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2018年12月29日土曜日

空也踊躍念仏 ~六波羅蜜寺

2018年12月29日(土)16時~16時30分 六波羅蜜寺


さすがに師走の末ともなると観光客もまばらで、京の町は歩きやすく過ごしやすい。
この日は、空也踊躍念仏(ゆやくねんぶつ)を観に、六波羅蜜寺を訪れた。

平安中期に空也上人によって創始された踊念仏は、鎌倉時代に幕府によって弾圧され、以来800年にわたり、この寺でひそかに修されてきた。この念仏踊りが「かくれ念仏」とも呼ばれるゆえんである。
(秘儀だった空也踊躍念仏は、1970年代に重要無形文化財に指定されたのを機に一般公開された。)


寺の入り口には、お約束の「マニ車(一願石)」。

念仏踊りが行われる本堂には老若男女100人以上が詰めかけ、読売新聞や京都新聞などの取材も入っていた。
けっこう有名というか、人気なんですね。念仏踊り。


【住職による解説〕
まずは、ご住職による解説から。

空也上人の出生については諸説あるが、ご住職によると、醍醐天皇の第二皇子として生まれ、長じて出家したという。

村上天皇の御代の天暦5年(951年)、京都で疫病が流行した。空也上人は十一面観音を彫り、疫病封じを祈願。
さらには、梅干しと結び昆布を入れた「皇福茶(おうぶくちゃ」という薬湯を考案し、庶民にふるまい、疫病の拡散を防ぐべく火葬を奨励したという。

(この皇福茶は今でも正月三が日に参拝者にふるまわれ、この日も御守りと一緒に販売されていた。無病息災の効能があるらしい。わたしもお正月用に購入。)


そうした空也の尽力が功を奏して、疫病は沈静化。村上天皇はその褒美として、空也のために六波羅蜜寺の前身・西光寺を建立した。

疫病の流行は収まったものの、人々の恐怖心は癒えず、京の人々は、今でいうPTSDのようなトラウマ的うつ状態に陥っていた。

そこで空也が人々の心の傷を癒すために創案したのが、念仏踊りだった。

空也の念仏踊りは瞬く間に広まり、鎌倉期には大流行したが、民衆の団結力を恐れた幕府がこれを弾圧。念仏踊りは地下に潜り、「かくれ念仏」として一般の目に触れることなく、この寺で、ひそかに執り行われてきた。

そうした背景から、空也踊躍念仏には以下のような特徴がある。

(1)「南無阿弥陀仏」という言葉を、聞かれても分かりにくいように「モーダーナンマイトー」という、意味不明な響きに変えている。

(2)誰かが来てもいつでも中止できるよう、言葉に終わりが決められていない。ゆえに、唐突に終了する。

(3)般若心経などの普通のお勤めのなかに、念仏を紛れ込ませている。


住職の話によると、この念仏踊りには、罪業消滅の功徳があるとのこと。

「この日集まった一般の皆さんも、念仏僧とともに、モーダ―ナンマイト―、と唱えることで、一年の罪穢れを祓い、希望に満ちた良い新年を迎えましょう!」とご住職。

そんなわけで、みんなで念仏の練習をしたあと、いよいよ本番!



【空也踊躍念仏】
本堂の内陣には、大きな厨子が三つ並んで壇の上に立っている。
空也が彫ったという本尊・十一面観音は、12年に1度開帳される秘仏のため、中央の厨子のなかかどこかに納められているのだろう。

まずは、5~6人の僧侶が壇のまわりを取り囲み、十一面観音の真言と般若心経を唱える。
やがて僧侶たちは首から下げた伏鉦(ふせがね)を叩きながら、念仏を唱和しはじめた。

