2018年8月28日(火)11時~16時30分 大槻能楽堂
舞囃子《高砂》 大江広祐
杉信太朗 吉阪倫平 河村裕一郎 前川光範
地謡 梅田嘉宏 河村和晃 河村和貴 河村浩太郎 河村春奈
舞囃子《邯鄲》 高林昌司
山村友子 船戸昭弘 森山泰幸 中田一葉
能《杜若》 シテ 樹下千慧
ワキ 喜多雅人
貞光智宣 成田奏 河村凛太郎 澤田晃良
後見 片山九郎右衛門 河村和貴
地謡 橋本忠樹 大江信行 梅田嘉宏
河村和晃 大江広祐 河村浩太郎
舞囃子《玄象》 浦田親良
野口眞琴 岡本はる奈 柿原孝則 中田一葉
地謡 林本大 笠田祐樹 山田薫 上野朝彦
狂言《附子》 茂山竜正 茂山虎真 井口竜也
後見 茂山千五郎
連吟《春日龍神》 小林努 原陸 岡充
狂言小舞《岩飛び》 中川力哉
《暁の明星》小西玲央
地謡 善竹隆司 善竹隆平
仕舞《善界》 西野翠舟
大槻裕一 笠田祐樹 寺澤拓海
舞囃子《安宅》 金春飛翔
杉信太朗 成田奏 亀井洋佑
地謡 村岡聖美 林美佐 柏崎真由子 中野由佳子 安達裕香
舞囃子《吉野静》 石黒空
熊本俊太郎 岡本はる奈 河村裕一郎
地謡 辰巳大二郎 辰巳孝弥 金井賢郎 辰巳和麿
舞囃子《百万》 向井弘記
野口眞琴 船戸昭弘 亀井洋佑
地謡 宇髙徳成 山田伊純 惣明貞助 辻剛史 湯川稜
能《熊坂》 シテ 寺澤拓海
ワキ 有松遼一 アイ 上杉啓太
高村裕 清水和音 山本寿弥 姥浦理紗
後見 赤松禎友 西野翠舟
地謡 寺澤幸祐 林本大 上野朝彦
山田薫 大槻裕一 浦田親良
国立能楽堂で開催された時は関係者席が御簾席(SB・GB席)になっていたのか、とくに気がつかなかったけれど、ここ大槻能楽堂では、見所後方が能楽師さんの席になっていて、源次郎さん、広忠さん、大槻文蔵さん、満次郎さんら大御所がずらーっと後ろに座り、厳しい形相で舞台を観ていらっしゃる(この日、とても悲しい出来事があったことを後で知る)。
ともあれ、東西合同研究発表会は、関西で五流が一堂に会する貴重な機会。
この日も総じてレベルが高く、個人的には久々に拝見した東京の若手能楽師さんたちが目を見張るくらいに進化されていて、ちょっと感無量だった。
舞囃子《高砂》 大江広祐
京都陣は、7月の京都養成会発表会の内容とほぼ同じなので、ビフォー・アフターの違いが楽しめる。シテの舞は緩急の付け方や細部のエッジがより練磨されていた。お囃子では吉阪倫平さんに無意識に注意が向く。「神童」の二文字が浮かんでくる。気迫のこめ方なんかも凄い。変声期が終わって、掛け声が落ち着いてきたときに、どんな小鼓になるのか楽しみだ。
舞囃子《邯鄲》 高林昌司
こちらにいると、喜多流の謡が懐かしく感じる。高林昌司さんの謡、以前拝見した《東北》の時よりも格段によく、喜多流の謡らしい味があった。夢から覚めるときのようすもドラマティックに表現されていて、地謡・囃子ともに◎。
能《杜若》 シテ 樹下千慧
今回、澤田晃良さんの太鼓と柿原孝則さんの大鼓がとくに楽しみだった。
観世元伯さんの芸系をもっともよく受け継ぐ澤田さん。掛け声は以前よりも高い声がきれいに出るようになっていたし、緻密でていねいな粒の打ち方も元伯さんの風を折り目正しく継承していらっしゃる。
いちばんうれしかったのが、最後に退場するときに、左右と一歩下がってから橋掛りに向かう、元伯さんのあの歩き方を踏襲されていること。
胸にジーンと来て、うれしいのと、悲しいのと、半分づつ。
《杜若》の稽古能(京都養成会発表会)のときは袴姿で、いわば素描の下絵を見せていただいたが、今回拝見するのが仕上がった作品。
面装束をつけると、舞囃子や仕舞の時よりもレベルダウンする若手が多いなか、シテの樹下さんは面や袖の扱いも巧みで、物着を終えて正を向いて立った時の、気の変え方が見事。
同じ若女の面なのに、物着前と後とでは雰囲気がぜんぜん違う。人間味とか生々しさがより希薄になって、面の表情を儚い翳りが彩っている。
物着アシライの囃子もよかった。成田奏さんの小鼓のチorタの音は繊細で美しく、河村凛太郎さんの抒情性のある間合いや貞光智宣さんの詩情あふれる笛とともに、物語性のある風情を感じさせた。
橋本忠樹さん率いる地謡も京都観世らしい謡。九郎右衛門さんの後見はいつもながら、的確で、無駄のない動き。物着の着付けの所作も、花を美しく生けていくときのよう。《杜若》の舞台は全体的にまとまりがあって、緊密な良い舞台だった。
舞囃子《玄象》 浦田親良
柿原孝則さんはもうすでに舞台経験が豊富で、覇気をみなぎらせながらじつに堂々とお囃子をリードする。
大鼓を打つフォームが、以前のような前のめりの姿勢ではなく、御父上によく似た、腰を入れて背中を垂直にスッと伸ばす、見た目にも美しいフォームに変化しつつある。
(柿原弘和さんのフォームは大鼓方でいちばん美しいと思う。)
小鼓の岡本はる奈さんともよく息が合っていて、孝則さんの間合いを取る感覚には天性のものがある。
地謡が、大阪と京都ではだいぶ違うのも面白い。
関西はそこに住む人と同じで、地域ごとにカラーがはっきりしている。
(狂言から小舞は休憩時間にあてました。)
舞囃子《安宅》 金春飛翔
大阪養成会発表会の感想でも書いたけれど、金春飛翔さんの舞は独特の雰囲気。女性だけで構成される地謡も節や声音が独特で《安宅》とは違う、別の曲のよう。
良い意味で、なにかこう、神懸り的で、おどろおどろしい雰囲気の謡と、直覚的なカマエの呪術的な舞になっていて、一度見たらやみつきになるような魅力がある。
東京の金春流でこういう魅力を感じたことがないから、金春飛翔さんの芸風の個性なのだろうか。金春流の本拠地・奈良の能楽堂で、観てみたい。
お囃子には、もはやベテランの亀井洋祐さんが参加されていて、演奏に貫録と余裕があり、音色がとてもきれい。
舞囃子《吉野静》 石黒空
膝を曲げて腰を落とした宝生流らしいカマエと舞。
地謡の金井賢郎さんの相変わらず胸をピンと張ったきれいな姿勢がなつかしい。
久しぶりに聴く熊本俊太郎さんの笛は、東京寺井家ならではの笛。
偏愛する寺井政数とは芸系が少し違うけれど、関西の森田流とはずいぶん異なる、蛇使いの笛ような魔的な揺らぎのある音色だ。
舞囃子《百萬》 向井弘記
向井さんはよほど体幹がしっかりしていて、足腰が相当強いのだと思う。無駄な力はすっかり抜けていて、一見軽やかに見えるのに、下半身が盤石で、驚くほどブレがない。超人的に整ったハコビが、身体能力・技術力の高さを物語る。
能《熊坂》 寺澤拓海
第七回青翔会の狂言小舞《鵜の舞》で初舞台を踏まれた上杉啓太さん。
あれから3年━━。
この日の間狂言を観て、なんかもう、感動的だった。初舞台の時とは、顔つきも存在感もぜんぜん違っていて、発声も、間の取り方も、抑揚の付け方も、師匠の野村萬師の風をよく受け継いでいらして、その成長ぶりにただただ脱帽。若い人が、こうして羽ばたいていく姿を見るのって、いいものですね。
以前、国立能楽堂の研修舞台で野村萬師から稽古を受けている様子がテレビで放送されていたけれど、萬師のご指導はそれはそれは厳しくて、怖くて……でも、その厳しい稽古に必死に噛りついて、そこからどんどん吸収されて、その努力の結晶をいま目の当たりにしている。そう思うと感無量だった。きっと、いい役者さんになると思う。
清水和音さんももう舞台経験を相当積まれていて、落ち着いた演奏。
山本寿弥さんは、打ち方がゴージャス。品格を感じさせる。
そして、初めて拝見するシテの寺澤拓海さん。
まだ二十歳前後くらいのとても若い方なのに、舞台馴れしているように落ち着いていて、しかもかなりうまい!
