2015年6月27日(土) 10~18時 国立能楽堂
【出演シテ方:舞囃子出演順】
和久荘太郎
坂口貴信
片山九郎右衛門
谷本健吾
辰巳満次郎
川口晃平
木月孚行
朝倉俊樹
亀井保雄
観世銕之丞
観世喜正
山崎正道
高橋章
梅若紀彰
梅若玄祥
観世清和
浅井文義
大坪喜美雄
【囃子方:出演順】
一噌隆之
飯田清一
金春國直
鵜澤洋太郎
藤田六郎兵衛
杉信太朗
観世新九郎
幸正昭
観世元伯
大倉源次郎
亀井俊一
松田弘之
亀井広忠
田中傳左衛門
田中傳次郎
卒倒しそうなくらい絢爛豪華な社中会。
まさにシテ方の競演、素人の方々もとてもうまく、たいへん見応えがあった。
なかでも、九郎右衛門さんと紀彰さん。
犬王と世阿弥の立合もかくやらんと思うほどの凄まじくも美しい対決で、
思わず身を乗り出しそうになってしまう。
お二人とも季節先取りで絽の紋付をお召になっていて、
紀彰さんは地謡の時は黒紋付、舞囃子の時は《邯鄲》と《安宅・延年之舞》の時とでそれぞれ違う趣味の好い色紋付袴をお召になっていた。
そして、お二人とも舞囃子2番を舞われたのだけれど、
ともに2番目の、紀彰さんの《安宅》と九郎右衛門さんの《歌占》が最高に素晴らしく
(気迫みなぎる延年之舞と鬼気迫る地獄の曲舞、見事な技の連続に背筋がゾクゾクした)、
いずれも能1番を拝見したような充実感・大満足感。
この二人の舞台はなるべく見ておきたい。
とりあえず、来月の銕仙会と梅若会が楽しみ!!
観世宗家は明らかに社中会モードで、脱力した舞。
玄人会の「これぞ!」という舞台の時と、気の放出量がぜんぜん違う(笑)。
社中会に御出演される時は、きれいだけれど、どこか放心したような感じになるのですね。
囃子方で印象に残ったのは、金春國直さん。
この半年間で長足の進歩を遂げられて、そうそうたるメンバーの中で堂々と、御家元らしい風格を漂わせながら演奏していらっしゃった。
なんだか感無量。
(わたしも國直さんと同じ年のころに父を亡くしたので、よけいに感慨深いのかもしれない。)
それにしても九郎右衛門さん、忙しすぎじゃないかな。
この日もとんぼ返りで翌日は京都観世会館で《采女》のシテ、
その次の日は京都能楽養成会発表会の監督(?)。
そして次の週末は、東京の観世会で《西行桜》のシテ。
さらにその週の金曜日は銕仙会で《是界》のシテ。
その次の週末は大津で《蝉丸》のシテ。
それぞれの舞台の合間に、素人玄人弟子と御子息のお稽古、地方の小中学校巡業、各理事のお仕事、そしてご自分のお稽古……。
うーん、ファンとしてはお身体が心配です。
九郎右衛門さんはどんな舞台でも(社中会の地謡でも)全力投球されるし、
そこがいいところで、そのひたむきな姿に憧れ、惹かれるのだけれど。
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2015年6月29日月曜日
2015年6月17日水曜日
鼓調会
目眩がするほど豪華な社中会。
(以下はメモ)
囃子方社中会の舞囃子は、観能歴の浅い私にとって「動くカタログ」のようなもの。
初めて拝見する方もいらっしゃったので、公演を選ぶ際の参考になる。
舞囃子でとりわけ印象に残ったシテ方さん(敬称略)。
浅見重好
北浪貴裕
中村邦生
長島茂
武田尚浩
武田志房
関根知孝
特に武田志房師の《砧》(後)は、地謡・お囃子ともに素晴らしく、感動で鳥肌が立った。
さて、大注目の能《道成寺》。
大鼓を打たれる社中の方は、たしか去年、元伯さんの矢車会で観世家元を相手に能《巻絹》で太鼓を打たれた方。
その数年前には山本東次郎師を相手に、三番叟の大鼓も打ったというスーパー素人さん。
舞台度胸もあって、そうそうたる顔ぶれの中でも堂々とされていて、
実力・財力・体力の三拍子がこれだけそろった方もそういない。
私のような縁もゆかりもない一般庶民にもお土産(道成寺にちなんで龍村の鱗権太夫文経錦。魔除けになるのだそう)までいただいて忝い。
《道成寺》のお囃子は、神遊の囃子方メンバーを1人入れ替えたような構成。
その中で、社中の方はほんとうに素晴らしい演奏で、通常は掛け声がネックになるのだが、女性でこれだけ気迫のこもった掛け声を出せる人も稀だと思う。
(手も相当痛いと思うし)
他のメンバーも気合が入っていて、
今までノーマークだった新九郎さん、
だてに観世新九郎を名乗っているわけじゃないって実感。
元伯さんはお弟子さんが隣で熱演されているせいか、ほとんど神憑っていて、人間業とは思えないイノリの太鼓。
ビリビリとした強力な呪力を感じさせる表現力。
前日の青翔会で玄人弟子の澤田さんの太鼓を褒めたばかりだけれど、弟子が向上すれば、師匠はさらに高みに昇る。
追う者と追われる者の相乗効果を見た気がした。
シテの岡久広師も、前場の登場から蛇というか、爬虫類を感じさせる不気味なハコビで、この方も良い意味でそれまでの印象を覆してくれた。
