のところとか、節や謡の高低が難しそう。
大槻裕一さんのシテの謡はさすが。
関西の若手は少数精鋭、うまい人、凄い人が多い。
成田奏さんの小鼓は気迫が充実していてエネルギーに満ちている。
山本哲也さんとの大小鼓の掛け合いに見所も吸い寄せられるように聴き入り、不思議な一体感ができていた。
お能が好き!という純粋な気持ちがつなぐ一体感。
熱くて、ひたむきで、栄養ドリンクよりも活力を与えてくれる良い会だった。
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2018年6月29日金曜日
2018年6月23日土曜日
京都国立近代美術館~コレクション・ギャラリー
会期:2018年5月30日~7月29日 京都国立近代美術館
琵琶湖疎水をはさんで観世会館の斜め向かいに建つ京都国立近代美術館。
休日でもコレクション展は人影もまばらで、じっくり、ゆったり、作品と向き合えるお気に入りの美術館です。
水辺の新緑。
ぼけーっと静かに過ごせるとっておきの空間。
コレクション展には、東京国立近代美術館とはひと味違う京都(関西)らしい作品も並んでいました。
岡崎桃乞(とうこつ)の個性的なネコ。
きれいな毛並みとツンと澄ました姿勢の可愛いコ。
画家の好みの女性像が投影されている?
北沢映月の絵は、色彩がほんとうに素敵。
この絵もうっとりと見入ってしまうほど、温かみのある豊かな色彩で、モデルとなった夫人の心のぬくもりとオーラがよくあらわれている。
こういう雰囲気の年配の女性にあこがれるなあ。
御舟が亡くなる3年前に描かれたこの絵は、《炎舞》に見られるような上昇感のある構図を踏襲しつつも、画題のもつエネルギーを外に発散させるのではなく、花の内へ、内へと、観る者を惹き込んでいく、
生命力の充実と奥深さを感じさせる、そんな魅力のある作品。
とりわけ可憐なヒナギクの繊細な花びらの描写と、葉の表現には心惹かれるものがある。
花々からほのかに放たれる「気」のエネルギーが伝わってくる。
京都といえば河井寛次郎。
(東山五条にある河井寛次郎記念館は京都でも特に好きな美術館のひとつ。)
この壺も、大胆な染付にふてぶてしい顔つきの鳳凰をあしらった、寛次郎らしい作品。
可愛すぎる……。
縄文時代の土偶を思わせる、ザ・河井寛次郎的な色彩と造形。
緑釉が宝石のように輝いている!
須田国太郎といえば、関西で上演された能・狂言の名舞台をデッサンしたことでも知られる。
(その数6000点余り。そのうち5000枚ほどが、大阪大学に寄贈され、そのすべてが電子化・公開されている。初世梅若万三郎や二世梅若実、桜間弓川・道雄、観世華雪・寿夫、野口兼資、宝生九郎、松本長などの錚々たる顔ぶれ→須田国太郎・能・狂言デッサン)。
檻の中の鳥を描いた《動物園》と、自由なはずの《鵜》。
連続して描かれたこの二枚の絵には、何か通底するものがある。
檻の中でも、自由の身でも……。
とかく、この世は住みにくい。
このほかに、ユージン・スミスの特集展示があった。
とくに水俣病を扱った写真シリーズは衝撃的だ。
《怨の旗》と題する作品では、「怨」という漢字がひたすら記された無数の旗が写し出され、強力な呪詛の念が圧倒的な力で迫ってくる。
人々の苦しみ、怨念がこもっていて、胸にズシンと重たいものがのしかかる。
《怨の旗》については、自分のなかでまだ整理しきれていない。
京都や関西の古い街に来ると、歴史の闇や暗部のようなものを目撃して、暗澹たる気分になる。
そのことと、呪詛が込められた怨念の旗とがリンクして、いろいろ考えさせられたのだった。
琵琶湖疎水をはさんで観世会館の斜め向かいに建つ京都国立近代美術館。
休日でもコレクション展は人影もまばらで、じっくり、ゆったり、作品と向き合えるお気に入りの美術館です。
ロビーのベンチに座って琵琶湖疎水沿いを眺める |
水辺の新緑。
ぼけーっと静かに過ごせるとっておきの空間。
コレクション展には、東京国立近代美術館とはひと味違う京都(関西)らしい作品も並んでいました。
岡崎桃乞《猫図》、1949年、油彩、板 |
岡崎桃乞(とうこつ)の個性的なネコ。
きれいな毛並みとツンと澄ました姿勢の可愛いコ。
画家の好みの女性像が投影されている?
北沢映月《A夫人》、1966年、紙本着色 |
北沢映月の絵は、色彩がほんとうに素敵。
この絵もうっとりと見入ってしまうほど、温かみのある豊かな色彩で、モデルとなった夫人の心のぬくもりとオーラがよくあらわれている。
こういう雰囲気の年配の女性にあこがれるなあ。
速水御舟《草花図》、1932年、紙本着色 |
御舟が亡くなる3年前に描かれたこの絵は、《炎舞》に見られるような上昇感のある構図を踏襲しつつも、画題のもつエネルギーを外に発散させるのではなく、花の内へ、内へと、観る者を惹き込んでいく、
生命力の充実と奥深さを感じさせる、そんな魅力のある作品。
御舟《草花図》、部分 |
とりわけ可憐なヒナギクの繊細な花びらの描写と、葉の表現には心惹かれるものがある。
花々からほのかに放たれる「気」のエネルギーが伝わってくる。
河井寛次郎《花下翔鳳壺》、1922年、染付、釉薬 |
京都といえば河井寛次郎。
(東山五条にある河井寛次郎記念館は京都でも特に好きな美術館のひとつ。)
この壺も、大胆な染付にふてぶてしい顔つきの鳳凰をあしらった、寛次郎らしい作品。
鳳凰のアップ |
河井寛次郎《辰砂鉄釉扁壺》、1940年ころ |
河井寛次郎《緑薬瓶子》、1963年ころ |
緑釉が宝石のように輝いている!
須田国太郎《動物園》1953年、油彩画布 |
須田国太郎といえば、関西で上演された能・狂言の名舞台をデッサンしたことでも知られる。
(その数6000点余り。そのうち5000枚ほどが、大阪大学に寄贈され、そのすべてが電子化・公開されている。初世梅若万三郎や二世梅若実、桜間弓川・道雄、観世華雪・寿夫、野口兼資、宝生九郎、松本長などの錚々たる顔ぶれ→須田国太郎・能・狂言デッサン)。
須田国太郎《鵜》、1952年、油彩画布 |
檻の中の鳥を描いた《動物園》と、自由なはずの《鵜》。
連続して描かれたこの二枚の絵には、何か通底するものがある。
檻の中でも、自由の身でも……。
とかく、この世は住みにくい。
このほかに、ユージン・スミスの特集展示があった。
とくに水俣病を扱った写真シリーズは衝撃的だ。
《怨の旗》と題する作品では、「怨」という漢字がひたすら記された無数の旗が写し出され、強力な呪詛の念が圧倒的な力で迫ってくる。
人々の苦しみ、怨念がこもっていて、胸にズシンと重たいものがのしかかる。
《怨の旗》については、自分のなかでまだ整理しきれていない。
京都や関西の古い街に来ると、歴史の闇や暗部のようなものを目撃して、暗澹たる気分になる。
そのことと、呪詛が込められた怨念の旗とがリンクして、いろいろ考えさせられたのだった。
2018年6月17日日曜日
梅若万三郎の《大原御幸》~大槻能楽堂自主公演能 能の魅力を探る 洛陽の春
2018年6月16日(土) 14時~16時45分 大槻能楽堂
お話 六道を見た女院 馬場あき子
能《大原御幸》シテ建礼門院 梅若万三郎
後白河法皇 塩津哲生
阿波内侍 上田拓司 大納言局 青木健一
万里小路中納言 福王茂十郎
大臣 福王知登 輿舁 広谷和夫 喜多雅人
供人 禅竹忠一郎
赤井啓三 久田舜一郎 谷口正壽
後見 大槻文蔵 赤松禎友
地謡 浅井文義 多久島利之 山本博通 上野雄三
寺澤幸祐 武富康之 齊藤信輔 大槻裕一
万三郎師の能を観ると、こういう舞台を観ることはもうないのだろうといつも思う。《定家》の時も、《朝長》も、《野宮》も、《当麻》の時も。
そしてこの日ほど、そうした思いを強くしたことはなかった。もう、こんな《大原御幸》を、建礼門院を、観ることは二度とないだろう。
大槻能楽堂を訪れたのは、学生時代に山崎正和先生の講座で文蔵師の御舞台を拝見して以来(ほとんど前世の記憶……)。なので所属能楽師の方々についてはごく一部しか存じ上げなかったが、その表現力の高さに感じ入った。
囃子と地謡が入ることで、いっそう深まる静けさ、侘しさ、閑寂な気配。
尋ねる人も稀な大原に時おり聞こえる斧の音、猿の声、梢吹く風……まるで効果音のように聞こえてくる囃子。その音色の精妙な響きが、山里のうら寂しく澄んだ空気を伝えてくる。鬱蒼と生い茂る、湿度の高い新緑の香りさえ漂ってくる。
とりわけ赤井啓三さんの笛、そして谷口正壽さんの大鼓に魅了された。