前シテで熊坂長範が僧形で登場するときは、得体のしれない不気味さがハコビと姿から漂う。後シテの長刀の扱いも巧みで、若さと抜群の身体能力を生かして、飛び返り・跳び安座など、これでもか、というくらいアクロバティックな技を披露して、見所を楽しませていた。
終演後は夏の暑さを吹き飛ばす爽快感。
追記:この日、笛方藤田流宗家の藤田六郎兵衛師が逝去された。
もしかすると、昨日の東西合同研究発表会の終わり近くには、もう楽屋に訃報が届いていて、見所で舞台を御覧になっていた能楽師さんたちがいつも以上に険しい表情だったのは、そのせいもあったのかもしれない。
全盛期の名手が立て続けに亡くなっていく現状については、もう、言葉にならない。
悲しいとか、残念とか、惜しいとか、そういう生易しい言葉では到底言い表せない。
終演後、人々が能楽堂をあとにするなか、ひとり最後部座席で、物思いに沈んだ険しい表情で誰もいない舞台を見つめていた源次郎さんの横顔が忘れられない。
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2018年8月29日水曜日
2018年8月24日金曜日
能楽チャリティ公演 《翁》《葵上・梓之出・空之祈》~被災地復興、京都からの祈り
2018年8月23日(木)10時30分~12時30分 ロームシアター京都サウスホール
ナビゲーション 大江信行 英語通訳
能《翁》 片山九郎右衛門
千歳 橋本忠樹 三番三 茂山千三郎 面箱 鈴木実
杉市和 林吉兵衛 林大和 林大輝 河村大
後見 青木道喜 分林道治
狂言後見 島田洋海 松本薫
地謡 武田邦弘 橋本礒道 古橋正邦 片山伸吾
橋本光史 吉田篤史 深野貴彦 梅田嘉宏
狂言《土筆》男甲 茂山逸平 男乙 茂山童司
後見 井口達也
能《葵上・梓之出・空之祈》 六条御息所ノ生霊 吉浪壽晃
巫女 松井美樹 下人 島田洋海
横川小聖 小林努 臣下 原大
左鴻泰弘 吉阪一郎 石井保彦 井上敬介
後見 杉浦豊彦 塚本和雄
地謡 浦部好弘 河村和重 河村博重 河村晴久
浦部幸裕 松野浩行 河村和貴 樹下千慧
千年以上ものあいだ、呪力によってこの国を守護してきた京都。
この地から、祈りと鎮魂の芸能である能楽━━しかも、祈りのパワーが最大限に発揮される《翁》と《葵上》━━を演じて被災地に思いを届けるという、最高に心のこもったチャリティ公演が今年も開催された。これだけの規模の公演を何年も続けるなんて、なかなかできることではありません。主催者・共催者・協力された方々にはほんとうに頭が下がる。
ロビーでは能楽師さんたちが素敵な笑顔で募金活動をされていて、こちらにとっても貧者の一灯を点すよい機会でした。ありがとうございます!
能《翁》
九郎右衛門さんの翁を拝見するのは、これで三度目になる。
九郎右衛門さんの翁は、うまく謡おうとか、きれいに見せようとか、そういう演者のエゴを感じさせない。
ただ、一途に精魂込めて捧げる祈りの心が、胸に深く、響いてくる。
今回それがとりわけ強く、いつも以上に緊張した面持ちがとても精悍に見えた。
被災地へ祈りを届けようという、凄まじい意気込みと熱意が感じられる。
ここにいる能楽師さんすべてがきっと、同じ思いで舞台に立たれているのだろう。
キリッと引き締まった緊張感が場内を包み、演者の方々の真剣な表情が神々しい。
正先での拝礼は、翁烏帽子の先が床に着くくらいに深々と。
「天下泰平 国土安穏」の謡は、翁と一体となったシテの、魂を絞り出すような予祝の祈り(ここは、感動的で涙があふれてきた)。
翁之舞の袖の扱いはふんわりと、重力とは無縁の、異次元の翁の世界を感じさせる軽やかさ。
こちらも、心を合わせて祈る思いで拝見した。
《翁》は観客に見せるためのものではなく、ともに祈るためにあるのかもしれない。
能《葵上・梓之出・空之祈》
一度拝見してみたいと思っていた吉浪壽晃さんのシテ。相当の実力派だ。
この日の《葵上・梓之出・空之祈》も予想以上に素晴らしかった!
