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2020年4月8日水曜日

静かな街、静かな日常 ~緊急事態宣言発令1日目


緊急事態宣言発令の第一日目。そっと外に出てみると、
街灯に照らされた近所の夜桜

道行く人はまばら。
買い物帰りらしき人、散歩をする人、営業マン風のスーツ姿の男性……。

人びとはパニックになることなく、粛々と現実を受け止め、冷静にやるべきことをやり、静かに日常を営んでいる。

スーパーでは買い占めなどもなく、棚には豊富に商品がそろい、行動を少し制限される以外には、特に不自由なく普通の暮らしを送ることができる。

(こんな状況下でも勤務してくださるレジ係の方々に感謝!)



これまでも未曾有の大災害をいくつも乗り越えてきたのだもの、日本人ならきっと、この未曾有の疫禍も乗り越えていくことができる!

生きていると、ほんと、いろんなことがある。
映画や小説の世界のような出来事も現実に起きてしまう。




芸術を生で鑑賞できなくなったいま、娯楽が少なかったころのいにしえの人たちが、月や花を友として、心から愛でていた気持ちが痛いほど分かる。

当たり前に咲いていた近所の公園の花たち。
いまは、心に寄り添ってくれる尊いものに思えてくる。




ほとんど誰もいない近所の公園で、枝垂桜がライトアップされていた。

ことさら名所に行かなくとも、身近なところに心を癒す美しいものがあふれていて、気持ちが満たされる。




2020年4月7日火曜日

吉村知事の指揮のもと ~Stay home, for the sake of everyone.


ようやく、緊急事態宣言が発令されます。
阪急京都線の駅員さんも感染し、もしかして自分も無症状感染者?と思ったり。



いろいろ不安になることがありますが、吉村知事が毎日みずからの言葉で府民に現状を伝え、先を見越した先手先手の対策を立ててくださるので、気持ちが鼓舞されます。

ほんま、頼りになる知事さんです。


「軽症者をホテルなどの宿泊施設で療養させる」という方法も、吉村知事と大阪府が1か月前から対策を立てていた〈大阪方式〉の一部なんですが、全国放送ではまったく報道されなくて残念……(>_<)

大阪方式とは、司令塔としての「入院フォローアップセンター」を設置し、①高度病床②一般病床③閉鎖病棟の活用④宿泊施設に分けてトリアージする、というもの。

この大阪方式が国の基本モデルになりつつあるのですが、どうか奏功しますように。



毎晩遅くに、吉村知事が府民にツイッターで呼びかけ、府民がそれにコメントで呼応する。
智将の指揮のもと、府民が一丸となって疫禍と闘っているような、不思議な連帯感があります。




引き続き外出自粛状態ですが、家に閉じこもってばかりだとめちゃくちゃ運動不足になるので、お花見がてらにお散歩へ。

近所に公園や神社仏閣があるので、気分転換になります。
いいお天気 🌸 





公園にはソメイヨシノ以外にも、いろんな桜が咲いていて変化が楽しめます。
これは八重紅枝垂かな?

濃いめのピンクが青空に映えて、心が明るくなりますね。


八重桜だけど、名前はなんていうのかな?
シフォンのドレスをまとった淑女みたい。
エレガントな桜。




これは枝垂桜ですね。
種類が違うと開花時期が微妙にずれて、桜が長く楽しめます。





昨日、母校の大学病院の先生と話したのですが、医療現場は極めて深刻な状況で、緊張感・緊迫感に満ちていました。
病院スタッフの方々は非常に過酷な状態にあり、今後さらに厳しい状態に直面することになるでしょう。このままでは、医療従事者の健康さえ脅かされかねません。

みんなの生命と健康を守るのは、一人一人の危機意識と行動変容です。
だからこそ、

Stay home, for the sake of everyone.

