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2020年2月13日木曜日

鬼と芸能 古今東西の鬼大集合~伝統芸能文化創生プロジェクト

2020年2月8日(土)京都芸術センター講堂
岩手県・北藤根鬼剣舞《一人加護》
2020年2月8日(土)京都芸術センター講堂
第1部:シンポジウム
基調講演 小松和彦先生
パネリスト 横山太郎、川崎瑞穂、三宅流

第2部:芸能の公演
狂言《節分》鬼 茂山千五郎
 女 島田洋海
《母ケ浦の面浮立》佐賀県・母ケ浦面浮立保存会
《鬼剣舞》岩手県・北富士根鬼剣舞保存会

廃校となった小学校校舎を利用した京都芸術センター

今月は「民俗芸能月間」と称して、民俗芸能関連のイベントへの参加をいくつか予定している。

先週の壬生狂言につづく第2弾となるのが、個人的にめちゃくちゃツボの「鬼と芸能」というこのシンポジウム&公演。しかも司会は、敬愛する小松和彦先生だ。やっぱり小松先生のお話はおもしろい! 学生時代、なんでもっと先生の講義を受けておかなかったのだろう……。


第1部:シンポジウム
小松和彦先生の基調講演を要約すると;

鬼とは、過剰な「力」の象徴的・否定的な表現である。ここでいう「過剰」とは、秩序・制御からの逸脱を意味する。われわれ(あるいは個人)に恐怖や災厄を与えるとみなされたものに対して、「鬼」というラベルが貼られてきた。

「鬼」は「人間」の反対概念である。日本人が抱く「人間」という概念の否定形であり、反社会的・反道徳的「人間」として造形されたものが「鬼」なのだ。

神事などに登場する鬼は「祓われる」ために存在する。
鬼は、良くないものを集めた「器(うつわ」であり、人々のケガレを掃除機のように吸いとってから追い払われる。一年の禍を背負って退散してくれる鬼は、人々にとってありがたい存在である。

鬼は、平安時代までは姿の見えないものとされ、一説では「おぬ(隠)」が転じて「おに」と呼ばれるようになったとされる。だが、やがて鬼はしだいに可視化されていく。鬼が語られ、描かれ、演じられるなかで、信仰や美術や芸能が生まれていった。


以上が、小松和彦先生の〈鬼〉論だった。このあたりのことは、先生の著作『鬼と日本人』に詳しく述べられている。鬼にたいする興味がまたムクムクと湧いてきたので、馬場あき子さんの『鬼の研究』とともに『鬼と日本人』も時間を見つけて再読したい。



【第2部】鬼の芸能公演
東北と九州の鬼芸能を居ながらにして拝見できるという贅沢な公演。撮影OKだったので、少しだけご紹介します。

【北藤根鬼剣舞】
北藤根鬼剣舞
はるばる岩手県からお越しになった北藤根鬼剣舞保存会の皆さん。
演者のほとんどは若い方々で、跳躍したりしゃがんだりと激しいアクション。エネルギッシュで勇壮な舞だった。

地元では、鬼剣舞はジャニーズのパフォーマンスよりもカッコいいとされ、若い人にとっても憧れの芸能だとのこと。皆さん子どものころから習い覚えて、参加するそうだ。



鬼剣舞(重要無形民俗文化財)は1300年前からつづく念仏剣舞で、囃子方は太鼓1人、平鉦1人、笛3~4人で編成される。
もっとも巧い舞い手が白い面をつけるという。能でも白い面は位の高さを意味するが、民俗芸能の世界でも「白」は位の高さを意味するらしい。

それにしても、皆さん生き生きとしていて、熱いパッションがみなぎっていた。たんなる地元芸能の「保存」ではなく、人々の暮らしに息づいた「生きた」芸能なのだ、鬼剣舞は。


鬼剣舞《一人加護》
白い面をつけたリーダー格の演者が一人で舞う《一人加護》。大地を踏みしめる「反閇」を行い、五穀豊穣と鎮魂を祈る。

西日本の民俗芸能に比べると、東北の芸能は太鼓の音色に、背骨に響くようなどっしりとした重みがある。囃子の音質の違いは、西日本と東北の空気や大地の違いだろうか?


【母ケ浦面浮立】
母ケ浦の面浮立
佐賀県から来てくださった母ケ浦面浮立保存会の皆さん。

面浮立(めんふりゅう)とは佐賀県の代表的な民俗芸能で、母ケ浦(ほうがうら)の面浮立は、佐賀県鹿島市の鎮守神社の秋祭りに五穀豊穣を願って毎年奉納されるそうだ。

面浮立の「浮立(ふりゅう)」って「風流」の当て字かな?


「鬼(かけうち)」たち
解説が物足りなかったので、ネットで調べた面浮立の説明を以下にまとめると;

面浮立は以下の3部構成になっている。
(1)奉願道(ほうがんどう):鬼が神社に乗り込むまでの道中
(2)神の前:神前での神との闘い部分
(3)法楽:神との闘いで負けた鬼が、その償いに法楽を踊って、神を楽しませる部分。

主役となる「鬼(かけうち)」は、シャグマのついた鬼面をかぶり、モリャーシと呼ばれる太鼓を腰につけ、打ちながら踊る。

面浮立は、大地に踏ん張る「力足」と、虚空に描く「力み手」を主体とし、悪霊を鎮圧する芸能だそうである。


右側が「かねうち」の女性たち
女性は「かねうち」を務める。
1つの鉦を2人の女性が持ち、拍子に合わせて2人同時に鉦を叩く。青い前だれの上から浴衣を着て、頭に花笠をかぶる。手ぬぐいで顔を覆っているのが特徴。

囃子は鉦のほかに、横笛1人(本来は数人)と大太鼓が1人。

東北の鬼剣舞でも、九州の面浮立でも、舞い手が鬼らしく「ウォーッ!」という獣のような掛け声をかけながら舞うのが印象的だった。祓われるべき鬼でありながら、全身から「気」とエネルギーを発散させて、邪気を追い払う。

鬼のなかに「祓う者」と「祓われる者」が混在しているのが、民俗芸能の鬼の特徴なのかもしれない。


【狂言《節分》茂山千五郎家】
狂言《節分》

壬生狂言の《節分》を観たばかりなので、比較しながら拝見できた。

大きな違いは以下の3つ。
(1)壬生狂言の《節分》で冒頭に登場した厄払いの呪術師が、能狂言の《節分》では登場しない。

(2)壬生狂言の《節分》では女は「後家」だが、能狂言の《節分》では女は夫のある身。夫は出雲大社に年籠りをしているという設定。

(3)壬生狂言の《節分》では鬼は衣服を着て人間の男に変装するが、能狂言の《節分》では、隠れ蓑と隠れ笠をつけて透明人間のように姿を隠して女の家に入り込む。


壬生狂言は無言劇なので、鬼と女の間でどのような言葉が交わされたのかはわからなかったが、能狂言の《節分》ではけっこうきわどい言葉が使われていた。

「一人で寝るか、二人で寝るか、この鬼が伽(とぎ)をしてやろう」とか、「毛抜きはあるか? (女の)眉毛があまりに深々として、この鬼が抜いてやろう」とか……。「眉毛」はおそらく別の箇所のヘアのメタファーだと思う。

生暖かく湿気を帯びた春の匂いがたちこめる節分。
季節の隙間は、心の隙間。
夫の留守に生じる女の気のゆるみ。そこに入り込もうとする鬼。そうした人間心理と春の気分が立ち込めるのが《節分》だ。
人間の心に生じた「魔」を鬼と呼び、季節の境目に生じた「魔」を豆で払いのける曲なのだろう、たぶん。




2019年8月4日日曜日

片山家能装束・能面展~継承の美

2019年8月3日(土)京都文化博物館

今年で23回を迎える片山家の能装束・能面展。

九郎右衛門さんの講演「片山家の能面と能装束」は、謡《鞍馬天狗》の稽古体験(口移しのお稽古)あり、能面・装束のお話あり、装束着付けのデモンストレーションありと、盛りだくさん。

終了後も、御当主みずから展示品についての解説があり、こちらの質問にも丁寧に答えてくださって、貴重なお話をたくさんうかがうことができました。ほんとうに驚くほど誠実な方。


展示品のなかには、能《大典》で使用した菊の冠や天女の鳳凰天冠、御大典記念扇なども。

能面は昨年は美女ぞろいだったので、今回は男面がずらり。
面打ちの見市泰男氏からエピソードを交えての解説もあり、興味深く拝聴しました。


以下は自分用のざっくりとしたメモ。

【能面】
《猅々(ひひ)》作者不詳:《鵺》の後シテに使われた。伊勢猿楽などでは、天下一河内《小癋見》と一対で阿吽の面として、《翁》の前に舞台を清めるために使われたとも。

《小癋見》天下一河内:《猅々》と一対で阿吽の面として、《翁》の前に舞台を清めるために使われたらしい。

《翁》石井三右衛門

《飛出》大光坊(井関家出身の幻の面打ち)の貴重な作例となった面。幽雪師が海外のオークションで落札し、箱を開けた時に、ボロボロと表面が剥落してしまったという。《船弁慶》の後シテに使用。剥落して表情が崩れたところが、海から現れた知盛の亡霊の雰囲気とマッチして、功を奏したようです。見てみたかった。

《阿波男》作者不詳、目に金具→神様役に使われる。

《釣眼》作者不詳:大飛出と同じような用途で、《国栖》の蔵王権現などに使われる。

《男蛇(おとこじゃ)》作者不詳、《竹生島》や《玉井》などの龍神に使われる。

《小癋見》赤鶴作

《小飛出》作者不詳、様式化されていない独特の造形

《黒髭》伝赤鶴、顰のようにかッと開いた口、こちらも《竹生島》の龍神などに使われる。

《大癋見》出目洞水満昆、《大会》のときに《しゃか》の面の下に掛けるので小ぶりの大癋見。
《しゃか》近江、《大会》のときに《大癋見》の上に掛ける。

《三日月》宮王道三、目に金具がついたこうした面は、かつては神様の役専用に使われていたが、江戸時代以降、面の解釈に変化があり、武将の霊にも使われるようになった。その結果《高砂》の後シテなどには《三日月》の代わりに《邯鄲男》が使用されるようになる。

《中将》洞白、目がキリッと引き締まった表情をしており、おもに平家の武将などに使われる。

《中将》作者不詳、こちらは甘くなよやかな表情で、《融》などの公達に使われる。



【装束】
・紺地金立湧浪ノ丸厚板唐織
・赤地金立湧浪ノ丸厚板唐織

色違い赤地・色違いの厚板唐織。オリジナルは紺地のほう。赤地と紺地の写しを新調したが、紺地の写しのほうはブンパクの所蔵になってしまったとか。
この紺赤の厚板唐織は、《渇水龍女》という、《一角仙人》の女性ヴァージョンのような復曲能を上演した際に、龍王と龍女の衣装として使用されたとのこと。
また、ぜひとも再演してほしいですね。


・紅・萌黄・黒紅段枝垂桜ニ御所車唐織
以前、九郎右衛門さんがEテレ「美の壺」の「西陣織」編でご出演された時に紹介してはった装束。300年くらい前のものですが、いちばん高価とされる黒紅の色がきれいに残っていて、見惚れてしまうほど。やはり《熊野》で使用することが多いとか。
間近で拝見できて感無量。


・濃萌葱地萩ニ山桃長絹(新旧)
江戸初期のオリジナル装束と、その写しが展示されていて、見事に復元新調された姿と比較できるのがうれしい。九郎右衛門さんは筋金入りの装束マニアで、織元や染色家の方々と装束をこだわり抜いて復元or新調されるのがとてもお好きなようです。装束のお話になると目がキラキラしてはります。

私も会場に3時間近くいたのですが、まだまだぜんぜん観足りない。お話をうかがいながら拝見すると、味わいもひとしお。もっとじっくり観ていたかった。


片山九郎右衛門さん、関係者の方々、ありがとうございました。



2019年7月29日月曜日

金剛家 能面・能装束展観「宮廷装束と能装束」~御代替りによせて

2019年7月28日(日)金剛能楽堂


金剛家の能面・装束展へは初めて行ったけど、「面金剛」と言われるだけあって、垂涎ものの名品の数々……。
何度も来ている人に聞いたところ、今年はとくに金剛流でもトップクラスの面が数多く展示されているとのこと。改元記念?