【梓之出】
小書「梓之出」なので、照日の巫女の口寄せに引かれるように六条御息所の生霊が登場するのだが、このツレの口寄せが、松井美樹さんのちょっとビブラートがかかったような独特の謡で、どこかイタコめいた呪術的で土着的な雰囲気があり、交霊の場面にふさわしい特殊効果を入れたような不思議な感覚があった。
(「天清浄地清浄……」の祓詞が、オシラ祭文のようにも聞こえる。)
こういう依代になり得る存在、霊の「器」としての巫女のもつ神秘性・異質性は、男性には表現しがたい雰囲気かもしれない。
【葵上打擲】
「プ・ポ・プ・ポ」と小鼓の奏でる梓弓に誘われて現れた吉浪さんの御息所の生霊。
病床の葵上に見立てた出小袖を打つところも、品位を崩さず、心の悲痛な叫びのような、悲しげな打擲を、ひとつ。
まるで意識とは別のものに突き動かされて、腕だけがひとりでに恋敵を打擲したかのように、泥眼の面が途方に暮れたような、驚きの表情を浮かべている。
光源氏との逢瀬が過去のものとなったことを恨むところも、愛憎のはざまで揺れ動く女の弱さがにじむ。
鬼になりゆく身ながらも、所々に、可憐さと気品が感じられて、高貴な御息所らしい風情があった。
【後場→空之祈】
小書つきなので物着ではなく、中入後、擦箔に緋長袴という出立で登場。
長髢をくるくる巻いたものを、投げ縄のようにシュルルーッと小聖に投げつける。
こういうところ一つとっても、あざやかな手さばきだ。
「空之祈」で小聖が鬼女(生霊)の姿を見失い、出小袖に向かって懸命に数珠を揉んでいるあいだ(小林努さんのワキもよかった!)、シテは橋掛りへ逃れるのだが、橋掛りで見込むとき、どこか自分の心の奥底をのぞきこむような、内省的な表情がフッとあらわれる。
生霊がふたたび舞台に戻ってきたのは、小聖に救済を求めたからだろうか。
聖の祈りに心が和らぎ、御息所の怨念は成仏する。
常座での留にも、なんとなく雲間から青空がのぞいたような、晴れやかな空気が漂う。
《葵上》って、嫉妬に狂った鬼女の調伏物語ではなく、一人の打ちひしがれた女性がみずからの悲運を受け入れて立ち直っていくお話、心の救済の物語だったのですね、たぶん。
追記:わたしの隣に座っていた女性が、能楽初心者らしきご友人をお連れしていて、終演後、そのお友達が「わあ、すごく良かった!! 誘ってくれてありがとう!」と、とても感激されていた御様子だった。
これをきっかけに、能楽堂にも足を運んでくださるといいな。
ナビゲーション 大江信行 英語通訳
能《翁》 片山九郎右衛門
千歳 橋本忠樹 三番三 茂山千三郎 面箱 鈴木実
杉市和 林吉兵衛 林大和 林大輝 河村大
後見 青木道喜 分林道治
狂言後見 島田洋海 松本薫
地謡 武田邦弘 橋本礒道 古橋正邦 片山伸吾
橋本光史 吉田篤史 深野貴彦 梅田嘉宏
狂言《土筆》男甲 茂山逸平 男乙 茂山童司
後見 井口達也
能《葵上・梓之出・空之祈》 六条御息所ノ生霊 吉浪壽晃
巫女 松井美樹 下人 島田洋海
横川小聖 小林努 臣下 原大
左鴻泰弘 吉阪一郎 石井保彦 井上敬介
後見 杉浦豊彦 塚本和雄
地謡 浦部好弘 河村和重 河村博重 河村晴久
浦部幸裕 松野浩行 河村和貴 樹下千慧
千年以上ものあいだ、呪力によってこの国を守護してきた京都。
この地から、祈りと鎮魂の芸能である能楽━━しかも、祈りのパワーが最大限に発揮される《翁》と《葵上》━━を演じて被災地に思いを届けるという、最高に心のこもったチャリティ公演が今年も開催された。これだけの規模の公演を何年も続けるなんて、なかなかできることではありません。主催者・共催者・協力された方々にはほんとうに頭が下がる。
ロビーでは能楽師さんたちが素敵な笑顔で募金活動をされていて、こちらにとっても貧者の一灯を点すよい機会でした。ありがとうございます!
能《翁》
九郎右衛門さんの翁を拝見するのは、これで三度目になる。
九郎右衛門さんの翁は、うまく謡おうとか、きれいに見せようとか、そういう演者のエゴを感じさせない。
ただ、一途に精魂込めて捧げる祈りの心が、胸に深く、響いてくる。
今回それがとりわけ強く、いつも以上に緊張した面持ちがとても精悍に見えた。
被災地へ祈りを届けようという、凄まじい意気込みと熱意が感じられる。
ここにいる能楽師さんすべてがきっと、同じ思いで舞台に立たれているのだろう。
キリッと引き締まった緊張感が場内を包み、演者の方々の真剣な表情が神々しい。
正先での拝礼は、翁烏帽子の先が床に着くくらいに深々と。
「天下泰平 国土安穏」の謡は、翁と一体となったシテの、魂を絞り出すような予祝の祈り(ここは、感動的で涙があふれてきた)。
翁之舞の袖の扱いはふんわりと、重力とは無縁の、異次元の翁の世界を感じさせる軽やかさ。
こちらも、心を合わせて祈る思いで拝見した。
《翁》は観客に見せるためのものではなく、ともに祈るためにあるのかもしれない。
能《葵上・梓之出・空之祈》
一度拝見してみたいと思っていた吉浪壽晃さんのシテ。相当の実力派だ。
この日の《葵上・梓之出・空之祈》も予想以上に素晴らしかった!
【梓之出】
小書「梓之出」なので、照日の巫女の口寄せに引かれるように六条御息所の生霊が登場するのだが、このツレの口寄せが、松井美樹さんのちょっとビブラートがかかったような独特の謡で、どこかイタコめいた呪術的で土着的な雰囲気があり、交霊の場面にふさわしい特殊効果を入れたような不思議な感覚があった。
(「天清浄地清浄……」の祓詞が、オシラ祭文のようにも聞こえる。)
こういう依代になり得る存在、霊の「器」としての巫女のもつ神秘性・異質性は、男性には表現しがたい雰囲気かもしれない。
【葵上打擲】
「プ・ポ・プ・ポ」と小鼓の奏でる梓弓に誘われて現れた吉浪さんの御息所の生霊。
病床の葵上に見立てた出小袖を打つところも、品位を崩さず、心の悲痛な叫びのような、悲しげな打擲を、ひとつ。
まるで意識とは別のものに突き動かされて、腕だけがひとりでに恋敵を打擲したかのように、泥眼の面が途方に暮れたような、驚きの表情を浮かべている。
光源氏との逢瀬が過去のものとなったことを恨むところも、愛憎のはざまで揺れ動く女の弱さがにじむ。
鬼になりゆく身ながらも、所々に、可憐さと気品が感じられて、高貴な御息所らしい風情があった。
【後場→空之祈】
小書つきなので物着ではなく、中入後、擦箔に緋長袴という出立で登場。
長髢をくるくる巻いたものを、投げ縄のようにシュルルーッと小聖に投げつける。
こういうところ一つとっても、あざやかな手さばきだ。
「空之祈」で小聖が鬼女(生霊)の姿を見失い、出小袖に向かって懸命に数珠を揉んでいるあいだ(小林努さんのワキもよかった!)、シテは橋掛りへ逃れるのだが、橋掛りで見込むとき、どこか自分の心の奥底をのぞきこむような、内省的な表情がフッとあらわれる。
生霊がふたたび舞台に戻ってきたのは、小聖に救済を求めたからだろうか。
聖の祈りに心が和らぎ、御息所の怨念は成仏する。
常座での留にも、なんとなく雲間から青空がのぞいたような、晴れやかな空気が漂う。
《葵上》って、嫉妬に狂った鬼女の調伏物語ではなく、一人の打ちひしがれた女性がみずからの悲運を受け入れて立ち直っていくお話、心の救済の物語だったのですね、たぶん。
追記:わたしの隣に座っていた女性が、能楽初心者らしきご友人をお連れしていて、終演後、そのお友達が「わあ、すごく良かった!! 誘ってくれてありがとう!」と、とても感激されていた御様子だった。
これをきっかけに、能楽堂にも足を運んでくださるといいな。
2018年8月10日金曜日
田中一村展 ~佐川美術館
会期:2018年7月14日~9月17日 佐川美術館
どうしても観ておきたかった《アダンの海辺》の展示が19日までと聞き、お盆前に佐川美術館を訪れた。
アート番組の影響で比較的混雑していたものの、都会の美術館よりはゆったりしていて、ここ数年で最も感動した一村の絵と、心ゆくまで向き合うことができた。