鉦を叩き、念仏を唱え、二歩進んでは体をかがめて静止、二歩進んでは体をかがめて静止、という動作をくり返しながら、壇のまわりをまわっていく。

さらに念仏は、例の「モーダーナンマイトー」へと移っていく。

僧侶たちは、「モーダー」で、大きく前かがみになって体を下に向け、
「ナンマイトー」で、体を上に向けて、大きく反らせる。
鉦を叩きながら、下を向いたり、上を向いたりするしぐさ。
何かの絵巻物か図絵で観たことがある。
いずれにしろ、ハードなエクササイズだ。

観衆たちも念仏に加わり、堂内は熱気を帯び、しだいにヒートアップしていく。
みんなで声を出し、単純な動作をリズミカルに繰り返す。
それだけのことだけれど、この単純な動作を集団で熱中して行うことで、鬱々とした気分が晴れ、吹き飛ばされていく。
踊念仏がもてはやされた理由が少しわかった気がする。
頭を使うのではなく、集団で声を出し、体を動かすこと。
現代のストレス対策にもいいかもしれない。


(ドグラ・マグラ風に)チャカポコ、チャカポコ。
モーダーナンマイトー、モーダーナンマイトー。
チャカポコ、モーダーナンマイトー、モーダーナンマイトー。
チャカポコ、チャカポコ。

すると、突然!
唐突に住職の絶叫が聴こえ、カン、カン、カン!と鉦が鳴り響いたかと思うと、念仏も伏鉦もぴたりとやんだ。
蜘蛛の子を散らすように、僧侶たちがコソコソと逃げ去ってゆく。

あっけない幕切れ。
これぞ、「かくれ念仏」。

最後は観衆も内陣に入り、お焼香をして御本尊をお参り。
帰りに「肌守り」をいただいた。

これが肌守り。お財布やスマホカバーに入れて、いつも持ち歩くと厄除けになるそう。

罪穢れが払われて、スッキリした気分。楽しかった。

外部の彩色は近年、塗り替えられたものなのであざやか。






阿古屋塚~玉三郎奉納につづく




2018年11月14日水曜日

藤原定家の京極邸と時雨亭

京都ではふつうに歩いているだけでも、あちこちに面白い発見があります。

寺町通り、行きつけの一保堂の斜め向かい、古梅園の軒先に「此付近藤原定家京極邸址」の石碑がひっそりとたっています。

定家の京極邸は、平安京左京二条四坊十三町にあったと伝えられていますが、このあたりだったのですね。京極邸に住んでいたため、定家は京極中納言と称されました。



藤原定家が小倉百人一首を編んだ時雨亭は、能《定家》でもおなじみですが、その時雨亭跡とされる場所が、小倉山中腹の嵯峨野に3ケ所あります。

そのひとつが、常寂光寺。
先日の嵯峨大念佛狂言終了後に立ち寄ったのですが、すでに閉まっていて、なかには入れず。。。。


↑の案内板のように、常寂光寺の境内には、時雨亭跡の碑があるようです。



時雨亭跡があるとされる2つ目の場所が、二尊院。
(なんか、八ツ橋論争みたいですね。)




ここも閉まっていて中へは入れなかったのですが、こんなふうに時雨亭跡の碑が立っているそうです。




時雨亭跡がある3つ目のお寺が、厭離庵。

こちらは尼寺で、一般拝観は受け付けていないそうですが、名前からして厭世的で、能《定家》の舞台となった時雨亭跡がある場所としてはぴったり。
(写真は撮らなかったので、掲載した画像はただの嵯峨野の風景です。)






こちらは向井去来の草庵・落柿舎。
なんとなく、わたしが抱く時雨亭のイメージはこんな感じです。
定家はどんな庵を営んだのでしょうか。

《定家》の舞台が観たくなってきました。
好きな役者さんの演能が来年あたりにあるといいけれど。







2018年11月13日火曜日

赤山禅院 ~泰山府君と魔除けの猿

2018年11月初旬  赤山禅院
平安時代の888年に創建された赤山禅院は、比叡山塔頭のひとつ。
天台宗の寺院でありながら、赤山大明神という神さまを祀っています。