(以下はメモ)
囃子方社中会の舞囃子は、観能歴の浅い私にとって「動くカタログ」のようなもの。
初めて拝見する方もいらっしゃったので、公演を選ぶ際の参考になる。
舞囃子でとりわけ印象に残ったシテ方さん(敬称略)。
浅見重好
北浪貴裕
中村邦生
長島茂
武田尚浩
武田志房
関根知孝
特に武田志房師の《砧》(後)は、地謡・お囃子ともに素晴らしく、感動で鳥肌が立った。
さて、大注目の能《道成寺》。
大鼓を打たれる社中の方は、たしか去年、元伯さんの矢車会で観世家元を相手に能《巻絹》で太鼓を打たれた方。
その数年前には山本東次郎師を相手に、三番叟の大鼓も打ったというスーパー素人さん。
舞台度胸もあって、そうそうたる顔ぶれの中でも堂々とされていて、
実力・財力・体力の三拍子がこれだけそろった方もそういない。
私のような縁もゆかりもない一般庶民にもお土産(道成寺にちなんで龍村の鱗権太夫文経錦。魔除けになるのだそう)までいただいて忝い。
《道成寺》のお囃子は、神遊の囃子方メンバーを1人入れ替えたような構成。
その中で、社中の方はほんとうに素晴らしい演奏で、通常は掛け声がネックになるのだが、女性でこれだけ気迫のこもった掛け声を出せる人も稀だと思う。
(手も相当痛いと思うし)
他のメンバーも気合が入っていて、
今までノーマークだった新九郎さん、
だてに観世新九郎を名乗っているわけじゃないって実感。
元伯さんはお弟子さんが隣で熱演されているせいか、ほとんど神憑っていて、人間業とは思えないイノリの太鼓。
ビリビリとした強力な呪力を感じさせる表現力。
前日の青翔会で玄人弟子の澤田さんの太鼓を褒めたばかりだけれど、弟子が向上すれば、師匠はさらに高みに昇る。
追う者と追われる者の相乗効果を見た気がした。
シテの岡久広師も、前場の登場から蛇というか、爬虫類を感じさせる不気味なハコビで、この方も良い意味でそれまでの印象を覆してくれた。
第7回 青翔会《竹生島》
2015年6月15日(月) 13時開演 国立能楽堂
地謡 野村万蔵 河野祐紀 能村晶人
地謡 金春憲和 中村昌弘 政木哲司 中村一路
地謡 今井泰行 辰巳満次郎 野月聡
佐野玄宜 金井賢郎
小野寺竜一 曽和伊喜夫 亀井洋佑
熊本俊太郎 岡本はる奈 柿原孝則 金春國直
後見 観世銕之丞 山階彌右衛門
地謡 観世芳伸 浅井文義 浅見重好 清水義也
木月章行 青木健一 竹田崇史 久田勘吉郎
久々の完売満席の青翔会。
狂言小舞は、初舞台の石坂正義さんと上杉啓太さん。
仕舞っぽいけれど、仕舞との違いは、角でカザシ扇などないところとか、いろいろ。
でも、紋付き袴で舞うせいか、常の狂言よりもキリッとしている。
金春流の舞囃子《小袖曽我》
リアル兄弟で息もぴったり。
地頭の金春憲和さんは、前回の青翔会の舞囃子でも注目していたシテ方さん。
今回も独特の謡ではあるけれど、とてもよかった。
布由樹さんは、あの体型でこれだけ舞えるのは凄いと思う。
逆にもう少し身軽になったほうがもっと素敵になるだろうし、
腰や膝を傷めずに済むだろうから、この夏はダイエット、がんばれ!
宝生流の舞囃子《邯鄲》
シテも囃子も地謡もとても良かった!
特に澤田晃良さん、さすがは元伯さんのお弟子さんだけあって、打音の響きも掛け声も良く、撥皮を外す粒もほとんどなくて正確な演奏。
去年の東西合同研究発表会のときも上手い思ったけれど、さらに前進されていた。
盧生が夢から覚める時のクライマックスで転調するところも、ドラマティックに盛り上げて観客を惹きつけていた。
能《竹生島》
これもよかったです。
なんと言っても、いちばん良かったのが、笛の熊本俊太郎さん。
個人的に、笛の流儀の中では森田流寺井家の笛がいちばん好きで、
以前、熊本さんの笛を聴いた時、
(久八郎家のお弟子さんだけれど)、中谷明そっくりに聴こえたのです。
お笛の扱いも、寺井宏明譲りの、それはそれは美しい所作。
この日は残念ながら作り物のせいで、優雅な所作は見えなかったのですが、
笛は寺井家独特のとらえどころのない神秘的な音色で、
いつまでも聴いていたかったほど。
ツレの小早川泰輝さんは地謡以外では初めて拝見するのですが、
全体的にとても細やかに演じていらっしゃって、上手いシテ方さんですね。
舟に乗る時の足遣いや裾さばきも、女体らしい奥ゆかしさが感じられて、
将来が楽しみ。
シテの安藤貴康さんは、私が社会人になって初めて観た舞台(当時の研鑽会)で、
舞囃子《葛城》を舞われていた方で、「人間がこのように美しい動きをするものなのか」と
感動したのを覚えています。
いわば私にお能への扉を開いてくださった方。
地謡前列に座っていらっしゃる時の、扇を扱う丁寧な「間」を拝見すると、
とても素質のある方なのが分かる。
足のハコビはきれいだし、後シテの幕離れも颯爽としてカッコよかった!