会場では、神童と謳われた幼少期から、画風を模索した千葉時代、画壇と決別した壮年期、そして、新境地を開いた奄美時代の作品が展示されていた。
千葉時代や壮年期にも、秋の野草を味わい深い色彩で描いた《秋色》、ヤマボウシとトラツグミを琳派風の絵画に仕上げた《白い花》、同じく装飾性の高い花鳥画《忍冬に尾長》など、心惹かれる絵が少なくなかったが、やはり奄美時代の作品には目を見張る。
没骨法やたらし込み、彫塗りなどの技法、並外れた描写力・構成力・色彩感覚といった、それまで磨き上げてきたものすべてを自在に駆使して描かれた奄美時代の作品には、写実性と装飾性が見事に融合され、彼が「田中一村」として、もはや誰にも真似のできない、まったく独自の絵画境地に到達したことが一目でわかる。
その集大成といえるのが、晩年の代表作《アダンの海辺》(1969年)、パイナップルのような集合果を実らせた亜熱帯植物アダンの木を前景に、奄美大島有屋の静かな海辺を描いた作品だ。
この絵について一村は、「この絵の主要目的は乱立する夕雲と、海浜の白黒の砂礫であって、これは成功したと信じております」と書いているが、そのことば通り、まるで溶岩砂のようなギザギザゴツゴツとした砂礫が、恐ろしいほどの緻密さで描かれている。
砂礫を描いた岩絵具にはトルマリンが使われているともいわれ、あたかもガラス質の石英が砂地に混ざっているかのように、こちらが姿勢を変えるごとに、キラキラと美しく輝いて見える。
さらに、浜辺に打ち寄せる波の描写が、気の遠くなるほど細かい。小さなさざ波の一本一本まで写真のように精密に描かれており、この絵をしゃがんで鑑賞すると、まるで自分が絵の中に入り込み、浜辺のアダンの木の下に腰を下ろして、海風を肌に感じ、潮の香りに包まれながら、遠い彼方の水平線を眺めているような気持になる。
このとき、こちらの目線は、この絵を描いた田中一村と同じ目線の高さとなる。
つまり、この絵をしゃがんで鑑賞すると、一村が目にした奄美の海辺、いや、一村の脳内に描かれた彼自身の心象風景を、一村の脳の内側から、一村の眼を通して観ているような感覚に陥るのだ。
一村の眼を通して、一村と一体となってこの絵を観るとき、彼の言う「乱立する夕雲」の下から夕日に輝く西の空がのぞいて、こちらを優しく、穏やかに照らしているのが感じとれる。
おそらく、西方浄土の光とは、こういうものかもしれない。
この絵を観ていると、遠い彼方の光り輝く世界に迎え入れられていくような、静かで落ち着いた心になれる。
これほどの絵を描き、才能に恵まれながら、無名のままこの世を去った田中一村。
彼はこの絵を「閻魔大王への土産」と称し、「これが私の絵の最終かと思われますが、悔いはありません」と述べているが、まさしく彼は画壇に迎合することなく、みずからの画業に邁進し、世に認められることがなくとも悔いのない人生を送ったのだろう。
高価な岩絵具を購入するために、一杯のお茶を飲むことすら我慢して、清貧という言葉にふさわしい暮らしを営んだ一村。
そういう彼の境地にほんの少し触れた気がして、どこかせつないような、奇妙な幸福感に満たされた。
人生に行き詰ったとき、一村の絵と彼の生き方を思い出して、心の支えにしたい。
田中一村展のあと、平山郁夫展や楽吉右衛門館、そして茶室などを観てまわった。
樂吉左衛門が創案した茶室。
「水面と同じ高さに座す」というコンセプトから、茶室は水の中に浮かぶ広間と、水没する小間から成っている。
琵琶湖の畔、水に浮かぶように建つ佐川美術館 |
どうしても観ておきたかった《アダンの海辺》の展示が19日までと聞き、お盆前に佐川美術館を訪れた。
アート番組の影響で比較的混雑していたものの、都会の美術館よりはゆったりしていて、ここ数年で最も感動した一村の絵と、心ゆくまで向き合うことができた。
水庭に青空と雲が映りこみ、さざ波が立って抽象絵画のよう |
会場では、神童と謳われた幼少期から、画風を模索した千葉時代、画壇と決別した壮年期、そして、新境地を開いた奄美時代の作品が展示されていた。
千葉時代や壮年期にも、秋の野草を味わい深い色彩で描いた《秋色》、ヤマボウシとトラツグミを琳派風の絵画に仕上げた《白い花》、同じく装飾性の高い花鳥画《忍冬に尾長》など、心惹かれる絵が少なくなかったが、やはり奄美時代の作品には目を見張る。
没骨法やたらし込み、彫塗りなどの技法、並外れた描写力・構成力・色彩感覚といった、それまで磨き上げてきたものすべてを自在に駆使して描かれた奄美時代の作品には、写実性と装飾性が見事に融合され、彼が「田中一村」として、もはや誰にも真似のできない、まったく独自の絵画境地に到達したことが一目でわかる。
その集大成といえるのが、晩年の代表作《アダンの海辺》(1969年)、パイナップルのような集合果を実らせた亜熱帯植物アダンの木を前景に、奄美大島有屋の静かな海辺を描いた作品だ。
この絵について一村は、「この絵の主要目的は乱立する夕雲と、海浜の白黒の砂礫であって、これは成功したと信じております」と書いているが、そのことば通り、まるで溶岩砂のようなギザギザゴツゴツとした砂礫が、恐ろしいほどの緻密さで描かれている。
砂礫を描いた岩絵具にはトルマリンが使われているともいわれ、あたかもガラス質の石英が砂地に混ざっているかのように、こちらが姿勢を変えるごとに、キラキラと美しく輝いて見える。
さらに、浜辺に打ち寄せる波の描写が、気の遠くなるほど細かい。小さなさざ波の一本一本まで写真のように精密に描かれており、この絵をしゃがんで鑑賞すると、まるで自分が絵の中に入り込み、浜辺のアダンの木の下に腰を下ろして、海風を肌に感じ、潮の香りに包まれながら、遠い彼方の水平線を眺めているような気持になる。
このとき、こちらの目線は、この絵を描いた田中一村と同じ目線の高さとなる。
つまり、この絵をしゃがんで鑑賞すると、一村が目にした奄美の海辺、いや、一村の脳内に描かれた彼自身の心象風景を、一村の脳の内側から、一村の眼を通して観ているような感覚に陥るのだ。
一村の眼を通して、一村と一体となってこの絵を観るとき、彼の言う「乱立する夕雲」の下から夕日に輝く西の空がのぞいて、こちらを優しく、穏やかに照らしているのが感じとれる。
おそらく、西方浄土の光とは、こういうものかもしれない。
この絵を観ていると、遠い彼方の光り輝く世界に迎え入れられていくような、静かで落ち着いた心になれる。
これほどの絵を描き、才能に恵まれながら、無名のままこの世を去った田中一村。
彼はこの絵を「閻魔大王への土産」と称し、「これが私の絵の最終かと思われますが、悔いはありません」と述べているが、まさしく彼は画壇に迎合することなく、みずからの画業に邁進し、世に認められることがなくとも悔いのない人生を送ったのだろう。
高価な岩絵具を購入するために、一杯のお茶を飲むことすら我慢して、清貧という言葉にふさわしい暮らしを営んだ一村。
そういう彼の境地にほんの少し触れた気がして、どこかせつないような、奇妙な幸福感に満たされた。
人生に行き詰ったとき、一村の絵と彼の生き方を思い出して、心の支えにしたい。
田中一村展のあと、平山郁夫展や楽吉右衛門館、そして茶室などを観てまわった。
葦とヒメガマが植栽された水庭に浮かぶ茶室 |
樂吉左衛門が創案した茶室。
「水面と同じ高さに座す」というコンセプトから、茶室は水の中に浮かぶ広間と、水没する小間から成っている。
葦原の間から見えるのが、広間「俯仰軒」 |
水没した天窓から光が射しこむ樂吉左衛門館 |
水越しに空が眺められる |
水庭からのぞいた天窓の上 |
2018年8月7日火曜日
七曜会祖先祭
2018年8月5日(日)最高気温39.5℃ 京都観世会館
連調《菊慈童》辰巳大二郎
舞囃子《融・二段返・十三段之舞》 味方玄