赤山大明神は慈覚大師・円仁の遺命により、唐の赤山の泰山府君を勧請したもの。
寿命や運命をつかさどる冥府の主宰者・泰山府君には、魔を祓う力もあるため、皇城の表鬼門に祀られました。


↑本殿の入口を縁取る巨大な数珠は「正念珠」。
この数珠をくぐるとき、心に浮かんだ願いを参拝のあいだ思い続ける真言密教の本尊誦の修法を「正念誦」と呼ぶそうです。


いっぽう、お寺を出るときにくぐるのが、↑の「還念珠」。
この数珠をくぐる時、正念誦のときに心に描いた願いに向かってみずから努力することを誓い、神仏の加護を仰ぐと良いとのこと。

お寺の正式な作法では、正念誦の功徳をあらゆる衆生に廻向するための作法が「還珠法」で、次の発願文を唱えるそうです。

願我念誦所生福 奉入本尊智恵海
平等一味同法性 我及衆生共成仏

願わくば 我が念誦により生ずるところの福をもって
本尊の智恵の海 平等一味の同法性に入り奉り
我も衆生もともに仏とならんことを。

自分の願いだけ叶えばいいという自己中な考えではいけないということですね。
反省、反省。



拝殿の屋根の上には、鬼門除けのお猿さんがいました。
(猿が魔除けの動物なのは、「去る」に掛かるから。)

この猿は、かぐら鈴と御幣をもち、皇城を守護しています。
かつて夜な夜な悪さをしたため、逃げ出さないよう金網に入れられているそうです。
(てっきり、ハトのフンフンよけかと思いました。。。)




こちらが、皇城表鬼門・赤山大明神。


あざやかな色彩の狛犬は、王城守護にふさわしい威厳のある顔立ち。
かつてはもっと極彩色だったのでしょう。




紅葉の美しい地蔵堂。







苔むした十六羅漢。味わいがあります。









2018年11月3日土曜日

天河大弁財天社・秋季大祭

2018年11月2日(金) 天河弁財天

だいぶ昔に、十津川村の玉置神社を訪れたことがある。車で行けども行けどもたどり着けないような、秘境中の秘境だった。

玉置神社ほどではないにしても、天河弁財天も相当遠くて不便な場所にある。
でも、ずっと憧れていた聖域だ。
厳島、竹生島と並ぶ三大弁財天のなかでも、「日本第一の弁財天」と称えられただけあって、空気が驚くほど清らかで、ひと呼吸ごとに肺や体が浄化され、高い霊的エネルギーがあたりに立ち込めているのが感じられる。

そして何よりもここは、あの観世元雅が訪れて《唐船》を舞い、そのとき着けていた阿古父尉を奉納した神社としても知られている。
阿古父尉面の裏には、「唐船 奉寄進 弁財天女御宝前仁為允之面一面心中所願成就円満也 永享二年十一月 観世十郎敬白」と筆書きされ、将軍義教から疎んじられた当時の元雅の悲痛な思いがべっとり沁みついている。

中村保雄の「天河の能」(平凡社『天河』収録)によると、昭和50年には、元雅奉納のこの尉面を着けて片山九郎右衛門(幽雪師)が天河弁財天で《天鼓》を舞ったという。

そのほか、天河社は能楽に限らず、芸能者・アーティストたちの一大聖地であり、あのブライアン・イーノも「日本で最初の公演は、是非ここ天河神社で!」と申し出たほど、その神威は海外にまでひろく知れ渡っている。

また、在原業平が天河弁財天の洞窟に入って入定したという伝説があるなど、数々の伝説・伝承に彩られている。
この日の大祭にも、ほかの神社とは趣きの異なる独特の雰囲気があった。