家にいよう、みんなのために。



2020年4月1日水曜日

あっという間に散ってしまった


志村けんさんの追悼番組、息が苦しくなって、観ることができなかった。


子どものころの思い出、土曜の夜の団欒の記憶と、切っても切れない存在だった。

こんな最期を誰が想像できただろう。
桜よりも早く散ってしまった……。

心よりご冥福をお祈りいたします。









2020年3月21日土曜日

関所のこちら側



Covid-19感染のオーバーシュートを防ぐべく、阪神間に「関所」が設けられた3連休。

関所のこちら側では、ソメイヨシノがまだ一分咲きくらいでした。





いいお天気♪

近所の公園を散歩。
家族でのんびり過ごす休日も良いものです。





枝垂桜もキレイ。

咲き始めは、花びらがみずみずしい。





花蜜に誘われてメジロさんがたくさん来てました。

公園では、ゴザを敷いてお弁当を食べてる人もけっこういてたけど、みんな、ちゃんと1メートル以上の間隔をあけて座ってはるところがさすが。

コロナ感染防止の3原則、めっちゃ大事。

きれいな桜を見て、免疫力を高めよう……( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )❤︎




2020年3月15日日曜日

乱世の名将、吉村洋文大阪府知事


水の都・大阪の中之島

世界が病禍に見舞われたこうした乱世こそ、トップの資質が問われる。

国や他の自治体が右往左往するなか、あざやかな政治手腕でつねに先手を打ってきたのが、大阪府の吉村洋文知事である。

吉村知事についてはかねてからSNSでフォローしてきたが、この方のツイートは簡にして要を得、じつに的確だ。
情報公開および議論の透明性を徹底する姿勢と、その情報発信力の高さは他の首長を凌駕する。


つねに優先順位を明確にし、大局的な視点に立って物事を合理的・理性的に判断する吉村知事。
彼が新たな対策を打ち出すたびに、「これこそ、求めていた方策!」と胸躍らせながら拍手喝采を送り、ツイートにコメントして援護射撃を行ってきた。

有事に際して、冷静沈着でブレないリーダーは心強い。


コネや家柄、既得権益との癒着ではなく、こうした真に有能な人物がトップに立つことができるのも、プラグマティックな大阪という土地柄なのだろう。


吉村知事は国や他の自治体に先駆けて、大阪府内の公的イベントの中止・延期および学校の休校を決定。急激な感染ピークを抑えながら、医療崩壊を防ぐべく、司令塔組織を置いてトリアージを判定する万全の医療体制をシステマティックに整えてきた。


感染者数をゼロにすることは不可能であり、感染者の8割以上は軽症・無症状という現実を踏まえて、今後は死亡者数を最小限に抑えつつ、社会・経済・文化活動を徐々に正常に戻していくことが求められる。
そうしなければ、経済も文化も死んでしまい、人々の生活が立ち行かなくなるからだ。

(ちなみに、日本国内のインフルエンザによる死亡者数は毎年3000人以上。それと比較すると、新型コロナの実害よりも自粛による被害のほうがはるかに甚大なのがよく分かる。)


現在、吉村知事は松井市長とタックを組み、国に先駆けて「自粛の漸次的解除」へと大きく舵を切ろうとしている。


だが、コロナパニックのなか、多くの府民から「自粛解除は時期尚早」という批判が相次いでいる。

さらに今日、大阪府職員の新型コロナ感染が発覚し、当該職員が勤務中にマスクをしていなかったことから、大阪府が集中砲火を浴びることとなった。

非常に困難な局面だが、吉村知事には何とか切り抜けてもらいたい。
高須克弥氏は、「名将のもとにいる弱卒の怠慢で武漢肺炎が大阪府職員の間で蔓延することを恐れます」と述べておられるが、正にその通りである。


残念なことに、NHKをはじめ朝日・毎日などの主要メディアが維新の会を毛嫌いしているため、吉村知事・松井市長および大阪府・大阪市の先見的な試みがテレビや新聞で伝えられることはほとんどない。
とくに全国放送で報道されないのは、国民にとって大きな不幸だと思う。

吉村知事と大阪の対策が功を奏せば、Covid-19対策の全国基準、いや、きっと世界基準になるはずだ。

吉村洋文知事のツイッターは、こちら(吉村洋文ツイッター)。
知事はほとんど毎日、時には深夜遅くに、その日の経過や決定事項をツイートしておられる。1~2キロ痩せたとおっしゃっていたが、知事の健康も気遣われるところである。


吉村知事・松井市長・大阪の試みが全国に、さらには海外に広がり、多くの人の助けとなることを願ってやまない。



2020年3月7日土曜日

無音のカーテンコール~びわ湖ホール《神々の黄昏》ライブストリーミング配信


Covid-19感染拡大防止のため公演の中止・延期が相次ぐなか、びわ湖ホールで上演予定だった《ニーベルングの指環》第3日『神々の黄昏』(全3幕)も、残念ながら公演中止となりました。

その『神々の黄昏』の無観客公演が今週末3月7日・8日の13時~19時に行われ、無料ライブストリーミングが配信されます。

関西屈指のオペラハウスが総力を挙げてプロデュースしたヴァグナーの名作。
ぜひ御覧ください。 詳細はこちら

見逃した方は、同日別途録画する高画質映像がDVDとして後日販売されるそうです。



〈追記:2日目を観終えて〉
びわ湖ホールのスタッフさんがツイッターで休憩時間やタイムスケジュールをそのつどアナウンスしてくださって、まるで実際に劇場にいるような臨場感!

