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2019年3月23日土曜日

「気」の芸術 ~ 水車稲荷はどこへ?

2019年3月21日(木) 京都観世会館

体調を崩していたため家で休養すべきか迷ったが、少しでもお能の空気に触れたくて、味方玄さんの社中会にお邪魔した。

長居はできなかったけれども、行ってよかった。

片山九郎右衛門さんの番外仕舞《網之段》。
桜川の水を扇で汲み上げる型は、わが子の魂を手の中に集めるような愛おしげな所作。
水面に浮かぶ桜の花びらが扇の中でゆらゆら揺らめき、陽光を反射する水の透明感がシテの顔に明るく映っている。
水の質感、実体感がたしかに感じられる。
このリアリティがあるからこそ、桜子の母の情感と、そこに込めた世阿弥の美意識がひしひしと伝わってくる。


能《海士》のシテを舞われた社中の方も素晴らしく、とりわけ玉之段が見応えがあった。


そして、圧巻は舞囃子《融・舞返》!
杉信太朗さん、成田達志さん、白坂信行さん、前川光範さんのお囃子が超絶カッコいい!! 
もう完全に、ロック! これぞ、ロック! アグレッシブな、攻めロック!

とくに早舞から急テンポの急ノ舞に転じるところ、
成田達志さんの小鼓が冴え渡り、前川光範さんの早打ちが炸裂し、ビシビシッと凄まじい「気」が舞台全体に充満する。
そこへ、九郎右衛門さん、味方玄さんたちの地謡が、まるで獅子のような迫力で覆いかかる!

最高の能楽師さんたちから発せられる最高の「気」が、ビシビシッと鍼のように飛んできて、ツボの経絡に次々と突き刺さる。
しびれるような電流が走り、足元から鳥肌が立った。

やっぱりお能は、「気」の芸術なのだ。

最高のパフォーマンスに遭遇すると、身体がおのずと反応する。
分泌されるホルモンや神経伝達物質が変化して、心と体のバランスが整ってくる。

難しい意味なんか分からなくてもいい、言語の壁なんか関係ない。
主客の「気」が交流すれば、身体そのものが変化する。

大事なのは「気」、技術と表現力をともなった「気」なのだ。



成田奏さんの小鼓も聴きたかったし、味方ファミリーの番外仕舞も拝見したかったけれど、もうこれが限界。後ろ髪を引かれる思いで、会場を後にした

でも、大好きな能楽師さんたちから良い「気」をいただいたおかげで、いろいろあって心身ともに弱り切っていたわたしも、少し前向きになれた気がする。


幸せな気分で白川沿いを歩いていると、なんと、水車稲荷さんが無くなっているではないですか!

ここは、明治期に琵琶湖疏水から水を引いて水車を回した竹中製麦所の水車用水路跡。この水路の安全祈願のために祀られたのが、水車稲荷(三谷稲荷社)だったという。

こんなに無残に祠が撤去されたのを見たのははじめてなので、ショック。
隣接する家屋の建て替えか何かで、どこかに移転されただけならいいけれど。








2018年5月4日金曜日

『僕らの能・狂言 13人に聞く!これまで・これから』金子直樹


長いあいだ手元にあったのに、なかなか読む勇気が出なかった。
本書は観世元伯さんのインタビューで締めくくられる。
おそらくそこで、元伯さんはご自分の未来を語っていらっしゃるのだろう。
そう思うと、辛くて、怖くて、最初の九郎右衛門さんのページから読み進むことができなかった。

数日前に、ようやく読了。
何から何まで、元伯さんのお考えにまったく同感だった。
わたしはかねてから、能を演劇ととらえる見方に抵抗があったのだが、「『能は能』だと思っています」という元伯さんの言葉に大きくうなずいてしまった。


「わからない人にはわからないだろう」ということをやってきたのがお能だと僕は思うのです。わかりやすさを追い求めて、上演する側が考えすぎてこねくり回すと、お能の感覚がどんどん薄れていってしまう。(観世元伯)