(早笛の龍神出はこうでなくっちゃ。)
後場は全体的に良く、キレもあり、青翔会としては前回に引き続きハイレベルで楽しめた。
狂言小舞 《宇治の晒》 石坂正義
《鵜の舞》 上杉啓太地謡 野村万蔵 河野祐紀 能村晶人
舞囃子 《小袖曽我》 本田芳樹 本田布由樹
高村裕 清水和音 大倉慶乃助地謡 金春憲和 中村昌弘 政木哲司 中村一路
舞囃子 《邯鄲》 佐野弘宜
小野寺竜一 曽和伊喜夫 亀井洋佑 澤田晃良地謡 今井泰行 辰巳満次郎 野月聡
佐野玄宜 金井賢郎
狂言 《柿山伏》山伏 野村虎之介 畑主 能村晶人
後見 野村万蔵小野寺竜一 曽和伊喜夫 亀井洋佑
能 《竹生島》シテ 安藤貴康 ツレ 小早川泰輝
ワキ矢野昌平 村瀬提 村瀬慧 アイ河野佑紀熊本俊太郎 岡本はる奈 柿原孝則 金春國直
後見 観世銕之丞 山階彌右衛門
地謡 観世芳伸 浅井文義 浅見重好 清水義也
木月章行 青木健一 竹田崇史 久田勘吉郎
久々の完売満席の青翔会。
狂言小舞は、初舞台の石坂正義さんと上杉啓太さん。
仕舞っぽいけれど、仕舞との違いは、角でカザシ扇などないところとか、いろいろ。
でも、紋付き袴で舞うせいか、常の狂言よりもキリッとしている。
金春流の舞囃子《小袖曽我》
リアル兄弟で息もぴったり。
地頭の金春憲和さんは、前回の青翔会の舞囃子でも注目していたシテ方さん。
今回も独特の謡ではあるけれど、とてもよかった。
布由樹さんは、あの体型でこれだけ舞えるのは凄いと思う。
逆にもう少し身軽になったほうがもっと素敵になるだろうし、
腰や膝を傷めずに済むだろうから、この夏はダイエット、がんばれ!
宝生流の舞囃子《邯鄲》
シテも囃子も地謡もとても良かった!
特に澤田晃良さん、さすがは元伯さんのお弟子さんだけあって、打音の響きも掛け声も良く、撥皮を外す粒もほとんどなくて正確な演奏。
去年の東西合同研究発表会のときも上手い思ったけれど、さらに前進されていた。
盧生が夢から覚める時のクライマックスで転調するところも、ドラマティックに盛り上げて観客を惹きつけていた。
能《竹生島》
これもよかったです。
なんと言っても、いちばん良かったのが、笛の熊本俊太郎さん。
個人的に、笛の流儀の中では森田流寺井家の笛がいちばん好きで、
以前、熊本さんの笛を聴いた時、
(久八郎家のお弟子さんだけれど)、中谷明そっくりに聴こえたのです。
お笛の扱いも、寺井宏明譲りの、それはそれは美しい所作。
この日は残念ながら作り物のせいで、優雅な所作は見えなかったのですが、
笛は寺井家独特のとらえどころのない神秘的な音色で、
いつまでも聴いていたかったほど。
ツレの小早川泰輝さんは地謡以外では初めて拝見するのですが、
全体的にとても細やかに演じていらっしゃって、上手いシテ方さんですね。
舟に乗る時の足遣いや裾さばきも、女体らしい奥ゆかしさが感じられて、
将来が楽しみ。
シテの安藤貴康さんは、私が社会人になって初めて観た舞台(当時の研鑽会)で、
舞囃子《葛城》を舞われていた方で、「人間がこのように美しい動きをするものなのか」と
感動したのを覚えています。
いわば私にお能への扉を開いてくださった方。
地謡前列に座っていらっしゃる時の、扇を扱う丁寧な「間」を拝見すると、
とても素質のある方なのが分かる。
足のハコビはきれいだし、後シテの幕離れも颯爽としてカッコよかった!