《西行桜》 河村晴道
《乱》 杉浦豊彦
《わたつみ》(復曲能《わたつみ》片山伸吾改作・補綴より)
シテ 片山伸吾 ツレ 味方玄 田茂井廣道
居囃子《養老》、《右近》、《海士》、《高砂》、《葛城》、《現在七面》、《枕慈童・盤渉》、《国栖・白頭・天地之声》、《絵馬》、《山姥・白頭》、《小鍛冶・別習黒頭》、《当麻・乏佐之走》、《誓願寺》、《百万》、《是界》
素囃子《鶴之舞》(土岐善麿新作能《鶴》より)
そのほか、番外独鼓、独鼓、一調、一調一管、別習一調など
さすがは前川光長師・光範さんの御社中だけあって、小書付きや復曲能、新作能など、難しい曲が多いのにもかかわらず、みなさん、見事に演奏されていて、バチさばきも見とれるほどきれい。
脂の乗った中堅シテ方・囃子方さんたちが、芸を競い合った舞台は、どれも見応え満点。京都の猛暑が吹っ飛ぶほど楽しくて、充実した会でした。
舞囃子《融・二段返・十三段之舞》 味方玄
ぜったいに凄い舞台になるはず!、と確信していたシズカさんの十三段之舞。
これぞ、味方玄の真骨頂。先日拝見した《三井寺》よりも、こういう小書のついた《融》のほうが玄さんの魅力がダイレクトに伝わってくる気がする。
「舞囃子」とあるけれど、これはもう、半能の袴能ですね。
二段返の小書つきなので、半幕で床几に掛かった姿を見せてから、あらためて登場する。
扇を投げて、「あら面白や曲水の盃」と謡うところ、水に浮かんだ盃がほんとうに流れてくるよう。盃に見立てた扇がクルクルと優雅な曲線を描きながら、目付柱の前にきれいに着地した。
頭に描いたイメージをそのまま再現する味方玄さんならではの技術と身体能力が、これからはじまる舞でもいかんなく発揮されていた。
黄鐘早舞五段のあと、達拝で一区切りをつけてから、盤渉早舞五段へ。
その後、橋掛りへ行き、二の松あたりで、シテはくるくる、くるくると、流麗なリズムで旋回する。時をさかのぼり、記憶をたぐるような、抒情的なリズムだ。
大小太鼓ナガシで舞台に戻り、急ノ舞三段となる。
ものすごいスピードなのに、身体が少しもブレず、息がまったく上がらない。超人的といってもいいくらい緻密で正確無比な急ノ舞。
舞の後、さらに一の松に流れて、余韻のある風情が漂う。面・装束をつけていないぶん、かえって想像力を掻き立てる。
社中の方の太鼓もすばらしく、舞台全体がスタンディングオベーションしたいくらいに見事だった。
舞囃子《西行桜》河村晴道
これも配役がよく考えられている。《西行桜》は品の良い河村晴道さんにぴったり。
前にも書いたけれど、故・林喜右衛門師の芸風と品格をとてもよく受け継いでいらして、いかにも京観世らしい典雅な舞。生身感とか肉体を感じさせない清潔感があるところも、閑寂な植物の精を思わせる。
河村定期研能会の《誓願寺》はぜったいに観にいきたい!
舞囃子《乱》杉浦豊彦
杉浦豊彦さんの舞ははじめて拝見する。宗家系に近い芸風をもつ実力者ですね。硬質で端正な舞姿だ。
舞囃子《わたつみ》(復曲能《わたつみ》片山伸吾改作・補綴より)
片山伸吾さんの「能にしたしむ会」の宣伝も兼ねた、一石二鳥の舞囃子。
こちらも、半能の袴能形式。
復曲能《わたつみ》は、玄界灘の志賀島にある志賀海神社に伝わる社伝謡曲を復曲・改作したもの。後シテ・ツレの三人は、安曇族の祖神で、海の底・中・表を司る「綿津見(わたつみ)三神」を演じるという。
《絵馬》《白髭》のような雰囲気の曲なので、実際の能の上演では、大小前に社殿の作り物が出るのかもしれない。
まず、シテが〈神舞〉のさわり(?)を舞ったあと、大小前で床几にかかり、
次に、ツレの田茂井さんが〈中ノ舞(天女ノ舞?)〉を途中まで舞い、オロシで玄さんが立ち上がり、ツレ二人が向き合う。
さらに、玄さんが〈急ノ舞〉を舞ったのち、シテが床几から立ちあがり、〈楽〉を舞う。
最後に、《高砂》の節付で「千秋楽は袖を返し、万歳楽には~」と地謡が謡うなか、シテ・ツレ三人の相舞となる。
舞事がかなり凝っていて変化に富み、能では間狂言で細男(せいのお)の舞が舞われるらしい。
以前、國學院大學で拝見した、安曇磯良の故事にちなんだツクシ舞を思い出して、たいへん興味深かった。
素囃子《鶴之舞》(土岐善麿新作能《鶴》より)
あの喜多流の新作能《鶴》のお囃子を、京都で聴けるとは!!
囃子の作曲には藤田大五郎、金春惣右衛門が携わり、武蔵野大学で拝見した《鶴》でも笛は一噌流(藤田貴寛さん)だったけれど、この日の笛は森田流の左鴻泰弘さん。
なので、曲の印象は若干異なるが、長い袖を翻して鶴之舞を舞う佐々木多門さんの姿がよみがえり、とても懐かしく感じられた。
居囃子《小鍛冶・別習黒頭》
今年二月の京都能楽囃子方同明会で上演された《小鍛冶・別習黒頭》の居囃子。
登場楽の来序がめちゃくちゃかっこいい!
同明会での演能はさぞかし素晴らしかったことだろう。頭の中でイメージを膨らませながら拝聴した。
どの舞台も濃厚かつ高密度、眼福・耳福でした。
連調《菊慈童》辰巳大二郎
舞囃子《融・二段返・十三段之舞》 味方玄
《西行桜》 河村晴道
《乱》 杉浦豊彦
《わたつみ》(復曲能《わたつみ》片山伸吾改作・補綴より)
シテ 片山伸吾 ツレ 味方玄 田茂井廣道
居囃子《養老》、《右近》、《海士》、《高砂》、《葛城》、《現在七面》、《枕慈童・盤渉》、《国栖・白頭・天地之声》、《絵馬》、《山姥・白頭》、《小鍛冶・別習黒頭》、《当麻・乏佐之走》、《誓願寺》、《百万》、《是界》
素囃子《鶴之舞》(土岐善麿新作能《鶴》より)
そのほか、番外独鼓、独鼓、一調、一調一管、別習一調など
さすがは前川光長師・光範さんの御社中だけあって、小書付きや復曲能、新作能など、難しい曲が多いのにもかかわらず、みなさん、見事に演奏されていて、バチさばきも見とれるほどきれい。
脂の乗った中堅シテ方・囃子方さんたちが、芸を競い合った舞台は、どれも見応え満点。京都の猛暑が吹っ飛ぶほど楽しくて、充実した会でした。
舞囃子《融・二段返・十三段之舞》 味方玄
ぜったいに凄い舞台になるはず!、と確信していたシズカさんの十三段之舞。
これぞ、味方玄の真骨頂。先日拝見した《三井寺》よりも、こういう小書のついた《融》のほうが玄さんの魅力がダイレクトに伝わってくる気がする。
「舞囃子」とあるけれど、これはもう、半能の袴能ですね。
二段返の小書つきなので、半幕で床几に掛かった姿を見せてから、あらためて登場する。
扇を投げて、「あら面白や曲水の盃」と謡うところ、水に浮かんだ盃がほんとうに流れてくるよう。盃に見立てた扇がクルクルと優雅な曲線を描きながら、目付柱の前にきれいに着地した。
頭に描いたイメージをそのまま再現する味方玄さんならではの技術と身体能力が、これからはじまる舞でもいかんなく発揮されていた。
黄鐘早舞五段のあと、達拝で一区切りをつけてから、盤渉早舞五段へ。
その後、橋掛りへ行き、二の松あたりで、シテはくるくる、くるくると、流麗なリズムで旋回する。時をさかのぼり、記憶をたぐるような、抒情的なリズムだ。
大小太鼓ナガシで舞台に戻り、急ノ舞三段となる。
ものすごいスピードなのに、身体が少しもブレず、息がまったく上がらない。超人的といってもいいくらい緻密で正確無比な急ノ舞。
舞の後、さらに一の松に流れて、余韻のある風情が漂う。面・装束をつけていないぶん、かえって想像力を掻き立てる。
社中の方の太鼓もすばらしく、舞台全体がスタンディングオベーションしたいくらいに見事だった。
舞囃子《西行桜》河村晴道
これも配役がよく考えられている。《西行桜》は品の良い河村晴道さんにぴったり。
前にも書いたけれど、故・林喜右衛門師の芸風と品格をとてもよく受け継いでいらして、いかにも京観世らしい典雅な舞。生身感とか肉体を感じさせない清潔感があるところも、閑寂な植物の精を思わせる。
河村定期研能会の《誓願寺》はぜったいに観にいきたい!