御神楽奉奏《浦安の舞》
まずは、雅楽の演奏に合わせて巫女が舞う神楽奉納。
最初は檜扇で舞い、後半からは、巫女舞らしく鈴に持ち替えて舞う。

空気があまりにも澄んでいて、まるで空気そのものが笛や篳篥の音色を発しているように思えてくる。
美しい空気と「気」の振動が起こす、美しい音色。

鈴の音も他の場所で聴くのとはぜんぜん違っていて、天上の音のような精妙な響き。
来迎図で天人が奏でる音楽のようで、とても心地よく、癒される。



アメノトリフネとタマシズクの祈り
南北朝時代、南朝の行宮(仮宮)が置かれ、南朝の拠点だった天河。
この地には、南朝方に仕える傳御組(おとなぐみ)が現在も組織されているという。
祝詞にも南朝の名残りが色濃く残り、儀式にも神仏混交の要素が多分に含まれている。
それゆえなのか、天河社は単立の宗教法人として神社本庁からは独立している。

巫女神楽につづいて執り行われた「天鳥船 神々のお渡り」もかなり変わっていた。

解説によると、真菰(まこも)でつくられた船を神殿に奉り、音霊、言霊奉納を通して八百万の神々のお力を賜って新しい時代の開きと御代の平和を祈る、というものらしい。

シンセサイザーの音楽と霊的空間が溶け合い、エネルギーに満ちた祈りの言葉が場を震わせるこの儀式は、『火の鳥・黎明編』のなかの原始的な祈りのようでもあり、前衛的なパフォーマンスアートのようでもあり、とにかく不思議な神事だった。



俵米初穂や神饌、福餅、御神酒が供えられた斎灯殿
午前中の神事が終わると直会を挟んで、神事能《葵上》(次の記事参照)となり、能楽終了後は、屋外の斎灯殿前で、「一千年の灯火と熊野御神火の斎火合わせの儀」が執り行われた。


この儀式は、奥宮弥山山頂にて火鑚(ひきり)できった神聖な清き神火と、熊野の御神火が結ばれるというもの。


二つの聖地の聖火が結ばれ、その煙が龍のように天高く昇っていく。
まるで龍神たる天河弁財天が示現したかのよう。


煙が鎮まると、法螺貝の音が響き渡り、人びとは太鼓を叩き、般若心境を唱えながらぐるぐると護摩壇のまわりを回りはじめる。

神道、仏教、修験道、念仏踊り……さまざまな宗教がまじりあい、境界がぼやけて、宗教が未分化だったころの、日本古来の始源の信仰へと還ってゆく。



天河社門前の町並み

天河弁財天 神事能《葵上・梓之出》につづく





2018年10月31日水曜日

元稲荷古墳と長岡宮跡

2018年10月27日(土) 向日市・元稲荷古墳と長岡宮跡
最近、古墳にはまりつつあって……関西は古墳がいっぱいでおもしろい!

こちらは、向日神社の裏手、勝山公園内にある元稲荷古墳跡。
古墳時代前期の3世紀のものと推定される大型前方後円墳で、前方部・後方部とも、箸墓古墳と同比率とされています。

「元稲荷」の名称は、かつて古墳の後方部に稲荷社が鎮座していたことに由来するとのこと。向日神社の境内に点在する磐座との関連はどうなのだろう? 
興味が尽きません。


古墳跡は、こんなふうにこんもりした丘になっています。
土地の首長墳墓なので、大王(天皇)・皇族の古墳に比べると無防備です。


向日市の立看板によると、こんな感じの前方後円墳だったようです。


説法石
向日神社の鳥居の横に祀られた巨岩。
「説法石之由来」と書かれた石碑が立っています。


「説法する石?」と思って調べてみると、1307年ころに日蓮上人の孫の日像上人が、この石の上で西国街道を行きかう人々に説法し、法華経の信者を増やしたことに由来するそうです。