ほんとうにその通りだと思う。
分かりやすくするのではなく、「なんだか分からないけれど、美しい!」とか、「意味は分からないけれど、惹き込まれる! また観てみたい!」と、言語や意味を超えた次元で観客を惹きつけることこそ大事だと、わたしは確信している。能を観るようになったきっかけが自分もそうだったから。


元伯さんも、「『広さ』よりも『深さ』を求めて行かないとダメでしょう」と語っている。
言語や意味を超えた次元で観客を惹きつけるには、能の持つ力を信じて、それをどこまでも深めていくことこそが大切だと思うし、おそらく元伯さんご自身もそういうお考えだったと想像する。


だからこそ、元伯さんは新作能やコラボ企画にはあまり積極的には参加されず、あくまで能の本道を突き進む姿勢を貫いていらっしゃった。


人が革新的な何かをやろうとも関知しないスタンスという意味です。かといってお高く留まるつもりはなくて、ただ自分の仕事に対しては常に真摯でありたいのです。(元伯)


ほんとうに貴重な囃子方、かけがえのないリーダーを能楽界は失ってしまった……。


観世元伯さん、片山九郎右衛門さん以外にも、インタビュイーの人選はまことに的確で、金子直樹氏の慧眼には感服する。
なかでも安福光雄さんは、もっと評価されてしかるべき大鼓方さんだと以前から思っていたから良い選択だったと思う。

舞台全体の調和に重きを置く光雄さんはこう語る。

「僕が最近思っているのは、大鼓ってあまり表に出すぎてはいけないと思うのですよ。囃子ごとに関してのまとめ役、さらには舞台のシテなども含めて、すべてのまとめ役でないといけないと思っていて、そういう責任感は感じています。」


わたしはどちらかというと職人肌の囃子方さんが好きだ。
舞台では決して我を出さずに、掛け声や打音でシテや地謡の邪魔をすることなく、淡々と凄いことをこなしていく、こういう囃子方さんは本当の意味で信頼できし、観ている側も舞台に集中できる。
元伯さんもそうだったし、安福光雄さんもそのおひとりだ。


また光雄さんは、関西の囃子方についてこのように述べていらっしゃる。

「やはり西のほうが何となく、まったり、ゆったりしている印象がありますね。僕は好きなんです。良い意味で調和感がありますね。」


「まったり」「ゆったり」とは感じないけれど、こちらに来て関西の囃子方さんはとても調和が取れていることを実感する。聴いているほうも楽しくなってくるのだ。
東京のほうは(人によって違うけれど)どこか個人芸的な要素があるのかもしれない。
(もちろん、個人芸をバチバチに炸裂させたうえでの調和、というのが理想なのだけれど。)



こうした貴重なインタビューを能楽師の方々からうかがえたのも、金子氏の的を射た質問と、話を引き出す巧みな誘導力の為せる業。ふだんから役者の方々と良い人間関係を築いていらっしゃるのだろう。
加えて、金子氏ご自身の見方や問題意識もうかがうことができたのも収穫だった。心から能・狂言を愛し、能楽界の未来を憂えていらっしゃることが言葉の端々から伝わってくる。

本年度の国立能楽堂の7月公開講座では「公演記録映像でふりかえる・能」と題して、金子直樹氏の講演がある。

これ、行きたかったなー、昨年だったらよかったのに。
長年、数々の名舞台を観てこられた金子氏がどの公演を選ぶのか、どんな言葉を述べられるのか、非常に興味がある。

関西にも同様の講座があればいいのに……。









2016年8月23日火曜日

「能」という瞑想 ~ 能楽セラピーPart2

(二年前に当ブログに投稿した「能楽セラピー」という記事の続編です。)

先日、Eテレで「マインドフルネス」の科学的効用について取り上げていた。

マインドフルネスとは、禅などで行われる瞑想から宗教性を除いた心理療法のことをいう。


マインドフルネスを短期間実践するだけでも脳内で変化が起こり、ストレスマネジメント力や集中力のアップ、うつの再発予防などに効果があり、ひいては慢性の炎症に関与する遺伝子の活動を抑制する作用もあるという。