2日目は前日にもまして情感豊かで繊細な表現。とくに池田香織さんのブリュンヒルデがすばらしく、愛と憎悪、怒りと悲しみがひしひしと伝わってくる。どこか影を感じさせるハーゲン(斉木健詞)の奥行きのあるバスも心に残った。

ブリュンヒルデが炎の中に飛び込んで、館が崩れ、ヴァルハラが焼け落ちるところは全身総毛立つほど感動的だった。滅びゆくものは、なんて美しいのだろう!

この日も、最後は無音のカーテンコール。ブリュンヒルデ役の池田香織さんの涙をこらえる姿に、そして皆さんの笑顔に、胸がギュッと絞めつけられた。どうか、この拍手が届きますように。

現在、オペラの本場・イタリアでも危機的な事態に陥っている。びわ湖ホールの方々の思いに報いるためにも、国内感染を抑えるべく、一人一人が今できることを心がけていきたい。




〈追記:1日目を観終わって〉
誰もいない観客席が休憩時間に映し出されるのを見ると、胸が詰まった。。。
出演者や関係者の方々はさぞかし無念だったことだろう。それを思うと涙があふれてきた。最後の方は食事の支度や家族の団欒で鑑賞できなかったけれど、無音のカーテンコールだったそう。

それにしても素晴らしい舞台だった。主役の二人はもとより、グンターとハーゲンも。そして、京都市交響楽団もレベルが高く見事だった。実際に生で観たらどれほど感動しただろうと想像ながら観た特別な舞台。心の中で無音のスタンディングオベーションを送りたい。

明日は配役を替えての公演、ぜったい観なくては。そして、見たいオペラがあれば、今度はぜひ、びわ湖ホールで鑑賞したい。







2020年3月6日金曜日

ひと足早く、プチお花見


近所の公園で河津桜が満開に。

桜と春色の空がまぶしい~。
濃いピンクの花が、ソメイヨシノよりもフォトジェニック。




うつむいた風情が舞妓さんのかんざしみたい。





ローズカラーのつぼみもカワイイ ( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )❤︎





休校中の小学生とお祖母さんらしき女性がベンチでお弁当を食べていました。

早く終息するといいですね。

不眠不休でご尽力くださっているあの方にも、どうか、春のエネルギーが届きますように。。。






2020年3月3日火曜日

そうだ、空を見よう!~ベランダから眺める美術館


いつも楽しく観ている又吉直樹さんの番組『ヘウレーカ!』。
「雲の”心”読めますか?」の回で、雲研究家の荒木健太郎先生が「雲愛」を熱く語っていらっしゃったのですが、以来、私もすっかり雲の魅力にはまってしまいました。
おしゃべりする雲さんたち

いまはどこもかしこも休館中ですが、家にいても、ベランダに出て空を見上げるだけで、美しい映像や絵画に出会えるのです。

こんな身近に、こ~んなに素敵な世界があったなんて!




さざ波のようなひつじ雲

一瞬ごとに姿を変えるかけがえのない雲たち。
同じ形、同じ色の雲に二度と出会うことはありません。



夕日雲
ここに紹介しているのは、この2~3日に自宅のベランダから眺めた雲たちですが、季節ごとに、お天気ごとに、いろんな雲たちに出会えるはずです。




2本のひこうき雲
空や雲を見ていると、幸せな気分になります。

この地球で生きているかぎり、どんな時も寄り添ってくれる。
どんな人にも寄り添ってくれる……。






お月さまとヴィーナス

出かける場所がどこにもなくても、自宅の窓やベランダから眺められるとっておきの美術館があります。

雲を愛する雲研究者・荒木健太郎先生が毎日ツイッターで投稿してくださる芸術品のような雲の映像、こちらもおすすめです。
とっても癒されますよ♪



2020年1月24日金曜日

片山九郎右衛門さんの「京の冬の旅」~The Graceful Days in Kyoto

もうご存知かと思いますが、令和2年冬のJR「京の冬の旅」ポスターの顔は、今をときめく観世流シテ方・片山九郎右衛門さんです。

2020年「京の冬の旅」ポスター

九郎右衛門さんが背にしているのは、この冬特別公開される泉涌寺塔頭・新善光寺の襖絵《鞨鼓楼図》。狩野周信筆のこの障壁画は、音楽をたのしむ玄宗皇帝と楊貴妃を描いたものです。