メインとなる展示場は、能舞台と橋掛り。
ここの照明はやわらかみのある電球色だから、展示された能面たちもいちだんときれいに見える。
能面好きにはパラダイスすぎて、御宗家の対談や会場各所に待機していた能楽師さんたちから興味深いお話をうかがっているうちに、2時間半の滞在時間があっという間に過ぎてしまった。

(舞台中央には上村松篁筆の鳳凰長絹が飾られていたのですが、この日の夜にEテレ「古典芸能への招待」で放送された京都薪能では、お家元がこれをお召しになって《羽衣》を舞われていた。なんてタイムリー!)



【対談】
金剛流宗家と、衣紋道山科流若宗家・山科言親氏との対談。

事前に調べた情報によると、衣紋道とは装束着付けの方法のこと。
藤原時代の貴族たちは緩やかでゆったりしたフォルムの装束(柔装束:なえしょうぞく)を着ていたが、平安末期になると、鳥羽上皇の好みや新興勢力・武士たちの気風を反映して、かっちりした装束着付け(剛装束:こわしょうぞく)が好まれるようになる。
剛装束はごわごわとして着にくいため特別な着付けが必要となり、ここから「衣紋」という技術が生み出され、鎌倉・室町期に衣紋道の二流「高倉流」と「山科流」が誕生した。

この山科流の若宗家が、この日の対談相手・山科言親氏。
京都の御曹司を絵に描いたような物腰のやわらかい、品のある方。対談では気さくな感じで、金剛流御宗家のお話をうまく引き出していらっしゃった(金剛流宗家と山科流宗家とは、金剛流御令嬢の嫁ぎ先の御親戚、というご関係のようです)。


金剛流宗家のお話が、ちょっと他ではうかがえないことばかり。
以下は自分のための断片的なメモ。

〈明治の名人・金剛勤之助〉
宝生九郎と並び称された明治の名人・金剛謹之助(野村金剛家出身。その子息が金剛流宗家・金剛巌)は、蹴鞠や琵琶も習っていて、そうした素養を能《遊行柳》の蹴鞠の型や《絃上》の琵琶を弾く型に生かしたという。
謹之助が蹴鞠に使った鴨沓が野村金剛家に残っていた。その鴨沓には野村家の「沢瀉」の家紋、沓を入れる箱には金剛流の家紋が記されていて、弟子家だった野村家から金剛宗家となる過渡期的な当時の状況がうかがえる。


〈武家出身の野村金剛家〉
野村金剛家が御所の許されたのは、野村家がもとは佐々木源氏系の侍の家だったからである。豊臣秀次が金剛流を贔屓にしていため、家臣だった野村家も金剛流の能を習ったが、秀次失脚の際、野村家も失脚し、のちに能役者に転向したという。


徳川時代になって、能役者は名字帯刀が許されたが、身分制度上は士農工商の下に位置しており、「猿楽師」は禁中への出入りは許されなかった。そこで、武士出身の野村金剛家が御所に出勤し演能を行った(本来の金剛宗家・坂戸金剛家も猿楽師出身なので宮中への出入りは許されなかった)。


〈四座一流が残ったのは秀吉のおかげ〉
足利氏が贔屓にしたのは観世だけだったが、豊臣秀吉は大和猿楽をすべて残そうと応援した。
秀吉自身がパトロンとなったのは金春流だったが、他の大名たちにそれぞれ特定の流派を後援させて、大和猿楽各流派にパトロンをつけさせた。今日、能楽シテ方・四座一流が残っているのは、秀吉のおかげでもある。


〈秀吉は観世流を嫌った?〉
秀吉時代、徳川家康は観世流を贔屓にしていたから、秀吉にも観世の良さを認めてもらおうと、演能の機会を設けた。しかし秀吉は、当時観世流に組み込まれていた日吉(近江猿楽)のほうを評価し、観世には辛い評価をつけた。観世のほうも、秀吉の演能を観る「お能拝見」の折には、そっぽを向いていた。



〈染め分けの露〉
一般に長絹のツユは「一色」だけと決まっていて、「染め分け」を使うのは許されていない。しかし、野村金剛家だけはツユに染め分けを使うことが許されている。



〈金沢は金春流から宝生流へ〉
現在、金沢は宝生流王国だが、かつては金春流の地盤だった。それは、秀吉に仕えた前田家が、秀吉と同じく金春流を贔屓にしていたからだが、徳川時代に入り、徳川何代目かの将軍が宝生流を贔屓にしたため、当時の前田家城主も宝生流に乗り換えたからである。
とはいえ、贔屓にした役者は同じで、役者自身を金春流から宝生流に鞍替えさせたのだった。


などなど、「へえ~、そうなのか~!」という面白いお話がいっぱい。
まだまだ話し足りないような金剛御宗家でしたが、タイムキーパーの宇髙竜成さんから「タイムアウト!」のサインが何度も出て、残念ながら時間切れ。こういう研究者の著書には書かれない興味深いお話、もっと聞きたかったな~。




【能面・装束の展示】
若宗家にうかがったところ、もとの金剛宗家(坂戸金剛家)は、明治期にほとんどの能面・装束を手放してしまい、その多くが三井記念美術館に収蔵されているとのこと。
現在、金剛家が所蔵している名品の数々は、野村金剛家の金剛勤之助が、パトロンだった千草屋などの大坂の豪商の力を借りて集めたものだそうです。

目録などがなかったので、以下はざっとメモ。

(舞台右手に女面が年齢順に展示。女性の顔立ちの経年変化がよくわかる。)
雪の小面:龍右衛門作、室町時代
孫次郎:河内作、江戸時代 妖艶な女面。
増女:是閑作、桃山時代 深みのある美しさ。ずっと見ていたい。
曲見:河内作、江戸時代
檜垣姥:千代若作、室町時代


般若:夜叉作、室町時代。様式化されていない崩れや歪みが能面の恐ろしさを際立たせ、怨念がこもったような面。もっぱら《黒塚》に使われるそうです。とても怖いけれど、強く惹きつけられる。

般若:赤鶴作、室町時代
泥眼:河内作、江戸時代。悲しげで美しい表情。この泥眼で《海士》や《当麻》を拝見したい。
十寸神(ますがみ):増阿弥作、室町時代、古風で神秘的な面立ち。
野干:日氷作、室町時代

喝食:越智作、室町時代
鼓悪尉:赤鶴作、室町時代。悪尉のなかでも鼻が特大。その名の通り、《綾鼓》に使われるのかしら。

黒式尉:日光作、室町時代。
父尉:春日作、室町時代。うわあ、あの伝説的面打ち「春日」の作、神作じゃないですか! かつて神社などでの奉納の際に使われたのか、呪力の強さが伝わってくるよう。

中将:満照作、室町時代
蝉丸:満照作、室町時代
この満照という面打ちは三光坊の甥だそうだけれど、独特の作風。中将はエクスタシーに浸りきっているような、うっとりとしたエロティックな表情をしているし、蝉丸は夢見るような瞑想的な顔立ちで、半開きの口が今にも何かを語り出しそう。
優美でロマンティックな作風の面打ちですね、満照は。

平太:春若作、室町時代
三日月:徳若作、室町時代
大飛出:徳若作、室町時代

小飛出:福来(ふくらい)作、室町時代
猿飛出:赤鶴作、室町時代
大癋見:三光坊作、室町時代

装束も金剛流らしい華やかなものがいっぱい!



2019年7月22日月曜日

新作能《沖宮》上映会

2019年7月21日(日)京都国立近代美術館講堂

新作能《沖宮》:国立能楽堂上演映像
   シテ天草四郎 金剛龍謹
 ツレ龍神 金剛永謹 あや豊嶋芳野
 ワキ村長 岡充
 杉市和 古田知英 谷口正壽 中田一葉

対談  金剛龍謹×志村昌司


斜め前に見えるのが観世会館の駐車場

今年1月にETV特集で放送された「ふたりの道行~志村ふくみと石牟礼道子の沖宮」を観て以来興味があったから、今回の上映会はよい機会だった。
上映会は、沖宮DVDブックの発売に合わせたプロモーションの一環らしい。


新作能《沖宮》のあらすじと構成はこんな感じ(上演時間70分)
石牟礼道子の育った天草が舞台。
時は島原の乱から少し経ったころ、旱魃に苦しむ村で雨を降らせるべく、天草四郎の乳兄妹である少女あや(子方)が龍神への人柱に選ばれる。
あやは村長(ワキ)とともに「原の砦(島原の乱で一揆軍が籠城した原城址)」に赴き、そこで天青の衣を着た天草四郎の亡霊(シテ)と出会う。
霊力の強い緋の衣を四郎から受け取ったあやが、それを着て雨乞いの舞(神楽)を舞うと、雷鳴が轟き、龍神(ツレ)が早笛の囃子で登場。龍神は舞働を舞って雨を降らす。
やがて、あやは天草四郎と龍神に導かれ、妣(はは)なる國「沖宮」への道行をはじめる、というストーリー。


感想
ひと言でいうと、志村ふくみが監修した装束が主役のお能。
石牟礼道子が原作とはいえ、実際に詞章を書いたわけではなく、彼女の大まかな構想をもとに、志村ふくみが装束をプロデュースし(実際に制作したのは娘さんとお弟子さんたち)、研究者が詞章を書き、能楽師さんたちが構成や節付・振付・お囃子を考えた。

つまり、志村ふくみと石牟礼道子というビッグネームの2人の「思い」を、周囲の人々が具体的な形にしたものが新作能《沖宮》、ということのようだ。


詞章は和歌の研究者が書いたものらしく、格調高い古語で書かれ、節付も違和感がない。ただ、シテとツレの謡が聞き取りにくく(ワキと地謡は聞き取りやすかった)、詞章の配布もなかったので、ところどころの展開が私にはついていけず、なんだかよく分からない部分も多かった。

