地謡に梅若紀彰さんと川口晃平さんがいらっしゃったので
「あれ?」と思ったら、小田切さんと会田さんが病気療養中のため
休まれているとのこと。
杉信太郎さんの名ノリ笛にのって、ワキ・ワキツレ(三人も!)、子方が登場。
子供を連れているので面白いものを見せてほしいというワキに、
アイが面白い女物狂がいるからと、念仏をわざと下手に唱えて、百万を呼び出す。
そこへ舞車を引いて、百万が登場。
この注目の舞車、朱色のテープを巻いて、とてもキレイなんだけれど、
車輪も付いていないのに、どうやってシテが引いているのか
いまひとつ仕組みが分からなかった。
引いているように見せて、じつは持ちあげていたのだろうか。
何はともあれ、最初は常座に置かれた舞車は
その存在だけで舞台に華やぎを添える。
(この舞車はクセを舞う際に、大小前に移される。)
そこから後半のクセに入るまでは、通常の《百万》とほとんど同じだったように思う。
通常の《百万》のクセでは、西大寺の柳の木陰でわが子と生き別れてから、
奈良の都を出て、三笠山、佐保川、山城を過ぎて、嵯峨野に至った道行きと
わが子への恋しさが切々と謡われているのに対し、
観阿弥時代のクセ「地獄の曲舞」では、前項のように世の無常を謡った後、
臼で見を切られる斬槌地獄や、剣が森のように生えている剣樹地獄、
大石に砕かれる石割地獄、炎に咽ぶ火盆地獄など、
阿鼻叫喚の地獄の恐ろしさが語られて、すっごく面白い!!
この「地獄の曲舞」をシテが舞車の中で最初は床几に座って謡い、
「所得いくばくかの利ぞや」のところで、立ち上がって舞い始め、
しばらく舞車の中で舞ったのち、
「いわんや下劣、貧賎の報においてをや」で、舞車から出て、
あとは、舞台の板の上で待っていた。
(この舞の型は《歌占》のクセと同じ?)
個人的には「地獄の曲舞」の方が、詞章的にも面白いし、
舞車を入れた方が、舞台上が華やいで動きもあるので、見栄えがすると思う。
ただ、この日のクセの部分の囃子と地謡は単調だった気がした。
(ここはそういう部分なのかもしれないけれど、もう少し覇気があっても良かったのでは。)
《百万》では太鼓は前半部分だけなのだけれど、
「地獄の百万」では、太鼓を入れるという演出にはならないのだろうか。
太鼓が入れば、もっとドラマティックになったような気がする。
あくまで、個人的な好みだけれど。
印象に残ったのは、シテの百万が子供と再会した場面での
「心強や、とくにも名乗り給ふなれば、かように恥をばさらさじものを、
あら恨めしとは思へども」という部分。
(この日、玄祥さんはお風邪を召されていたそう。)
型に忠実で、抽象的な表現なのだけれど、
さりげなく母親らしいリアルな情感がこもっている。
過剰な感情表現には決して陥らないけど、
見る者の心に訴える力がある、
その絶妙なバランス感覚がこのシテの非凡さだと思う。
(歩んできた人生そのものがすべて芸の肥やしになっているのだろう、きっと。)
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2014年9月24日水曜日
国立能楽堂企画公演・能を再発見するⅤ――観阿弥時代の百万
仕舞 百万 クセ 梅若万三郎
地謡 加藤眞悟 伊藤嘉章 山崎正道 角当直隆
対談 馬場あき子 天野文雄
観阿弥時代の能 百万 シテ梅若玄祥 子方松山絢美
ワキ 福王茂十郎 福王知登 喜多雅人 村瀬慧
地謡 加藤眞悟 伊藤嘉章 山崎正道 角当直隆
対談 馬場あき子 天野文雄
観阿弥時代の能 百万 シテ梅若玄祥 子方松山絢美
ワキ 福王茂十郎 福王知登 喜多雅人 村瀬慧
アイ 高澤祐介
笛・杉信太朗 小鼓・鵜澤洋太郎 大鼓・安福光雄 太鼓・林雄一郎
後見 山崎正道 松山隆之
地謡 川口晃平 梅若紀長 角当直隆 山中迓晶
伊藤嘉章 梅若万三郎 梅若紀彰 加藤眞悟
笛・杉信太朗 小鼓・鵜澤洋太郎 大鼓・安福光雄 太鼓・林雄一郎
後見 山崎正道 松山隆之
地謡 川口晃平 梅若紀長 角当直隆 山中迓晶
伊藤嘉章 梅若万三郎 梅若紀彰 加藤眞悟
清々しい秋晴れの休日。 和服日和で、能楽堂は着物率が高かった。
まずは、万三郎さんの現行の《百万》クセの仕舞から。
光源氏が年を重ねたらかくありなん、
と思わせるような、格調高く、品位のある舞姿。
70代半ばとはとても思えない優雅さとほのかに漂う色気。
なぜこの方が人間国宝ではないのか不思議なくらい。
この仕舞を拝見できただけでも来てよかったと思う。
対談はなんと40分!