この番組を観ながら、ふと、能を観ることもマインドフルネスなのではないかと思った。


わたし自身、かつて八王子の禅寺で定期的に坐禅を組んでいたことがあり、その経験から感じるのは、能を観ていると坐禅堂で坐禅を組んでいる時の感覚と似たものを覚えるということである。


五感を研ぎ澄まし、集中力を高めて能を観る時の、
舞台に溶け込み、演者と一体化したようなあの感覚。


身体のどこかに苦痛を感じても、ストレスを抱えることがあっても、
演能のあいだは苦痛が和らぎ、精神的ストレスが軽減する。


自己を忘れるような、あの三昧の境地にも似た感覚は、
わたしにとって「愉しむ禅」であり、マインドフルネスそのものなのだ。


そもそも能を観はじめた根本的なきっかけは、仕事で身体を壊したことだった。
日常生活もままならない状態になったため仕事を減らして恢復に努め、
そのリハビリとして何か好きになれる趣味を探してたところ、
出会ったのが「能」だった。


それから今に至るまでの三年ほどのあいだに、
かつての状態に比べると格段に健康になったと思う。


ストレスも以前と比べて感じにくくなったし、
短気で怒りっぽい性格も(あくまで自分比で)少しは穏やかになった気がする。


なによりも能楽堂にいくと、心身のバランスが整い、
「気」のエネルギーが充電されるように感じる。


禅の隆盛期につくられた能には、観ているだけで禅を実践できる
さまざまな癒しの装置がひそかに組み込まれているのかもしれない。



追記:
脳内に作用する癒しの装置が組み込まれた能楽には、
麻薬のように「やみつき」になる側面もなきにしもあらず。






2015年1月17日土曜日

お月さんと戯れる



「私はね、もう哀しみは捨てるんです。最後はお月さんと戯れる、そこだけに絞ってやります。
そしてそのお月さんが照らしている山・姨捨山になったようなかたちで終わりたい」

                      ――片山幽雪、《姨捨》について『能を読む1・翁と観阿弥』より





幽雪師の芸の血脈は次の世代、そしてその次の世代へと確かに続いている。

御子息、御孫さん、門下の方々の芸の中に、幽雪さんはこれからも生き続けると信じています。


謹んで哀悼の意を表します。






























2014年12月24日水曜日

逆境

               
金春國直さんの太鼓を2か月ぶりに鑑賞した。
(もともと上手い方だったけれど)
さらに格段に巧くなっていらっしゃって、驚くとともに胸が熱くなる。

透明感が増したような、打音の美しい響き。
絶妙な強弱をつけつつ無駄な力を抜いて、ひたすら無心に打つ姿には、宗家の風格さえ漂っていた。

彼の中に胚胎されていたものが一気に芽吹き、開花したように、
芸はたしかに、しっかりと継承されていた。


宝生和英さん、関根祥丸さん、そして金春國直さん。
無限の可能性を感じさせる人たちは、
厳しい逆境と強い意識と自覚によって飛躍し、成長していく。
































                                       


                     

2014年12月17日水曜日

梓弓

                                               
太鼓方・上田慎也師のFBに金春國和師の御遺影と法名の写真が載っていて、
ほんとうに御逝去されたのだと、いきなり現実感が湧いてきて、涙がどっとあふれてくる。

それでも
まだ信じられない。
先月初旬にも御舞台で拝見したばかりなのに。


いまは観世流の太鼓を自主トレしているけれど、
観能を定期的に始めた1年ほど前は、國和師の太鼓をよく拝見していた。
あの手裏剣を投げるような、鮮烈で印象的なバチ捌きにひたすらあこがれたものだった。