泉涌寺には有名な楊貴妃観音が安置されていることもあり、「京の冬の旅」のポスターにも、九郎右衛門さんが能《楊貴妃》を舞った時のものらしき写真が添えられています。

こうした「楊貴妃づくし」の演出とともにJRが打ち出したキャッチコピーが「The Graceful Days in Kyoto」。
みやびで優雅な京の冬の旅は、九郎右衛門さんの所作や舞姿の雰囲気とオーヴァーラップします。



今月のJR西日本のおでかけ情報紙『西Navi』には「能楽師が愛してやまない雪景色と京都・冬の色」と題して、九郎右衛門さんが五感で感じた冬の京都の魅力が紹介されています。

たとえば、空気の澄んだ冬ならではの大鼓や太鼓の美しい高音、能の雪景色の場面での透明感のある声の出し方、日吉大社の「一人翁」のこと、うっすら雪が積もった祇園町をぼんぼりの明かりに照らされながら着物姿の女性の歩く風情など、京の厳しい冬の空気感や京の暮らしに根ざした情景が伝わってきます。

なかでも印象に残ったのが、褪色した装束の醍醐味。
「あと一回使ったらだめになるんじゃないかというくらいの状態が、とてもきれいなんですよ」と、九郎右衛門さんは言います。

昔の天然染料で染め上げられた藍色の装束は、褪色すると色が薄くなるのではなく、緑みを帯び「頬ずりしたくなるようなきれいな色」になるのだとか。

インタビューの最後に、九郎右衛門さんがお薦めする「冬ならではの京都の色」についてこんなふうにおっしゃっています。

「早朝の、ほとりに雪の積もった鴨川の美しさは格別。朝日が射し込むと、雪に囲まれた水面が反射していろんな色に見えるんです。雪に喧騒は似合いません。雪の舞い始め、辺りがしんしんと静けさを増す頃に出かけてみれば、冬の京都の別の顔に出合えるかもしれませんよ。」


**********
近年は暖冬つづきで、東山魁夷の《年暮る》のような、雪の積もった京都にはなかなかお目にかかれませんが、わたくし(夢ねこ)が思う京都の冬の魅力は、学生時代に訪れた冷泉家の凍てつく寒さ。
サッシ窓もなく、暖房もない、底冷えする生粋の京の寒さ。重要文化財に指定された最古の公家住宅で暮らすことの意味を、身をもって体験した京の冬でした。


最近は自分の時間が持てず、趣味の外出もままならない状態ですが、この冬、ひさしぶりに泉涌寺を訪れてみたくなりました。

冬らしくない冬だからこそ、つかのまの京の冬の魅力を味わいたいものです。




2019年6月12日水曜日

色ばかりこそ、むかしなりけれ ~大津市伝統芸能会館の《杜若》と囃子Labo

大津市伝統芸能会館主催・能《杜若》のチラシ

なんて素敵なフライヤーなんだろう!
はじめて手にしたとき、思わず見惚れてしまった。

余白をたっぷり取り、紫のぼかしを加えた背景に佇む、杜若の精━━。
精緻な模様が織り込まれた紫長絹に杜若の花を挿した初冠をかぶり、緌をつけ、日陰の糸を垂らし、飾太刀を佩いている。
写真のポーズは、キリの「蝉の唐衣」で左袖を愛おしそうに見つめるところだろうか?