緋の衣の制作過程や謂れをシテが語っているところも聞き取れなかったし、最後に橋掛りで、龍神が少女あやの両肩に手をのせ、何か(おそらく感動的なこと)を熱く語りかけているのも、私のヒヤリングが及ばなかった。

そんなわけで、感動するツボのようなところが聞き取れず、「???」という置いてきぼり感があった。


とはいえ、ノットや神楽、早笛や舞働など、お囃子や舞事の聴きどころ・見どころが随所にあり、うまく構成されているなあという印象を受けた。
ただ、肝心のシテの舞がほとんどなく、龍神が登場する前にちょこっと雲ノ扇をして龍神を呼び出す程度だったのが、なんとなく物足りない。お能をメインに観たい人には、シテの舞を中心に据えた構成のほうがよかったかなー。


子方・あやの神楽の舞を新作能《沖宮》の中心に置いたのは、たぶん、彼女が纏う緋の衣をぞんぶんに披露したかったからだと思う。
なんといっても、「石牟礼道子が構想した新作能を、志村ふくみ(監修)の装束で観る!」というのが《沖宮》の主眼なのだから。


緋色の衣には、なんともいえない艶やかな光沢があり、縁に黄色と黄緑のラインが入っていて、十二単のように華やかだった。

とくに印象に残ったのが、天草四郎が身につけた天青の衣。臭木(クサギ)の実を志村ふくみは「天青」と呼んだという。
唐織主体の能舞台で、草木染の装束がどう映るのか? 地味に見えないのだろうか? などとちょっと不安に思っていたが、天青の実で染めたこの水縹色は、地味に見えるどころか、舞台の照明を浴びて、青を基調にした微妙な色彩に変化しながら不思議な輝きを放ち、天草四郎のもつカリスマ性と敬虔な信仰心を際立たせていた。
植物のもつ生命力が織り込まれているようにも感じた。


面白かったのが、龍神の装束。
映像からは、青・黄・オレンジ・白の糸で織られた紬のように見える。紬の袷狩衣(?)が朱色のキンキラ半切と超ミスマッチで、ある意味、斬新な装束だった。

金剛若宗家は「生地感覚が違う」とおっしゃっていたけれど、所作や袖の扱いなど、それ相応のご苦労があったのだろう。


使用面は装束をもとに選ばれたらしく、シテの天草四郎は「十六」(大人びた顔立ちで「中将」のように見えた)、龍神は能《大蛇》の専用面「大蛇(おろち)」。


制作については、途方もなくお金がかかっているだろうし(熊本・京都・東京で開かれた公演でそれぞれワキ方・囃子方の配役が違うのも凄い)、関係者の方々のご苦労も並大抵のものではなかったと思う。
石牟礼道子さんは完成したお能を観ることなく、あの世へ、いや、沖宮へと旅立たれた。

制作サイドの万感の思いがこもった貴重な新作能。拝見できてよかった。







2019年7月13日土曜日

映画『世阿弥』上映会~湊川神社例祭奉祝

2019年7月12日(金)湊川神社・神能殿

挨拶  湊川神社宮司 垣田宗彦
トーク 内田樹

映画『観世能楽堂』(1973年)上映
映画『世阿弥』(1974年)上映
 企画:鹿島守之助
 作・出演:白洲正子
 出演能楽師:
 三世梅若実、四世梅若実
 松本健三 山本東次郎
 藤田大五郎/田中一次
 幸祥光/北村一郎
 安福春雄
 金春惣右衛門
 

湊川神社の御祭神・楠木正成の新暦命日にあたるこの日、幻の鹿島映画『世阿弥』の上映会が開催された。正面席が関係者・崇敬会専用だったこともあり、見所は超満員。補助席も満席で、立ち見の人も大勢いたくらい。

【鹿島映画『世阿弥』】
映画『世阿弥』の内容は、解説の内田樹氏が「白洲正子のムービーエッセイ」と言うように、能や世阿弥に関する白洲正子のエッセイの断片を抜き出して編集し、映像に仕立てたもの(内田樹氏いわく「ヘンな映画」 (;^_^A))。


観阿弥・世阿弥父子の姿に、先代梅若実と当代実父子の舞台映像を重ね合わせ、白洲正子が世阿弥の足跡をたどるように播磨・龍野、伊賀、今熊野、そして佐渡をめぐってゆくのだが、この映画のほんとうの趣旨は、後述するように、世阿弥の親戚筋とされる永富家(鹿島建設中興の祖・鹿島守之助の生家)の由緒を世阿弥の生涯にさりげなく織り込んで映像化することにあるらしい。→まあ、そうですよね。でないと、巨額の費用を投じて映画をつくったりはしないもの。

映画のなかでひときわ目を引いたのが、少年時代の当代実師の舞姿。

当代実師が12,3歳のころの映像だろうか。
千歳と鞨鼓を舞うその姿は、美童時代の世阿弥もかくやらんと思わせるほど、キリリと引き締まった表情と型のラインが美しく、舞の動きがなんともいえぬ優雅な風情をかもしている。

「児姿は幽玄の本風なり」という世阿弥のことばもうなずける。
白洲正子が子方時代の実師にハッとさせられ、魅了されたのもよく分かる。
少年実師の出番は少ないのだが、彼の映像がこの映画のなかでもっとも華やかに輝いていた。


二代梅若実の映像はよくテレビでも放送されるが、先代(三代)梅若実の舞台映像はもしかするとはじめて観るかもしれない。

映画では《井筒》《阿漕》《羽衣》の映像が流れたのだが、《井筒》の前シテはボリュームのある肉付きで、つねに背中を丸めた前かがみの姿勢をとり、アゴが前に突き出ていて、独特の存在感。


映像のつくりやカメラアングル、黒い背景に浮かび上がる地謡の「引き」の映像など、いかにも70年代風で、シテが井筒をのぞき込むところでは、井戸の水面に後シテの顔が映るという加工が施されている(この映像、どこかで見たことがあるような……)。
たしかに、いろんな意味で貴重な映像だ。


貴重といえば、白洲正子の映像も貴重だった。
写真で見るかぎり、もっと線の細い人かと思っていたが、意外とガッチリしていて、手も足も、全体的に太さと重量感がある。おそらく白洲正子が60代の頃だと思うが、全国を精力的に旅した人ならではのスタミナと精神力を感じさせる。


また、春日若宮おん祭で若宮をお旅所にお遷しする「遷幸の儀」が映し出され、能《翁》の翁渡りはこうした神渡りの儀式を模したものだという説が展開されたのも、興味深かった。




【上島文書(伊賀観世系譜)】
鹿島映画『世阿弥』は、俗に「上島文書」と呼ばれる、伊賀の旧上島家所蔵の観世家系譜資料(伊賀観世系譜)が本物であることを前提として作られている。
(上島文書の真偽については能楽研究者のあいだで物議を醸し、現在では偽書であるという見方が有力となっている。それについては表章著『昭和の創作「伊賀観世系譜」梅原猛の挑発に応えて』にくわしい)。

いずれにしろ鹿島映画『世阿弥』が上島文書の内容を全面的に肯定して制作されたのは、映画の企画者である鹿島守之助が、伊賀観世系譜において世阿弥の母方にあたる永富家の出身だからにほかならない。


以下は内田樹氏が解説で語ったことの引用;

伊賀観世系譜において観阿弥の伯父とされる楠木正成は、南朝の後醍醐天皇が動員した悪党(ゲリラ的地侍集団)の代表者であり、後醍醐天皇の周辺には悪党以外にも、巫女・遊女・聖などの遊行芸人や山賊といった「異類の者たち」が集まっていた。

だが、南北朝合一(南朝の敗北)とともに「異類の者たち」は敗者となり、観阿弥・世阿弥と近縁だった芸能者たちも差別の対象となって、アウトカースト的存在に堕ちていった。

世阿弥はそうした敗者への鎮魂の念を『平家物語』を典拠とする修羅能に託したのではないだろうか。

江戸時代の歌舞伎がそうであるように、室町時代においてもリアルタイムの政治情勢を劇中に取り上げることはできなかった。そのため、舞台を源平合戦の時代に移したのだろう。南朝側の犠牲者への追悼を込めた修羅能。彼らを殺した張本人である足利将軍にそうした修羅能を見せたところが世阿弥の凄さだと思う(内田樹氏の解説の引用おわり)。


上記の内田樹氏の視点は非常におもしろい!
たしかに南北合一の時期を境に、遊女や巫女、聖(ひじり)たちはその聖性を剥奪され、賤視される傾向が強くなる。ブラックホールへ吸い込まれるように社会の底辺へ落ちていく芸能者仲間を尻目に、世阿弥たちは権力者の愛顧に必死にすがった。その命がけのサヴァイヴァル戦略は、数々の伝書のなかにさまざまな言葉で記されている。

落ちていく仲間の芸能者と、権力者の側にとどまった世阿弥。
彼らに対する後ろめたさ、罪の意識が強くなればなるほど、鎮魂を込めた曲への制作意欲が世阿弥のなかで高まっていったのかもしれない。




2019年6月10日月曜日

万能を一心につなぐ ~山崎正和名誉教授文化勲章記念フォーラム

2019年6月8日(土)大阪大学会館・講堂
プログラムには、天野文雄先生による「能楽研究から見た戯曲《世阿弥》」なども


ひさしぶりの母校。
東京暮らしが長かったから、キャンパスを歩くとほとんど浦島太郎状態。

在学当時、山崎正和先生は文学部の「看板教授」だった(当時、天野文雄先生は演劇学助教授で、日本学科には妖怪学の泰斗・小松和彦先生もいた)。
わたしの専攻は演劇学ではなかったけれど、山崎先生の演劇学演習を受けていて、能をはじめて観たのもこの講座を通してだった。

学生時代の未熟なわたしには山崎正和先生が著した世阿弥の美学や芸術論は、読んでもピンとこなかった。でも、いま、お能に触れながら御著書を再読してみると、「ああ、こういうことだったのか」とすんなり飲み込めるようになってきた(かな?)。

たとえば、「秘すれば花なり」「万能を一心につなぐ事」について。

山崎先生によると、世阿弥は意識と無意識の対立と統一という観点から演技を説明しているという。

役者は舞や演技の部分部分を、最初は意識してつくっていく。
しかし、舞や演技を意識して行えば、それはぎこちなく「クサい」ものになってしまう。

そこで、表現を行いながらも、その表現意識を「われにも隠す」、つまり、無意識化するという徹底した自己抑制と自己訓練が必要となってくる。

稽古に稽古を重ねて、ひとつの表現がほとんど無意識的に役者の肉体から出るまで、訓練を積み重ねていく。

そうすれば、役者は表現を操作するのではなく、表現の自動的な流れによって、自分が運ばれていくような状態に達する(これが「万能を一心につなぐ事」)。

そうして観客が乗せられている陶酔の流れに、役者もまた乗せられゆく。
ここではじめて、分裂していた表現者と鑑賞者はひとつに融合することができる━━。


山崎正和先生によるこうした世阿弥の芸論解釈を再読して思い至るのは、先日、大倉流祖先祭で観た片山九郎右衛門師による舞囃子《邯鄲》だ。


私が目にしたのは、まさに徹底した自己抑制と自己訓練の果てに実現した究極の舞であり、その陶酔の流れのなかで、表現者と鑑賞者がひとつに融合した状態ではなかっただろうか。