舞囃子《乱》杉浦豊彦
杉浦豊彦さんの舞ははじめて拝見する。宗家系に近い芸風をもつ実力者ですね。硬質で端正な舞姿だ。
舞囃子《わたつみ》(復曲能《わたつみ》片山伸吾改作・補綴より)
片山伸吾さんの「能にしたしむ会」の宣伝も兼ねた、一石二鳥の舞囃子。
こちらも、半能の袴能形式。
復曲能《わたつみ》は、玄界灘の志賀島にある志賀海神社に伝わる社伝謡曲を復曲・改作したもの。後シテ・ツレの三人は、安曇族の祖神で、海の底・中・表を司る「綿津見(わたつみ)三神」を演じるという。
《絵馬》《白髭》のような雰囲気の曲なので、実際の能の上演では、大小前に社殿の作り物が出るのかもしれない。
まず、シテが〈神舞〉のさわり(?)を舞ったあと、大小前で床几にかかり、
次に、ツレの田茂井さんが〈中ノ舞(天女ノ舞?)〉を途中まで舞い、オロシで玄さんが立ち上がり、ツレ二人が向き合う。
さらに、玄さんが〈急ノ舞〉を舞ったのち、シテが床几から立ちあがり、〈楽〉を舞う。
最後に、《高砂》の節付で「千秋楽は袖を返し、万歳楽には~」と地謡が謡うなか、シテ・ツレ三人の相舞となる。
舞事がかなり凝っていて変化に富み、能では間狂言で細男(せいのお)の舞が舞われるらしい。
以前、國學院大學で拝見した、安曇磯良の故事にちなんだツクシ舞を思い出して、たいへん興味深かった。
素囃子《鶴之舞》(土岐善麿新作能《鶴》より)
あの喜多流の新作能《鶴》のお囃子を、京都で聴けるとは!!
囃子の作曲には藤田大五郎、金春惣右衛門が携わり、武蔵野大学で拝見した《鶴》でも笛は一噌流(藤田貴寛さん)だったけれど、この日の笛は森田流の左鴻泰弘さん。
なので、曲の印象は若干異なるが、長い袖を翻して鶴之舞を舞う佐々木多門さんの姿がよみがえり、とても懐かしく感じられた。
居囃子《小鍛冶・別習黒頭》
今年二月の京都能楽囃子方同明会で上演された《小鍛冶・別習黒頭》の居囃子。
登場楽の来序がめちゃくちゃかっこいい!
同明会での演能はさぞかし素晴らしかったことだろう。頭の中でイメージを膨らませながら拝聴した。
どの舞台も濃厚かつ高密度、眼福・耳福でした。
2018年8月2日木曜日
片山九郎右衛門の仕舞《玉之段》~片山定期能より
2018年7月29日(日) 京都観世会館
片山定期能七月公演からのつづき
仕舞《玉之段》 片山九郎右衛門
地謡 橘保向 古橋正邦 味方玄 清沢一政
九郎右衛門さんの仕舞は、なにかもう、別格すぎて、次元が違っていた。
《玉之段》はそれでなくても写実的な演出だけれど、この日の舞では、シテの動きと地謡の詞・節・流れとが見事に溶け合い、その一挙手一投足、顔の角度のわずかな変化から景色があざやかに立ち現れ、物語がスピード感をともなって立体的に浮かび上がる。
その描写力はほとんど魔法のよう。
魔法使いが杖を振るように、シテの動きに合わせて、映像が次々とおもしろいように見えてくる。
まばたきするのも、息をするのも惜しいくらい、片時も目が離せない。
「そのとき人々力を添え……ひとつの利剣を抜き持って」と、シテは肚の奥底から声を響かせ、決然と立ち上がり、死を賭して勢いよく海に飛びこんだ。
舞台の空気が逆巻くようにざわめき、身を躍らせて飛び込む女の姿、跳ねあがる水しぶきの弾むさままで感じとれる。
……あたりは一転、海の底。
舞台の空気もがらりと変わり、密度の高い水の抵抗を感じさせるシテの所作。
子を思う母の気迫、凄まじい執念が、シテの全身にみなぎり、鰐・悪魚ももろともせず、無我夢中で珠をめざす女の一念が胸に迫ってくる。
臨場感あふれる壮絶なチェイス劇の果てに、シテは乳の下を掻き切るのだが、
ここの箇所、胸をグサッとえぐるように剣を突き刺す場合が多いなか、九郎右衛門さんはじつにさりげなく、ほとんど涼しい顔をして、すーっと真一文字に胸の下を扇で斬った。
何の迷いも、力みもない、清々しいほどの潔さ。
こういうところが、九郎右衛門さんの美学だと思う。
気迫で、押して、押して、押していって、最後に、スッと後ろに引く。
やりすぎない、ハズシの美学。
片山定期能七月公演からのつづき
仕舞《玉之段》 片山九郎右衛門
地謡 橘保向 古橋正邦 味方玄 清沢一政
九郎右衛門さんの仕舞は、なにかもう、別格すぎて、次元が違っていた。
《玉之段》はそれでなくても写実的な演出だけれど、この日の舞では、シテの動きと地謡の詞・節・流れとが見事に溶け合い、その一挙手一投足、顔の角度のわずかな変化から景色があざやかに立ち現れ、物語がスピード感をともなって立体的に浮かび上がる。
その描写力はほとんど魔法のよう。
魔法使いが杖を振るように、シテの動きに合わせて、映像が次々とおもしろいように見えてくる。
まばたきするのも、息をするのも惜しいくらい、片時も目が離せない。
「そのとき人々力を添え……ひとつの利剣を抜き持って」と、シテは肚の奥底から声を響かせ、決然と立ち上がり、死を賭して勢いよく海に飛びこんだ。
舞台の空気が逆巻くようにざわめき、身を躍らせて飛び込む女の姿、跳ねあがる水しぶきの弾むさままで感じとれる。
……あたりは一転、海の底。
舞台の空気もがらりと変わり、密度の高い水の抵抗を感じさせるシテの所作。
子を思う母の気迫、凄まじい執念が、シテの全身にみなぎり、鰐・悪魚ももろともせず、無我夢中で珠をめざす女の一念が胸に迫ってくる。
臨場感あふれる壮絶なチェイス劇の果てに、シテは乳の下を掻き切るのだが、
ここの箇所、胸をグサッとえぐるように剣を突き刺す場合が多いなか、九郎右衛門さんはじつにさりげなく、ほとんど涼しい顔をして、すーっと真一文字に胸の下を扇で斬った。
何の迷いも、力みもない、清々しいほどの潔さ。
こういうところが、九郎右衛門さんの美学だと思う。
気迫で、押して、押して、押していって、最後に、スッと後ろに引く。
やりすぎない、ハズシの美学。
2018年8月1日水曜日
七月片山定期能~《須磨源氏》
2018年7月29日(日)12時30分~16時40分 最高気温34℃ 京都観世会館
《三井寺》からのつづき
能《須磨源氏》シテ老人/光源氏の霊 片山伸吾
ワキ藤原興範 小林努
ワキツレ 有松遼一 岡充
アイ所の者 山本豪一
竹市学 成田達志 石井保彦 前川光範
後見 片山九郎右衛門 梅田嘉宏
地謡 青木道喜 河村博重 分林道治 田茂井廣道
橋本忠樹 宮本茂樹 河村和貴 河村浩太郎
《須磨源氏》は、とにかく、お囃子が素晴らしい!