(早笛の龍神出はこうでなくっちゃ。)
後場は全体的に良く、キレもあり、青翔会としては前回に引き続きハイレベルで楽しめた。
2015年6月14日日曜日
片山九郎右衛門 ~ 能の世界
2015年6月13日(土) 15時~17時 東洋大学・井上円了ホール
【第1部 能役者としての道】
1 少年時代、《羽衣》キリ謡のお稽古体験
2 父である片山幽雪氏から学んだこと
3 仕舞《岩船》の実演
九郎右衛門さん、清愛さんの初シテ《岩船》の映像
4 道成寺・披きについて
5 幽雪氏の思い出、片山家について
6 独吟《江口》
8 片山九郎右衛門という名を受け継ぐことについて
9 能の普及活動について、
絵本『天狗の恩返し』《大会》の朗読
10 伝統的な枠組みから離れた現代的な試みについて
11 舞囃子《獅子》
(DVD『片山清司・日本伝統文化振興財団賞受賞』をBGMにして)
哲学堂には行ったことがあるけれど、井上円了ホールには初めて。
3年前にはイェーツ原作の《鷹姫》(九郎右衛門さんが鷹姫役)が上演されたそう。
行きたかったなー。
この日は600席がほぼ満席。
「京都在住の私の講演にこんなに多くの人が集まってくださって」と、
九郎右衛門さんの衒いのない言葉。
今回、はじめて謡以外の九郎右衛門さんの生の声とお人柄に触れたのだけれど、
ほんとうに自然体で飾り気のない方で、そしてちょっとお茶目で、真っ直ぐで、
それでいて「ああ、やっぱりB型やな(笑)」と思う部分もあり、とにかく魅力的な方でした。
お話の内容は、過去のインタビュー記事とほとんど同じものでしたが、
九郎右衛門さんのソフトな語り口でうかがうと楽しさ倍増。
冗談交じりで話されていたけれど、ほんとうは想像を絶するほどの厳しい芸の世界で生きてこられたのだと思う。
まずは少年(幼年)時代の思い出。
能楽師の片山家と京舞の井上流のお稽古場兼住居のような環境で、人間国宝の祖母・父をはじめ、お弟子さん・門下の方々やら舞妓さん・芸妓さんやらに囲まれて育ち、扇はおもちゃのようなもので、子方として立った舞台はお遊戯のようなものだったという。
それがある時から「親父が豹変した」。
ある日、社中会で謡を間違えたところ、楽屋で幽雪さんから部屋の壁に吹き飛ばされるくらいの勢いで、ボコボコに殴られたそうです。
以来、超スパルタで、子方で舞台に出ると、鏡の間で親父(幽雪さん)が仁王立ちになって待ちかまえているので、揚幕の中に帰るのがとても怖かったとのこと。
中学時代に観世寿夫師に弟子入りする話が出ていたけれど、早くに亡くなられたため、高校時代には8世銕之亟に九郎右衛門(清司)さんが直談判して弟子入りしたのだが、それを聞いた幽雪さんが怒って1月以上口を聞いてくれなかったのを、4世井上八千代(清司さんのお祖母様)が仲介しておさまったという。
8世銕之亟(静夫)と9世九郎右衛門(幽雪)とは、同じ華雪・雅雪の弟子でありながら、2人の教えはまったく違っていたので、清司少年は混乱したのだそう。
特に19歳で《道成寺》を披いた時は、2人の師がまったく正反対のことを言うので大変迷ったが、能の答えは1つではないことを悟ったとのこと。
幽雪さんの老女物、特に《姨捨》からは、偏りのない光(無偏光)であまねく照らす月と戯れる、可愛らしく品の良い老女の姿と、理屈抜きの教えを学んだという。
最晩年の幽雪さんのお能は、傍目からは工夫や発見に見えても、「身体がこうしか動かんのや」という状態から生まれたもので、これこそ老後の初心であり、巌に花の咲かんがごとし、ということではなかったのかと、「能には果てあるべからず」という言葉を父・幽雪の姿から実感した、というようなことをおっしゃっていました。
こうしたお話の合間に、《羽衣》の謡のお稽古体験がありました。
難しい節付けは抜きで、「立てる人は立ち上がって、向こうの壁に声がぶつかって跳ね返ってくるくらいの大きな声で謡ってください」という御指導があり、観客一同起立して、思いっきり大きな声で「東遊のかずかずに」を熱唱。
立ちあがって謡うのは初めてだったのですが、本当にお腹の底の底から声を出すのって気持ちいい!
そのほか、九郎右衛門さんの初シテ《岩船》の映像と、清愛さんの初シテの映像が、背後のスクリーンに流れたのですが、照明を落としてなかったので、影のように薄く、あまり見えなかったのが残念。
その後、九郎右衛門さんの仕舞《岩船》の実演。
これは九郎右衛門さん自身が謡いながら舞うので、ちょっと大変そうでした。
最後の《獅子》の舞囃子の時も(舞囃子といっても、お囃子はつかず、私も持っているDVD『片山清・日本伝統文化振興財団賞受賞』の音をBGMにして九郎右衛門さんが《石橋》を舞うもの)、ホールの壇上の舞台では、能舞台とは違って着地した時の衝撃が強く、滑りやすそうなので、飛び返りや飛び安座などのアクロバティックな型の多い《獅子》では、大事なお身体を傷めるのではないかとちょっとハラハラ。
やっぱり能楽堂と比べると、ホールの舞台では、九郎右衛門さんの芸の魅力を十分の一も伝えきれない。
それだけ能舞台はお能に最適な優れた装置なのですね。
ちょっと話が飛んだけど、第一部の最後は幽雪さんに捧げる《江口》の独吟で終わったのでした。
休憩をはさんで、第二部で特に良かったのが、九郎右衛門さんの絵本『天狗の恩返し』の朗読。
『天狗の恩返し』はお能の《大会》を絵本化もの。
お能の《大会》では天狗が帝釈天に懲らしめられ、退散するところで終わるのですが、