お二人のお話は面白いけど、いくらなんでも長すぎと思う。
(対談や解説はパンフを読めば済むことなので不要だと思うけれど、国立だとそういうわけにもいかないのだろう……。)
対談の内容は『能を読む①』に書かれていたこととほぼ同じ。
観阿弥が演じた「嵯峨の大念仏の女物狂の物まね」から《百万》への変遷プロセスは以下の通り;
(1)女芸能者・百万(実在の人物)ではない普通の母親をシテとした子探し物狂能
↓
(2)芸能者・百万がシテ(母親)となり、「地獄の曲舞」をクセで舞う物狂能
↓
(3)「地獄の曲舞」のクセの部分を、百万がわが子を思う内容のクセに入れ替えた現在の《百万》
学会での定説では(1)が観阿弥時代の《百万》だったとされているが、
天野先生は(2)が観阿弥時代のものと考え、
今回の演能では(2)の「地獄の曲舞」が現行のクセの部分に挿入されている。
ちなみに、「地獄の曲舞」とは、作詞・山本某、作曲海老名南阿弥による
南北朝時代の謡い物のことで、現在は《歌占》のクセに入っている。
つまり、観阿弥が《百万》の原曲に取り入れ、世阿弥が《百万》から取り去った「地獄の曲舞」を、
その息子・元雅が再び取り入れて《歌占》をつくったことになる。
「地獄の百万」の詞章を読んで見ると、とても素敵で
特に前半の「魂は籠中の開くを待ちて去るに同じ、
消ゆるものはふたたび見えず、去るものは重ねて来たらず」
など、名文が多くて、心に響く。
世阿弥が捨て去ったものを拾い上げて新たな曲を創った元雅って、
やはり世阿弥にはないセンスと才能があったんだなと思う。
(別記事につづく)
銕仙会定期公演(9月)感想編 《月見座頭》《鵜飼》
狂言《月見座頭》
名月の夜、一人の座頭(山本東次郎)が月を愛でる代わりに、
虫の音を聞こうと野辺に出たところ、そこへ月見に来た男と出会う。
二人は意気投合して、古歌を自作と称して詠み合い、酒を酌み交わし、
謡い舞って、楽しいひと時を共にした後、それぞれの帰途に就く。
だが、月見の男はふと邪心を起こして、いきなり座頭を突き倒し、
(関西風に言うなら)いちゃもんをつけて、走り去る。
打倒され、杖を放り出された座頭は、よろよろと身を起こし、
杖を手探りで探し当て、少し長い沈黙の後、立ち上がって、
酒を酌み交わした男と、自分を突き倒した男が同一人物だと分からない様子で
「先ほどの人とは違い、何と酷いことをする人がいるものだ」とつぶやきながら、
杖をついて去っていく。
……というお話。
男に突き倒された後、起き上がるまでの東次郎さんの長い沈黙が絶妙で、
この沈黙の間に、
おそらく座頭の胸の内にはさまざまな思いがよぎり、
それを座頭はぐっと呑み込んで、
何もかも知った上で、
「先ほどの人は……」というセリフを言ったのではないかと思わせる演技。
つまり、座頭は相手の声や気配で、
酒を酌み交わした男と自分と突き倒した男が同一人物であることに気づいていたのではないだろうか。
知っていて気づかない振りをする。
おそらくそれが、この盲目の座頭の生きる方便だったのでは?