ワキの福王茂十郎さんの謡も見事。その存在感・品格の高さは当代ワキ方随一(この舞台を観て、好きなワキ方さんのひとりになった)。
【前シテ】
かくして舞台は用意され、大藁屋の引廻シが降ろされた。
作り物のなかに三尊形式で坐する三人の尼僧。
中央の建礼門院の顔が、なぜか一瞬、老女に見えた。
長い歳月を掛けて皺を刻んだ老いの顔ではなく、一夜にして白髪になった老女の顔に。
若く美しい女面をつけているにもかかわらず、どうしてそう見えたのかは分からないけれど、時の流れを飛び越えた人間の顔のような印象を受けたのだった。
【後シテ】
幕が上がり、後シテが現れる。
蜻蛉の羽のように薄い紫の水衣をまとったその姿の、尋常ではない美しさ、気高さ。
シテはただそこに存在するだけで、建礼門院のすべてを、魂そのものを具現化していた。
そこには、我というもの、作為というものが微塵もなく、
「私が悲しい」「自分が憐れ」なのではなく、この世の悲しみ、苦しみを一身に背負い、静かに引き受けている、端然とした優雅さ、高貴さがあった。
三島由紀夫は(おそらく銕仙会で観た)《大原御幸》についてのエッセイのなかで、「地獄を見たことによって変質した優雅」「屍臭がしみついている優雅」について語っているが、胸が強く締めつけられるほどのほんとうの美というものは、地獄を見て、屍臭がしみついたその汚点さえも、シミや汚れという景色として、美の一部に変換し、美をいっそう深めていくのだろうか。
そうして、かぎりなく深まった美の体現者が、梅若万三郎の建礼門院だった。
残酷な環境のなかで染み着いたくすみや濁り、そしてその果ての諦観がなければ、真の美などありえないことを、その姿が教えてくれた。
悲惨な記憶を抱えた彼女の内奥に沈澱する汚濁や不純物は、「褪色の美」を際立たせる翳りだった。
もう、シテから一瞬たりとも目を離したくはなかった。
地謡の謡も、囃子の音色も、後白河法皇の言葉も、そのすべてをシテの存在が吸収・媒介し、シテの存在を通して、わたしはそれらを感じていた。
【六道語り】
万三郎師の床几に掛かる姿は、気の遠くなるような修練の結晶。
翡翠のような半透明の輝きを放ちつつ、磨きこまれた鈍く艶のある声で、地謡と一体になりながら粛然と語り出す。
それは法皇に請われるままに紡ぎ出した語りだったが、いつしか死者への弔いとなり、鎮魂の祈りとなり、成道への請願となっていった。
語り進むにつれて、シテのおもてはおごそかさを増し、時として菩薩のような神々しさすら感じさせる。
性急に六道語りを求めた法皇の顔にも、どこか癒され慰められたような安らぎが漂っていた。
語る者、語られる者、そしてそれを聞く者に作用する、語りのちからがここにはあった。
法皇を乗せた輿が橋掛りをしずしずと遠ざかる。
常座に立つシテは静かにそれを見送り、
やがて、
果てしなくつづく寂寞とした山里の日常へと還っていった。
付記1:解説の馬場あき子さん、ますますご壮健で拝聴できたことに感謝。
解説では、その後も長く生き続けた建礼門院に言及し、女人の生命力の不思議さ、たおやかさのなかにある強さについて語っていらしたが、ご自身がそのお手本のような存在だと思う。
付記2:今回で大槻能楽堂自主公演能はなんと、祝650回を迎えたとのこと。
記念に文蔵師の《翁》のポストカードをいただいた。
このような素晴らしい舞台・配役を企画してくださったことに、深謝!
付記3:三島由紀夫ついでに。彼の遺作『天人五衰』のラストシーンは、おそらく《大原御幸》をなかば意識して書かれたものだと思う(タイトルにもそのことが暗示されている)。『天人五衰』では、白衣に濃紫の被布を着た月修寺門跡・聡子に過去のことを語らせず、本多が人生の最後に訪れた寺を阿頼耶識の殿堂として、記憶もなければ何もない場所として描いている。
お話 六道を見た女院 馬場あき子
能《大原御幸》シテ建礼門院 梅若万三郎
後白河法皇 塩津哲生
阿波内侍 上田拓司 大納言局 青木健一
万里小路中納言 福王茂十郎
大臣 福王知登 輿舁 広谷和夫 喜多雅人
供人 禅竹忠一郎
赤井啓三 久田舜一郎 谷口正壽
後見 大槻文蔵 赤松禎友
地謡 浅井文義 多久島利之 山本博通 上野雄三
寺澤幸祐 武富康之 齊藤信輔 大槻裕一
万三郎師の能を観ると、こういう舞台を観ることはもうないのだろうといつも思う。《定家》の時も、《朝長》も、《野宮》も、《当麻》の時も。
そしてこの日ほど、そうした思いを強くしたことはなかった。もう、こんな《大原御幸》を、建礼門院を、観ることは二度とないだろう。
大槻能楽堂を訪れたのは、学生時代に山崎正和先生の講座で文蔵師の御舞台を拝見して以来(ほとんど前世の記憶……)。なので所属能楽師の方々についてはごく一部しか存じ上げなかったが、その表現力の高さに感じ入った。
囃子と地謡が入ることで、いっそう深まる静けさ、侘しさ、閑寂な気配。
尋ねる人も稀な大原に時おり聞こえる斧の音、猿の声、梢吹く風……まるで効果音のように聞こえてくる囃子。その音色の精妙な響きが、山里のうら寂しく澄んだ空気を伝えてくる。鬱蒼と生い茂る、湿度の高い新緑の香りさえ漂ってくる。
とりわけ赤井啓三さんの笛、そして谷口正壽さんの大鼓に魅了された。
ワキの福王茂十郎さんの謡も見事。その存在感・品格の高さは当代ワキ方随一(この舞台を観て、好きなワキ方さんのひとりになった)。
【前シテ】
かくして舞台は用意され、大藁屋の引廻シが降ろされた。
作り物のなかに三尊形式で坐する三人の尼僧。
中央の建礼門院の顔が、なぜか一瞬、老女に見えた。
長い歳月を掛けて皺を刻んだ老いの顔ではなく、一夜にして白髪になった老女の顔に。
若く美しい女面をつけているにもかかわらず、どうしてそう見えたのかは分からないけれど、時の流れを飛び越えた人間の顔のような印象を受けたのだった。
【後シテ】
幕が上がり、後シテが現れる。
蜻蛉の羽のように薄い紫の水衣をまとったその姿の、尋常ではない美しさ、気高さ。
シテはただそこに存在するだけで、建礼門院のすべてを、魂そのものを具現化していた。
そこには、我というもの、作為というものが微塵もなく、
「私が悲しい」「自分が憐れ」なのではなく、この世の悲しみ、苦しみを一身に背負い、静かに引き受けている、端然とした優雅さ、高貴さがあった。
三島由紀夫は(おそらく銕仙会で観た)《大原御幸》についてのエッセイのなかで、「地獄を見たことによって変質した優雅」「屍臭がしみついている優雅」について語っているが、胸が強く締めつけられるほどのほんとうの美というものは、地獄を見て、屍臭がしみついたその汚点さえも、シミや汚れという景色として、美の一部に変換し、美をいっそう深めていくのだろうか。
そうして、かぎりなく深まった美の体現者が、梅若万三郎の建礼門院だった。
残酷な環境のなかで染み着いたくすみや濁り、そしてその果ての諦観がなければ、真の美などありえないことを、その姿が教えてくれた。
悲惨な記憶を抱えた彼女の内奥に沈澱する汚濁や不純物は、「褪色の美」を際立たせる翳りだった。
もう、シテから一瞬たりとも目を離したくはなかった。
地謡の謡も、囃子の音色も、後白河法皇の言葉も、そのすべてをシテの存在が吸収・媒介し、シテの存在を通して、わたしはそれらを感じていた。
【六道語り】
万三郎師の床几に掛かる姿は、気の遠くなるような修練の結晶。
翡翠のような半透明の輝きを放ちつつ、磨きこまれた鈍く艶のある声で、地謡と一体になりながら粛然と語り出す。
それは法皇に請われるままに紡ぎ出した語りだったが、いつしか死者への弔いとなり、鎮魂の祈りとなり、成道への請願となっていった。
語り進むにつれて、シテのおもてはおごそかさを増し、時として菩薩のような神々しさすら感じさせる。
性急に六道語りを求めた法皇の顔にも、どこか癒され慰められたような安らぎが漂っていた。
語る者、語られる者、そしてそれを聞く者に作用する、語りのちからがここにはあった。
法皇を乗せた輿が橋掛りをしずしずと遠ざかる。
常座に立つシテは静かにそれを見送り、
やがて、
果てしなくつづく寂寞とした山里の日常へと還っていった。
付記1:解説の馬場あき子さん、ますますご壮健で拝聴できたことに感謝。
解説では、その後も長く生き続けた建礼門院に言及し、女人の生命力の不思議さ、たおやかさのなかにある強さについて語っていらしたが、ご自身がそのお手本のような存在だと思う。
付記2:今回で大槻能楽堂自主公演能はなんと、祝650回を迎えたとのこと。
記念に文蔵師の《翁》のポストカードをいただいた。
このような素晴らしい舞台・配役を企画してくださったことに、深謝!