このチラシをひと目観ただけで、能《杜若》の世界がダイレクトに伝わってくる。
デザインした人は美的センスがあって、曲趣をよく理解している方なのだろう。

写真のモデルは味方玄さんだが、来月7月15日の本公演でのシテは、片山九郎右衛門さん。
「素囃子」の小書付きなので、おそらく序之舞がなくなるのが少し残念な気もするけれど、どんな舞台になるのか、今からワクワクしている♪




ちなみに、大津市伝統芸能会館の公演日(7月15日)の夜には、京都の若手囃子方さんたちが主催する囃子Laboがあります。

ゲストに太鼓方観世流の井上敬介さん、シテ方金剛流の金剛龍謹さん、宇髙竜也さんをお招きして、金春流と観世流の太鼓流派の比較や、一調、居囃子などがあり、盛りだくさんな内容。

太鼓の前川光範さんは《杜若》と掛け持ちなのですが、私も頑張ってかけ持ちする予定。
当日はおそらく猛暑日だろうからバテバテになっていて、体力がもつかどうか(せめて台風やゲリラ豪雨はありませんように!)。。。こちらもとっても楽しみです。😊





2018年12月17日月曜日

春日若宮おん祭 断念!


1年前にこちらに戻ることが決まってから、ずっと楽しみにしていた春日若宮おん祭。

でも、気温の低下とリンクして一週間ほど前からガラガラッと体調を崩してしまい(風邪っぽい?)、年末年始を控え、これ以上悪化させないためにも、今日のおん祭は断念しました。めっちゃ無念!
(15日の河村定期能の《誓願寺》も観たかったけれど、こちらも断念。)

「冬の奈良の屋外で長時間観る」、というのは相当さむくて覚悟がいります。
体調が良くないとだめですね。

来年こそは!
と思いつつも、寒さに弱いわたし、はたして行けるのだろうか。







2018年12月6日木曜日

『鼓に生きる』田中佐太郎


歌舞伎囃子方・田中佐太郎さんの『鼓に生きる』(聞き手・氷川まりこ、淡交社)を最近読んだ。

佐太郎さんは、言わずと知れた亀井忠雄師の奥様にして、三響會三兄弟のお母様でもある。

兄と四人姉妹の三女として生まれた佐太郎さんが、なぜ、人間国宝・十一世田中傳左衛門の後継者となったのか。それにはさまざまないきさつが絡んでいるが、彼女の素直で、忍耐強く(おそらく負けず嫌いで)、きわめてストイックな性格が大きく影響しているのかもしれない。

芸や生き方に対するストイシズムは、「舞台は命がけ」という忠雄師とも共通するし、三人の御子息にも受け継がれている。


受け継がれているといえば、「礼を重んじる心」もそのひとつかもしれない。

伝統芸能に携わる方々の多くがそうだけれども、佐太郎さんもとりわけ礼儀を重んじる方で、一番最初に教え、徹底するのが「挨拶」だという。

この箇所を読んで思い出したのが、亀井広忠さんの礼儀正しさだった。

広忠さんは、わたしのような縁もゆかりもないただの一般観客にも、いつもとても丁寧に挨拶をしてくださる。
広忠さんが座っていらっしゃる時に、わたしがたまたま通りかかり、軽く会釈をして通り過ぎようとした時なども、向こうはわざわざ立ち上がって丁寧なお辞儀を返してくだり、恐縮した覚えがある。
硬派で、礼儀正しい、能楽界の高倉健のような方だと思った。


また、個人的にとてもうれしかったのが、佐太郎さんの能楽太鼓のお師匠様が、わたしが偏愛・敬愛する柿本豊次だったこと。

柿本豊次の太鼓はもちろんCDでしか聴いたことがなく、お姿も画像のぼやけた白黒写真でしか拝見したことがなかったが、本書では佐太郎さんの襲名披露公演で、彼女の太鼓後見についた柿本豊次の姿が鮮明に掲載されている。

(ちなみに、この襲名披露公演で大鼓を勤めたのが亀井忠雄師。つまり、この公演は、お二人の馴れ初めともなった記念すべきものでもあったのだ。その申し合わせの写真には、忠雄師を見つめる佐太郎さんの恋する乙女のような表情が写っていて、この写真を観ただけで、結ばれるべくして結ばれたお二人なのがよくわかる。)


柿本豊次は、家の子ではなく、外から入って人間国宝にまで上り詰めた方だが、御自身が大変苦労されただけに、同じ思いをさせたくないと玄人弟子はとらなかった。
だから残念ながら、豊次の芸系は絶えてしまったのだが、佐太郎さんを通じて、三人の御子息にその片鱗が受け継がれているように思う。

柿本豊次から佐太郎さんへ、そして御子息へと受け継がれたものとは、豊次が言っていた「玄人は舞台を楽しんではいけない」という自制心と、おのれの芸への客観的視線なのかもしれない。