九郎右衛門さんの絵本は、天狗に対する眼差しがやさしく、天狗と僧侶の心の交流もていねいに描かれていて、心あたたまる物語になっています。
九郎右衛門さんが書いた言葉は愛情に満ちていて、それが、スクリーンに映し出された挿絵と見事に溶け合い、どんどん引き込まれていきました。
九郎右衛門さんは「朗読のプロじゃないから」と謙遜されていたけれど、
俳優や声優さんの朗読よりも、やさしく、誠実な声で、
幼いころに両親や親せきのお兄さんに読み聞かせをしてもらった記憶が
よみがえってくるようで、懐かしく、心が和みます。
(九郎右衛門さんの絵本朗読CD、ぜひぜひ出してください。)
小中学生にお能について教える際の「有機的な教材」がほしいという理由から、
こうした絵本を制作されたそうですが、ほんとうに生気の宿った、ぬくもりのある絵本。
私が九郎右衛門さんの舞台に惹かれる理由のひとつも、抽象的な型の中に、
有機的で血の通った何かを感じるからかもしれません。
「どんな人に能楽師になってほしいですか?」という質問に、
「何かに傷つき、喜ぶ人間。シティボーイではなく、私のようにジャガイモのような感じの、鬼の気持ちも分るような人間ですね」と答えていらっしゃったのも九郎右衛門さんらしい。
絵本を朗読する九郎右衛門さん自身もとても楽しそうで、
会場全体がほんわりした空気に包まれた幸せな時間でした。
この方って、清濁併せのむことは多々多々あるだろうけれど、
泥の中に咲く白い蓮の花のような、名前通りの心の清らかな人なんだろうな。
追記: 東洋大学のサイトに当日の動画が公開されていました。
https://www.toyo.ac.jp/site/koza/77997.html
【第1部 能役者としての道】
1 少年時代、《羽衣》キリ謡のお稽古体験
2 父である片山幽雪氏から学んだこと
3 仕舞《岩船》の実演
九郎右衛門さん、清愛さんの初シテ《岩船》の映像
4 道成寺・披きについて
5 幽雪氏の思い出、片山家について
6 独吟《江口》
【第2部 現在の活動】
7 世阿弥について8 片山九郎右衛門という名を受け継ぐことについて
9 能の普及活動について、
絵本『天狗の恩返し』《大会》の朗読
10 伝統的な枠組みから離れた現代的な試みについて
11 舞囃子《獅子》
(DVD『片山清司・日本伝統文化振興財団賞受賞』をBGMにして)
哲学堂には行ったことがあるけれど、井上円了ホールには初めて。
3年前にはイェーツ原作の《鷹姫》(九郎右衛門さんが鷹姫役)が上演されたそう。
行きたかったなー。
この日は600席がほぼ満席。
「京都在住の私の講演にこんなに多くの人が集まってくださって」と、
九郎右衛門さんの衒いのない言葉。
今回、はじめて謡以外の九郎右衛門さんの生の声とお人柄に触れたのだけれど、
ほんとうに自然体で飾り気のない方で、そしてちょっとお茶目で、真っ直ぐで、
それでいて「ああ、やっぱりB型やな(笑)」と思う部分もあり、とにかく魅力的な方でした。
お話の内容は、過去のインタビュー記事とほとんど同じものでしたが、
九郎右衛門さんのソフトな語り口でうかがうと楽しさ倍増。
冗談交じりで話されていたけれど、ほんとうは想像を絶するほどの厳しい芸の世界で生きてこられたのだと思う。
まずは少年(幼年)時代の思い出。
能楽師の片山家と京舞の井上流のお稽古場兼住居のような環境で、人間国宝の祖母・父をはじめ、お弟子さん・門下の方々やら舞妓さん・芸妓さんやらに囲まれて育ち、扇はおもちゃのようなもので、子方として立った舞台はお遊戯のようなものだったという。
それがある時から「親父が豹変した」。
ある日、社中会で謡を間違えたところ、楽屋で幽雪さんから部屋の壁に吹き飛ばされるくらいの勢いで、ボコボコに殴られたそうです。
以来、超スパルタで、子方で舞台に出ると、鏡の間で親父(幽雪さん)が仁王立ちになって待ちかまえているので、揚幕の中に帰るのがとても怖かったとのこと。
中学時代に観世寿夫師に弟子入りする話が出ていたけれど、早くに亡くなられたため、高校時代には8世銕之亟に九郎右衛門(清司)さんが直談判して弟子入りしたのだが、それを聞いた幽雪さんが怒って1月以上口を聞いてくれなかったのを、4世井上八千代(清司さんのお祖母様)が仲介しておさまったという。
8世銕之亟(静夫)と9世九郎右衛門(幽雪)とは、同じ華雪・雅雪の弟子でありながら、2人の教えはまったく違っていたので、清司少年は混乱したのだそう。
特に19歳で《道成寺》を披いた時は、2人の師がまったく正反対のことを言うので大変迷ったが、能の答えは1つではないことを悟ったとのこと。
幽雪さんの老女物、特に《姨捨》からは、偏りのない光(無偏光)であまねく照らす月と戯れる、可愛らしく品の良い老女の姿と、理屈抜きの教えを学んだという。
最晩年の幽雪さんのお能は、傍目からは工夫や発見に見えても、「身体がこうしか動かんのや」という状態から生まれたもので、これこそ老後の初心であり、巌に花の咲かんがごとし、ということではなかったのかと、「能には果てあるべからず」という言葉を父・幽雪の姿から実感した、というようなことをおっしゃっていました。
こうしたお話の合間に、《羽衣》の謡のお稽古体験がありました。
難しい節付けは抜きで、「立てる人は立ち上がって、向こうの壁に声がぶつかって跳ね返ってくるくらいの大きな声で謡ってください」という御指導があり、観客一同起立して、思いっきり大きな声で「東遊のかずかずに」を熱唱。
立ちあがって謡うのは初めてだったのですが、本当にお腹の底の底から声を出すのって気持ちいい!