付記3:三島由紀夫ついでに。彼の遺作『天人五衰』のラストシーンは、おそらく《大原御幸》をなかば意識して書かれたものだと思う(タイトルにもそのことが暗示されている)。『天人五衰』では、白衣に濃紫の被布を着た月修寺門跡・聡子に過去のことを語らせず、本多が人生の最後に訪れた寺を阿頼耶識の殿堂として、記憶もなければ何もない場所として描いている。
2018年6月16日土曜日
湊川神社神能殿
2018年6月3日(日) 湊川神社 神能殿
湊川神社神能殿は、言わずと知れた神戸観世会の牙城。
もう二週間も前のことだけれど(更新が追い付いていない)、下川宜長師のお社中会・下川正謡会にうかがいました。
まずは参拝。
ひっきりなしに観光バスが停まり、参拝者があとを絶ちません。
能楽堂を入って正面には、世阿弥と楠木正成のつながりを示す系図のパネルが。
これは、楠木正成の妹(大楠公妹御前)が観阿弥の母で、世阿弥の祖母であるという説にもとづいています。
表章をはじめ一部の研究者は、この説に大いに異を唱え、かつては梅原猛と侃侃諤諤の議論が交わされたようです。
(これについては、表章著『昭和の創作「伊賀観世系譜」梅原猛の挑発に応えて』に詳しい。)
ともあれ、湊川神社の祭神・楠木正成と観世宗家・鹿島守之助(鹿島建設)との血縁関係説にもとづいて建てられたのが、この神能殿なのです。
この能楽堂の大きな特色のひとつが、地裏側の壁に神棚があること。
また、舞台の四方には、注連縄が正月だけでなく常時はりめぐらされています。
神棚に祀られているのは、中央が楠木正成の妹(大楠公妹御前)、両脇が観阿弥之命、世阿弥之命の三柱。
神棚の前に、御幣が見えますでしょうか。
神能殿では、能楽は御祭神に奉納するものという考えから、上演に先立ち、祈誓謡「使命(よさし)」がつねに奏上されるそうです。
観世会は明治前半まで梅若の舞台で演能していたましたが、明治33年、おもに三井家の寄付で東京大曲に観世会館を建設。
その大曲にあった能舞台が25世観世宗家の篤志により、1972年、ここ神戸の地に移設されたそうです。
総桧造りの檜皮葺入母屋破風屋根の舞台。
鏡板の老松は、川合玉堂監修、今中素友筆。
さて、下川正謡会ですが、神戸観世会はまったく未知の世界で新鮮でした。
ご出演された囃子方さんは、
笛・斉藤敦、小鼓・古田知英・高橋奈王子、大鼓・辻芳昭、太鼓・中田弘美
太鼓の中田弘美さん以外ははじめての方ばかり。
地謡のプロ能楽師さんも、初見。
番組には地謡のお名前が記されていなかったので、まったく覚えられず残念。
なかに、福王和幸さんに似たクールビューティーな方がいらっしゃいましたが、神戸の上田姓だから、おそらく御親戚でしょうか。
社中の方々も皆さん、うまい方ばかり。
某著名文化人(西本願寺降誕会でもお見かけした)も素謡と舞囃子にご出演されていて、舞囃子の小鼓はもちろん、奥様。
御二方とも、存在感のある方々で、舞台がいっそう華やいでいました。
今年4月に奉納された神戸観世会ののぼり旗 |
湊川神社神能殿は、言わずと知れた神戸観世会の牙城。
もう二週間も前のことだけれど(更新が追い付いていない)、下川宜長師のお社中会・下川正謡会にうかがいました。
湊川神社境内 |
ひっきりなしに観光バスが停まり、参拝者があとを絶ちません。
楠木正成と、観阿弥・世阿弥とのつながりを示す系図 |
能楽堂を入って正面には、世阿弥と楠木正成のつながりを示す系図のパネルが。
これは、楠木正成の妹(大楠公妹御前)が観阿弥の母で、世阿弥の祖母であるという説にもとづいています。
表章をはじめ一部の研究者は、この説に大いに異を唱え、かつては梅原猛と侃侃諤諤の議論が交わされたようです。
(これについては、表章著『昭和の創作「伊賀観世系譜」梅原猛の挑発に応えて』に詳しい。)
ともあれ、湊川神社の祭神・楠木正成と観世宗家・鹿島守之助(鹿島建設)との血縁関係説にもとづいて建てられたのが、この神能殿なのです。
地裏の壁には神棚が |
この能楽堂の大きな特色のひとつが、地裏側の壁に神棚があること。
また、舞台の四方には、注連縄が正月だけでなく常時はりめぐらされています。
観阿弥・世阿弥を祀る神棚のアップ |
神棚に祀られているのは、中央が楠木正成の妹(大楠公妹御前)、両脇が観阿弥之命、世阿弥之命の三柱。
神棚と御幣 |
神棚の前に、御幣が見えますでしょうか。
神能殿では、能楽は御祭神に奉納するものという考えから、上演に先立ち、祈誓謡「使命(よさし)」がつねに奏上されるそうです。
大曲の観世会館から移設された能舞台 |
観世会は明治前半まで梅若の舞台で演能していたましたが、明治33年、おもに三井家の寄付で東京大曲に観世会館を建設。
その大曲にあった能舞台が25世観世宗家の篤志により、1972年、ここ神戸の地に移設されたそうです。
総桧造りの檜皮葺入母屋破風屋根の舞台。
鏡板の老松は、川合玉堂監修、今中素友筆。
ロビーの世阿弥像 |
さて、下川正謡会ですが、神戸観世会はまったく未知の世界で新鮮でした。
ご出演された囃子方さんは、
笛・斉藤敦、小鼓・古田知英・高橋奈王子、大鼓・辻芳昭、太鼓・中田弘美
太鼓の中田弘美さん以外ははじめての方ばかり。
地謡のプロ能楽師さんも、初見。
番組には地謡のお名前が記されていなかったので、まったく覚えられず残念。
なかに、福王和幸さんに似たクールビューティーな方がいらっしゃいましたが、神戸の上田姓だから、おそらく御親戚でしょうか。
社中の方々も皆さん、うまい方ばかり。
某著名文化人(西本願寺降誕会でもお見かけした)も素謡と舞囃子にご出演されていて、舞囃子の小鼓はもちろん、奥様。
御二方とも、存在感のある方々で、舞台がいっそう華やいでいました。
2018年6月15日金曜日
浦田保浩《野守・白頭》+仕舞五番
2018年6月10日(日)12時30分~18時→17時15分 京都観世会館
第五回復曲試演の会《実方》シテ 片山九郎右衛門からのつづき
仕舞《白楽天》 大江又三郎
《小塩クセ》 河村和重
地謡 橋本雅夫 武田邦弘 浅井通昭 河村浩太郎 大江泰正
仕舞《生田敦盛キリ》片山伸吾
《胡蝶》 河村晴久
《融》 青木道喜
地謡 橋本擴三郎 古橋正邦 河村博重 松野浩行 樹下千慧
能《野守・白頭》シテ 浦田保浩
ワキ 小林努 アイ 茂山逸平
森田保美 林吉兵衛 谷口正壽 前川光長
後見 井上裕久 宮本茂樹 鷲尾世志子
地謡 杉浦豊彦 越賀隆之 浦部幸裕 味方團
田茂井廣道 吉田篤史 河村和貴 河村博晃
第五回復曲試演の会《実方》シテ 片山九郎右衛門からのつづき
仕舞《白楽天》 大江又三郎
《小塩クセ》 河村和重
地謡 橋本雅夫 武田邦弘 浅井通昭 河村浩太郎 大江泰正
仕舞《生田敦盛キリ》片山伸吾
《胡蝶》 河村晴久
《融》 青木道喜
地謡 橋本擴三郎 古橋正邦 河村博重 松野浩行 樹下千慧
能《野守・白頭》シテ 浦田保浩
ワキ 小林努 アイ 茂山逸平
森田保美 林吉兵衛 谷口正壽 前川光長
後見 井上裕久 宮本茂樹 鷲尾世志子
地謡 杉浦豊彦 越賀隆之 浦部幸裕 味方團
田茂井廣道 吉田篤史 河村和貴 河村博晃
それにしても、復曲試演の会、これだけの内容で、これだけクリエイティヴな素晴らしい舞台、チケット代もリーズナブルなのに、脇中正面の自由席にわりと空席があったのは意外だった。東京ならほぼ完売だと思うのに……。人口に対する能楽愛好家の比率は同じでも、首都圏とでは人の数が圧倒的に違うから? それとも?……うーん、よくわからない。(京都の能楽師の方々のご苦労がしのばれる。)
仕舞五番は《実方》の余韻に浸りながらボーっと拝見。片山伸吾さんの《生田敦盛》がよかった。
能《野守・白頭》
浦田保浩さんの《野守・白頭》、期待以上! 京都の中堅どころってほんと、充実していてレベルが高い。
(《野守・白頭》といえば、梅若の能楽堂で観た九郎右衛門さんの舞台が鮮烈だった。クライマックスで正中から宙に浮いて、飛び返りで大小前の作り物にみごとに入るという神業!! あのときの太鼓も観世元伯さんだったなあ……。)
野守の舞台・春日野には、浄土と地獄が並存している。
春日神社の参道にある万葉植物園の前あたりに「六道の辻」があり、ここから下りていくと春日地獄があると考えられていた。
関西にいると地獄や浄土を身近に感じることができる(わたしの近所も神社仏閣・史蹟だらけ)。そんな風土のなかで観る演能には格別の面白さがある。
お能に出会えたから、そうした異次元の世界をより身近に感じられるのかもしれない。
この日の《野守・白頭》、後シテの鬼神の面は白癋見? 悪尉癋見?
