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2018年11月8日木曜日

南座新開場・吉例顔見世興行~白鸚・幸四郎・染五郎襲名披露

2018年11月7日(水)16時30分~21時 京都四条南座
修復保存された桃山風破風造りの外観
東京時代は一度も来なかったから、めっちゃくちゃ久しぶりの南座!
しかも、南座新開場&高麗屋三代襲名披露というおめでたい公演。舞台も劇場もすごく良くて、とくに幸四郎の弁慶が秀逸だった。
1月の東京公演に比べると、ひと皮もふた皮も剥けて、襲名披露公演で各地をめぐるうちに「染五郎」から「幸四郎」へと見事に脱皮した彼に、京都の観客も心からの拍手喝采を送っていた。


 クラシカルな破風、折り上げ格天井、桟敷席の欄干も保存再生。

今回の改修は、最新技術を用いて耐震補強を施しつつ、昭和初期の名建築「南座」の魅力を維持保存して次世代へ伝えてゆくというもの。
文化財のかけがえのない価値を知り尽くした京都ならではの、伝統と最新のテクノロジーを融合させた理想的な改修のあり方だと思う。



アール・デコ風の照明器具のシェードも洗浄保存。
光源だけLED化されている。

昭和初期の意匠や建築ディテールもそのままなのがうれしい。


夜の部】
第一《寿曽我対面》
  工藤左衛門祐経  仁左衛門
  曽我十郎祐成   孝太郎
  曽我五郎時致   愛之助
  大磯の虎     吉弥
  化粧坂少将    壱太郎
  梶原平三景時   松之助
  八幡三郎     宗之助
  近江小藤太    亀鶴
  鬼王新左衛門   進之介
  小林妹舞鶴    秀太郎

第二 二代目松本白鸚・十代目幸四郎・八代目市川染五郎
   襲名披露口上
   白鸚 幸四郎 染五郎 藤十郎 仁左衛門

第三《勧進帳》 長唄囃子連中
  武蔵坊弁慶    幸四郎
  源義経      染五郎
  亀井六郎     友右衛門
  片岡八郎     高麗蔵
  駿河次郎     宗之助
  常陸坊海尊    錦吾
  富樫左衛門    白鸚

第四《雁のたより》金澤龍玉作
  髪結三二五郎七  鴈治郎
  若旦那万屋金之助 幸四郎
  前野左司馬    亀鶴
  愛妾司      壱太郎
  医者玄伯     寿治郎
  高木治郎太夫   市蔵
  乳母お光     竹三郎
  花車お玉     秀太郎

さて、肝心の舞台。

《寿曽我対面》
愛之助の五郎の目ぢからの強い見得も良かったけれど、なんといっても、仁左衛門の工藤祐経の存在感、求心力の強さは圧巻だった。
アーチやヴォールトを頂点でつなぎとめるキーストーンさながらに、舞台をぐっと引き締め、まとめあげている。南座でニザ様を拝見できる幸せ。

《口上》
今回の口上は、襲名する三人のほかは藤十郎と仁左衛門のみ。
幸四郎の「歌舞伎職人として修練してまいる所存」という言葉には好感が持てる。そういう職人魂で一意専心に役作りに励んできたことが、次の《勧進帳》にもあらわれていた。

染五郎さんの「(連獅子では)親獅子を抜く心意気で」という言葉も頼もしい。

白鸚さんは「南座」を「御園座(みそのざ)」と二度も言い間違えて、観客のひんしゅくを買っていた。
南座新開場記念公演でもあるのに、さすがにそれはアカンやろ。
その後の休憩時間でも、奥様たちが口々に「失礼よね」と言い合っていたほど。
体調は大丈夫だろうかと、そちらのほうが心配になった。かなり無理をしているのかもしれない。