演奏するほうもノリにノッていて、攻めの姿勢でこちらにぐんぐん迫ってくる。
演能後、「お囃子、凄かった!」の声が、見所のあちこちから聞こえてきたくらい。
竹市学さんの笛はひさしぶりに聴いたけれど、惚れ惚れするような良い音色。
以前よりもさらに研ぎ澄まされ、音に底光りのするような艶がある。
半透明のこのツヤは、藤田六郎兵衛さんの笛にはない、竹市学さん独自のものだ。
そして、成田達志さん。
観世元伯さんとのコンビで聴く小鼓・太鼓がたまらなく好きで、最高の組み合わせのひとつだと思っていた。
(かつて銕仙会で聴いた成田達志&観世元伯さんのコンビ、それに竹市学さんの笛と佃良勝さんの大鼓が加わった《是界・白頭》は、シテが九郎右衛門さん、ワキが宝生欣哉さんだったこともあり、わたしの中ではレジェンド的な舞台だった。)
元伯さんがいない今、成田達志さんの小鼓にいちばん合うのは、前川光範さんの太鼓だと思う。光範さんの掛け声はこの日もとびっきり冴えていて、成田さんとの掛け合いがすばらしく、かっこいい!
石井流の大鼓は打法が独特の人が多いけれど、石井保彦さんもそのお一人。
鼓を打つ前の手が、拳法の構えの手のように、五本の指先をクッと内向きに折り曲げるのが特徴的で、思わず見入ってしまった。
4人の囃子方さんははじめて聴く組み合わせだったので、いろんな発見と驚きがあり、新鮮。
気迫が充実した演奏が聴けたし、シテの片山伸吾さんの早舞もきれいだったし、
片山定期能は料金が申し訳ないほどリーズナブルなのに、ものすごく濃い内容(いいんでしょうか?)。
いろんな意味で、能楽師さんたちの心意気と、お能への「愛」が感じられたのだった。
仕舞の感想につづく
《三井寺》からのつづき
能《須磨源氏》シテ老人/光源氏の霊 片山伸吾
ワキ藤原興範 小林努
ワキツレ 有松遼一 岡充
アイ所の者 山本豪一
竹市学 成田達志 石井保彦 前川光範
後見 片山九郎右衛門 梅田嘉宏
地謡 青木道喜 河村博重 分林道治 田茂井廣道
橋本忠樹 宮本茂樹 河村和貴 河村浩太郎
《須磨源氏》は、とにかく、お囃子が素晴らしい!
演奏するほうもノリにノッていて、攻めの姿勢でこちらにぐんぐん迫ってくる。
演能後、「お囃子、凄かった!」の声が、見所のあちこちから聞こえてきたくらい。
竹市学さんの笛はひさしぶりに聴いたけれど、惚れ惚れするような良い音色。
以前よりもさらに研ぎ澄まされ、音に底光りのするような艶がある。
半透明のこのツヤは、藤田六郎兵衛さんの笛にはない、竹市学さん独自のものだ。
そして、成田達志さん。
観世元伯さんとのコンビで聴く小鼓・太鼓がたまらなく好きで、最高の組み合わせのひとつだと思っていた。
(かつて銕仙会で聴いた成田達志&観世元伯さんのコンビ、それに竹市学さんの笛と佃良勝さんの大鼓が加わった《是界・白頭》は、シテが九郎右衛門さん、ワキが宝生欣哉さんだったこともあり、わたしの中ではレジェンド的な舞台だった。)
元伯さんがいない今、成田達志さんの小鼓にいちばん合うのは、前川光範さんの太鼓だと思う。光範さんの掛け声はこの日もとびっきり冴えていて、成田さんとの掛け合いがすばらしく、かっこいい!
石井流の大鼓は打法が独特の人が多いけれど、石井保彦さんもそのお一人。
鼓を打つ前の手が、拳法の構えの手のように、五本の指先をクッと内向きに折り曲げるのが特徴的で、思わず見入ってしまった。
4人の囃子方さんははじめて聴く組み合わせだったので、いろんな発見と驚きがあり、新鮮。
気迫が充実した演奏が聴けたし、シテの片山伸吾さんの早舞もきれいだったし、
片山定期能は料金が申し訳ないほどリーズナブルなのに、ものすごく濃い内容(いいんでしょうか?)。
いろんな意味で、能楽師さんたちの心意気と、お能への「愛」が感じられたのだった。
仕舞の感想につづく
能《三井寺》・狂言《口真似》~片山定期能七月公演
2018年7月29日(日)12時30分~16時40分 最高気温34℃ 京都観世会館
能《三井寺》シテ千満丸の母 味方玄
子方 味方慧 ワキ三井寺住僧 福王知登
ワキツレ 喜多雅人 中村宜成
アイ清水寺門前者 小笠原匡 三井寺能力 小笠原弘晃
森田保美 吉阪一郎 山本哲也
後見 小林慶三 青木道喜
地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 河村博重
橋本忠樹 梅田嘉宏 清沢一政 河村和晃
狂言《口真似》シテ主人 小笠原匡
アド太郎冠者 小笠原弘晃 何某 山本豪一
後見 泉慎也
仕舞《笹之段》 橋本礒一
《鵜之段》 武田邦弘
《雨之段》 浦田保浩
《玉之段》 片山九郎右衛門
地謡 橘保向 古橋正邦 味方玄 清沢一政
能《須磨源氏》シテ老人/光源氏の霊 片山伸吾
ワキ藤原興範 小林努
ワキツレ 有松遼一 岡充
アイ所の者 山本豪一
竹市学 成田達志 石井保彦 前川光範
後見 片山九郎右衛門 梅田嘉宏
地謡 青木道喜 河村博重 分林道治 田茂井廣道
橋本忠樹 宮本茂樹 河村和貴 河村浩太郎
はじめて行った片山定期能。
自由席制だけど、暑いなか外で並ぶのもなあ……と思い、開場後に入場。
意外なことに、前列の見やすい席がよりどりみどりで残っていた(京都では、みなさん、ゆったりマイペース)。
チケット&座席をめぐって熾烈な争奪戦が繰り広げられる東京に比べると、心にゆとりをもって観能できる。
とはいえ、さすがは味方玄さんの舞台だけあって、開演時には見所もかなりぎっしり。東京からお越しになった方々もいらっしゃって、相変わらずの人気です。
この日の演目は《三井寺》と《須磨源氏》。
台風一過の真夏の昼間に、湖畔の秋の月と海辺の春の月を楽しむという、凝った趣向。
能《三井寺》
登場楽もなく、シテが静かに登場。
前シテの唐織は、(見当違いかもしれないけれど)もしかするとテアトル・ノウ東京公演の《砧》で使われた装束かもしれない。
渋いグリーンと灰色を基調にした草花文様の唐織。
後シテはグレーの水衣に縫箔腰巻、笹を右肩に載せて登場。カケリを経て、三井寺に到着。
この舞台の白眉は、鐘を撞く撞かないで揉めるワキとの問答だった。