老成したシワが刻まれた、凄みのある面。
谷口正壽さんの大鼓、好きだなあ。音色と掛け声のバランスが良くて。河村大さんといい、京都には良い大鼓方さんがいらっしゃる。
杉浦豊彦師率いる地謡も京都観世らしい、安定した良い謡。
杉浦豊彦師率いる地謡も京都観世らしい、安定した良い謡。
鬼神が、丸い鏡を手に持ち、東西南北、天地を鏡面に移していく。
迫力がありつつも、品のある浦田保浩さんの鬼神。
(たまたまだけど)こちらにも野守の鏡を何度も向けてくださり、わたしの顔まで映り込みそうだった。
大地の守護神に照らしてもらい、罪や穢れを祓い清めてもらえた気がする。
追記:復曲試演の会は、終了予定時間を45分も切り上げて終了。観客の方々が、「どうしたのかしら?」と皆さん、驚いていた。《実方》を練り上げるなかで、いろいろ削ぎ落していったのだろうか? 個人的には、舞の部分がもっとたくさんあったほうが嬉しかったけれど……。
2018年6月12日火曜日
復曲試演の会《実方》~片山九郎右衛門&京都観世会
2018年6月10日(日)12時30分~17時15分 京都観世会館
講演「水鏡に映った実方の面影」西野春雄
復曲能《実方》シテ 片山九郎右衛門
ワキ 宝生欣也
アイ 茂山七五三 茂山忠三郎
杉市和 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 味方玄 梅田嘉宏 松井美樹
地謡 浦田保親 河村晴道 吉浪壽晃 橋本光史 分林道治
大江信行 林宗一郎 深野貴彦 橋本忠樹 大江広祐
仕舞《白楽天》 大江又三郎
《小塩クセ》 河村和重
地謡 橋本雅夫 武田邦弘 浅井通昭 河村浩太郎 大江泰正
仕舞《生田敦盛キリ》片山伸吾
《胡蝶》 河村晴久
《融》 青木道喜
地謡 橋本擴三郎 古橋正邦 河村博重 松野浩行 樹下千慧
能《野守・白頭》シテ 浦田保浩
ワキ 小林努 アイ 茂山逸平
森田保美 林吉兵衛 谷口正壽 前川光長
後見 井上裕久 宮本茂樹 鷲尾世志子
地謡 杉浦豊彦 越賀隆之 浦部幸裕 味方團
田茂井廣道 吉田篤史 河村和貴 河村博晃
型付・片山九郎右衛門、節付・大江信行、監修・西野春雄━━京都観世会の総力を挙げて復曲された能《実方》。
国立能楽堂図書室で梅若六郎(当時)と大槻文蔵シテの《実方》(観世元頼本ヴァージョン)を観たことがあるけれど、今回あらたに「松井文庫本」をもとに復曲された《実方》は従来のものとは趣きが異なり、良い意味で予想を裏切るものだった!
「並びなき美男」で舞の名手でもある歌人・実方が水鏡して恍惚となるところは、たんなるナルシシズムにとどまらない、ワイルド的倒錯とデカダンスを秘めた耽美的世界の極致。九郎右衛門さん扮する実方が自己陶酔に耽溺する姿は、怖いくらい官能的で、夢と夢とが折り重なり交錯する世界は、どこか鈴木清順の映画を彷彿とさせた。
【前場】
杉市和さんの名ノリ笛と宝生欣哉さんの漂泊の詩人らしいハコビが、陸奥の荒涼とした冬枯れの景色と、冷たく乾いた空気を感じさせる。
道端に実方の塚を見つけた西行は、正先の向こうに塚がある体で、和歌の先達に手向けるべく本曲の主題となる歌を詠む。「朽ちもせぬその名ばかりを残し置きて、枯れ野の薄、形見ぞとなる」(新古今では「形見とぞ見る」)
《砧》の「無慙やな三年過ぎぬることを怨み」を思わせる、胸にぐっと迫るワキの追悼の謡。この手向けの言葉に引き寄せられるように、「形見とぞなる」で幕がふわりと上がり、シテが幕の中から呼びかける。
初同でさらに冬の陸奥の荒漠たる気色が描き出され、寂寥感が増してゆく。
(緩急・高低・強弱吟を駆使した謡の節付、囃子の巧みなアレンジ、どれもが素晴らしく、とりわけ地謡の完成度の高さは見事!)