そのほか、九郎右衛門さんの初シテ《岩船》の映像と、清愛さんの初シテの映像が、背後のスクリーンに流れたのですが、照明を落としてなかったので、影のように薄く、あまり見えなかったのが残念。
その後、九郎右衛門さんの仕舞《岩船》の実演。
これは九郎右衛門さん自身が謡いながら舞うので、ちょっと大変そうでした。
最後の《獅子》の舞囃子の時も(舞囃子といっても、お囃子はつかず、私も持っているDVD『片山清・日本伝統文化振興財団賞受賞』の音をBGMにして九郎右衛門さんが《石橋》を舞うもの)、ホールの壇上の舞台では、能舞台とは違って着地した時の衝撃が強く、滑りやすそうなので、飛び返りや飛び安座などのアクロバティックな型の多い《獅子》では、大事なお身体を傷めるのではないかとちょっとハラハラ。
やっぱり能楽堂と比べると、ホールの舞台では、九郎右衛門さんの芸の魅力を十分の一も伝えきれない。
それだけ能舞台はお能に最適な優れた装置なのですね。
ちょっと話が飛んだけど、第一部の最後は幽雪さんに捧げる《江口》の独吟で終わったのでした。
休憩をはさんで、第二部で特に良かったのが、九郎右衛門さんの絵本『天狗の恩返し』の朗読。
『天狗の恩返し』はお能の《大会》を絵本化もの。
お能の《大会》では天狗が帝釈天に懲らしめられ、退散するところで終わるのですが、
九郎右衛門さんの絵本は、天狗に対する眼差しがやさしく、天狗と僧侶の心の交流もていねいに描かれていて、心あたたまる物語になっています。
九郎右衛門さんが書いた言葉は愛情に満ちていて、それが、スクリーンに映し出された挿絵と見事に溶け合い、どんどん引き込まれていきました。
九郎右衛門さんは「朗読のプロじゃないから」と謙遜されていたけれど、
俳優や声優さんの朗読よりも、やさしく、誠実な声で、
幼いころに両親や親せきのお兄さんに読み聞かせをしてもらった記憶が
よみがえってくるようで、懐かしく、心が和みます。
(九郎右衛門さんの絵本朗読CD、ぜひぜひ出してください。)
小中学生にお能について教える際の「有機的な教材」がほしいという理由から、
こうした絵本を制作されたそうですが、ほんとうに生気の宿った、ぬくもりのある絵本。
私が九郎右衛門さんの舞台に惹かれる理由のひとつも、抽象的な型の中に、
有機的で血の通った何かを感じるからかもしれません。
「どんな人に能楽師になってほしいですか?」という質問に、
「何かに傷つき、喜ぶ人間。シティボーイではなく、私のようにジャガイモのような感じの、鬼の気持ちも分るような人間ですね」と答えていらっしゃったのも九郎右衛門さんらしい。
絵本を朗読する九郎右衛門さん自身もとても楽しそうで、
会場全体がほんわりした空気に包まれた幸せな時間でした。
この方って、清濁併せのむことは多々多々あるだろうけれど、
泥の中に咲く白い蓮の花のような、名前通りの心の清らかな人なんだろうな。
追記: 東洋大学のサイトに当日の動画が公開されていました。
https://www.toyo.ac.jp/site/koza/77997.html
2015年6月5日金曜日
東京青雲会~《来殿》
2015年6月3日(水)14時始 宝生能楽堂
素謡 《放下僧》 シテ佐野弘宜 ツレ朝倉大輔 ワキ田崎甫
地謡 佐野玄宜 川瀬隆士 今井基
地謡 藪克徳 辰巳大二郎 金野泰大 金井賢郎
舞囃子《富士太鼓》 金森隆晋
小野寺竜一 住駒充彦 原岡一之
地謡 當山淳司 金森良充 田崎甫
朝倉大輔 藤井秋雅
小野寺竜一 住駒充彦 原岡一之 小寺真佐人
地謡 内藤飛能 當山淳司 辰巳大二郎 金野泰大
川瀬隆士 金井賢郎 藤井秋雅 上野能寛
後見 佐野玄宜 辰巳和磨
今回はシテ・ツレ・三役はもとより、後見・地謡もすべて若手による公演。
入梅したような雨模様の日でしたが、能楽堂の中は青い雲の広がる爽やかさ。
素謡 《放下僧》
シテ(佐野弘己宜さん)の姿が見えないと思ったら、ツレの後ろ、後列地頭の隣にいらっしゃったのでちょっとびっくり。
地謡の今井基さんがなぜか前列中央。
朝倉大輔さんが終始強い謡で、親の仇打ちに一心不乱に邁進する小次郎の一途で思いつめた感情を表現されていた。
敵役の田崎甫さんはよく通る声で、安定した美しい謡。
シテの佐野弘宜さんは比較的高い声で、磨けば美声になる可能性大。
地謡はまとまっていたけれど、悟りの境地を自然の諸相になぞらえたクセの部分はやや単調で、もう少し情趣豊かに謡ったほうがよかったかも。
とはいえ、「筆に書くとも及ばじ」からは朗々として美しく、「代々を重ねて」からクライマックスの仇討のシテツレ同吟までは臨場感のある盛り上がりで、引き込まれていきました。
全般的に宝生流の若手の謡は、詞章が聞き取りやすく、物語の中に入りやすい。
仕舞
《難波》の金森良充さん、丁寧に舞ってらっしゃいました。
《兼平》の辰巳和麿さんは、小柄な身体から発散される気とパワーが凄い!