この自制心は、佐太郎さんの家庭生活にも及んでいる。
三男・傳次郎さんによると、
「母は、男四人(夫と三兄弟)が食卓についているあいだ、ずっと料理を作って、運んで、よそって……そうやってわれわれが食べ終わったころ、母がようやく食卓につくのです。(中略)母は自分の好きなものを作ったことは、たぶん一度もないんじゃないでしょうか。たまの外食のときでも、店選びは父に任せていますし。なにを食べたいとか、ここに行きたいとか、そういう母の自己主張や好き嫌いを、私は一度も聞いたことがないですね」という。

凄い! の一言である。

常人には到底まねできないが、並みの女では太刀打ちできないようなこういう女性でないと、亀井忠雄師の奥様は勤まらないだろうし、三人の御子息を、ただの玄人ではなく、プロとして「”超”がつく一級品」に育て上げることもできなかったにちがいない。



「(指導者が)手をあげること」について、佐太郎さんは現代社会の風潮に一石を投じる言葉を述べられている。

「あえて誤解を恐れずに言えば、怒りの感情に任せて叩くのはいけないけれど、手をあげて叱らなければならないときがあるのです。」
「それぐらい真剣にやっているんだという覚悟を伝えるために、必要なときがあるのです。」

伝統の継承のなかで、師が弟子に真剣勝負でぶつかっていかなければ、伝わらないことがあるのかもしれない。
「暴力行為とはどんな理由であれ、決して許されるべきではない」とよく言われるが、ほんとうにそうだろうか。

「天下一品の教育者」といわれる佐太郎さんの言葉には含蓄があり、いろいろ考えさせられた。









2018年7月2日月曜日

桂歌丸さんの《竹の水仙》


昨年三月、桂歌丸さんの高座を生まれて初めて拝見した。
その日、間近で見た演目は《竹の水仙》だった。

その数か月前まで誤嚥性肺炎で何度も入院されていたため、おそらく高座に上がる時も自力では上がれず介助が必要だったのだと思う、幕が上がった時には酸素吸入器をつけたまま、すでに高座に上がっておられた。
身体はひどく痩せ細っていらっしゃったが、それがかえって、人生によって削り込まれ、芸と経験によって磨きぬかれた茶杓のような、簡素な美しさを感じさせた。

高座を聴いている時も、話芸はもとより、その身振り手振りの舞のような優雅さに心惹かれた。
余計な力が抜けて、ただひたすら一瞬一瞬に魂を込めて生きている、その姿が今でも目に焼きついている。

高座に上がって一瞬一瞬を命懸けで生き抜き、竹に花を咲かせ続けて、寿命を縮めていかれたのだろう。
おそらくそれが御本人の本望だったのかもしれない。

あの日、私の隣にはひどく疲れた様子の高齢の女性が座っていたが、歌丸さんの落語を聴くうちに雰囲気が変わり、最後はとても幸せそうに笑っていた。
まわりの人たちも、まるい、幸せそうな顔をしていた。
わたしも、ほんのり心があたたかくなった。

そうやって歌丸さんは病身を押して高座を勤めつづけ、観客の心に竹の花を咲かせつづけて、落語初心者だったわたしの心にも落語好きの小さな火を灯してくださった。

ご冥福をお祈りするとともに、心より感謝の意を捧げたい。
ありがとうございました。















2018年5月4日金曜日

『僕らの能・狂言 13人に聞く!これまで・これから』金子直樹


長いあいだ手元にあったのに、なかなか読む勇気が出なかった。
本書は観世元伯さんのインタビューで締めくくられる。
おそらくそこで、元伯さんはご自分の未来を語っていらっしゃるのだろう。
そう思うと、辛くて、怖くて、最初の九郎右衛門さんのページから読み進むことができなかった。

数日前に、ようやく読了。
何から何まで、元伯さんのお考えにまったく同感だった。
わたしはかねてから、能を演劇ととらえる見方に抵抗があったのだが、「『能は能』だと思っています」という元伯さんの言葉に大きくうなずいてしまった。


「わからない人にはわからないだろう」ということをやってきたのがお能だと僕は思うのです。わかりやすさを追い求めて、上演する側が考えすぎてこねくり回すと、お能の感覚がどんどん薄れていってしまう。(観世元伯)