そして、そうした心の平安を保つための生きる方便は、
この座頭に限らず、
人間ならば誰もが多少なりとも持っているものだと思う。
自分のことも他人のことも、
知っていて、気づかない振りをしながら、
杖をつきつつ、よろよろと、今日も明日も生きていく、
それが人間……。
そんなことを思わせる、東次郎さんの《月見座頭》でした。
普通の狂言よりも、こういうブラックでアイロニカルな狂言の方が好きだなあ。
能の《鵜飼》は、「空之働(むなのはたらき)」の小書つきで、
前場のサシ、下歌、上歌が省略され、鵜之段では橋掛りでの演技が中心となり、
間狂言もなくなって、早装束での登場となり、
型も減らされ(もちろん飛び安座もなし)ていた。
前場で松明をもって登場するシテ(野村四郎)は、特に謡の時に
どうしても手が激しく揺れてしまうのだけれど、それが松明の炎の
メラメラ燃えるさまにも見える。
鵜之段は精彩に富み、
たぶんこれまで見た中で(仕舞や舞囃子も含めて)一番心に残る鵜之段だった。
特に「闇路に帰るこの身の、名残惜しさを如何にせん」で、橋掛りを去っていく姿は
この年齢の野村四郎先生にしか出せないような何とも言えない風情があった。
(尉の孤独な後ろ姿に、地謡の醸し出す物悲しい情感がしっくり合っていた。)
後場の早笛は、驚くほどテンポがゆっくりだったのだけれど、
これは早装束の時間稼ぎなのだろうか。
間狂言なしで、尉から地獄の鬼に早変わりって大変そう……。
そんなわけで、登場した地獄の鬼は、髪がかなり乱れていたのだけれど、
それがかえって鬼らしい迫力となって、凄味が増していた模様。
野村先生の足の運びがとてもきれいで、見惚れているうちに
あっという間にエンディング。
《鵜飼》の後場は、早笛らしいノリの良さとアクロバティックな型がキモなので、
それがないと少し物足りない気がするけれど、前場が素晴らしかったので満足。
名月の夜、一人の座頭(山本東次郎)が月を愛でる代わりに、
虫の音を聞こうと野辺に出たところ、そこへ月見に来た男と出会う。
二人は意気投合して、古歌を自作と称して詠み合い、酒を酌み交わし、
謡い舞って、楽しいひと時を共にした後、それぞれの帰途に就く。
だが、月見の男はふと邪心を起こして、いきなり座頭を突き倒し、
(関西風に言うなら)いちゃもんをつけて、走り去る。
打倒され、杖を放り出された座頭は、よろよろと身を起こし、
杖を手探りで探し当て、少し長い沈黙の後、立ち上がって、
酒を酌み交わした男と、自分を突き倒した男が同一人物だと分からない様子で
「先ほどの人とは違い、何と酷いことをする人がいるものだ」とつぶやきながら、
杖をついて去っていく。
……というお話。
男に突き倒された後、起き上がるまでの東次郎さんの長い沈黙が絶妙で、
この沈黙の間に、
おそらく座頭の胸の内にはさまざまな思いがよぎり、
それを座頭はぐっと呑み込んで、
何もかも知った上で、
「先ほどの人は……」というセリフを言ったのではないかと思わせる演技。
つまり、座頭は相手の声や気配で、
酒を酌み交わした男と自分と突き倒した男が同一人物であることに気づいていたのではないだろうか。
知っていて気づかない振りをする。
おそらくそれが、この盲目の座頭の生きる方便だったのでは?