フォーラムの鼎談では、教授会の裏話がメインだったけれど、配布された能楽学会編による山崎先生のインタビュー記事は一読の価値あり。

記事では「力なく見所を本とする」という世阿弥の言葉についても語られている。
「力なく」というのは、「やむを得なく」ということ。
世阿弥は、「どんなにがんばっても、役者というものは観客に理解されなければどうしようもない」「それが役者の宿命であり、やむを得ないことである」ということを嫌というほどわかっていて、その宿命を受け入れたうえで、この問題に対する戦略として数々の理論書・伝書を書いたのだろう。

山崎先生が29歳の時に書いた戯曲《世阿弥》(*)にも、元雅のセリフにこんな言葉がある。

「役者の命は見物です。人気です」

「見物ほど世に気まぐれなものはありませぬ。何が面白いのか、私自身わからぬ私に手を叩く。そうかと思うとつかの間に、人気は私を見放している。私は喝采などというものを、一日も真に受けたことはありませぬ。そのくせ私という男は、見物のあの喝采の中にしか命はないのだ」



*戯曲《世阿弥》が俳優座で上演されたときの演出助手が観世栄夫。その縁から、山崎先生は銕仙会と親しくなり、観世寿夫と『冥の会』をつくって、能の伝統と西洋の演劇を結びつける仕事もされたという。




2019年4月28日日曜日

平成最後の観能と本願寺伝道院

2019年4月28日(日)西本願寺南能舞台・書院
「降誕会祝賀能をより楽しむために」片山九郎右衛門
修復のため南能舞台の塀が撤去されていた。
画像は、橋掛り越しに書院を眺めたところ
(1)本願寺と能の歴史と関りについて

(書院にて)
(2)本年の演目解説
・開演前の”触れ”について
・能《田村》について
 能面「童子」「平太」の紹介
・狂言《延命袋》について
・能《百万》について
 能面「曲見」「深井」の紹介

(南能舞台にて)
(3)仕舞《田村キリ》

(書院にて)
(4)《田村》謡の稽古
「今もその名に流れたる」から「おそかなるべしや」

(舞台と書院で)
(5)参加者の連吟で仕舞《田村》を実演

国宝・浪之間玄関の檜皮葺の屋根も無残な状態に
 前日まで観世会例会に行くつもりだったのですが、翌日からGW中盤のハードスケジュールに入るため5時間以上の長丁場の観能は体力的にちょっと自信がなく……急遽こちらに変更。

能《歌占》や《船橋》を見逃したのはとても残念でしたが、平成最後に九郎右衛門さんの仕舞を南舞台で拝見し、謡のお稽古を国宝・対面所(鴻之間)で体験できて、めっちゃ幸せ♪ 一生の思い出になりそう。

わたしの隣に座った女性はお能を観るのははじめてだったそうですが、終演後、とても楽しまれた御様子で「素敵な方ね」と九郎右衛門さんについてもおっしゃっていて、なんだかこちらも嬉しい気分。


それにしても、昨年の降誕会祝賀能の際の拙ブログ画像と比べると、文化財建築物の塀や屋根など、あちこちで地震・台風・大雨の爪痕が生々しく残っていて、復興の大変さをあらためて実感します。檜皮葺などは原皮師が減少して、檜油を含んだ上質の檜皮を得るのさえ困難だろうし。。。


九郎右衛門さんのインタビュー記事が載った冊子

さて、いつもながら楽しいお話が満載だったのですが、いちばん印象に残ったのが、能《田村》の前場についての解説。要約すると;

前場で使われる「童子」の面は、少年の風貌に大人の知謀を兼ね備えた不思議な存在というイメージ、護法童子のようなイメージであらわされる。
前場で童子が箒をもって現れるのは、桜の橋で天と地をつなぐことのできた少年が玉箒を掃きながら向こう側に渡ってゆく伝説がその背景にあるからではないか。
坂上田村麿はほんとうは心優しい人なので、蝦夷の指導者・アテルイとの約束を破ったことについても心を痛めている部分があったのだろう。だから、伝説の少年のように玉箒で清めながらいつかそれを橋に見立てて向こうへ行ってしまいたいという願望を抱いていて、それが前場のような形で表われたのではないだろうか。


という趣旨のことを九郎右衛門さんはおっしゃっていた。
登場人物の内面に深く入り込んだ、ロマンティックな解釈。愛があるよね。能の主人公や登場人物にたいして、身近な存在のように優しいまなざしでみつめている。九郎右衛門さんが語ると、そのキャラクターが自分と同じ悩みや苦しみをもつ血の通った存在として息づいてくる。


講座は70分だけど、物凄く濃い内容。
《田村》の仕舞を二度も舞ってくださった。
最初はキリ。書院から南能舞台まで(けっこう離れている距離)を往復し、橋掛りを歩きながらもいろいろ解説して、さらに舞台では、一人で舞って謡って何役もこなす、というハードさ。


二度目は、清水寺縁起の箇所の謡のお稽古のあと、書院にいる参加者全員が習ったばかりの謡を連吟。それに合わせて、九郎右衛門さんが南能舞台で舞う、というもの。

簡単には覚えられなかったけれど、とにかく、仕舞を舞う九郎右衛門さんまでどうか届け!!と念じながら、渾身の力を込めて謡いました! 全身で謡うのは気持ちいい!
自分たちの謡で、あこがれの方が舞ってくださるなんて夢のよう。

平成最後の素敵な思い出。
九郎右衛門さんと西本願寺さんに感謝!

(このあと、九郎右衛門さんは観世会館に舞い戻って《熊野》の後見を勤められたのでしょう。ほんと、ハードだ。。。)

西本願寺の門前には仏壇関係のお店が軒を並べる。
その先にある特色ある建物が、本願寺伝道院。



本願寺伝道院、明治45(1912)年竣工、伊東忠太設計
 中国、インド、トルコを旅した伊東忠太がその経験をもとにデザインした東洋趣味にあふれる建築。

大きなドームの下には、イスラム建築風の窓。こういうところは、同じく伊東忠太設計の築地本願寺に似ている。ドームのまわりを欄干が取り囲む装飾も特徴的。




ロマネスク風の幻獣たち。



こちらはグリフォンっぽい。



羽根の生えたゾウさん。




2019年2月5日火曜日

《鷹姫》ディスカッション~舞台芸術としての伝統芸能

2019年2月3日(日)14時~16時20分 ロームシアター京都

第一部《鷹姫》鷹姫 片山九郎右衛門
 老人 観世銕之丞 空賦麟 宝生欣哉
 岩 浅井文義 河村和重 味方玄 
   浦田保親  吉浪壽晃 片山伸吾
   分林道治 大江信行 深野貴彦 宮本茂樹
 竹市学 吉阪一郎 河村大 前川光範
 後見 林宗一郎

第二部 ディスカッション
 観世銕之丞 片山九郎右衛門 西野春雄



《鷹姫》後場からのつづきです。

休憩をはさんで、ディスカッション。
舞台を終えたばかりで大変だなあ。

でも、銕之丞さん九郎右衛門さんと義兄弟そろってお話を聞くのははじめてだし、九郎右衛門さんはもとより、銕之丞さんのトークも好きなので、観客としてはうれしい。

お話は西野春雄さんが半分くらいを担当されて、九郎右衛門さんと銕之丞さんのトークは四分の一ずつくらい。


印象に残ったのは、九郎右衛門さんのお話。
九郎右衛門さん曰く、幕から出て幕へ帰っていく能舞台には決まりごとが多いが、そのことで「守られている」ように感じたという。

だだっ広い劇場空間では、何もないところから作り込んでいかなくてはならない。とくに、能《鷹姫》のもつ輪廻感、ループ感は、能舞台では表現しやすいけれども、劇場空間ではこれがなかなか難しいとおっしゃっていた。


輪廻感・ループ感とは関係ないかもしれないけれど、この日わたしが感じたのは、エンディングの空虚感というか、「間の持たなさ」だった。
鷹姫が消え去ったあと、空賦麟は不動のまま泉の前で安座し、動いているのは老人だけ。なにかこう、間のびした感じが延々と続いたような感覚があった。

たとえば、同じように老人が妄執を抱く《恋重荷》などは、美しい女御が最後まで舞台に出ていて、老人に責めさいなまれる。舞台上には、サディスティックであでやかな花が最後まで咲いている。

いっぽう、鷹姫のいない後半の《鷹姫》は明かりの消えたステージのような華のない欠如感が続いていた。
これは、作曲した横道萬里雄が老人の執念にウェイトを置いたことが原因だと思うけれども。


また、空間設計については何度も何度も練り直したらしく、担当されたドットアーキテクツの方々に「何度も作り直していただき、この場をお借りして感謝申し上げます」と九郎右衛門さんから謝辞が捧げられた。演出サイドも相当ご苦労されたのですね。



1967年の初演以来ずっと《鷹姫》を観つづけてきた西野さんは、近年はいろいろな演出がされいて、なかには「やりすぎだ」と思うものもある、という趣旨のことをおっしゃっていた。
九郎右衛門さんも、今回ちょっとやりすぎた部分もあったかもしれない、というようなことを匂わせておられた。


個人的には、今回の演出はとても好きで良かったと思う。とくに、鷹姫が魔の山の頂まで飛翔して(実際には急斜面を駆け上って)消え去る演出はすばらしかった。

ただ、音響効果は不要だったのではないだろうか。
冒頭の風の吹きすさぶ音は、たとえば、竹市学さんの笛の物寂しい音色でいくらでも表現できるだろう。
水が湧き出る際の、ゴボゴボッという音も、スモークと照明、そしてコロスの輪唱だけでも、水が湧き出るさまが十分に伝わってくる。

《鷹姫》に限らず、能には人工的な効果音は不要だとわたし自身は思っているけれど、そういう価値観もこれから変わっていくのだろうか……?