ほんとうにその通りだと思う。
分かりやすくするのではなく、「なんだか分からないけれど、美しい!」とか、「意味は分からないけれど、惹き込まれる! また観てみたい!」と、言語や意味を超えた次元で観客を惹きつけることこそ大事だと、わたしは確信している。能を観るようになったきっかけが自分もそうだったから。


元伯さんも、「『広さ』よりも『深さ』を求めて行かないとダメでしょう」と語っている。
言語や意味を超えた次元で観客を惹きつけるには、能の持つ力を信じて、それをどこまでも深めていくことこそが大切だと思うし、おそらく元伯さんご自身もそういうお考えだったと想像する。


だからこそ、元伯さんは新作能やコラボ企画にはあまり積極的には参加されず、あくまで能の本道を突き進む姿勢を貫いていらっしゃった。


人が革新的な何かをやろうとも関知しないスタンスという意味です。かといってお高く留まるつもりはなくて、ただ自分の仕事に対しては常に真摯でありたいのです。(元伯)


ほんとうに貴重な囃子方、かけがえのないリーダーを能楽界は失ってしまった……。


観世元伯さん、片山九郎右衛門さん以外にも、インタビュイーの人選はまことに的確で、金子直樹氏の慧眼には感服する。
なかでも安福光雄さんは、もっと評価されてしかるべき大鼓方さんだと以前から思っていたから良い選択だったと思う。

舞台全体の調和に重きを置く光雄さんはこう語る。

「僕が最近思っているのは、大鼓ってあまり表に出すぎてはいけないと思うのですよ。囃子ごとに関してのまとめ役、さらには舞台のシテなども含めて、すべてのまとめ役でないといけないと思っていて、そういう責任感は感じています。」


わたしはどちらかというと職人肌の囃子方さんが好きだ。
舞台では決して我を出さずに、掛け声や打音でシテや地謡の邪魔をすることなく、淡々と凄いことをこなしていく、こういう囃子方さんは本当の意味で信頼できし、観ている側も舞台に集中できる。
元伯さんもそうだったし、安福光雄さんもそのおひとりだ。


また光雄さんは、関西の囃子方についてこのように述べていらっしゃる。

「やはり西のほうが何となく、まったり、ゆったりしている印象がありますね。僕は好きなんです。良い意味で調和感がありますね。」


「まったり」「ゆったり」とは感じないけれど、こちらに来て関西の囃子方さんはとても調和が取れていることを実感する。聴いているほうも楽しくなってくるのだ。
東京のほうは(人によって違うけれど)どこか個人芸的な要素があるのかもしれない。
(もちろん、個人芸をバチバチに炸裂させたうえでの調和、というのが理想なのだけれど。)



こうした貴重なインタビューを能楽師の方々からうかがえたのも、金子氏の的を射た質問と、話を引き出す巧みな誘導力の為せる業。ふだんから役者の方々と良い人間関係を築いていらっしゃるのだろう。
加えて、金子氏ご自身の見方や問題意識もうかがうことができたのも収穫だった。心から能・狂言を愛し、能楽界の未来を憂えていらっしゃることが言葉の端々から伝わってくる。

本年度の国立能楽堂の7月公開講座では「公演記録映像でふりかえる・能」と題して、金子直樹氏の講演がある。

これ、行きたかったなー、昨年だったらよかったのに。
長年、数々の名舞台を観てこられた金子氏がどの公演を選ぶのか、どんな言葉を述べられるのか、非常に興味がある。

関西にも同様の講座があればいいのに……。









2018年3月28日水曜日

Dreams are true while they last....


MIHOミュージアムには何度か訪れたことがあります。
おそろしく不便なところにあり、車で行けども行けどもたどり着けない気がするほどの、文字通り深山幽谷の桃源郷。
絶景に建築、常設展も素晴らしいお気に入りの美術館です。
↓の画像は長澤蘆雪展に行ったときのもの。

設計は、ルーブル美術館のガラスのピラミッドで知られるI・M・ペイ


その美術館で、4月29日に片山九郎右衛門さんのワークショップがあると聞き、はりきって申し込んで(受付番号1番!)すっごく楽しみにしてたのに、抜き差しならない用事が入ってしまい、泣く泣く断念 (>_<)