緩急のついたメリハリのある舞姿は魅力的で、ふだんは可愛い顔立ちなんだけど、舞になると表情厳しく、満次郎さんに似てくる。
舞囃子《養老》 のシテは仕舞《半蔀》のシテと同様、きれいで折り目正しい。
舞囃子《富士太鼓》の金森隆晋さんが今回の青雲会ではいちばん印象的でした。
繊細優美な舞と透き通った謡。
少し肩のあたりが角張っていて緊張されているのかなと思ったら、首筋が汗でキラキラと光っていて、そのひたむきさに感動。
この方の鬘物も見てみたい。
ところで、笛の小野寺竜一さんは、きっちり精密に、唱歌どおりの笛を吹く方で、音があまりにも整っていてフルートのように感じてしまう。
私はうねりのある能管らしい不安定な音色が好きなので、整い過ぎた音を少しずつ崩していかれるといいのになー、というのが個人的希望。
能《来殿》
《雷電》ではなく、宝生流独自の《来殿》を拝見するのは初めてで、楽しみにしていました。
本来、宝生流にも観世流と同様の《雷電》という曲があったそうですが、菅原道真の後裔を称していた最大パトロン・前田家を憚って、15代宝生友干が改作した(道真の霊が雷神となって狼藉を働く部分をカットし、御代を寿ぐ舞を舞うという後場に仕立てた)のが、現在の《来殿》。
4年前に、当代家元によって復曲されたのが《雷電》とのことです(これは和英さんのシテでNHKでも放送されました)。
前場は、通常の《雷電》とほとんど同じで、面は怪士系のもの。
詞章も前場では《雷電》とそれほど変更はないけれど、顕著な違いは「死してのち梵天帝釈の憐れを蒙り、鳴雷となり内裏に飛び入り、われに憂かりし雲客を蹴殺すべし云々」のくだり。
《雷電》のこの周辺の暴力的な詞章部分がカットされて、「我無実の罪を蒙る事……いふより早く色変わり」という詞章に差し替えられている。
ちなみに、田中貴子著『あやかし考』によると、「蹴殺す」には「神による天罰・殺人」や「崇り殺すこと」という意味があり、さらにそこには竜のイメージが絡んでおり、竜の足の鋭い爪のイメージも重ね合わされているとのこと。
夢ねこが思うに、黒雲の中から雨を降らす龍のイメージと雷神のイメージがオーバーラップすることもあり、《来殿》では、菅原道真→雷神のイメージへと移行させないためにも「蹴殺す」という言葉を取り除く必要があったのでしょう。
ただし、《来殿》の前場には、
道真の霊が供物の石榴を噛み砕いて妻戸にくわっと吐きかけると、
石榴が火炎となって燃え上がった、というドラマティックな場面がそのまま残されており、
シテもキレのある型と所作で道真の怒りと怨みの行為を演じきり、
真っ赤な石榴が飛び散るさまや燃え上がる炎が見えるようでした。
(この石榴をくわっと吐きかけるところを造形化したのが《雷電》の後場でよく使われる大飛出の面。いろいろ考えると、やはり《雷電》の後場は前場とのつながりが自然なのに対し、《来殿》の後場は取ってつけた感があるのは否めない。)
そんなわけで、《来殿》の後シテは
《雷電》の後場の怒れる雷神のような恐ろしく猛々しい面・装束ではなく、
《融》のような初冠に狩衣・指貫に(おそらく)中将の面をつけて出端の囃子に乗って登場。
道真の霊にはすでに大富天神の神号が授けられていて、前場であれほど怒っていた道真もすっかりご満悦。
「道ある御代の有り難さよ」と早舞を舞う(ここも《融》によく似てる)。
どうして盤渉早舞なのかなと思ったら、道真=雨を降らす雷神のイメージを詞章では語らず、囃子によって暗示しているのですね。 心にくい演出。
シテは小顔なので中将の面にすっぽり覆われ、とてもリアルに見えた。
(面から顎を出すことにこだわる人もいるけれど、私はどちらかというと顎が見えないほうが好き。脳内修正にエネルギーを費やさずにすむし。)
地謡もとてもよかったし、お囃子もシテの一挙手一投足に呼吸を合わせて演奏されていたように思えた。
素謡 《放下僧》 シテ佐野弘宜 ツレ朝倉大輔 ワキ田崎甫
地謡 佐野玄宜 川瀬隆士 今井基
仕舞 《難波》 金森良充
《兼平》 辰巳和磨地謡 藪克徳 辰巳大二郎 金野泰大 金井賢郎
舞囃子《養老》 内田朝陽
小野寺竜一
住駒充彦 原岡一之 小寺真佐人舞囃子《富士太鼓》 金森隆晋
小野寺竜一 住駒充彦 原岡一之
地謡 當山淳司 金森良充 田崎甫
朝倉大輔 藤井秋雅
仕舞 《半蔀
クセ》 武田伊佐
地謡 内田朝陽 土屋周子 関直美 葛野りさ
能《来殿》 シテ木谷哲也
ワキ則久英志
ワキツレ舘田善博
野口能弘 アイ善竹大二郎小野寺竜一 住駒充彦 原岡一之 小寺真佐人
地謡 内藤飛能 當山淳司 辰巳大二郎 金野泰大
川瀬隆士 金井賢郎 藤井秋雅 上野能寛
後見 佐野玄宜 辰巳和磨
今回はシテ・ツレ・三役はもとより、後見・地謡もすべて若手による公演。
入梅したような雨模様の日でしたが、能楽堂の中は青い雲の広がる爽やかさ。
素謡 《放下僧》
シテ(佐野弘己宜さん)の姿が見えないと思ったら、ツレの後ろ、後列地頭の隣にいらっしゃったのでちょっとびっくり。
地謡の今井基さんがなぜか前列中央。
朝倉大輔さんが終始強い謡で、親の仇打ちに一心不乱に邁進する小次郎の一途で思いつめた感情を表現されていた。
敵役の田崎甫さんはよく通る声で、安定した美しい謡。
シテの佐野弘宜さんは比較的高い声で、磨けば美声になる可能性大。
地謡はまとまっていたけれど、悟りの境地を自然の諸相になぞらえたクセの部分はやや単調で、もう少し情趣豊かに謡ったほうがよかったかも。
とはいえ、「筆に書くとも及ばじ」からは朗々として美しく、「代々を重ねて」からクライマックスの仇討のシテツレ同吟までは臨場感のある盛り上がりで、引き込まれていきました。
全般的に宝生流の若手の謡は、詞章が聞き取りやすく、物語の中に入りやすい。
仕舞
《難波》の金森良充さん、丁寧に舞ってらっしゃいました。
《兼平》の辰巳和麿さんは、小柄な身体から発散される気とパワーが凄い!