そして、そうした心の平安を保つための生きる方便は、
この座頭に限らず、
人間ならば誰もが多少なりとも持っているものだと思う。
自分のことも他人のことも、
知っていて、気づかない振りをしながら、
杖をつきつつ、よろよろと、今日も明日も生きていく、
それが人間……。
そんなことを思わせる、東次郎さんの《月見座頭》でした。
普通の狂言よりも、こういうブラックでアイロニカルな狂言の方が好きだなあ。
能の《鵜飼》は、「空之働(むなのはたらき)」の小書つきで、
前場のサシ、下歌、上歌が省略され、鵜之段では橋掛りでの演技が中心となり、
間狂言もなくなって、早装束での登場となり、
型も減らされ(もちろん飛び安座もなし)ていた。
前場で松明をもって登場するシテ(野村四郎)は、特に謡の時に
どうしても手が激しく揺れてしまうのだけれど、それが松明の炎の
メラメラ燃えるさまにも見える。
鵜之段は精彩に富み、
たぶんこれまで見た中で(仕舞や舞囃子も含めて)一番心に残る鵜之段だった。
特に「闇路に帰るこの身の、名残惜しさを如何にせん」で、橋掛りを去っていく姿は
この年齢の野村四郎先生にしか出せないような何とも言えない風情があった。
(尉の孤独な後ろ姿に、地謡の醸し出す物悲しい情感がしっくり合っていた。)
後場の早笛は、驚くほどテンポがゆっくりだったのだけれど、
これは早装束の時間稼ぎなのだろうか。
間狂言なしで、尉から地獄の鬼に早変わりって大変そう……。
そんなわけで、登場した地獄の鬼は、髪がかなり乱れていたのだけれど、
それがかえって鬼らしい迫力となって、凄味が増していた模様。
野村先生の足の運びがとてもきれいで、見惚れているうちに
あっという間にエンディング。
《鵜飼》の後場は、早笛らしいノリの良さとアクロバティックな型がキモなので、
それがないと少し物足りない気がするけれど、前場が素晴らしかったので満足。
2014年9月14日日曜日
銕仙会定期公演〈9月〉感想編 《采女・美奈保之伝》
宣伝用のパンフレットには載っていなかったから当日まで知らなかったのだけれど、片山九郎右衛門さんが主後見という嬉しいサプライズ!
九郎右衛門さんは、翌日には京都観世会の《融》のおシテを控えていらっしゃって、おそらくこの一番が終わったら京都にとんぼ返りなのだろう。
九郎右衛門さんの《融》、見たかった……。
などと思っていると、観世五宗家の《采女》が開演。
解説によると、「美奈保之伝」の小書なので、
前場ではワキ道行から地謡上歌までが、
後場では葛城王と采女の説話を語るクリ・サシ・クセが省略され、
猿沢池に入水した采女に焦点が当てられ、
全体的に水のイメージを強調した演出となるそうです。
藤田六郎兵衛さんの名ノリ笛で、ワキとワキツレ登場。
名ノリの後は、前述のように道行は省略され、ワキの呼びかけで、
前シテの里の女が登場します。
趣味の良い浅葱色とサーモンピンクの唐織に小枝と手にしたシテ。
面は、増女を若くしたような気品ある「まさかり」。
どこか悲しげで、もの問いたげな風情です。
春日神社演技を軽く語った後、猿沢池に入水した采女についての、
シテとワキのやり取り。
采女の遺体を帝がご覧になった時のくだりの「柔和の姿引きかえて」の
ところで、宝生閑が言葉に詰まったけれど、すかさず欣哉さんがフォロー。
この日の欣哉さんはいつもにも増してことさらハンサムに見えたのだけれど、
どうしてだろう……。
そうこうしているうちに、中入となり、合狂言の後、後シテの登場。
シテが揚幕から薄衣を被り、中腰のまま一の松までするすると進んでくる姿は、
おそらく水底から水面までゆらゆらと浮上するさまを表現したものなのでしょう。
水底から浮上した後シテは、
渋い朱色の緋大口に、品よく色褪せた抹茶色(?)の長絹という出立。
面は龍右衛門作の「小夜姫」。
この「小夜姫」の面が可憐にして妖しげな魅力をたたえていて、