あれこれ書いたけれど、この日の舞台と九郎右衛門さんの鷹姫は、わたしにとって一生の思い出になると思う。

素敵なお舞台、ありがとうございました。





2018年12月22日土曜日

大槻能楽堂自主公演 西国旅情~お話、狂言《福の神》

2018年12月22日(土)14時~16時45分 大槻能楽堂

お話「春の湊の生末」 村上湛

狂言《福の神》シテ福の神 善竹忠重
   アド参詣人 茂山忠三郎 山口耕道
   後見 善竹忠亮
   地謡 岡村和彦 前川吉也 牟田素之 小林維毅

能《藤戸》シテ母/漁夫の霊 友枝昭世
   ワキ佐々木盛綱 殿田健吉
   ワキツレ従者 則久英志 平木豊男
   アイ盛綱の下人 善竹忠亮
   竹市学 横山晴明 白坂信行 三島元太郎
   後見 狩野了一 友枝雄人
   地謡 粟谷能夫 出雲康雄 粟谷明生 長島茂
      高林呻二 粟谷充雄 金子敬一郎 内田成信



大槻能楽堂の改修について、この日得た情報によると、来年7~12月の改修期間中は大槻能楽堂の主催公演はないとのこと(てっきり、どこかの会館を借りてやるのかと思っていた)。
なので、改修前の来年度の主催公演は、4~6月の自主公演3つとろうそく能1つのみで、番組の発表は年明け以降らしい。

関西で友枝昭世さんや梅若万三郎さんのお舞台を拝見できる数少ない機会のひとつが、大槻能楽堂主催公演だったから、ちょっとショック。
来年4~6月の公演のなかに、観たいものがあるといいな。


お話「春の湊の生末」 村上湛
村上湛氏のお話を拝聴するのははじめて。
国立能楽堂のプログラムやTV放送のこの方の解説が好きで、楽しみにしていたこの日のお話、期待以上に面白かった。
最初、割り当てられた時間が40分と聞いて「長っ!」と思ったのだが、さすがは博覧強記な方だけあって、いろいろな方向に話を広げつつ、最後はひとつのテーマに収斂させていくという巧みな話術で長さを感じさせないばかりか、もっと聞いていたいくらいだった。

(以下は、わたしが勝手に咀嚼して書いているので、村上氏の実際の言葉とは違っています。)

そのひとつのテーマとはお話のタイトルにもある、能《藤戸》のワキの次第「春の湊の生末」。
このワキの次第は、新古今集に収められた寂連法師の歌「暮れてゆく春の湊は知らねども霞に落つる宇治の柴舟」の発想を借りたものである。

この寂連法師の歌に詠みこまれた「惜春」の思い、「時の流れの止め難さ」、それがこの曲のテーマではないか。

藤戸合戦があったのは、『平家物語』では9月、『吾妻鏡』では12月とされているが、能《藤戸》の作者はあえて3月に設定することで、晩春の花である「藤」(藤戸にちなむ花)と呼応させ、漢詩の伝統を引く「惜春」という文学的情緒を暗示している。

《藤戸》のワキは、佐々木盛綱という実在の人物の重い人生を背負った存在として登場する。
彼は《敦盛》の熊谷直実と同様、武士である。
武士とは、art of murderに長けた人殺しのプロ、人を効率よく殺すプロフェッショナルであるが、その一方で、人を殺すことへの罪の意識ももっている。それゆえ武士の時代となった鎌倉時代には念仏宗や禅宗が隆盛し、多くの武士が帰依した。
熊谷直実も念仏僧として出家し、佐々木盛綱も曲の途中で改心する。

《藤戸》の登場人物たちはそれぞれ人間くさい生々しい感情を持っているが、つまるところ、武士も漁師も命限られた儚い存在であり、勝者も敗者も同じ、死にゆく存在なのである。

生々しい出来事、生々しい感情のぶつかり合いを、大きく俯瞰して見るような視点。それが、この曲を貫く「春の湊の生末」ということ、つまり「死にゆく人間の生末」ということなのかもしれない。




狂言《福の神》
異流公演ではないけれど、善竹彌五郎家と茂山忠三郎家の「異家」共演。
やっぱり神戸と京都、彌五郎家と忠三郎家とは芸風がだいぶ違う。

善竹家のことはあまりよく知らないけれど、忠重さんは東京の大蔵吉次郎さんと活舌や発声の感じがよく似ている。
面は専用面の「福之神」だろうか。
やわらかい表情で、とても楽しそうに笑っている。
見ているだけで幸せになりそうな顔立ちだ。

福の神が説く、富貴の心得。
早起き、人にやさしく、客を拒まず、夫婦仲よく。

どれひとつ、まともにできていないわたし。
今年も反省点ばかりだけど、笑う門には福来る。
とにかく、笑って新しい年を迎えよう。



友枝昭世の《藤戸》につづく









2018年12月3日月曜日

日本書籍出版協会京都支部・文化講演会~金剛宗家講演と仕舞

2018年12月1日(土)14時~16時10分 金剛能楽堂
一番手前(一の松)に展示された長絹には、上村松篁筆の鳳凰が描かれている。

第一部・講演「能の魅力」 金剛永謹

第二部 仕舞《井筒》  廣田幸稔
      《笠之段》 豊嶋晃嗣
      豊嶋幸洋 宇髙竜成 宇髙徳成 惣明貞助

半能《巴》 シテ 金剛龍謹
    ワキ 有松遼一
    森田保美 林大和 谷口正壽
    後見 廣田幸稔 豊嶋幸洋
    地謡 金剛永謹 豊嶋晃嗣 宇髙竜成 宇髙徳成
    働キ 惣明貞助




金剛宗家による講演も、若宗家による公演も、濃~い内容で大満足!
金剛流も素敵な流儀ですね。
来年はもっと拝見できればいいな。


講演「能の魅力」 金剛永謹
能の歴史や面装束についての解説。
40分ほどの講演でしたが、鷹揚で品格のある金剛宗家の魅力がギュッと詰まっていて楽しかった。
もっとお話を聞いていたかったくらい。

印象に残ったことだけをザっと書き留めておきます。

能の曲は、これまで3000曲くらい作られてきたが、現在も上演されているのは200曲ほどとのこと。

(つまり、ほとんどが廃曲になり、取捨選択されて残ったのが現行曲。お能の曲にもダーウィンの自然淘汰の原理が働いているのですね。)


室町~桃山時代には、能の作曲が活発な時期だった。
さまざまな曲に対応すべく、能面も70~8種類ほどが創作されてきた。
室町~桃山期に作られた能面は「本面」と呼ばれる。

江戸時代になると、新作能の創作が幕府によって禁止された。
それゆえ、能面も新たな種類が創られなくなり、もっぱら「本面」の「写し」の制作が主流となった。

「本面」と「写し」との違いは、
「本面」には、作者の創作意欲にあふれ、生命力がみなぎっている。
だから、役者に力がないと、面に負けてしまう。


いっぽう、「写し」には創造性が乏しく、生命力に欠ける傾向がある。
しかし、きれいに整ったものが多いため、舞台で使いやすい。


このように能面の説明をした後で、金剛家所蔵の本面の名品を6つの種類別に紹介してくださった。

(1)翁面・白色尉:どこか父尉っぽい顔立ちで、ふつうの翁面ほどには笑っていない。古態を残す翁面だった。

(2)尉面・峻厳な表情をした小牛尉

(3)男面・喝食:少し角度を変えるだけで、豊かな表情を見せる。品行方正で凛とした顔の喝食。

(4)女面:豊麗な「雪の小面」

(5)女の鬼面・般若:般若の面は、上半分と下半分の表情が違う。上半分(目元)は「悲しみ」の表情。下半分(口元)は「怒り」の表情。ワキとのバトルの時、調伏される際は下を向き、逆襲する際は上を向くようにする。

(6)男の鬼面・「鼓悪尉」と「悪尉癋見」:鼓悪尉は《綾鼓》の専用面で、口が空いた「阿」の表情。悪尉癋見は口を閉じた「吽」の表情。「阿」と「吽」の2つの面をそろえることで、悪霊を祓うと考えられた。


以上、本面の物凄い名品を見せてくださったのですが、見やすい席から間近で拝見したので、眼福すぎて胸がいっぱい!

「面金剛」といわれるだけあって、能楽師&能面好き垂涎の名品ぞろい。こうした面たちが、実際の舞台ではどんなふうに見えるのだろう。

喝食や雪の小面、鼓悪尉など、独特の個性があり、それ自体に強い「気」が宿っているから、生半可な役者では太刀打ちできない気がする。そう考えると、なおさら観てみたい。



【仕舞2番】
豊嶋晃嗣さんの舞を観るのはほんとうに久しぶり。
かなりお痩せになったのではないだろうか。
髪型も変わったので、言われないと誰だか分らなかったくらい。
「笠之段」、とてもよかった。

それと、この仕舞の地謡がとてもいい!
「舞金剛」といわれるけれど、わたしは金剛流のこの謡いがすごく好き。
いまの金剛流は「謡金剛」といってもいいんじゃないかな。

〈メモ〉
金剛流は仕舞謡のとき、扇を床と平行になるように寝かせて、膝の上で両手で持つ。



金剛龍謹の半能《巴》につづく





2018年10月16日火曜日

片山九郎右衛門さんの能はゆかしい おもしろい~高槻明月能《小鍛冶・白頭》プレイベント

2018年10月15日(月)14時~16時10分 高槻現代劇場レセプションルーム

(1)名古屋での《小鍛冶・黒頭》の映像を観ながらのストーリー解説
(2)自然災害と能による鎮魂
(3)謡体験《小鍛冶キリ》
 ~ティータイム(コーヒーor紅茶)~
(4)仕舞《小鍛冶キリ》
(5)装束体験&解説
(6)質疑応答



東京にいたころ、高槻明月能とそのプレイベント「能はゆかしいおもしろい」に思いを馳せ、こちらに住んでいる人を羨ましく思ったものでした。
その講座にこうして気軽に足を運べるようになったのも、水道橋のこんぴらさん&お稲荷さんにお参りをしてきたおかげです。

そんな霊験あらたかなお稲荷さんが大活躍するのが今年の明月能。
正直言うと、公演発表当初のわたしのリアクションは「小鍛冶か……」と、テンション低めでした。近年の刀剣ブームで飽きるほど上演されてるし、九郎右衛門さんの《小鍛冶・黒頭》も銕仙会で拝見したし……。
でも、九郎右衛門さんのお話を聞くうちに、わたしの浅はかな先入観が解消されてくる気がするから不思議。九郎右衛門さんの言葉は目からウロコの情報満載で、とにかく、楽しい!




【映像を観ながらのストーリー解説】
映像は名古屋片山能だろうか、少し前のものらしく、皆さん若い!(名古屋なので笛は藤田六郎兵衛さんだ……)。

小書「黒頭」での上演で、前シテは2年前の銕仙会《小鍛冶・黒頭》で観た時と同じ喝食にオスベラカシ、モギドウの扮装(九郎右衛門さん曰く「アナーキーな扮装」)で、手には稲穂。
宗近役は宝生欣哉さん。
欣哉さんは背丈が九郎右衛門さんと同じくらいなのでいろいろとやりやすく、相槌も打ちやすかったという。
福王さん(知登さん?)の宗近でやったときは、膝を槌で叩かれちゃったとか……。

九郎右衛門さんがおっしゃるには、《小鍛冶》という曲がいちばん伝えたい大事なメッセージは、間狂言で語られる「人間、なせばなる!」ということだそう。

唐突に勅命が下った宗近は、非常に困った状況に追い込まれる。ぎりぎりまで追い詰められたときのひらめき、火事場の馬鹿力の大切さ、それがこの曲のテーマ。

こういう視点は九郎右衛門さんらしいというか、数々の試練・修羅場・ピンチを乗り越えてきた九郎右衛門さんの実体験、生き方みたいなものが投影されているような気がする。


また、《小鍛冶》にはいくつか小書があるが、小書なしのバージョンでは童子(後は小飛出)の面に赤頭で、稚気=神様という表現になり、「黒頭」になると喝食(後は泥小飛出など)+黒頭で、闇夜の雷光のような凄みのあるイメージとなる。
そして、明月能で来月上演される「白頭」には神韻縹緲たる趣き、「無」から何かが現れてくるような雰囲気がある。
どの曲でも「白頭」の小書がついたときに最もダメなのは「汚れて見えること」。
小書に「白」がつくときは、清らかで、美しく、透明感がなければならない、とおっしゃっていた。
(「清らかで、美しい透明感」、これこそまさに、昨年、九郎右衛門さんの白式神神楽を観た時に感じたイメージそのまま!)