復曲能《実方》は、前場・後場それぞれにクリ・サシ・クセがある特異な構成になっており、前場のクセは居グセ。公演記録で観た《実方》よりもさらに所作や動きを削りに削り、「静」を際立たせた居グセだった。
前場の最後、「今は都に帰るとて」で下居から立ち上がるときは、杖にすがりつくように立ち上がる「老い」を強調した演出。
【中入り→間狂言:二つの夢の入れ子構造・陸奥左遷説への反証】
前シテ老人は、賀茂の臨時祭で舞うために都に帰るといい、雲の波路を行くように橋掛りを進み、三の松で「臨時の舞を御覧ぜよ」と、いったんワキを振り返り、そのままゆっくりと中入り。
クセが2つあるという以外に《実方》が通常の複式夢幻能と違うのは、前場もワキの夢の中の出来事だと設定されている点だ(これが間狂言で明らかにされる)。
堂本正樹いわく「夢の中の老いた霊がさらに若き日を追憶して夢見る、二重構造になっている」という、「二つの夢」が入れ子構造になっており、複雑に入り混じる夢の世界をどう表現するかが後場のカギとなっていた。
また、実方の陸奥赴任は左遷であるという通説への反証として、今回の間狂言では、陸奥赴任を「名誉ある拝任」と実方が受け止めたことをあらわすため、「悠々たる体にて陸奥の国に御下りありて」という言葉が加えられた。
【後場】
後シテ・実方の亡霊は、ほどよく褪色した青竹色の狩衣に灰紫の指貫、太刀を佩き、追懸をつけ、初冠にはみずみずしい竹葉(実方のトレードマーク)を挿した出立。
面は古色を帯びた、すこし翳りのある中将。全体として長身細身に見える、すっきりとした貴公子姿だった。
(従来の《実方》は後シテを老貴人に設定し尉面を用いたが、若い貴人姿で颯爽と登場するのが今回の目玉のひとつ。ちなみに大槻文蔵師所蔵の、老いと若さを兼ね備えた新作面「実方」もあるらしい。)
後場のクセは、舞グセ。
前半は大小前に立ったまま不動の姿勢を保ち、上ゲ扇から閑かで優美な舞へ。
「水に映る影」で、左袖を巻き、「見れば、わが身ながらも美しく」と、開いた扇で顔を隠し、その隙間からそっとのぞく。
シテは川面に見立てた脇正に見入り、恍惚と安座。
そのまま、シテのまわりだけ時間が止まったように、常座前で安座したまま、水面に映る自分の美貌に酔いしれる。
影に見惚れて佇めり━━
うっとりと安座しつづけるシテは、もはや水鏡に映る自分の姿に見入るのではなく、遠い昔、御手洗川に映った自分の姿に見惚れて佇む自分の姿を追懐し、過ぎ去ったみずからの面影に恋い焦がれ。夢の中の夢に、陶然と浸っていた。
自分に恋する者の瞳に映る自分の姿に、惑溺するように。
【老いの影→雷鳴→終曲】
変則的な序ノ舞(?)に入るころには、中将の面が変容したように目もとが変わり、忘我の境地のようなトロンとした表情を浮かべている。
川面に映る自分の姿に老いの影を認めたシテは、水鏡に見立てた左袖をじっと見る。
しかし従来の《実方》のように、タラタラと後ずさりしたり、ヨロヨロした足取りをするなど、老いの衝撃や老衰のさまを劇的にあらわすことはなく、後場での「若さ」から「老い」への変化は終始曖昧だった。
「賀茂の神山の時ならぬ」雷鳴が轟き、拍子を踏む実方と別雷神が一体化したような瞬間が訪れる。
一の松でシテが左袖を巻きあげたのを合図に、地謡も囃子もやみ、すべてが静止して、水を打ったような静寂があたりを支配する。
音のない、長い「間」━━。
時空がひずみ、花やかな都から一転、冬枯れの陸奥へと舞台は変わり、夢から醒めた西行が目にしたのは、枯れ野の薄を墓標にした実方の塚。
「跡弔ひ給へや西行よ」と言い残して、亡霊は幕の中に消え、
脇座に立つ西行の耳に、実方の声だけがこだましていた。
講演「水鏡に映った実方の面影」西野春雄
復曲能《実方》シテ 片山九郎右衛門
ワキ 宝生欣也
アイ 茂山七五三 茂山忠三郎
杉市和 吉阪一郎 河村大 前川光範
後見 味方玄 梅田嘉宏 松井美樹
地謡 浦田保親 河村晴道 吉浪壽晃 橋本光史 分林道治
大江信行 林宗一郎 深野貴彦 橋本忠樹 大江広祐
仕舞《白楽天》 大江又三郎
《小塩クセ》 河村和重
地謡 橋本雅夫 武田邦弘 浅井通昭 河村浩太郎 大江泰正
仕舞《生田敦盛キリ》片山伸吾
《胡蝶》 河村晴久
《融》 青木道喜
地謡 橋本擴三郎 古橋正邦 河村博重 松野浩行 樹下千慧
能《野守・白頭》シテ 浦田保浩
ワキ 小林努 アイ 茂山逸平
森田保美 林吉兵衛 谷口正壽 前川光長
後見 井上裕久 宮本茂樹 鷲尾世志子
地謡 杉浦豊彦 越賀隆之 浦部幸裕 味方團
田茂井廣道 吉田篤史 河村和貴 河村博晃
型付・片山九郎右衛門、節付・大江信行、監修・西野春雄━━京都観世会の総力を挙げて復曲された能《実方》。
国立能楽堂図書室で梅若六郎(当時)と大槻文蔵シテの《実方》(観世元頼本ヴァージョン)を観たことがあるけれど、今回あらたに「松井文庫本」をもとに復曲された《実方》は従来のものとは趣きが異なり、良い意味で予想を裏切るものだった!
「並びなき美男」で舞の名手でもある歌人・実方が水鏡して恍惚となるところは、たんなるナルシシズムにとどまらない、ワイルド的倒錯とデカダンスを秘めた耽美的世界の極致。九郎右衛門さん扮する実方が自己陶酔に耽溺する姿は、怖いくらい官能的で、夢と夢とが折り重なり交錯する世界は、どこか鈴木清順の映画を彷彿とさせた。
【前場】
杉市和さんの名ノリ笛と宝生欣哉さんの漂泊の詩人らしいハコビが、陸奥の荒涼とした冬枯れの景色と、冷たく乾いた空気を感じさせる。
道端に実方の塚を見つけた西行は、正先の向こうに塚がある体で、和歌の先達に手向けるべく本曲の主題となる歌を詠む。「朽ちもせぬその名ばかりを残し置きて、枯れ野の薄、形見ぞとなる」(新古今では「形見とぞ見る」)
《砧》の「無慙やな三年過ぎぬることを怨み」を思わせる、胸にぐっと迫るワキの追悼の謡。この手向けの言葉に引き寄せられるように、「形見とぞなる」で幕がふわりと上がり、シテが幕の中から呼びかける。
初同でさらに冬の陸奥の荒漠たる気色が描き出され、寂寥感が増してゆく。
(緩急・高低・強弱吟を駆使した謡の節付、囃子の巧みなアレンジ、どれもが素晴らしく、とりわけ地謡の完成度の高さは見事!)
復曲能《実方》は、前場・後場それぞれにクリ・サシ・クセがある特異な構成になっており、前場のクセは居グセ。公演記録で観た《実方》よりもさらに所作や動きを削りに削り、「静」を際立たせた居グセだった。
前場の最後、「今は都に帰るとて」で下居から立ち上がるときは、杖にすがりつくように立ち上がる「老い」を強調した演出。
【中入り→間狂言:二つの夢の入れ子構造・陸奥左遷説への反証】
前シテ老人は、賀茂の臨時祭で舞うために都に帰るといい、雲の波路を行くように橋掛りを進み、三の松で「臨時の舞を御覧ぜよ」と、いったんワキを振り返り、そのままゆっくりと中入り。
クセが2つあるという以外に《実方》が通常の複式夢幻能と違うのは、前場もワキの夢の中の出来事だと設定されている点だ(これが間狂言で明らかにされる)。
堂本正樹いわく「夢の中の老いた霊がさらに若き日を追憶して夢見る、二重構造になっている」という、「二つの夢」が入れ子構造になっており、複雑に入り混じる夢の世界をどう表現するかが後場のカギとなっていた。
また、実方の陸奥赴任は左遷であるという通説への反証として、今回の間狂言では、陸奥赴任を「名誉ある拝任」と実方が受け止めたことをあらわすため、「悠々たる体にて陸奥の国に御下りありて」という言葉が加えられた。
【後場】
後シテ・実方の亡霊は、ほどよく褪色した青竹色の狩衣に灰紫の指貫、太刀を佩き、追懸をつけ、初冠にはみずみずしい竹葉(実方のトレードマーク)を挿した出立。
面は古色を帯びた、すこし翳りのある中将。全体として長身細身に見える、すっきりとした貴公子姿だった。
(従来の《実方》は後シテを老貴人に設定し尉面を用いたが、若い貴人姿で颯爽と登場するのが今回の目玉のひとつ。ちなみに大槻文蔵師所蔵の、老いと若さを兼ね備えた新作面「実方」もあるらしい。)
後場のクセは、舞グセ。
前半は大小前に立ったまま不動の姿勢を保ち、上ゲ扇から閑かで優美な舞へ。
「水に映る影」で、左袖を巻き、「見れば、わが身ながらも美しく」と、開いた扇で顔を隠し、その隙間からそっとのぞく。
シテは川面に見立てた脇正に見入り、恍惚と安座。
そのまま、シテのまわりだけ時間が止まったように、常座前で安座したまま、水面に映る自分の美貌に酔いしれる。
影に見惚れて佇めり━━
うっとりと安座しつづけるシテは、もはや水鏡に映る自分の姿に見入るのではなく、遠い昔、御手洗川に映った自分の姿に見惚れて佇む自分の姿を追懐し、過ぎ去ったみずからの面影に恋い焦がれ。夢の中の夢に、陶然と浸っていた。
自分に恋する者の瞳に映る自分の姿に、惑溺するように。
【老いの影→雷鳴→終曲】
変則的な序ノ舞(?)に入るころには、中将の面が変容したように目もとが変わり、忘我の境地のようなトロンとした表情を浮かべている。
川面に映る自分の姿に老いの影を認めたシテは、水鏡に見立てた左袖をじっと見る。
しかし従来の《実方》のように、タラタラと後ずさりしたり、ヨロヨロした足取りをするなど、老いの衝撃や老衰のさまを劇的にあらわすことはなく、後場での「若さ」から「老い」への変化は終始曖昧だった。
「賀茂の神山の時ならぬ」雷鳴が轟き、拍子を踏む実方と別雷神が一体化したような瞬間が訪れる。
一の松でシテが左袖を巻きあげたのを合図に、地謡も囃子もやみ、すべてが静止して、水を打ったような静寂があたりを支配する。
音のない、長い「間」━━。
時空がひずみ、花やかな都から一転、冬枯れの陸奥へと舞台は変わり、夢から醒めた西行が目にしたのは、枯れ野の薄を墓標にした実方の塚。
「跡弔ひ給へや西行よ」と言い残して、亡霊は幕の中に消え、
脇座に立つ西行の耳に、実方の声だけがこだましていた。
2018年6月11日月曜日
MUGEN∞能 京都公演~狂言《花子》能《邯鄲》
2018年6月9日(土)13時~16時45分 京都観世会館
解説 林宗一郎 野村太一郎
舞囃子《班女》 坂口貴信
杉信太朗 吉阪一郎 亀井広忠
地謡 浦田保浩 浦田保親 田茂井廣道
河村和晃 樹下千慧
狂言《花子》 茂山逸平
茂山童司 茂山千五郎
後見 茂山宗彦 茂山茂
仕舞《白楽天》 浦田保親
《花筐クセ》杉浦豊彦
《天鼓》 浦田保浩
地謡 坂口貴信 谷本健吾 川口晃平 河村和晃
能《邯鄲》 林宗一郎
子方 林小梅
ワキ 小林努 有松遼一 岡充
久馬治彦 原陸
アイ 野村太一郎
杉信太朗 吉阪一郎 亀井広忠 前川光範
後見 杉浦豊彦 河村和貴
地謡 坂口貴信 味方團 田茂井廣道 谷本健吾
松野浩行 川口晃平 河村浩太郎 河村紀仁
思い返せば、観能初期にはじめて行った個人の会が「坂口貴信之會・東京公演」だった。
観世能楽堂がまだ松濤にある頃で、あの時は、そう、舞囃子《高砂》も、坂口さんの披きだった能《望月》も、太鼓は観世元伯さんだったなあ……と、少しほろりとなる。
この日の舞囃子《班女》もよかった!