ただ、ただ、うっとりと見入ってしまいました。
この面は少し大きめにつくられているのか、宗家のお顔をすっぽりと包み、
まるで生身の采女が顕現したかのよう。
この小夜姫の面は、たぶん室町時代のものだと思うけれど、
とても現代的な顔立ちをしていて、どこかホリヒロシの人形を思わせる。
(そういえば、ホリヒロシの人形舞って、梅若紀彰さんと共演していた記憶が。)
能では面の持つ力や表情などがあらゆる位を決定し、
能面を選ぶ行為自体に、その曲に対する能役者の理解や意図が
反映されると言われますが、
まさに後場は、この小夜姫の面の持つ神秘的な美しさと、
御宗家の舞の神々しい魅力とが重なり、
能面とシテとが一体となって、
すべての物理的法則を超越したような甘美な世界が舞台上に展開して、
見る側はただもう陶酔したように、采女の悲しくも
美しい世界に引き込まれていきました。
馬場あき子の『能・よみがえる情念』によると、
能《采女》が本説とする『大和物語』では、采女の入水の理由と
一夜だけ帝に召された采女が、衰寵に絶望し、死をもって帝に恨みを
訴えたのだとしているそうですが、
観世宗家の采女は、帝に一夜だけ召された哀れな一人の女の個人的な
悲しみというよりも、
天皇に奉仕しながら古代宗教儀礼に従事した美しい女の清浄な神聖さが
表現されていて、
どろどろした恨みや愛欲を超越した、水そのものの清らかさの化身のよう。
能面の持つ力と、
その力を自己の中に取り込み、自在に操るシテの力。
この拮抗があってこそ成立した水の結晶のように透明感のある一番でした。
九郎右衛門さんは、翌日には京都観世会の《融》のおシテを控えていらっしゃって、おそらくこの一番が終わったら京都にとんぼ返りなのだろう。
九郎右衛門さんの《融》、見たかった……。
などと思っていると、観世五宗家の《采女》が開演。
解説によると、「美奈保之伝」の小書なので、
前場ではワキ道行から地謡上歌までが、
後場では葛城王と采女の説話を語るクリ・サシ・クセが省略され、
猿沢池に入水した采女に焦点が当てられ、
全体的に水のイメージを強調した演出となるそうです。
藤田六郎兵衛さんの名ノリ笛で、ワキとワキツレ登場。
名ノリの後は、前述のように道行は省略され、ワキの呼びかけで、
前シテの里の女が登場します。
趣味の良い浅葱色とサーモンピンクの唐織に小枝と手にしたシテ。
面は、増女を若くしたような気品ある「まさかり」。
どこか悲しげで、もの問いたげな風情です。
春日神社演技を軽く語った後、猿沢池に入水した采女についての、
シテとワキのやり取り。
采女の遺体を帝がご覧になった時のくだりの「柔和の姿引きかえて」の
ところで、宝生閑が言葉に詰まったけれど、すかさず欣哉さんがフォロー。
この日の欣哉さんはいつもにも増してことさらハンサムに見えたのだけれど、
どうしてだろう……。
そうこうしているうちに、中入となり、合狂言の後、後シテの登場。
シテが揚幕から薄衣を被り、中腰のまま一の松までするすると進んでくる姿は、
おそらく水底から水面までゆらゆらと浮上するさまを表現したものなのでしょう。
水底から浮上した後シテは、
渋い朱色の緋大口に、品よく色褪せた抹茶色(?)の長絹という出立。
面は龍右衛門作の「小夜姫」。
この「小夜姫」の面が可憐にして妖しげな魅力をたたえていて、
ただ、ただ、うっとりと見入ってしまいました。
この面は少し大きめにつくられているのか、宗家のお顔をすっぽりと包み、
まるで生身の采女が顕現したかのよう。
この小夜姫の面は、たぶん室町時代のものだと思うけれど、
とても現代的な顔立ちをしていて、どこかホリヒロシの人形を思わせる。
(そういえば、ホリヒロシの人形舞って、梅若紀彰さんと共演していた記憶が。)
能では面の持つ力や表情などがあらゆる位を決定し、
能面を選ぶ行為自体に、その曲に対する能役者の理解や意図が