《小鍛冶》の勅使(ワキツレ)として登場する橘道成は、《道成寺》で「橘の道成興行の寺なればとて、道成寺とは名づけたりや」と謡われる通り、勅命で道成寺を建立した人。こんなところで登場してたんですね。




【自然災害と能による鎮魂】
インタビュアーの質問に答えてのお話だったけれど、先月の台風21号で、片山家の装束を収めていた土蔵も被害に遭い、土壁がはずれた(崩れた)という。
その直後の9月7日に、わたしは澪の会で片山家能楽・京舞保存財団にうかがったけれど、そのときはまったく気づかず、井上八千代さんも何もおっしゃらなかった。
大切な大切な装束がそんなことになっていたなんて。九月の前半は、九郎右衛門さんも舞台続きで、そのなかでの大きな災難。知らなかった……。




謡《小鍛冶キリ》の体験
《小鍛冶》のキリはけっこう難しい。でも、九郎右衛門さんと謡うのは楽しい!

この日の前日に観世会館の社中会で、九郎右衛門さん地頭の《安宅》と《隅田川》(そして番外仕舞《仏原》)を拝見した。九郎右衛門さんの地謡は毎回いろんな発見があり、曲について深く知る手掛かりになる。
九郎右衛門さん地頭の地謡は、舞台にエネルギッシュな活力を吹き込み、舞台全体を生き物のように生き生きと脈動させる。

この謡体験も非常にダイナミック。
節の高低・急カーブするようなうねりを、九郎右衛門さんに導かれるままに全身で息を吐き切り、スッと吸うタイミングで謡っていくと、みんなでジェットコースターに乗っているような、エキサイティングな気分になる。
しだいに体が熱くなり、いつのまにか自分が夢中で謡に没頭しているのに気づく。

ふだんふつうの生活をしていると、こんなに全身で腹の底から謡うことってないもの。謡うって、気持ちいい。
参加された方々のお顔も輝いていた。



仕舞《小鍛冶キリ》
九郎右衛門さんは《小鍛冶》キリの部分をご自分で謡いながらの仕舞。能舞台の3分の1くらいのかなり狭いステージなのに、飛び返りが2回もあるなど、かなりアクロバティックな部分。

一流の能楽師さんが凄いと思うのは、モードの切り替えだ。
さっきまでの和やかな雰囲気とは打って変わって、仕舞の時は、その人の魂から放出される「気」のエネルギーが変化する。
場の次元が変容し、殺気にも似た真剣勝負の空気が漂う。



【装束体験&解説】
希望者に九郎右衛門さんが装束着けをしてくださるという恒例の贅沢な企画。
もちろん(?)わたしは恥ずかしくて尻込み派。
勇気ある最前列の女性がモデルに挑戦。

九郎右衛門さんは装束の解説を挟みながら一人で丁寧に手際よく着付け、なおかつ、モデルの女性にも終始やさしく気をつかっていらしゃった。
こういう、四方八方、細部にまで行き届いたきめ細かい心配りが舞台にも随所に生かされていて、それが日常的な習慣になっていらっしゃるのがこの方の凄いところ。



長くなったけれど、ここには書ききれないくらい「なるほど!」と膝を打つようなお話がたくさん詰まっていて、この講座を毎年楽しみにしている常連さんが大勢いらっしゃるのもうなずける。



以下は、自分用のメモ(たぶん自分以外の人には意味不明)。

装束着けに使われた「狐蛇」の面は、原形が般若。昔はけっこう、面が使い廻しされていて、塗りを落として、別の面に塗り替える「転用」があったという。

厚板唐織:もとの意味は、中国から厚い板に挟まれて運ばれてきた布を「厚板」と呼んだことに由来する。

黒頭などの頭は、ヤクの比較的硬い毛である「たてがみ」が使われる。根付きで輸入されていたが、今ではワシントン条約で難しくなった。ちなみに、歌舞伎の連獅子などには、同じヤクの毛でも、比較的柔らかい尾が使われる。

胴着:これを装束の一番下に着るのは、汗を吸うため以外にも、身体の線を丸くするためでもある。同義の袖の下の部分は、手を出し入れしやすいように切ってある。

汗:汗を大量にかく人には、あまり良い役が当たらない(装束を傷めてしまうため)。九郎右衛門さん自身は演能中はあまり汗をかかないが、終演後、緊張が解けて装束を脱ぐとドッと汗をかく。なので、緊張感を持続させて、装束を脱ぎ終えるまで汗をかかないようにしないといけない。
(幽雪さんは舞台前夜から水分摂取をセーブされていたとのこと。)

袴:跨いで履くと切腹の作法になるので、袴を跨いで履かないようにと教えられた。

脱装束の染物(後染?)は、水衣や素襖・直垂など比較的薄いものに使われる。それ以外は、織か縫。友禅染めの装束はごくわずかで、あったとしても太筆でザっと描かれたような、友禅としてはあまり良いものでない装束が多い。

装束は人が思うほど重いものではない(せいぜい10キロ、歌舞伎装束のほうが重い)。しんどいのは、能面をつけることと、紐を強く締めること。紐を強く締めるので、身動きがとれなくなり、重く感じる。

半切の後ろにはゴザを入れているが、大口は全部織物で、裏(後ろ?)が畝織になっている。

装束の管理:相続の際に散逸するのを防ぐため法人化したが、一長一短がある。自分で新調しても法人に寄付することになるため、自分が使う時もレンタル料を払わないといけないというパラドックス……。

装束で大事なのは風合い。役に応じた柔らかさと硬さ。適度な風合いを持つ装束をつくれるのは、西陣でも5~6軒くらい。

装束にアイロンを使うと、金銀箔が変色し、装束の寿命が縮む。

《小鍛冶》の輪冠狐戴は付くときと付かないときがある。

一調の太鼓:七五調の十二文字に対し、八拍子の十六拍を当てはめてゆくのが通常の太鼓。一調では二拍になったり、四拍になったりとわざとシャッフルして変化球を投げてくる。今どこに手が来ているのか、わからない。だいたい、苛められるのは謡のほう。

一調で謡う《杜若》について:業平の恋の遍歴の相手の女性に次々と変化していく。こういう曲は能ではほかにはなく、どちらかというと歌舞伎の《娘道成寺》のような感じに似ている。

《天鼓》は隕石落下からインスピレーションを得て作曲された!






2018年10月12日金曜日

梅若実トークレクチャー勉強会

2018年10月11日(木)18時~19時30分 大阪商工信用金庫本店内2階ホール

拝見した梅若家秘蔵の江戸初期の唐織
1.梅若家と能
2.公演記録映像
  世界遺産で舞う「永遠に咲く花のごとく」上賀茂神社
  《ボレロ》 梅若六郎×マリア・プリセツカヤ×藤間勘十郎
  エピダウロス古代劇場・新作能《冥府行~ネキア》
3.梅若家秘蔵の装束披露



梅若実師のトークは初めて。お話、映像、秘蔵の装束、どれもが素晴らしく、とても貴重な機会でした。会場内は後援会と信用金庫の方々がほとんどで、前方の席は若いビジネスパーソンが多く、能楽講座というよりも、なんとなくセミナーっぽい雰囲気。


【梅若家と能】
まずは、梅若実師のお話から。印象に残ったことをざっと書き出していくと;

梅若家の起源は丹波猿楽までさかのぼり、戦国時代は織田信長に、武士として能を教えていたが、丹波はもともと明智家の領地で、明智家とのつながりが強く、本能寺の変の際にも、梅若太夫は光秀とともに信長を討ったという(本能寺の変の直前に徳川家康をもてなすための饗応の宴で舞ったのも梅若太夫だったが、このとき光秀が何らかの失態を犯し、光秀とともに梅若太夫も信長の不興を買ったらしい)。

本能寺の変で重傷を負った梅若太夫は、丹波に引き返すが、その子息で「妙音太夫」と呼ばれるほど謡の名手だった梅若九郎右衛門玄祥が徳川家康の寵愛を受け、梅若家中興の祖となる。しかし、初世玄祥は観世太夫を立てて、自らはナンバー2に徹したという。

ここで、時代は一挙に飛んで明治時代のお話へ。

(維新後の梅若家の奮闘・活躍は周知のとおりなので、拙ブログでは省くけれど、あの激動の時代を駆け抜けた初世・梅若実の波乱万丈の人生を四世梅若実師から直接うかがうのは、なにかちょっと、胸が熱くなるような体験だった。
初世梅若実が奔走して、岩倉具視邸で明治天皇の天覧を賜った行幸啓能の際に、宝生九郎を推挙し、実自身は「影の存在」となって能を盛り立てたというお話がとりわけ印象深く、また初世実にはお弟子さんが1000人もいたという話も驚異的。
「……それだけ人間的に魅力的な人だったのでしょう」とおっしゃった当代実師の感慨深げな表情が心に残った。)



【公演記録映像】
2本を抜粋で見せていただいたのですが、これが凄かった!
まずは、梅若六郎時代にマリア・プリセツカヤと、御子息の藤間勘十郎さんとともに上賀茂神社で舞った《ボレロ》。
梅若六郎師が「鷹」役で、紋付袴の上に鳥の羽をつけ、羽根を持って舞い、藤間勘十郎さんが「蝶」の役で紋付袴の上から黄色い舞衣をまとい、プリセツカヤが「桜」役で黒いパンツスーツの上から長絹を羽織ってダンス。

お能らしい静的な舞を舞う六郎師と、バレエの動的で華やかなダンスを舞うマリア・プリセツカヤとの橋渡しをするのが、「能とバレエの中間を行く表現」で舞った藤間勘十郎さん。

勘十郎さんはほんとうに才能のある方なんですね。
マリア・プリセツカヤと二人で舞うところなど、ため息もの。桜の花に胡蝶が戯れるような美しさ。
勘十郎さんが能楽師だったらどんなに素敵だろうと、思わず想像してしまう。

なによりも驚異的だったのは、このときマリア・プリセツカヤがすでに80歳を過ぎていたこと! 彼女の年齢を聞いて会場の誰もが驚いたと思うけれど、姿もダンスもあまりにも美しすぎて、人間であることのあらゆる限界を超越していて、奇蹟のような存在だった。まさに桜の妖精のように、花びらがはらりはらりと散るように、夢のようにはかなく、しなやかに舞っていた。