卒都婆問答を思わせる理知と気骨、そのなかに潜む、一心に思いつめた「狂い」の気配。鬼気迫る母の思いを感じさせながらも、それも狂女の芸のうち、と思わせる部分もあり、「冷めた理性」と「熱い狂気」という相反する要素がないまぜになった複雑な表現。
ここでぐっと舞台に引きこまれる。
〈鐘之段〉
「初夜の鐘を撞くときは諸行無常と響くなり」から「我も五障の雲晴れて」までは、《娘道成寺》にも引用されている箇所。
坂東玉三郎さんは、『伝心~玉三郎かぶき女方考』で、「時がすべてを虚しくするということを言ってしまった。恋が叶わなかったことへの怨みを飛び越えて、時が過ぎてゆくことへの怨みにもなってゆく。私はここにつかまって、道成寺が踊れる」と述べている。
玉三郎さんのこの言葉が呪文のように絡みついて、鐘之段では、道成寺と三井寺の世界が二重写しに見えてくる。
「女が鐘を撞く」というのは、いわば狂気の記号であり、さらに《三井寺》では狂気を誘う月が妖しく冴えわたる。
《道成寺》は外に爆発的に放出される狂気、《三井寺》は内向し沈澱する狂気。
清澄な明月と琵琶湖の絶景のなか、狂女が「諸行無常と響くなり」と謡ながら鐘を撞く姿は、計算された人工美の極み。
この冷たい硬質な美を具現化した舞台を、いつか観てみたい……。
鐘の紐の操り方も、玄さんらしく、隙がなく美しい。
魅力的な見せ方を心得ていらっしゃる。
最後に我が子とめでたく再会した時の、子方さん(甥の味方慧さん)の肩にのせたシテの手に、愛おしいものを慈しむような包容力があり、大きな母性を感じさせた。
狂言《口真似》
京都の見所は、やっぱりノリがいい。
小笠原家もさすがは関西、同じ和泉流でも東京とはひと味違っていて、やわらかく、親しみやすく、笑いのツボを押さえたメリハリがある。
見所と舞台との交流、良い雰囲気の相乗効果で、こちらも思わず釣り込まれて爆笑してしまう。
顔の筋肉がほぐれて、狂言っていいなあと素直に思う。
(けっこう、山本東次郎家の呪縛にかかっていたように思う。)
気取らずに、楽しめばいいんだ。
能《須磨源氏》につづく
能《三井寺》シテ千満丸の母 味方玄
子方 味方慧 ワキ三井寺住僧 福王知登
ワキツレ 喜多雅人 中村宜成
アイ清水寺門前者 小笠原匡 三井寺能力 小笠原弘晃
森田保美 吉阪一郎 山本哲也
後見 小林慶三 青木道喜
地謡 武田邦弘 古橋正邦 分林道治 河村博重
橋本忠樹 梅田嘉宏 清沢一政 河村和晃
狂言《口真似》シテ主人 小笠原匡
アド太郎冠者 小笠原弘晃 何某 山本豪一
後見 泉慎也
仕舞《笹之段》 橋本礒一
《鵜之段》 武田邦弘
《雨之段》 浦田保浩
《玉之段》 片山九郎右衛門
地謡 橘保向 古橋正邦 味方玄 清沢一政
能《須磨源氏》シテ老人/光源氏の霊 片山伸吾
ワキ藤原興範 小林努
ワキツレ 有松遼一 岡充
アイ所の者 山本豪一
竹市学 成田達志 石井保彦 前川光範
後見 片山九郎右衛門 梅田嘉宏
地謡 青木道喜 河村博重 分林道治 田茂井廣道
橋本忠樹 宮本茂樹 河村和貴 河村浩太郎
はじめて行った片山定期能。
自由席制だけど、暑いなか外で並ぶのもなあ……と思い、開場後に入場。
意外なことに、前列の見やすい席がよりどりみどりで残っていた(京都では、みなさん、ゆったりマイペース)。
チケット&座席をめぐって熾烈な争奪戦が繰り広げられる東京に比べると、心にゆとりをもって観能できる。
とはいえ、さすがは味方玄さんの舞台だけあって、開演時には見所もかなりぎっしり。東京からお越しになった方々もいらっしゃって、相変わらずの人気です。
この日の演目は《三井寺》と《須磨源氏》。
台風一過の真夏の昼間に、湖畔の秋の月と海辺の春の月を楽しむという、凝った趣向。
能《三井寺》
登場楽もなく、シテが静かに登場。
前シテの唐織は、(見当違いかもしれないけれど)もしかするとテアトル・ノウ東京公演の《砧》で使われた装束かもしれない。
渋いグリーンと灰色を基調にした草花文様の唐織。
後シテはグレーの水衣に縫箔腰巻、笹を右肩に載せて登場。カケリを経て、三井寺に到着。
この舞台の白眉は、鐘を撞く撞かないで揉めるワキとの問答だった。
卒都婆問答を思わせる理知と気骨、そのなかに潜む、一心に思いつめた「狂い」の気配。鬼気迫る母の思いを感じさせながらも、それも狂女の芸のうち、と思わせる部分もあり、「冷めた理性」と「熱い狂気」という相反する要素がないまぜになった複雑な表現。
ここでぐっと舞台に引きこまれる。
〈鐘之段〉
「初夜の鐘を撞くときは諸行無常と響くなり」から「我も五障の雲晴れて」までは、《娘道成寺》にも引用されている箇所。
坂東玉三郎さんは、『伝心~玉三郎かぶき女方考』で、「時がすべてを虚しくするということを言ってしまった。恋が叶わなかったことへの怨みを飛び越えて、時が過ぎてゆくことへの怨みにもなってゆく。私はここにつかまって、道成寺が踊れる」と述べている。
玉三郎さんのこの言葉が呪文のように絡みついて、鐘之段では、道成寺と三井寺の世界が二重写しに見えてくる。
「女が鐘を撞く」というのは、いわば狂気の記号であり、さらに《三井寺》では狂気を誘う月が妖しく冴えわたる。
《道成寺》は外に爆発的に放出される狂気、《三井寺》は内向し沈澱する狂気。
清澄な明月と琵琶湖の絶景のなか、狂女が「諸行無常と響くなり」と謡ながら鐘を撞く姿は、計算された人工美の極み。
この冷たい硬質な美を具現化した舞台を、いつか観てみたい……。
鐘の紐の操り方も、玄さんらしく、隙がなく美しい。
魅力的な見せ方を心得ていらっしゃる。
最後に我が子とめでたく再会した時の、子方さん(甥の味方慧さん)の肩にのせたシテの手に、愛おしいものを慈しむような包容力があり、大きな母性を感じさせた。
狂言《口真似》
京都の見所は、やっぱりノリがいい。
小笠原家もさすがは関西、同じ和泉流でも東京とはひと味違っていて、やわらかく、親しみやすく、笑いのツボを押さえたメリハリがある。
見所と舞台との交流、良い雰囲気の相乗効果で、こちらも思わず釣り込まれて爆笑してしまう。
顔の筋肉がほぐれて、狂言っていいなあと素直に思う。
(けっこう、山本東次郎家の呪縛にかかっていたように思う。)
気取らずに、楽しめばいいんだ。
能《須磨源氏》につづく
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