年末や来年の公演パンフレットには、まだ國和師の御名前がたくさん載っている。

まだまだあの世になんかいってほしくない。
「御冥福を……」という言葉は、私にはまだ言えない。

毎回、梓弓で呼び出されて、これからも、何度も、何度も、舞台の上で太鼓を打ってほしい。
あの太鼓をこれからも聴かせてほしい。








                                                                                                 

                                  
                                                  

2014年12月13日土曜日

喪失

日付の上では、もう昨日になってしまったけれど、
宝生能楽堂の銕仙会定期公演から帰ってきて、初めて金春國和師の訃報を知る。


何も知らず、能天気に浮かれていた自分が恥ずかしい。


國和師は3月にお父様を亡くされて以来、掛け声がかすれて力がなく、覇気もなくなり、座っているのも辛そうで、どこかお悪いのだろうとは思っていたけれど、こんなに急に……。
 
                    
もっと早くから治療に専念することはできなかったのだろうか。
やはり、スケジュールが数年分詰まっていると、舞台に穴をあけることはできないものなのか。


ショックとか、悲しいとかを通り越して、どうしようもなく放心状態。
ただただ、強い喪失感。


囃子方、特に、太鼓方は人数も名人も少ない分、ごく一部の人に出演依頼が過度に集中して、「激務」なんて生易しいものではないほど、きつい、苛酷な仕事だ。
                            
               
公演数が増えるのは良いことだけれど、シテ方・公演の数と、囃子方(太鼓方)の数が極めてアンバランスで、能繁期になると週末はいつも複数かけもちが当たり前。
いつ、誰が、過労で倒れてもおかしくないほどだ。


一人が倒れると、さらに他の太鼓方の負担が増し、ドミノ倒しのようになっていく。

この負のスパイラルを断ちきらないと、取り返しのつかないことになってしまう。


これだけの太鼓方を立て続けに亡くした痛手は計り知れない。
芸はまだ、受け継がれていない。

あの鮮やかで華麗なバチ捌きをもう見ることはできない。
                      
この損失は、あまりにも、とてつもなく大きい。

2014年5月5日月曜日

能楽セラピー

去年の今頃は職業病に悩まされながら仕事に明け暮れて、心身ともに弱り果てていた。

でも、半年前から定期的に能楽堂に通うようになって心と体の状態が驚くほど改善した。

日本文化全般にいえることだけれど、特に能楽では陰陽五行の思想が至るところ(揚幕の五色や大小鼓など)にちりばめられ、良い「気」を巡らすための完璧なシステムが構築されている。

囃子方が「気」を打ち込み、舞台上に「気」を吹き込んでいく。

地謡が強力な「気」をたっぷり含んだ謡にのせて、プラスの言霊を舞台に送り込む。

シテ方が舞台にみなぎる「気」を美しく流れるように巡らせ、ワキ方がそれをサポートする。

三間四方の二辺を囲む見所が能楽堂に満ちた「気」を感受し、感動の「気」を舞台上に反射していく。

かくして再び「気」が舞台上に集まり、シテ方が精妙な舞を舞いながらその「気」をさらに巡らせ、舞台と見所の相互作用によって唯一無二の、一期一会の舞台が完成されていく。

凄い舞台を見て心が揺さぶられると、陰と陽の「気」が調和して、心身のバランスが整えられるような気がする。

たとえば、負の感情にとらわれた時は大皮が(私には)良いようだ。
特に亀井広忠さんの気迫のこもった演奏には、たちの悪い邪気を吹き飛ばすお祓いのような効果がある。
また、一噌仙幸先生のクリスタルな笛にはその音色と同様、水晶のような浄化作用がある。

日本語が分からない外国の人が能を見て感動するのも、そこに流れるパワフルで清浄な「気」を感じとるからだろう。

だからシテ方の名手は「気」を巡らせる名人でもある。
能楽堂に充満した「気」を巧みに操り、時に激しく、時に静謐な気の流れを刻々と創り上げていく。
私がいちばん好きなのは、舞台上で自らも美しい「気」を放つ能楽師かもしれない。