《勧進帳》
ひと言で言うと、腹の据わった弁慶だった。
1月の東京公演では、頭に血が上って、どこか余裕のない感じがあったけれど、この日は肚のあたりの下半身に重心をどっしりと据えて、肉体的にも精神的にも迷いがなかった。

主君・義経が安宅の関を無事に通ること、この目的達成以外の選択肢は弁慶にはない。そうした鬼気迫る気迫が全身にみなぎり、間の取り方や発声も、初春大歌舞伎の時とは雲泥の差で、弁慶の器の大きさ、度量の深さまでをも感じさせた。
(たぶん、この1年で幸四郎さん自身の人間の器が一回りも二回りも大きくなったのだと思う。)

富樫が関所を通すところも、弁慶の凄まじい執念に深く感じ入り、富樫のほうでも、男として、人間として、義経一行を通す以外の選択肢はなかったのだと思わせるほど、弁慶の迫力には説得力があった。

義経役の染五郎は、顔がかなり痩せたのではないだろうか、小顔がさらに細面になり、もう少年の顔ではなく、大人の女性の顔のように見える。宝塚の男役に見紛うほどの美貌。男装の麗人のよう。この方は姿勢と所作がとても美しく、つねに冷静沈着で、星のように輝いている。

最後の花道で神仏に感謝するところ。天を仰ぎ、ぐっと目を閉じる。ゆっくりと目を閉じ、しばらく瞑目する。弁慶の万感の思いが伝わってきて、胸が熱くなる。飛び六方で、心が震えた。いい舞台だった。


《雁のたより》
上方和事らしいドタバタ喜劇。
司役の壱太郎の仕草になんとも言えないやわらかみと艶がある。
上方らしい、ふくよかなやわらかみ。

《勧進帳》に引き続き、ここでも幸四郎が髪結いの客の若旦那として出演。鴈治郎とのアドリブともつかない戯言が面白すぎて、客席も笑いが止まらない。
幸四郎さん、凄い体力。千秋楽までもつのだろうか。



歌舞伎をどりの祖・出雲の阿国像
慶長8年(1603年)、この辺りの鴨河原で出雲の阿国がはじめて「かぶきをどり」を披露したと伝えられている。

南座横にある「阿国歌舞伎発祥地」の碑





2018年4月23日月曜日

彦山権現誓助剣 ~五代目吉田玉助襲名披露・第2部

2018年4月21日(土)16時~20時40分 国立文楽劇場

五代目吉田玉助襲名披露のご祝儀

《彦山権現誓助剣》の六助とお園

毛谷村六助        吉田玉男
吉岡一味斎の姉娘・お園  吉田和生
吉岡一味斎の妹娘・お菊  吉田勘彌
京極内匠         吉田玉志
若党友平         吉田文昇  ほか    

【須磨浦の段】 
 お菊 竹本三輪太夫
 内匠 豊竹始太夫
 友平 竹本小住太夫
 弥三松 豊竹咲寿太夫
 鶴澤清友

【瓢箪棚の段】
 中 豊竹希太夫
   鶴澤寛太郎
 奥 竹本津駒太夫
   鶴澤藤蔵  ツレ 鶴澤清公

【杉坂墓所の段】
 口 豊竹亘太夫
   野澤錦吾
 奥 豊竹靖太夫
   野澤錦糸

【毛谷村六助住家の段】
 中 豊竹睦太夫
   野澤勝平(野澤喜一朗改め)
 奥 竹本千歳太夫
   豊澤富助



襲名ブームに沸く伝統芸能界、文楽も春からおめでたい襲名披露公演!
とはいえ、わたしが拝見したのは《彦山権現誓助剣》の半通し上演のある第2部のみ。
(桐竹勘十郎さんの狐忠信もすっごく観たかったけど、通しで観るのはしんどいから……)。