瞬き一つしない集中力の高さは昔ながら。
坂口さんはどこか冷めたようなクールで理知的な芸風。それが魅力でもある。
二段オロシで脇正を向き、美しい姿でじいっと静かに佇む。その姿に花子の報われぬ思い、寂しさ、愛憎が込められていて、しっとりした情緒があった。
林宗一郎さんと野村太一郎さんによる解説によると、坂口さんは《班女》を舞うにあたり、シテワカ「月をかくして懐に持ちたる扇」にちなんで、秘蔵の扇を用意したという。
扇に注目して拝見すると、芝草の野に大きな満月が浮かび、青い朧がたなびく金地の素敵な扇。
こういう、演者のこだわりポイントの事前解説は気が利いている。
狂言《花子》
《班女》のパロディ続編《花子》を茂山逸平さんが演るのは、これで4回目とのこと。
ペペさんの《花子》は大曲だけど、肩ひじ張ったところがなく、どこか愛らしく、憎めない浮気男の恐妻家というキャラクターにすんなり馴染んでいて、科白に織り込まれた小歌の連続、難しい節回しにも息が上がることなく、観ていても疲れない。
妻を恐れながらも、愛しているんだなあというのが感じられて、良い《花子》だった。
(もう少し齢を重ねると、花子と妻のあいだ、夢と現実のはざまで揺れ動く男心みたいなものや、いやらしくない男の色気みたいなものが滲み出てくるようになるのかしら。)
舞台としての《花子》の成否を握るのは、わわしい妻だと思うのだけれど、千五郎さんの妻役は貫禄十分。声もめちゃくちゃ大きくて、まじで恐そう!
でも、こわい中にも、夫に対する情愛、こまやかな心遣いや女らしさが感じられて、世話女房役にぴったり。
たぶん実際の女性でも、こういう貫禄のある恐そうな人ほど、本当の意味で女らしい女性だったりするんだろうなあ。
能《邯鄲》
昨年以降、宗一郎さんは多忙を極め、父であり師匠である方を失った痛手を抱えながら大曲に挑むことの難しさは想像できないけれど、立派に勤められた。
引立大宮内での〈楽〉は、慎重に、慎重に。
最後の夢から覚めて行くときも、橋掛りからダーッと走り込んで枕に向かってダイヴ、という難業は使わず、常座から着実に進んで作り物に横たわるスタンダードな演出。
面は普通の邯鄲男よりもやや年長のような感じで、大槻文蔵師は盧生を「70年代のヒッピーのような人物」というキャラクター設定をしていらしたが、口髭などはちょうどそんな雰囲気のある、悩める男の顔をした個性的な邯鄲男。良い面だ。
「空おり」の直後のヒヤッと驚いて一瞬、凍りついたように静止する。そのさまが、夢の中の動きと実際の身体の動きが連動してハッと目が覚めるときのあの感覚をリアルにあらわしていて秀逸。
〈楽〉の後半に舞台上で舞っている時がいちばん自由な感じがして、宗一郎さんらしい魅力があった。
そして、子方の小梅さん。
まだほんとうに小さくて(何歳くらいだろう?)とても可愛らしい方なのですが、舞い始めると、驚くほどうまい!
自分の顔の三倍ほどもある扇を巧みに扱って、きれいに愛らしく舞ってらっしゃった。
度胸も据わっていて、頼もしい子方さんだ。
地謡には川口晃平さんや谷本健吾さんも加わり、切磋琢磨し合える仲間たちが集まった雰囲気のいい会だった。
追記:終演後、亀井広忠さんが能楽堂から猛ダッシュで出て行かれるのを目撃。もしや、紋付袴姿で新幹線に乗るのか(!?)と思ったら、金剛能楽堂での満次郎の会と掛け持ちだったと後で知る。おつかれさまです……。
解説 林宗一郎 野村太一郎
舞囃子《班女》 坂口貴信
杉信太朗 吉阪一郎 亀井広忠
地謡 浦田保浩 浦田保親 田茂井廣道
河村和晃 樹下千慧
狂言《花子》 茂山逸平
茂山童司 茂山千五郎
後見 茂山宗彦 茂山茂
仕舞《白楽天》 浦田保親
《花筐クセ》杉浦豊彦
《天鼓》 浦田保浩
地謡 坂口貴信 谷本健吾 川口晃平 河村和晃
能《邯鄲》 林宗一郎
子方 林小梅
ワキ 小林努 有松遼一 岡充
久馬治彦 原陸
アイ 野村太一郎
杉信太朗 吉阪一郎 亀井広忠 前川光範
後見 杉浦豊彦 河村和貴
地謡 坂口貴信 味方團 田茂井廣道 谷本健吾
松野浩行 川口晃平 河村浩太郎 河村紀仁
思い返せば、観能初期にはじめて行った個人の会が「坂口貴信之會・東京公演」だった。
観世能楽堂がまだ松濤にある頃で、あの時は、そう、舞囃子《高砂》も、坂口さんの披きだった能《望月》も、太鼓は観世元伯さんだったなあ……と、少しほろりとなる。
この日の舞囃子《班女》もよかった!
瞬き一つしない集中力の高さは昔ながら。
坂口さんはどこか冷めたようなクールで理知的な芸風。それが魅力でもある。
二段オロシで脇正を向き、美しい姿でじいっと静かに佇む。その姿に花子の報われぬ思い、寂しさ、愛憎が込められていて、しっとりした情緒があった。
林宗一郎さんと野村太一郎さんによる解説によると、坂口さんは《班女》を舞うにあたり、シテワカ「月をかくして懐に持ちたる扇」にちなんで、秘蔵の扇を用意したという。
扇に注目して拝見すると、芝草の野に大きな満月が浮かび、青い朧がたなびく金地の素敵な扇。
こういう、演者のこだわりポイントの事前解説は気が利いている。
狂言《花子》
《班女》のパロディ続編《花子》を茂山逸平さんが演るのは、これで4回目とのこと。
ペペさんの《花子》は大曲だけど、肩ひじ張ったところがなく、どこか愛らしく、憎めない浮気男の恐妻家というキャラクターにすんなり馴染んでいて、科白に織り込まれた小歌の連続、難しい節回しにも息が上がることなく、観ていても疲れない。
妻を恐れながらも、愛しているんだなあというのが感じられて、良い《花子》だった。
(もう少し齢を重ねると、花子と妻のあいだ、夢と現実のはざまで揺れ動く男心みたいなものや、いやらしくない男の色気みたいなものが滲み出てくるようになるのかしら。)
舞台としての《花子》の成否を握るのは、わわしい妻だと思うのだけれど、千五郎さんの妻役は貫禄十分。声もめちゃくちゃ大きくて、まじで恐そう!