ふうむ。
なんとなく、この土地に根づいた岩石信仰の名残りを感じさせます。



西向日の駅まで戻ると、駅前に長岡宮の史跡がありました。

桓武天皇が平城京から長岡村へ、都を遷したのが784年。
それから、早良親王の祟りを恐れて平安京に遷都するまでのわずか10年間、長岡京がこの国の中心でした。



長岡宮跡は、こんな感じ。だだっ広い盛土のような場所。
写真を取っていたら、小さな資料館のようなところからガイドらしき男性が出てきて、いろいろ説明してくださいました。

ここは、↓下図の「西第四堂」にあたる場所だそうです。

長岡宮はこのような配置だったんですね。


短期間で大規模な都や宮殿をつくることができたのは、淀川の舟運を利用して、難波京から建物を移築したり建材を転用したりしたからではないかと考えられています。

上の図を見ると、遷都をめぐる朝廷の迷走や、天智系・天武系の興亡がよくわかります。


長岡京には、鬼門封じの大きな寺院・神社もなく、地勢的・風水的にも明確な四聖獣に相当するものがなかったため、平安京のように霊的バリアの強い王城にはならなかった可能性があります。

平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京→長岡京と長い迷走期間を経て、日本の都は落ち着くべきところに、落ち着いたのかもしれませんね。





2018年10月25日木曜日

栖霞観から清凉寺へ ~《融》が《百万》に乗っ取られた場所

2018年10月22日(日) 清凉寺(嵯峨釈迦堂)
いにしえの葬送の地・嵯峨野には、謡曲ゆかりの地がたくさんあります。
ここは地獄や六道の辻とも関係が深く、民俗学・妖怪学的にも興味深い場所です。

清凉寺の経蔵に納められた法輪
日本のマニ車ともいわれる法輪(転法輪とも)。
一回まわしただけで、一切経を読むのと同じ功徳が得られるという(お手軽な気もするけれど)ありがたい仏具。堂内には念仏のBGMが流れていました。


さて、ここ清凉寺は、嵯峨野の名の由来となった嵯峨天皇の皇子で、能《融》の主人公でもある源融の別荘「栖霞観」があった場所です。

融の邸宅・六条河原院では、塩竈の浦の景色を模した庭園など「海」のモティーフが用いられていたのにたいし、嵯峨野の別荘は「栖霞観」の名が示すように、道教思想にもとづいた仙境をイメージしてつくられたのかもしれません。

融の没後、彼の姿を写したといわれる阿弥陀如来を安置するために、別荘・栖霞観は「栖霞寺」という寺院に改められました。


多宝塔
仁王門をくぐると、左手に多宝塔があります。
この塔の後ろにひっそりと佇むのが、源融のお墓です。

境内の通りからは見えないので、なかなか見つからなかったのですが、お寺の方にお尋ねして、ようやく探しあてました。
源融の墓とされる宝篋印塔
人通りのまったくない多宝塔の裏にひっそりと。
苔むして摩耗した古い石造りの宝篋印塔。
融の墓所にふさわしい、静かで、安らかな場所です。

そっと、手を合わせました。


隠元禅師筆「栴檀瑞像」の額がかかった釈迦堂
阿弥陀三尊像を本尊とする栖霞寺の創建から数十年たったころのこと。
生前の釈迦の姿を写したとされる「三国伝来の釈迦像」を模刻した清釈迦如来立像が日本に請来されました。

この釈迦如来像を安置するべく栖霞寺の境内に建立されたのが、清凉寺です。

かくして源融ゆかりの栖霞寺は、境内に建立された清凉寺に(ひらたく言えば)乗っ取られる形となり、本尊の座も、阿弥陀如来から釈迦如来へと変わってしまいました。

(現在、源融の姿を写したとされる阿弥陀如来と脇侍たちは、霊宝館に収蔵されています。寺院や宗派の興亡・変遷をたどると、時代のパワーが貴族から庶民へと徐々に移り変わっていったのが感じられます。)