怒涛の3月~4月上旬を乗り切るための、心の支えだったのに……。


そんなわけでキャンセルが1名出るので、参加をあきらめた方もよろしければ問い合わせてみてください。











2017年4月25日火曜日

忙中閑あり、苦中楽あり

       
巷では新・能楽堂がオープンしたようですが、
このところ東京を離れることが多く、なんとなく浦島太郎状態。

先日つかのま家に戻ったので、たまたまその日に開かれていた社中会にうかがいました。

大好きな東中野の能楽堂。
鏡面のように磨き込まれた能舞台の床と、昭和の香りのするノスタルジックな建物。

拝見したのは素謡の途中からと舞囃子二番のみ。
それだけで謡と囃子の響きに癒され、
紅茶に入れた角砂糖のように疲労がスーッと溶けてゆく。

梅若の謡は高音が透き通るように澄んでいて、ことのほか美しい。

この空間、この響きに身をまかせるだけで、
頭のなかは空っぽに、無心になり、
押し寄せるもろもろの感情・事象が消えていく気がした。


すぐにお暇しましたが、幸せなひとときに感謝!


帰宅すると、拙ブログを通じてうれしいニュースを伝えてくださった方がいらっしゃいました。
元伯さんがこれまでとお変わりないご様子で見事復帰されたとのこと!
実際に舞台で拝見したら感無量で泣いてしまいそう。

ご親切にお教えくださった方、ほんとうにありがとうございます!

略儀ながら、心より御礼申し上げます。




2015年2月8日日曜日

「何にもならない」一生を「ただ生きる」


                      

                                  
生きていると、どうしようもなく、むなしくなる時があります。


今まで何のために生きてきたんだろう。

今まで何のために努力してきたのだろう……。

そんな「生のむなしさ」にとらわれた時、手に取った本に救われることがよくあります。


昨夜、ふと繙いた本(ネルケ無方『ただ坐る』)の言葉が、自分にとっての啓示となりました。
(その言葉を以下に抜粋します:太字部分)




参禅者たちによく聞かれます。
 
「坐禅をして何になりますか?」
 
実は答えは極めて簡単、「何もならない」です。

(中略)坐禅をしても、本当に何にもなりません。

……「何にもならない」からこそ、坐禅がいいのです。

人間の一生も、結局、何かになるようなものではありません。

しかし、この「何にもならない」一生を、「ただ生きる」ことが重要なのです。

今の日本人に足りないのは、ただ生きることに自信を持つことだと思います。

何にもならない、この一生をただ生き抜くというキモが据わっていなければ、
 
芯のない生き方・中途半端な生き方になってしまいます。
 
              ――ネルケ無方『ただ坐る』(光文社新書)





何か価値のある目標を持ち、それを達成することが
人生の成功であり、幸せなのだという錯覚。

目標達成のために時間を費やすことこそが
時間の有意義な過ごし方だという思い込み。

私もそうした幻想にとらわれ、「何かを追い求める」「何かを達成する」
という呪縛からなかなか抜け出せない人間の一人です。


過去に自分の心の問題で悩んでいた時期、
八王子の松門寺という禅寺に数年間参禅したことがあります。

その時は参禅によって精神的危機から抜け出すことができたのですが、
その後、坐禅からはしばらく遠ざかっていました。

ネルケ師の著書を読んで、ふたたび禅に向き合ってみようと思いました。
久しぶりに姿勢を正して坐禅を組んでみると、頭がすっきりして気持ちのいいものです。


ネルケ師のわかりやすい坐禅指導はこちらのYoutubeにアップされています。
https://www.youtube.com/watch?v=FIV2H8QLn4w


さらにネルケ師は「坐禅をしても何もならない」ということについて、
著書の後半でこのように述べています。



坐禅しても、修行しても何もならないというのは、
先ず見返りなど何も期待してはならないということです。

修行の一つ一つを単なる手段と捉えず、
今ここ・この瞬間の修行に自分の命の全てを見出し、
全自己を投入することです。

志のない人が目の前にぶら下がっている人参をいくら追い続けても、
結局はそれを得られません。

坐禅にしても、人生にしても、挫折・幻滅して辛い思いをするのは
周りがそうさせているのではなく、本人が全身全霊を打ち込まず、
見返りばかり期待していることが原因である場合が多いのではないでしょうか。



ガツンッとくる言葉です。

私が「生のむなしさ」を感じるのも、
一瞬一瞬を、身を入れて真剣に生きていないからだと思い至ります。

失望するのも、幻滅するのも、
見返りばかりを求めてしまっているからなのです。


日々是修業。
(難易度高いですが)見返りを求めず、全身全霊で今を生きる生き方を目指したいものです。