でも、こわい中にも、夫に対する情愛、こまやかな心遣いや女らしさが感じられて、世話女房役にぴったり。
たぶん実際の女性でも、こういう貫禄のある恐そうな人ほど、本当の意味で女らしい女性だったりするんだろうなあ。
能《邯鄲》
昨年以降、宗一郎さんは多忙を極め、父であり師匠である方を失った痛手を抱えながら大曲に挑むことの難しさは想像できないけれど、立派に勤められた。
引立大宮内での〈楽〉は、慎重に、慎重に。
最後の夢から覚めて行くときも、橋掛りからダーッと走り込んで枕に向かってダイヴ、という難業は使わず、常座から着実に進んで作り物に横たわるスタンダードな演出。
面は普通の邯鄲男よりもやや年長のような感じで、大槻文蔵師は盧生を「70年代のヒッピーのような人物」というキャラクター設定をしていらしたが、口髭などはちょうどそんな雰囲気のある、悩める男の顔をした個性的な邯鄲男。良い面だ。
「空おり」の直後のヒヤッと驚いて一瞬、凍りついたように静止する。そのさまが、夢の中の動きと実際の身体の動きが連動してハッと目が覚めるときのあの感覚をリアルにあらわしていて秀逸。
〈楽〉の後半に舞台上で舞っている時がいちばん自由な感じがして、宗一郎さんらしい魅力があった。
まだほんとうに小さくて(何歳くらいだろう?)とても可愛らしい方なのですが、舞い始めると、驚くほどうまい!
自分の顔の三倍ほどもある扇を巧みに扱って、きれいに愛らしく舞ってらっしゃった。
度胸も据わっていて、頼もしい子方さんだ。
地謡には川口晃平さんや谷本健吾さんも加わり、切磋琢磨し合える仲間たちが集まった雰囲気のいい会だった。
追記:終演後、亀井広忠さんが能楽堂から猛ダッシュで出て行かれるのを目撃。もしや、紋付袴姿で新幹線に乗るのか(!?)と思ったら、金剛能楽堂での満次郎の会と掛け持ちだったと後で知る。おつかれさまです……。
2018年6月7日木曜日
京都・岡崎さんぽ ~ 武田五一の近代建築
京都の近代建築といえば、京大工学部建築科を創立した武田五一。
岡崎界隈には個性豊かな五一の作品がいくつかあって、眼を楽しませてくれます。
まずは、京都観世会館のおとなり、藤井斉成会有鄰館・第一館から。
藤井斉成会有鄰館は、藤井紡績の創業者・藤井善助の東洋美術コレクションを収めた私設美術館。
(開館日が月二回、時間も限られているため、残念ながら、わたしはまだ入ったことがありません。)
収蔵された中国古美術コレクションに合わせて、外観にも東洋的モティーフがちりばめられています。
ひと際目を引くのが、屋上を飾る朱色の八角堂。
これも藤井コレクションのひとつだそうです。
屋上の八角堂と響き合うように、エントランスのアーチ部分も門柱灯も、八角形をベースにしたフォルム。
幾何学的デザインを好んだ武田五一が、「8」や「八角形」という中国で縁起が良いとされる数字や形を巧みに取り込んで、吉祥性とデザイン性を融合させています。
東洋な趣きを高める豪華な龍のレリーフ。
次は、琵琶湖疎水を渡って、岡崎公園へ。
平安神宮大鳥居も、武田五一が設計顧問として手掛けたもの。
高さ24メートルの巨大な大鳥居は、笠木の下に島木をつけ、やや反りを加えた明神型。
どっしりと安定して見えるのは、柱と柱のあいだの長さと貫(梁)までの高さがほぼ同じで、鳥居内部の空間がほぼ正方形をしているからかもしれません。
近代美術館のとなりにある、京都府立図書館。
当時の面影を残すのは外壁のみですが、こちらも武田五一の設計。
「京都図書館」の文字の上のイチョウの葉のモティーフは、ウィーン分離派の影響ではないかという指摘もあり、ほど良く甘美なデザイン。
金色の縁取りや、ところどころに配された曲線モティーフなど、世紀末的な装飾性が見られるのも特徴です。
KBS京都の「京都建築探偵団」で建築家の円満字洋介さんが鑑賞ポイントとして紹介されていたのですが、通気口にも凝ったデザインが施されています。
孔雀でしょうか?
細部にもさりげなく遊び心が生かされていて、やっぱり近代建築は魅力的。
岡崎界隈には個性豊かな五一の作品がいくつかあって、眼を楽しませてくれます。
まずは、京都観世会館のおとなり、藤井斉成会有鄰館・第一館から。
カメラ目線の狛犬さん |
藤井斉成会有鄰館は、藤井紡績の創業者・藤井善助の東洋美術コレクションを収めた私設美術館。
(開館日が月二回、時間も限られているため、残念ながら、わたしはまだ入ったことがありません。)
屋上の八角堂 |
収蔵された中国古美術コレクションに合わせて、外観にも東洋的モティーフがちりばめられています。
ひと際目を引くのが、屋上を飾る朱色の八角堂。
これも藤井コレクションのひとつだそうです。
藤井斉成会有鄰館、大正15(1926)年、武田五一設計 |
屋上の八角堂と響き合うように、エントランスのアーチ部分も門柱灯も、八角形をベースにしたフォルム。
幾何学的デザインを好んだ武田五一が、「8」や「八角形」という中国で縁起が良いとされる数字や形を巧みに取り込んで、吉祥性とデザイン性を融合させています。
見事な龍のレリーフ |
次は、琵琶湖疎水を渡って、岡崎公園へ。
平安神宮大鳥居、昭和3(1928)年、武田五一設計顧問 |
平安神宮大鳥居も、武田五一が設計顧問として手掛けたもの。
高さ24メートルの巨大な大鳥居は、笠木の下に島木をつけ、やや反りを加えた明神型。
どっしりと安定して見えるのは、柱と柱のあいだの長さと貫(梁)までの高さがほぼ同じで、鳥居内部の空間がほぼ正方形をしているからかもしれません。
京都国立美術館の2階ロビーから眺めた大鳥居 |
京都府立図書館、明治42(1909)年、武田五一設計 |
近代美術館のとなりにある、京都府立図書館。
当時の面影を残すのは外壁のみですが、こちらも武田五一の設計。
「京都図書館」の文字も当時のまま |
「京都図書館」の文字の上のイチョウの葉のモティーフは、ウィーン分離派の影響ではないかという指摘もあり、ほど良く甘美なデザイン。
金色の縁取りや、ところどころに配された曲線モティーフなど、世紀末的な装飾性が見られるのも特徴です。
通気口もおしゃれ |
孔雀でしょうか?
細部にもさりげなく遊び心が生かされていて、やっぱり近代建築は魅力的。
2018年6月5日火曜日
粟田神社と粟田口~《小鍛冶》と《粟田口》の聖地
三条通をはさんで合槌稲荷神社の向かいに立つのが、粟田神社。
(同じく、地下鉄東西線東山駅から徒歩3分)
こちらも能《小鍛冶》の聖地で、三条小鍛冶宗近を祀る末社があります。
主祭神は、素戔嗚尊(牛頭天王)と大己貴命。
八坂神社(感神院祇園社)と祭神が同じことから、かつては感神院新宮と呼ばれていたといいます(明治期に「粟田神社」と改名)。
御由緒によると、粟田祭で神輿に先行して巡幸する「剣鉾」は祇園祭の「山鉾」の原形と考えられ、室町時代、祇園会が行われない際には粟田祭が祇園会の代わりになったそうです。
刀剣の神様だから、魔を祓う凄い威力があると信じられていたのですね。
鳥居から本殿へは石階段をけっこう登っていきます。
参拝者はほとんどなく、ちょうど石段を下りてくる羽織袴の若い男性とすれ違いました。能楽師さんではないけれど一般の人でもない感じ。長唄(三味線)か何かの方でしょうか。
(長唄にも《小鍛冶》がありますから、舞台の成功祈願?)