春の嵯峨大念仏のにぎわいを舞台にした能《百万》でも、清凉寺の釈迦如来像が賛美されています。
「毘首羯磨が作りし赤栴檀の尊容、やがて神力を現じて、天竺震旦我が朝三国に渡り、ありがたくも、この寺に現じ給へり」


清凉寺が融通念仏と結びついたのは、13世紀のこと。母親と生き別れになった円覚上人が、嵯峨釈迦堂(清凉寺)を融通念仏根本道場に定めたことによるとされています。

円覚上人は、念仏参加者が十万人に達するごとに一基の塔を建てて供養したことから、「十万上人」と呼ばれました。

清凉寺では、この十万上人(円覚上人)の母子再会譚を能に仕立てたのが、能《百万》(原曲《嵯峨大念仏の女物狂》)だと考えられています。
十万上人の追善法会などでは、「母見た」にちなんで「ハハアーミータ ボウシュ」という念仏が唱えられるそうです(「ボウシュ」は「母処」の意味とのこと)。

嵯峨大念仏狂言にも、いわばご当地ソングとして演目の中に《百万》があるのですが、嵯峨狂言の《百万》では、子方の名前が「十万」になっており、「百万の子ども=十万上人」であることが明示されています。

十万上人は、清凉寺の墓地に静かに眠っています。
清凉寺には、《廓文章》などで知られる夕霧太夫の墓もありますが、ほかにも歴史上有名な方々の墓標が立っています。

豊臣秀頼首塚
清凉寺の再興に尽力した豊臣秀頼もそのひとり。
隣には、大坂の陣諸霊供養碑もあります。

生の六道(小野篁遺跡)
小野篁が、六道珍皇寺の井戸を通って冥途通いをしたという話は有名ですが、六道珍皇の井戸は、冥途の入り口です。
篁の冥途通いの出口となったのが、嵯峨野にあった福正寺の井戸でした。
それゆえ嵯峨野のこの地は、「生(しょう)の六道」といわれたそうです。

福正寺は、明治の廃仏毀釈で廃寺となり、清凉寺境内にある嵯峨薬師寺に吸収合併され、こうして「生の六道」の遺跡だけが残されました。

東山から嵯峨野まで、つまり、「鳥辺野」から「化野」という二大葬地を冥界の井戸がつないでいたと昔の人は考えていたのですね。

いにしえ人の脳内では、あの世とこの世がこんなふうにつながっていたんだと、その世界観と自由なイマジネーションを垣間見た気がして、面白いものです。
日常のなかに、四次元空間の穴がぽっかり開いているような、そんな思考だったのでしょうか。
夢があって、いいなあ。








2018年10月23日火曜日

《紅葉狩》《土蜘蛛》~嵯峨大念佛狂言 Special Guest 千本ゑんま堂狂言

2018年10月21日(日)13時~16時30分 清凉寺・嵯峨狂言堂
嵯峨大念佛狂言~狂言堂こけら落とし公演 with 千本ゑんま堂狂言からのつづき

嵯峨狂言《土蜘蛛》

番 組
《愛宕詣》(やわらかもん) 嵯峨大念佛狂言

《鬼の念佛》(やわらかもん)千本ゑんま堂大念佛狂言

《紅葉狩》(かたもん)   千本ゑんま堂大念佛狂言

《土蜘蛛》(かたもん)   嵯峨大念佛狂言



嵯峨狂言堂落慶記念公演の後半は、スペクタクル能にもとづく、カタモンの念佛狂言。

能の《紅葉狩》や《土蜘蛛》との違いは、念仏狂言には「飛び込み」という演出があること。
土蜘蛛や渡辺綱・平井保昌たちが、揚幕前の仕掛けに飛び込んで、まるで忍者のように、奈落へとサッと姿を消す。
これが、スピーディでカッコいい。
鬼女や土蜘蛛との斬り合いも、迫力があり、見応え十分!