三人ともほとんど即興で舞っていらっしゃるんだけれど、能とバレエと日舞という三人三様の舞が、一瞬ごとに変化しながら、上賀茂神社という神聖な空間に溶け込み、三人の呼吸と場の空気が心地よい調和を生み出している。
映像を見ているだけで、幸せだった。。。。


2本目は、エピダウロス古代劇場・新作能《冥府行~ネキア》。
こちらは時間の都合でほんの少ししか観れなかったけれど、1万人以上の観衆を前にした一大ページェント。50メートルもの長い橋掛りや広大な古代劇場を巧みに生かした演出だ。イタリアの演出家との意見の相違が度重なり、なんども休止になりそうになったという。大変なご苦労の末、壮大な舞台が生み出された。
映像を見ているだけでも、そのスケールの大きさは圧巻。
これは梅若実師と敏腕プロデューサーの西尾智子さんだからこそ実現したのでしょう。




【梅若家秘蔵の装束披露】
今回は上の画像に紹介した400年前の唐織の名品を見せていただいた。
縫い目はほつれているけれど、江戸初期のものとは到底思えないほど、織や染色に艶やかな色香があり、みずみずしく輝いている。
こうした類まれな装束たちを梅若の名手たちはいつもじつに見事に着こなしていて、能楽師と装束が相思相愛の関係なのがこの唐織の色艶からも伝わってくる。




マリア・プリセツカヤ








2018年7月27日金曜日

片山家・第二十二回能装束・能面展 ~継承の美~

2018年7月27日(金) 最高気温34℃ 京都文化博物館6階

「装束とか能面というのは、人格をもっているんです。
だから妙な着方をすると先輩に怒られました。役者と同等に扱ってもらってきたということです。その人たちの前の、良い舞台を作ってきた同志なんです。
ですから、人と同じようにケアもし、敬意も払い……ということで、ずっと残っているんだと思うんです。」

    ━━十世片山九郎右衛門(Eテレ「美の壺・西陣織」より)




週末は面白能楽館も片山定期能も用事で行けなくなったため、せめて能装束・能面展はと思い、初日の金曜日にブンパクへ。

この日は片山九郎右衛門さんが在廊されていて、貴重なお話をたくさんうかがうことができ、憧れの人を目の前にして緊張しつつも、夢見心地の幸せな時間だった。

それにしても、これだけの面・装束の名品をひろく一般に無料で公開し、しかも、超多忙なスケジュールを割いて、御当主みずからが解説してくださるなんて!
すばらしすぎる!!! 
京都では毎年のことかもしれないけれど、東京ではありえないほど贅沢なことである。
(片山家、ほんとにすごい!)


能面の展示は、九郎右衛門さんが「美女特集」とおっしゃるように、世阿弥時代の龍右衛門作・小姫(こひめ)から、小面、孫次郎、若女、節木増、増女、増髪、深井まで、妙齢の女面がずらりと勢ぞろい。

しかも、どれも舞台で実際によく使われる「現役バリバリ」の能面ばかりという。

やはり能面は使われてこそ、生きてくる。
ここに並べられた能面たちも、美術館所蔵のものに比べると、どことなく生き生きとして幸せそう。九郎右衛門さんに舞台で使用され、物語のヒロインとして精気を吹き込まれるなんて、女面冥利に尽きるではないか。

女面に混じって、ひとつだけ翁面が展示されていた。

見覚えがある気がして「これは、もしや!」と思い、尋ねてみると、やはりセルリアンタワー能楽堂15周年記念の《翁》で使われたオモテだった。
目尻がやや吊り上がった表情と、黒式尉のように黒い膚が特徴的な翁面だったが、その黒さは面本来の彩色ではなく、もとは白い翁面だったのが、雨乞いの神事などで使われるうちに表面の塗りが剥落して黒い漆地が出てきたのではないか、ということだった。
その証拠に、翁面のシワの部分には本来の肌色の彩色が残っていた。
雨乞いの神事で降った雨で色が落ちたということは、この翁面にはそれだけの効力(霊力)があるということになる。

作者不詳だが、室町前期のものとされるこの古面には、神事で使われるたびに、人々の祈りの念が幾層にも塗りこめられ、それがさらに翁面の霊力を高めているのだろう。
セルリアンタワーの時も九郎右衛門さんのパワーとの相乗効果で、忘れがたい《翁》となった。
8月のチャリティー公演では、いったいどんな《翁》が拝見できるのだろう。


装束の展示のなかにも、見覚えのあるものがあった。
「白地金鱗ニ団扇舞衣」
これは、直接ご本人に確認しなかったけれど、以前、豊田市能楽堂で《吉野琴》を舞われた際に、後シテに使用されたものではないだろうか。
(そして使用面は、もしかすると、この日展示されていた大和作の増女だったのかも。)



装束のなかには、ほんとうにボロボロだったものが、手間暇かけて丁寧に修復されたものも展示されていた。
つぎ足した布やほころびを塗った色とりどりの縫い目。
それはまるで焼き物の金継ぎのように、独特の風情や味わい、ぬくもりを感じさせ、片山家の人々の面・装束に対する思いや愛情が伝わってくるようだった。



「(面や装束は)良い舞台を作ってきた同志なんです。ですから、人と同じようにケアもし、敬意も払い……ということで、ずっと残っているんだと思うんです。」


九郎右衛門さんのこの言葉どおりのものが目の前にある。
数々の名品とともに、片山家の人々の熱く、深い思いに触れた面・装束展だった。



追記:用事を繰り下げたおかげで7月の片山定期能、行ってきました!
すごく良かった!!
今夜から遠方に出かけるので、感想は戻ってきた時にアップします。





2018年4月27日金曜日

茂山一族デラックス狂言会プレイベント ~茂山家三世代のいま

2018年4月26日(木)14時~15時45分 高槻現代劇場レセプションルーム

本公演のみどころ 聞き手・くまざわあかね
狂言《魚説教》 出家 茂山千作 施主 茂山千五郎
質疑応答



上方で能楽鑑賞して思うのは、関東では、「首都圏(東京圏)」をひとつの単位として比較的まとまっているのに対し、関西では、京都と大阪(神戸も?)で芸風や雰囲気がかなり異なるということ。

これは関西の文化全般にいえるのかもしれないけれど、京都と大阪では文化や気質がまるで違う。
そして、京阪文化圏の境界線に位置するのが、ここ高槻かもしれない。


この高槻現代劇場でも、毎年、片山九郎右衛門さんと野村萬斎さんによる明月能が行われ、九郎右衛門さんの講座「能はゆかしい・おもしろい」もこのレセプションルームで開かれる。茂山家の狂言公演もあり、さらに大阪勢ではTTR能プロジェクトのワークショップもよく開催されているらしい。

そんなわけで下見も兼ねて、茂山家公演のプレイベントに参加した。


聞き手のくまざわあかねさん(落語作家)は伝統芸能に造詣が深く、先日の文楽襲名公演でもご祝儀飾りのなかにお名前があったほど、文楽の方々とも親交が厚い。
(『寝床』や『軒づけ』など、義太夫とかかわりのある落語が少なくないのも関係しているのかも? 義太夫も落語も、一人で語り分けるという共通点があるし。)


京都茂山家とも親しい間柄で、宗彦さん・逸平さんらとともに狂言の御本を出されているし、昨年テレビで放送された狂言公演では、舞台の進行に合わせた実況中継を茂山七五三とされていて、これが最高に面白かった!


この日も、茂山千作・千五郎さんとともに、前半は和気あいあいとしたトークで始まった。

茂山家らしいなあと思ったのは、千作さんは千五郎さんの父であり師でもあるから、てっきり親子でも子弟の壁というか、上下関係を弁えた距離感があるのだと思っていたけれど(もちろんあるのだろうけれど)、予想に反してお笑い芸人のボケとツッコミのようなノリで、千作さんの天然ぶりに千五郎さんが突っ込む突っ込む! ← ボケキャラの人には突っ込まずにはいられない関西人のさがだと思う。たぶん。



お話はお稽古の指導の仕方の違いなど。
茂山家でも、「こうやってこうやればいいねん」みたいな感覚派と、「これはこうだから、こういうことやねん」という理論派に分かれ、千作・千五郎系は感覚派(弟の茂さんは理論派)、千之丞系は理論派(なので、あきら・童司さんは理論派)なのだそう。


さて、狂言《魚説教》は、和泉流でしか観たことなかったので《魚説法》と覚えていたけれど、大蔵流では《魚説教(うおぜっきょう)》なんですね。

千作さんの出家僧には、ほんわかした温かみがある。
魚の名前を並べて説教しているのがバレて怒られた時の、いたずらを見つけられた子供のような笑顔にこちらの心も和んでくる。

東京の山本東次郎家が肩に力の入った堅苦しい感じなのに対し、こちらは肩の力がほどよく抜けた脱力系。
修業の辛さを感じさせず、芸格を誇示せず、軽みと親しみやすさを信条とする芸風。お豆腐のように柔らかく、淡白で、飽きのこない、味わい。
お豆腐が、流し込まれた型に沿って素直に形づくられるように、時代や場所に逆らうことなく、お豆腐の性質・本質はそのままに、その時々に合わせて形を変えてゆく。


東京で東次郎家の《月見座頭》や《木六駄》、《粟田口》などの舞台に感動し、その至芸の奥深さに触れてから、こちらに来て茂山家の舞台を観る、というこの順番は、狂言という芸と知るうえで自分にとっては幸いだったと思う。


最後の質疑応答では千五郎さんが、わたしの(いつもながらの)アホな質問にも丁寧かつ的確に答えてくださって、「そういうことだったのか」と納得。






2018年1月31日水曜日

素謡《復活》~能と土岐善麿《夢殿》を観る

2018年1月31日(水) 14時~17時  喜多能楽堂


第一部 ごあいさつ
  「聖徳太子と親鸞」 三田誠広
  「土岐善麿と喜多実の新作能創作活動」岩城賢太郎
  「英語能創作者からみた土岐善麿の新作能」リチャード・エマート

第二部 演目解説 三浦裕子
素謡《復活》中入後 (前シテ:マグダラのマリア)
   後シテ/イエス 金子敬一郎 ペテロ 佐々木多門
         み弟子 佐藤陽 狩野祐一
         地謡 金子敬一郎 佐々木多門 大島輝久 友枝真也
      塩津圭介 佐藤寛泰 佐藤陽 狩野祐一

半能《夢殿》シテ老人/聖徳太子 大村定
   ワキ僧 舘田善博
   藤田貴寛 森澤勇司 柿原光博 大川典良
   後見 塩津哲生 粟谷浩之
   地謡 永島茂 友枝雄人 内田成信 粟谷充雄
      大島輝久 友枝真也 塩津圭介 佐藤寛泰



今年で三度目となる土岐善麿公開講座&新作能公演。
このような貴重な公演・講座を、ひろく一般に向けて毎年開催するのはどれほど大変なことだろう。関係者・演者の方々のご苦労がしのばれます。