それにしても東京で観る文楽とは、やっぱ、ちゃう。

文楽劇場に行く前に法善寺横丁に寄ってみてんけど、なんかもう、欲望やら熱気やら、いろんなもんが渦巻く、アジア的カオスの世界。
《夏祭浪花鑑》の、あのネバついた湿度の高いエネルギーを肌で感じる。
大阪のおばちゃんも、どこ行ってもバンバン気さくに声かけてきはるし(他人の心に土足で踏み込むんやなしに、ほんまにフレンドリーで、自然に打ち解けてきはる感じ)。

文楽観てても休憩時間になると、まだ幕が閉まらないちに、観客の皆さん、おもむろに立ち上がり、出口のほうにドドド―ッと押し寄せ、わたしがホールから出てきた頃には、もうすでにソファの陣取り合戦を済ませ、ものすごい勢いでお弁当を食べてはる……。
(休憩時間30分もあるのに!?)

こうゆう、前のめりでエネルギッシュな土壌から、文楽が生まれ、はぐくまれてきたんやね。



さて、今回観た《彦山権現誓助剣》は、全11段のうち4段上演する半通し狂言。梅野下風&近松保蔵合作で、天明6(1789)年に竹本座で初演されたもの。

上演される四段までのストーリーをかいつまんで話すと━━。
長門国郡(毛利)家の剣術指南役・吉岡一味斎は、彦山麓の毛谷村に住む六助に、彦山権現の鳥居前で剣術奥義の一巻を授けるが、その後、娘お菊に横恋慕した京極内匠から逆恨みされ、闇討ちにあう。一味斎の遺族(妻お幸、娘お園・お菊)は父の仇・京極内匠を探して旅に出る。姉妹は二手に分かれ、妹お菊は幼児・弥三松と若党・友平とともに須磨浦にたどり着く━━というところから「須磨浦の段」が始まる。


上演機会の多い「毛谷村六助住家の段」の面白さもさることながら、文楽劇場初上演となる「須磨浦の段」「瓢箪棚の段」も見応えがあり、とくに「瓢箪棚の段」の瓢箪棚(夕顔棚)上での立ち廻りがすっごく面白い!

瓢箪棚の上の立ち廻りシーン
くさり鎌を振り回すヒロイン・お園と、名刀蛙丸を構える悪役・京極内匠
背後には、主遣いの吉田和生さんと桐竹勘十郎さん(前回の配役)の顔もぼんやりと。


【瓢箪棚の段】
武術の心得がある女性キャラクターとしては、女主人の仇討ちをする《加賀見山旧錦絵》のお初がいるけれど、文楽一の女剣士といえば、なんといっても本作ヒロインのお園。

しかもお園は身長六尺あまり(180センチ以上)の長身で怪力の持ち主でもあるという設定。 
「瓢箪棚の段」では、くさり鎌をブルンブルン振り回して、父の仇・京極内匠に立ち向かうという、なんとも、いかつ~い美女なのです。

この瓢箪棚、なかなか凝った造りになっていて、お園との死闘の中で、京極内匠が棚から飛び降りるシーンは見どころの一つ。
内匠の主遣いと左遣いが、人形を操りながら呼吸を合わせてピョンと飛び降り、足遣いが瓢箪棚の背後から回り込んで、着地した人形の足もとにすかさず入り込むという、(内匠なだけに!)たくみな早業。
もちろん、舞台下駄は脱いでいたようだけど、主・左・足遣いともに相当な技術力を要すると思う。


【須磨浦の段】
瓢箪棚に先立つ「須磨浦の段」。前半は、お菊と愛児・弥三松との親子の情が描かれる。弥三松を撫でるお菊の手の優しいこと……。慈愛のこもった柔らかさが感じられ、人形の吉田勘彌さんと三輪太夫の動きと声が一体となって、しっとりしたお菊の性根を浮かび上がらせていた。
この愛情深い前半の描写があるからこそ、後半で京極内匠にいたぶられながら、なぶり殺しにされるお菊の哀れさと、彼女に横恋慕した内匠のサディスティックな残虐さが際立つ。
良い人形遣いは人形と面差しが似てくる気がする。吉田勘彌さんも、お菊の面差しとダブるようなところがあった。