京都では和装をさりげなく、素敵に着こなす男性をよく見かけます。
↓石段の途中にある駐車場の片隅にあるのが、小鍛冶宗近を祀る鍛冶神社。
立看板の「祭神」の下(右端)に、「三条小鍛冶宗近命」と記されているのが見えるでしょうか。
「とにもかくにも宗近」が神様になりはったんですね。
ほかには、鎌倉中期の名工・粟田口藤四郎吉光と、天目一筒神(鍛冶・製鉄の神&ひょっとこ(火男)の原型)が祀られています。
石段を登りきると小高い境内。平安神宮の赤い鳥居がよく見えます。
自然と伝統が調和した、美しい風景。
本殿の正面にある舞殿。
10月半ばの粟田祭の際には、ここで舞楽が奉納されるそうです。
行ってみたいなー。
鏡板に影向の松が描かれているので、能舞台でしょうか。
本殿の斜め脇にあるのですが、お祭りの際に使われた張り子のキャラクターが飾られていて、能舞台としては全然使われていないようす。
もったいない……。
通常の能舞台よりも小さめなので、ここで本格的な能の上演は難しいのでしょうが、小鍛冶の聖地で能《小鍛冶》を観てみたいものです。
こちらが御本殿。青紅葉が涼やか。
どこか愛嬌のある狛犬さん。
三条小鍛冶宗近の合槌を打った雪丸稲荷を祀る北向稲荷社。
粟田神社をあとにして坂を下っていくと、京の七口(京に通じる主要出入口)のひとつ、粟田口の碑があります。
京都市によると、「粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲にわたる地名」のことだそう。
平安末以降、この付近は刀鍛冶たちの居住地となり、粟田口産の名刀は「粟田口」と呼ばれました。
これが狂言《粟田口》のモティーフになるのは周知のとおり。
能・狂言の世界に浸りながら京の町を歩くと、過去と現在、虚構と現実が何の矛盾もなく共存しているのを感じます。
粟田口の碑から白川沿いに出て、少し奥まった路地に入ると、日本の歴史を大きく変えた人物が、しずかに、ひっそりと祀られた祠があります。
これも京都市によると、天王山の戦いで敗れた明智光秀は、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃。
家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられているそうです。
こんなふうに、狭い路地の片隅にひっそりと祀られた塚を目にすると、陸奥行脚の途中で、実方の塚を見て歌を手向ける西行法師になったような気分になります。
西行のようにふさわしい歌は詠めないので、光秀の辞世を記しておきます。
(「名をも惜まじ」というところが、明智光秀の生きざまをあらわしているように思います。)
心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ
(同じく、地下鉄東西線東山駅から徒歩3分)
こちらも能《小鍛冶》の聖地で、三条小鍛冶宗近を祀る末社があります。
旧社名「感神院新宮」 |
主祭神は、素戔嗚尊(牛頭天王)と大己貴命。
八坂神社(感神院祇園社)と祭神が同じことから、かつては感神院新宮と呼ばれていたといいます(明治期に「粟田神社」と改名)。
御由緒によると、粟田祭で神輿に先行して巡幸する「剣鉾」は祇園祭の「山鉾」の原形と考えられ、室町時代、祇園会が行われない際には粟田祭が祇園会の代わりになったそうです。
刀剣の神様だから、魔を祓う凄い威力があると信じられていたのですね。
鍛冶神社 |
鳥居から本殿へは石階段をけっこう登っていきます。
参拝者はほとんどなく、ちょうど石段を下りてくる羽織袴の若い男性とすれ違いました。能楽師さんではないけれど一般の人でもない感じ。長唄(三味線)か何かの方でしょうか。
(長唄にも《小鍛冶》がありますから、舞台の成功祈願?)
京都では和装をさりげなく、素敵に着こなす男性をよく見かけます。
↓石段の途中にある駐車場の片隅にあるのが、小鍛冶宗近を祀る鍛冶神社。
刃物・鍛冶の守神、勝運・開運の神「鍛冶神社」 |
立看板の「祭神」の下(右端)に、「三条小鍛冶宗近命」と記されているのが見えるでしょうか。
「とにもかくにも宗近」が神様になりはったんですね。
ほかには、鎌倉中期の名工・粟田口藤四郎吉光と、天目一筒神(鍛冶・製鉄の神&ひょっとこ(火男)の原型)が祀られています。
境内からの見晴らし |
石段を登りきると小高い境内。平安神宮の赤い鳥居がよく見えます。
自然と伝統が調和した、美しい風景。
舞殿 |
本殿の正面にある舞殿。
10月半ばの粟田祭の際には、ここで舞楽が奉納されるそうです。
行ってみたいなー。
能舞台(神楽殿?) |
鏡板に影向の松が描かれているので、能舞台でしょうか。
本殿の斜め脇にあるのですが、お祭りの際に使われた張り子のキャラクターが飾られていて、能舞台としては全然使われていないようす。
もったいない……。
通常の能舞台よりも小さめなので、ここで本格的な能の上演は難しいのでしょうが、小鍛冶の聖地で能《小鍛冶》を観てみたいものです。
本殿 |
こちらが御本殿。青紅葉が涼やか。
狛犬さん |
どこか愛嬌のある狛犬さん。
北向稲荷社 |
雪丸稲荷を祀る北向稲荷 |
三条小鍛冶宗近の合槌を打った雪丸稲荷を祀る北向稲荷社。
粟田口の碑 |
粟田神社をあとにして坂を下っていくと、京の七口(京に通じる主要出入口)のひとつ、粟田口の碑があります。
京都市の立看板 |
京都市によると、「粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲にわたる地名」のことだそう。
平安末以降、この付近は刀鍛冶たちの居住地となり、粟田口産の名刀は「粟田口」と呼ばれました。
これが狂言《粟田口》のモティーフになるのは周知のとおり。
能・狂言の世界に浸りながら京の町を歩くと、過去と現在、虚構と現実が何の矛盾もなく共存しているのを感じます。
明智光秀の塚 |
粟田口の碑から白川沿いに出て、少し奥まった路地に入ると、日本の歴史を大きく変えた人物が、しずかに、ひっそりと祀られた祠があります。
これも京都市によると、天王山の戦いで敗れた明智光秀は、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃。
家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられているそうです。
こんなふうに、狭い路地の片隅にひっそりと祀られた塚を目にすると、陸奥行脚の途中で、実方の塚を見て歌を手向ける西行法師になったような気分になります。
西行のようにふさわしい歌は詠めないので、光秀の辞世を記しておきます。
(「名をも惜まじ」というところが、明智光秀の生きざまをあらわしているように思います。)
心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ
2018年6月4日月曜日
合槌稲荷神社~能《小鍛冶》の聖地
京都観世会館の最寄り駅・地下鉄東西線東山駅から歩いて3分。
三条通に面してひっそりと存在するのが、能《小鍛冶》の聖地、合槌稲荷。
鳥居は大通りに面していますが、お社自体は、民家のあいだをグングン進んだずっと奥のほうにあります。
《小鍛冶》を上演する際、能楽師さんもここを訪れることがあるのだとか。
謡曲史跡保存会による由来看板によると、「ここは刀匠・小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の南側、粟田口にあったと伝える」とあり、
また「稲荷明神の神助を得て、名劔小狐丸をうった伝説は有名で、謡曲「小鍛冶」もこれをもとにして作られているが、そのとき合槌をつとめて(た?)明神を祀ったのが、ここだともいう」とされています。
電話の話し声やテレビの音など生活音がするなか、民家のあいだをずーっと入って行くので、刀剣乱舞ブームでファンが押し掛けた時には物議をかもしたそうです。
幸い、この日はほかに参拝者もなく、恐る恐る、狭い路地裏(というか、民家の私道?)に入らせていただきました。
(洗濯物とかも干していらっしゃるので、なんか、恐縮です……。民家の壁が薄くて、まさに「壁に耳~」の世界。)
狭い路地裏からパッと視界が開けて現れたのは、正一位合槌稲荷大明神の祠!
いろんな小鍛冶を見てきたけれど、とくに銕仙会で観た片山九郎右衛門さんの《小鍛冶・黒頭》は忘れられない。
今年も秋に九郎右衛門さんの《小鍛冶》を観る予定。
ホール能だけど、楽しみ♪
三条通に面してひっそりと存在するのが、能《小鍛冶》の聖地、合槌稲荷。
刀剣・刃物関係の寄進による鳥居 |
鳥居は大通りに面していますが、お社自体は、民家のあいだをグングン進んだずっと奥のほうにあります。
《小鍛冶》を上演する際、能楽師さんもここを訪れることがあるのだとか。
由来看板 |
謡曲史跡保存会による由来看板によると、「ここは刀匠・小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の南側、粟田口にあったと伝える」とあり、
また「稲荷明神の神助を得て、名劔小狐丸をうった伝説は有名で、謡曲「小鍛冶」もこれをもとにして作られているが、そのとき合槌をつとめて(た?)明神を祀ったのが、ここだともいう」とされています。
電話の話し声やテレビの音など生活音がするなか、民家のあいだをずーっと入って行くので、刀剣乱舞ブームでファンが押し掛けた時には物議をかもしたそうです。
幸い、この日はほかに参拝者もなく、恐る恐る、狭い路地裏(というか、民家の私道?)に入らせていただきました。
(洗濯物とかも干していらっしゃるので、なんか、恐縮です……。民家の壁が薄くて、まさに「壁に耳~」の世界。)
合槌稲荷大明神の祠 |
狭い路地裏からパッと視界が開けて現れたのは、正一位合槌稲荷大明神の祠!
いろんな小鍛冶を見てきたけれど、とくに銕仙会で観た片山九郎右衛門さんの《小鍛冶・黒頭》は忘れられない。
今年も秋に九郎右衛門さんの《小鍛冶》を観る予定。
ホール能だけど、楽しみ♪
近くに咲いていた白い紫陽花 |
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