念仏狂言の囃子は、カンが鉦、デンが太鼓、これに横笛が入るというシンプルな構成。
鬼や化け物が出てくる際には、「カンカン、カンカン、カンカン、カンカン」という早鐘(はやがね)と呼ばれる、鉦による囃子が入るのだが、この音色がおどろおどろしくて、良い味を出していた。


《紅葉狩》の平維盛と太郎冠者
千本ゑんま堂狂言《紅葉狩》
戸隠山に鬼退治に訪れた平維盛。お供は、狂言らしく太郎冠者。
舞台には、本物の紅葉が飾られるが、まだ色づいていないので青紅葉。



酔いつぶれた維盛から太刀を奪った謎の女
 そこへ、謎の女が登場。
このときの謡が、能《紅葉狩》の次第と同じ「時雨を急ぐ紅葉狩、深き山路を尋ねん」だった。節まわしも能の謡とまったく同じ。地取がないのが物足りなく思えるほど。

ほかにも能狂言の詞章を借用したセリフや言い回しがいろいろあり、有声劇の千本ゑんま堂狂言では、能楽からの影響がより強く感じられた。




鬼女とのバトル
鬼女の面は般若ではなく、こんな感じの面。

最後は、メデューサのように首をバッサリ斬り落とされる。
こういうのも、暗示的でシンボリックな能の表現とは異なるところ。





嵯峨狂言《土蜘蛛》。酒宴で杯を飲み干す源頼光
締めくくりは、嵯峨狂言の《土蜘蛛》
これがとってもよかった!! 

おおらかな間合いや、無言劇ならではの手話のような優雅なしぐさ、そして、メリハリのある展開、立ち回りのキレの良さなど、嵯峨狂言の魅力がいっぱい詰まっている。

無言の仮面劇なので、視覚も限定され、聴覚にも頼れない。
そのため演者たちは、ボンッと1つ足拍子を踏むことで、進行の相図を送り合う。
逆に言うと、この足拍子だけで互いの間を計り合うのだから、じつは相当高度な技と経験が必要とされるのではないだろうか。



頼光を襲う土蜘蛛の精
酒宴の途中で気分が悪くなった頼光が一人で休んでいると、土蜘蛛の精が襲ってくる。
(能では前シテは怪しげな僧形の人物だが、嵯峨狂言では最初から鬼面で現れる。)

キンキラの擦箔にクモの巣もようの青い衣が、ハードロック風。
腰帯があるのも能っぽくて、おしゃれ。



頼光は名刀・膝丸で応戦
気がついた頼光は名刀・膝丸で蜘蛛の精を斬りつけるが、相手は糸を撒いて逃げ去る。
(ここで、蜘蛛の精は、飛び込みを使って、奈落へ姿を消す。)

ここでの頼光の刀捌きがとてもかっこよく、蜘蛛の精の糸吐きもみごと。
飛び込みも鮮やかに決まっていた。




異変を察知して、駆けつける綱と保昌
頼光は、駆けつけた渡辺綱と平井保昌に事情を説明。
二人に土蜘蛛退治を命じる。

綱が癋見系、保昌が天神系の能面をかけ、頼光が神楽系の面をつけているのも妙にマッチしていて、おもしろい。

(平井保昌は「頼光四天王」ではなく「道長四天王」なのに、ここでは頼光の家来になっている。そもそも土蜘蛛退治に行くのが独武者ではないのは、綱と保昌が江戸時代の人気者だったから?)




巨大なソフトクリームのような松明を掲げて、土蜘蛛を捜索する綱と保昌。
癋見と天神の共演って、能ではなかなかない気がする。



土蜘蛛を見つけて、大立ち回り。


土蜘蛛も必死で応戦!



最後は、綱と保昌の挟み撃ち。 あわれ、土蜘蛛!


生首の表現とか、めっちゃリアル。

こういう神事芸能には、ほかにはない魅力がある。
関西にはまだまだたくさんあるので、いろいろ観に行こう!