【杉板墓所の段】
お待ちかねの毛谷村六助の登場。
「良い人形遣いは人形と面差しが似てくる」と書いたけれど、吉田玉男さんなんか、もう六助にそっくり!
眉間のシワから、眉の角度、への字に結んだ口の形まで、ほとんど分身といってもいいくらい。

それから、人形の重心の置き方。
六助の下半身の丹田あたりに重心が置かれ、座った姿勢の時もきちんと腰が入っていて、兵法の達人らしい構えが常にできている。
主遣いだけでなく、左遣いも差し金をギュッと引いて、膝に置かれた手で、六助の前のめりの姿勢を美しく決めている。

微塵弾正(じつは京極内匠)との御前試合の時も、いったんヒョイッと身をかがめて斬りこむときの、間合いと気合、呼吸の感覚も、剣術そのものの間合いと気合、息遣いが的確に再現されていて、さすが!

*主遣いと左遣いの熟達度の差をいちばん認識するのが、じっと静止している時。玉男さんなどは、静止している姿がほんとうに美しい。能の居グセにも通じる美しさ。額から流れる汗が目にしみて辛そうだけど、微塵も動かない。
それに対して、左遣いはどうしても時折動いてしまう。主遣いの動きがつかめず、フライングしそうになるのかもしれないけれど。



【毛谷村六助住家の段】
メジャーな段だけど、展開早っ!

虚無僧に扮して六助を斬りつけたお園が、相手の名を聞いたとたん、急にしおらしくなり、押しかけ女房気取りで頬かむりをして、立ち働く豹変ぶり。
(六助を婿に迎えて吉岡家を継がせるつもりだと、一味斎は生前、お園に言い聞かせていた。)
困惑していた六助も、お園が一味斎の娘だと知るやいなや、そばにあった茶碗で祝言の盃を酌み交わし、「女房殿」と呼びかける変わりよう。

そうかと思うと、家族の感動の対面の場面で、障子の立て付けがガタガタ悪くてなかなか開かないという芸の細かさ……こういうところで笑いを取るのも、大阪のノリやね。









2018年3月7日水曜日

オペラ《ホフマン物語》

2018年3月6日(火)14時~18時 新国立劇場 オペラパレス



オペラは久しぶり。もっと来るべきだった。
東京と他の都市との大きな違いのひとつが、オペラ環境の充実度。
ことオペラ劇場に関しては、誠に残念ながら関西の諸都市は東京に完敗だし、とりわけ新国立劇場の存在は大きい。



オペラ《ホフマン物語》は、第2・3・4幕をそれぞれE.T.A.ホフマンの小説『砂男』、『クレスペル顧問官』、『大晦日の夜の冒険』を下敷きにした、オッフェンバックの未完の遺作。

この日観た《ホフマン物語》は、一見奇抜な印象を与えるものの、ホフマンの三作品の象徴的なモティーフを巧みに配しており、原作に比較的忠実な演出といえるかもしれない。

たとえば、第2幕で使われる「望遠鏡」。
ホフマンがこれをのぞきこみ、レンズの向こうにいた自動人形のオランピアに見惚れる場面は、原作『砂男』で主人公が窓の外を懐中望遠鏡で眺めたとき、それまで特別な関心を抱かなかったオランピアのこの世ならぬ美しさに初めて気づき、恋に落ちたときの様子を踏襲している。

小説『砂男』のなかで望遠鏡は重要な役目を果たす小道具であり、ホフマンの影響を受けたとされる江戸川乱歩の『押絵と旅する男』でも、双眼鏡をのぞいた先に、美しい娘の姿(実は押絵で象った八百屋お七)を見留め、一目で恋に落ちる。