反映されると言われますが、
まさに後場は、この小夜姫の面の持つ神秘的な美しさと、
御宗家の舞の神々しい魅力とが重なり、
能面とシテとが一体となって、
すべての物理的法則を超越したような甘美な世界が舞台上に展開して、
見る側はただもう陶酔したように、采女の悲しくも
美しい世界に引き込まれていきました。
馬場あき子の『能・よみがえる情念』によると、
能《采女》が本説とする『大和物語』では、采女の入水の理由と
一夜だけ帝に召された采女が、衰寵に絶望し、死をもって帝に恨みを
訴えたのだとしているそうですが、
観世宗家の采女は、帝に一夜だけ召された哀れな一人の女の個人的な
悲しみというよりも、
天皇に奉仕しながら古代宗教儀礼に従事した美しい女の清浄な神聖さが
表現されていて、
どろどろした恨みや愛欲を超越した、水そのものの清らかさの化身のよう。
能面の持つ力と、
その力を自己の中に取り込み、自在に操るシテの力。
この拮抗があってこそ成立した水の結晶のように透明感のある一番でした。
銕仙会定期公演 (9月)
能 采女 美奈保之伝
シテ 観世清河寿
ワキ 宝生閑 ワキツレ 宝生欣哉 大日方寛
アイ 山本則重
笛 藤田六郎兵衛 小鼓 成田達志 大鼓 柿原弘和
後見 片山九郎右衛門 谷本健吾
地謡 観世銕之丞 浅見真州 柴田稔 阿部信之
馬野正基 浅見慈一 長山桂三 観世淳夫
狂言 月見座頭 山本東次郎 山本則俊
能 鵜飼 空之働
シテ 野村四郎
ワキ 殿田謙吉 ワキツレ 則久英志
アイ 山本凛太郎
笛 松田弘之 小鼓 田邊恭資 大鼓 國川純 太鼓 三島元太郎
後見 浅井文義 北浪昭雄
地謡 山本順之 清水寛二 西村高夫 岡田麗史
小早川修 野村昌司 安藤貴康 鵜澤光
この夏かかりきりだった仕事の締め切りを前日に終えて、
すっきりした気分で銕仙会定期公演へ(すごい解放感!)。
宝生能楽堂では座席とカーペットが新しくなっていて、
こちらもすっきりした印象に。
座席の背もたれの厚みが薄くなったおかげで、
前の座席との間が少し空いて、比較的通りやすくなったみたい。
座席が前後互い違いに並ぶともっと見やすくなるのだろうけど、
それは以前のままでした。
それにしても、いつもにも増して超豪華な銕仙会定期公演。
(いつもよりも見所の年齢層が上だったような……。)
3つの名曲を3人の名手が演じ、3役も豪華で見応えがありました。
感想は後の記事で。
シテ 観世清河寿
ワキ 宝生閑 ワキツレ 宝生欣哉 大日方寛
アイ 山本則重
笛 藤田六郎兵衛 小鼓 成田達志 大鼓 柿原弘和
後見 片山九郎右衛門 谷本健吾
地謡 観世銕之丞 浅見真州 柴田稔 阿部信之
馬野正基 浅見慈一 長山桂三 観世淳夫
狂言 月見座頭 山本東次郎 山本則俊
能 鵜飼 空之働
シテ 野村四郎
ワキ 殿田謙吉 ワキツレ 則久英志
アイ 山本凛太郎
笛 松田弘之 小鼓 田邊恭資 大鼓 國川純 太鼓 三島元太郎
後見 浅井文義 北浪昭雄
地謡 山本順之 清水寛二 西村高夫 岡田麗史
小早川修 野村昌司 安藤貴康 鵜澤光
この夏かかりきりだった仕事の締め切りを前日に終えて、
すっきりした気分で銕仙会定期公演へ(すごい解放感!)。
宝生能楽堂では座席とカーペットが新しくなっていて、
こちらもすっきりした印象に。
座席の背もたれの厚みが薄くなったおかげで、
前の座席との間が少し空いて、比較的通りやすくなったみたい。
座席が前後互い違いに並ぶともっと見やすくなるのだろうけど、
それは以前のままでした。
それにしても、いつもにも増して超豪華な銕仙会定期公演。
(いつもよりも見所の年齢層が上だったような……。)
3つの名曲を3人の名手が演じ、3役も豪華で見応えがありました。
感想は後の記事で。
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