緩急のついたメリハリのある舞姿は魅力的で、ふだんは可愛い顔立ちなんだけど、舞になると表情厳しく、満次郎さんに似てくる。
舞囃子《養老》 のシテは仕舞《半蔀》のシテと同様、きれいで折り目正しい。
舞囃子《富士太鼓》の金森隆晋さんが今回の青雲会ではいちばん印象的でした。
繊細優美な舞と透き通った謡。
少し肩のあたりが角張っていて緊張されているのかなと思ったら、首筋が汗でキラキラと光っていて、そのひたむきさに感動。
この方の鬘物も見てみたい。
ところで、笛の小野寺竜一さんは、きっちり精密に、唱歌どおりの笛を吹く方で、音があまりにも整っていてフルートのように感じてしまう。
私はうねりのある能管らしい不安定な音色が好きなので、整い過ぎた音を少しずつ崩していかれるといいのになー、というのが個人的希望。
能《来殿》
《雷電》ではなく、宝生流独自の《来殿》を拝見するのは初めてで、楽しみにしていました。
本来、宝生流にも観世流と同様の《雷電》という曲があったそうですが、菅原道真の後裔を称していた最大パトロン・前田家を憚って、15代宝生友干が改作した(道真の霊が雷神となって狼藉を働く部分をカットし、御代を寿ぐ舞を舞うという後場に仕立てた)のが、現在の《来殿》。
4年前に、当代家元によって復曲されたのが《雷電》とのことです(これは和英さんのシテでNHKでも放送されました)。
前場は、通常の《雷電》とほとんど同じで、面は怪士系のもの。
詞章も前場では《雷電》とそれほど変更はないけれど、顕著な違いは「死してのち梵天帝釈の憐れを蒙り、鳴雷となり内裏に飛び入り、われに憂かりし雲客を蹴殺すべし云々」のくだり。
《雷電》のこの周辺の暴力的な詞章部分がカットされて、「我無実の罪を蒙る事……いふより早く色変わり」という詞章に差し替えられている。
ちなみに、田中貴子著『あやかし考』によると、「蹴殺す」には「神による天罰・殺人」や「崇り殺すこと」という意味があり、さらにそこには竜のイメージが絡んでおり、竜の足の鋭い爪のイメージも重ね合わされているとのこと。
夢ねこが思うに、黒雲の中から雨を降らす龍のイメージと雷神のイメージがオーバーラップすることもあり、《来殿》では、菅原道真→雷神のイメージへと移行させないためにも「蹴殺す」という言葉を取り除く必要があったのでしょう。
ただし、《来殿》の前場には、
道真の霊が供物の石榴を噛み砕いて妻戸にくわっと吐きかけると、
石榴が火炎となって燃え上がった、というドラマティックな場面がそのまま残されており、
シテもキレのある型と所作で道真の怒りと怨みの行為を演じきり、
真っ赤な石榴が飛び散るさまや燃え上がる炎が見えるようでした。
(この石榴をくわっと吐きかけるところを造形化したのが《雷電》の後場でよく使われる大飛出の面。いろいろ考えると、やはり《雷電》の後場は前場とのつながりが自然なのに対し、《来殿》の後場は取ってつけた感があるのは否めない。)
そんなわけで、《来殿》の後シテは
《雷電》の後場の怒れる雷神のような恐ろしく猛々しい面・装束ではなく、
《融》のような初冠に狩衣・指貫に(おそらく)中将の面をつけて出端の囃子に乗って登場。
道真の霊にはすでに大富天神の神号が授けられていて、前場であれほど怒っていた道真もすっかりご満悦。
「道ある御代の有り難さよ」と早舞を舞う(ここも《融》によく似てる)。
どうして盤渉早舞なのかなと思ったら、道真=雨を降らす雷神のイメージを詞章では語らず、囃子によって暗示しているのですね。 心にくい演出。
シテは小顔なので中将の面にすっぽり覆われ、とてもリアルに見えた。
(面から顎を出すことにこだわる人もいるけれど、私はどちらかというと顎が見えないほうが好き。脳内修正にエネルギーを費やさずにすむし。)
地謡もとてもよかったし、お囃子もシテの一挙手一投足に呼吸を合わせて演奏されていたように思えた。
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