鏡やレンズなどの光学機器への傾倒・偏愛はホフマンと乱歩に共通するものであり、彼らの作品では、レンズを介して世界を見ることが意識や次元の変容を招くきっかけとなる。
フィリップ・マルローの演出は物語のカギとなるレンズや鏡を、舞台に効果的に織り込んでいた。


第3幕では、原作『クレスペル顧問官』で重要な要素となる「ヴァイオリン」を舞台床と上部に装飾的に配し、さらに舞台床を斜面状に傾け、長テーブルを座礁した難破船のように床面に突き刺すことで、小説に描かれたクレスペルのギクシャクした動作や狂気すら感じさせるエキセントリックな性格を描写している。


第4幕では、高級娼婦の色香に惑わされて鏡像を盗まれた男の話『大晦日の夜の冒険』のモティーフとなる「鏡」が、舞台天井部を大判のモザイクのように覆い、欲望のままに踊り狂うヴェニスの男女を官能的に映し出し、あるときは教会の天井画のだまし絵のように、あるときは極彩色の錦絵のように、ホフマンの世界を視覚的に表現する。


演出・美術・照明を担当したフィリップ・アルローは作中の人物像について初演時にこう述べている。

「……詩人は短命であり、その鋭敏は感受性ゆえに、五感を通して掴んだすべての波動が火傷のように彼らの魂を焦がし、その深い傷がもたらす痛みが詩句に結晶するのです。このオペラでは、詩人ホフマンの運命が絶望という名の黒い糸で紡がれていきます。彼は、登場の瞬間から、死に至る病、つまり絶望を抱える主人公なのです。その彼を取り巻くのは、死、性、芸術への欲求という三つの側面を持つ女性です。当時の人々の欲望のひとつでもある、工業技術の完璧な成果たる人形で、そえゆえに死の恐怖を一切感じないオランピア、死が生をもたらす芸術の象徴として、歌えば肉体が滅んでいくものの、歌わなければ魂が死んでしまう表現者アントニア、退廃の極みにあり、エロスを体現し、まるで死を飼いならすかのように男を次々と葬り去りながら自分は輝き続ける娼婦ジュリエッタ……」


フィリップ・アルローは色彩感覚に優れた演出家で、第2幕では機械仕掛けのオランピアをあらわす人工着色料のようにカラフルな蛍光色、第3幕では胸を病む歌姫アントニアの死の香り漂う黒とグレー、第4幕では肉感的なジュリエッタの色であるワインカラーで舞台を彩り、ヒロインのキャラクターを端的に可視化していた。


ただ、あまりにも「死」を意識しすぎたせいか、もしくは、繊細で短命な詩人としてホフマンを描きたかったからなのか、アルローの演出では最後、ホフマンは絶望のあまり、ピストルで頭を撃ち抜いて自殺する。

舞台に横たわるホフマンの無慙な遺体が、「On est grand par l'amour et plus grand par les pleurs!(人は恋によって成長し、涙を流してさらに大きくなる!)」というミューズたちの希望に満ちた言葉と合わずしっくりこなかったが、ここは、精神錯乱の果てに塔から身を投げ墜死した『砂男』の主人公の姿と重なるところでもある。


そして何よりも、遺体となったホフマン役のティミトリー・コルチャックの姿が最高に美しく、それだけでもう、何も言うことはない。
今公演初役というコルチャックはじつに魅力的なテノールで、いまでも〈クラインザックの歌〉が耳の中でこだましている!
情感豊かで表現力あふれる彼の歌声を聴くと、こちらも胸がドキドキ高鳴り、アドレナリンがどっと分泌され、ひとりでに涙があふれてくる。


多彩な悪役をこなしたバス・バリトンのトマス・コニエチュニーのアクの強い存在感と重厚な声量の素晴らしさは、ここで書くまでもなく申し分ない。

そして、三人の歌姫もコルチャックの相手役を見事に勤め、なかでもアントニア役の砂川涼子さんの、胸を病んだ女性にふさわしい脆く壊れやすい透明感のある歌声に惹きつけられた。
〈逃げてしまったの、雉鳥は〉が特に好きだから、よけいにそう感じたのかもしれないけれど。












2018年1月15日月曜日

世界花小栗判官・通し狂言~四幕十場

2018年初春歌舞伎公演 12時~16時10分 国立劇場大劇場


盗賊風間八郎            尾上菊五郎
執権細川政元・万屋後家お槙     中村時蔵
猟師浪七・横山太郎秀国       尾上松緑
小栗判官兼氏           尾上菊之助
照手姫              尾上右近
浪七女房小藤・お駒・横山太郎妻  中村梅枝    ほか

小栗判官の大凧。ロビー対面には敵役・風間八郎の凧も。

発端    (京) 室町御所塀外の場
序幕 〈春〉(相模)鎌倉扇ケ谷横山館奥庭の場
          同      奥御殿の場
          江の島沖の場
二幕目〈夏〉(近江)堅田浦浪七内の場
          同 湖水檀風の場
二幕目〈秋〉(美濃)青墓宿宝光院の場       
          同 万屋湯殿の場
          同  奥座敷の場
大詰 〈冬〉(紀伊)熊野那智山の場

かわいい羽子板のディスプレイ


小栗物の決定版『姫競双葉絵草紙』を補綴・改作し、その醍醐味をギュッと詰め込んだ世界花小栗判官。

菊之助はこの世代の御曹司のなかでいちばん巧いと思っている役者さん。
今回も期待を裏切らず、登場とともに劇場全体が燦然と輝くような花のある存在感と、地道に積み上げた確かな芸で観客を魅了した。
荒馬(人食い馬?)鬼鹿毛を見事に乗りこなす、腰を入れた姿勢の美しいこと。
それからこの方、間の取り方が上手い。
許嫁の照手姫と、祝言を挙げるはずだったお駒のあいだに挟まれて戸惑うときのなど、間の感覚が絶妙だった。

相手役の右近さんも所作が美しく、可憐で艶やかな照手姫を好演。
小栗判官と並ぶと、まさに絵から抜け出たような絢爛たる美男美女。

菊五郎の魔王のような悪役ぶり、時蔵の奥行きのある演じ方、松緑さんの立ち廻りと身を投げうって照手姫を救った「檀風」の術など見応えたっぷり。


そして今回、大きく目を見張ったのが 浪七女房・小藤/万屋娘お駒/横田弥太郎妻・浅香の三役をこなした若手女方・梅枝さんの芸の力。
小藤とお駒は殺され役なのだが、この殺され方がじつに見事。

まず世話物女房の小藤は、照手姫を連れ去ったチンピラの兄に殺され、「わたしのことはいいから(元主君・小栗判官の許嫁だった)姫をどうか取り戻して!」と夫に言い残して息を引き取る。その妻の鑑のような健気さと、歌舞伎が求める人妻の色香を漂わせて死んでゆく凄絶美。
隣の席の御婦人方もプログラムで名前を確認し、「すごいわね」「素敵ねえ」と口々に言い合っていた。

次の万屋娘お駒は、小栗判官と祝言の約束を交わした純情な娘役。相手に一目ぼれした時のぽうーっと判官を見つめる愛らしさ。照手姫に判官を取られた時の、嫉妬に狂って身をよじる所作、般若のような目つきと悶絶するほどの哀しさ、絶望。
実の母(時蔵→父子共演)に殺される時の、サディスティックな海老ぞり、「なぜ……わたしが……こんなことに」と問いかけるような無念の死にざま……。

若いのに芸に深みがあるし、これからもっと時蔵さんから吸収して、好い役者さんになりはると思う。

                                         
おなじみ平櫛田中《鏡獅子》
覇気のある造形には六代目菊五郎と田中の魂がまちがいなく宿っている!



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