新作能とはいえ「喜多流の財産」といわれるほど、土岐善麿と喜多実による曲の完成度はきわめて高い。

国文学の知の宝庫とされる土岐善麿が手がえた詞章は、室町期のそれと比べても遜色ないほど格調高く、良い意味で綴れ錦のように多様な引用が織り込まれ、色とりどりのイメージを喚起する。
曲の構成も緻密かつ簡潔で、舞の見どころ、囃子の聴かせどころが要所に盛り込まれ、クライマックスに向かって展開していく。



【素謡《復活》中入後】
土岐善麿新作能には、《使徒パウロ》、《復活》、《ユダ》というキリスト教三部作があるらしく(三作目の《ユダ》は作曲されず)、《復活》は《使徒パウロ》につづく二作目だったという。

能《復活》はタイトル通り、イエスの復活を題材にしたもの。
キリスト教をベースにした新作能といえば、多田富雄作《長崎の聖母》があるけれど、それよりもはるか以前に創られていたことから、当時としてはいかに革新的だったかがうかがえる。


〈幻の前場〉
この日カットされた前場は、マグダラのマリアが前シテ。
ストーリーは、捕えられたイエスを見捨てて三度否認したペテロ(ツレ)が、鶏の声に慄いていると、マグダラのマリア(前シテ)が現れて、イエスの復活を知らせ、イエスの墓を尋ねていくというもの。

初演ポスターに掲載されたマグダラのマリアは、水衣に着流という出立。
アトリビュートの香油壺は、写真では持っていない。

個人的には、ペテロの罪悪感・絶望感が前場の眼目のような気がします。


〈後場〉
さて、この日上演された後場は、ペテロたちがガリラヤ湖で漁をしている場面。
はじめは不漁で魚が網にかからなかったのが、岸辺に立つ人影の教えに従い、網を打ったところ、大漁となる。
その人影こそ、誰あろう、復活したイエス(後シテ)だった!
自分を裏切ったペテロにイエスは問う、「ペテロよ汝、誰よりも、われを愛するや」。
ペテロは答え、弟子たちとともに歓喜にむせびながら、主を讃える。


裏切りと悔恨に満ちた聖書物語。
そういう、人の弱さ・愚かさを描いているところがとても好きで、
この新作能《復活》も、前場からペテロの心の動きを追っていくと、時代を超えて誰の胸にも響く人間の業と、その業を乗り越えて高みを目指す志向心が表現されていると思う。
能としての上演が待たれるところです。

(詞章には「舞」としか記載されていないのですが、復活したイエスの舞って、どんなものだろう? 神舞? 太鼓序ノ舞? 天女ではないけれど、まさかの下リ端?)


本曲のキーパーソンとなるペテロを勤めたのは佐々木多門さん。
悔悟の情が底流する厳粛な謡から、イエス復活の歓びにあふれた謡へと変化して、この素謡のテーマをそれとなく感じさせた。

中堅と若手で構成される地謡は美声の人が多く、節付けの妙とあいまって、「雲はかかやき風は凪ぎ、見よ全能者の右にいますは」のところは、どこかグレゴリオ聖歌を思わせる荘厳さ。

「聖なるかな……永遠にいます主を讃えん」という聖書的な文言が、謡の節で謡われるのは、なんとも不思議な感覚です。
こういうのも繰り返し再演され練られていくうちに、和様化された洋食のような親しみのある美味しさに変わってゆくのかもしれません。



半能《夢殿》につづく





2016年10月2日日曜日

東洋大学能楽鑑賞教室~《膏薬練》・《通小町》

2016年10月1日(土)15時~17時10分 最高気温27℃ 東洋大学・井上円了ホール

公演パンフレット
解説 小野小町関係の能 清水寛二

能装束着付実演 浅見慈一 鵜澤光

狂言《膏薬練》三宅右矩  高津佑介
       後見 吉川秀樹

能《通小町》シテ観世銕之丞 ツレ観世淳夫
         ワキ 則久英志
         藤田貴寛 田邊恭資 佃良太郎
         後見 清水寛二
         地謡 馬野正基 浅見慈一 長山桂三 安藤貴康
 



初めて行った東洋大学の能楽鑑賞教室は評判通りとてもよかった。
学生向けの鑑賞教室を一般にも開放しているなんて、東洋大学太っ腹!

【公演パンフレット
公演パンフレットが充実していて、なによりも17ページに及ぶ銕之丞師へのインタビュー記事が素晴らしい!
わたしが普段思っていることも的確な言葉で応えてくださっていて、とくに「わかりやすさを求める」社会風潮の弊害については、うん、うん、と読みながら何度も頷いてしまった。


インタビュアーの原田香織氏もけっこう鋭く突っ込んだことをおっしゃっていて、たとえば観世宗家を中心とした謡についても、「発音がすごくて、信じられないくらい音を立てるって言うんでしょうか。」と、たぶん多くの人が感じているけれど口に出して言えないことを活字にされているところが凄い!
(このコメントについては、当然ながら銕之丞師はうまくかわして(そらして?)いらっしゃいました。)



【解説:小野小町関係の能】
清水寛二さんのお話が面白い!
高校時代に学年一の美女にラブレターを送った実体験に始まり、美しいことは罪だ、という話になって、小町の話になっていく。
こういう話のもっていき方がうまいですね。

ちょうどこの日の前日に、Eテレで放送されたダリ能の一部を観ていたからか、清水さんのお顔がだんだんサルバドール・ダリの能面に見えてくる。
コンピューター制御による最新の金属加工技術でダリの顔を模したということだったけど、清水さんにも似ていた気がする。

ダリ能はよかった、エレベーターを橋掛りの代わりに使ったりと、現代的な建築空間がうまく生かされていて。
国立新美術館のロビーとコンクリート打ちっぱなしの青山の能楽堂とがどことなく雰囲気も似ているからか、ミニマルな現代空間のアレンジセンスはさすが(どなたが演出されたのだろう?)。
一般公開の機会があればいいのに。


話が脱線しましたが、解説の内容は小野小町関係の能(通、鸚鵡、卒都婆、草紙洗、関寺)のあらすじの紹介でした。



【装束着付け】
この日は、法被+白大口の装束着付。
武将の着付けは初めてなので興味深く拝見。

法被の肩脱で、抜いた部分を折りたたんで背中に挟み込むのは、矢立(箙)に見立てているんですね。ごく基礎的な知識かもしれないけれど、わたしは知らなかった!
それから法被の袖が普通の袖二枚分の裄丈だというのも知らなかった!!

最後は浅見慈一さんの指導で、モデルの学生さんが太刀を抜く所作を実践。
太刀は左腰に佩いているので、刀を抜く方向に右足先を向けて、腰を入れて、スッと抜くそうです。
やってみたい!



【狂言《膏薬練》】
三宅右矩さんの狂言は一年ぶりくらい。
もともと花がある方だけれど、さらに良くなられていた。
観に行く公演をアイ狂言で選ぶことはないので、この方の間狂言にあまりあたったことがない。



能《通小町》】
《通小町》を拝見するのは二度目。
一度目も銕仙会で、この日の地謡に入っている馬野正基(シテ)さんと長山桂三(ツレ)さんの時だった。

淳夫さんのツレ小町はきれい。
進化されたんだなーと思う。
幕離れもよかったし、ハコビや所作も(ハコビはこの方もともと上手かった)丁寧で品がある。
下居姿も楚々として可憐。
以前、妖しい万媚をつけた時は面だけが浮いて見えたのですが、この日の冷たい若女の面はそんなふうには感じさせず、能面が淳夫さんに味方して力を与えているように感じた。
あとは、謡いを克服できれば……。


銕之丞師はこういう役が合う。
無地熨斗目を被いたまま橋掛りで、「いや叶ふまじ戒授け給はば、恨み申すべし」と謡うところの恨みと悲哀と苦悩が入り混じった、背中がソクッとするような響き。

そして、「月は待つらん、月をば待つらん、我をば待たじ、虚言(そらごと)や」と魂を掻きむしるような謡のあと、「我がためならば」と、絶望の底に沈殿するように安座する、痩男のうつろな目。

ああ、この人はわかっていたのだ。
銕之丞演じる深草少将は、驕慢な女の出任せだと最初から心の奥底では感じていたのだ。


それでも、一縷の望みにすがって通い続けずにはいられなかった。

人間のどうしようもなく虚しい性(さが)のようなものが銕之丞師の深草少将から滲み出ていた。
その愚かな性はわたしのなかにもあって、だからこそ銕之丞師演じる深草少将の嘆きが心に沁みてくる。



地謡にも切々とした風情があり、好い舞台だった。






2016年9月27日火曜日

片山九郎右衛門・いまに生きる歴史的能舞台「西本願寺」~能狂言とゆかりの寺

2016年9月27日(火)14時40分~16時15分 最高気温30℃ 武蔵野大学・雪頂講堂

残暑がぶり返したように蒸し暑かったけど、
キャンパスでは彼岸花が咲き、金木犀の香りが。

京都観世会会長・片山能楽・京舞保存財団理事長 片山九郎右衛門
文化庁芸能部門文化財調査官・武蔵野大能楽資料センター研究員 金子健
能楽資料センター長 三浦裕子

(1)片山九郎右衛門プロフィール紹介

(2)西本願寺南能舞台での降誕会能(5月21日)について
   今年の演能《経正》の映像紹介

(3)西本願寺の能舞台の紹介
  南能舞台(重文)と北能舞台(国宝)で舞った時の感覚の違い

(4)書院内の座敷能舞台



「本年度の公開講座のハイライト!」と三浦先生がおっしゃったように、わたしにとっても今年のハイライトとなる待ち焦がれた講座。
すっごく楽しくて、幸せな時間だった。

講演後、わたしの隣に座っていた老紳士もいたく感動した様子で、「ああ、今日はほんとうに良い日だった!」と幸せそうにしきりに言っていたし、三々五々に散っていく御婦人たちも「とても良かったわねえ」と満足気だった。

九郎右衛門さんはいつものように気取らず、気負わず、終始穏やかな笑顔。
この方からは人を幸せな気分にする和やかなオーラがふんわりと漂ってくる。



以下は、講座で印象に残ったことの簡単なメモ。

嬉しかったのは、今年5月の西本願寺南舞台で催された降誕会能の映像が一部上映されたこと。

以前、5月の京都新聞電子版に九郎右衛門さんの《経正》の様子が紹介されているのを見たとき、その画像があまりにもきれいなので大事に保存して時々うっとりと眺めていたから、この日の上映は願ってもない粋な計らい(少し期待してたけど)。



九郎右衛門さん曰く、西本願寺の能舞台では、古くて良い面・装束はよく映えるけれど、新しい能面や装束では浮いてしまうとのこと。

自然の微妙な光のなかで装束の色彩がうつろい、能面はさまざまな表情を見せるという。

とくに北能舞台の自然光は、小面のようなのっぺりとした能面でも繊細な陰翳によって目鼻立ちがくっきりと見え、面のもつデッサン力の強さが引き立つそうだ。


装束の紅色が青味がかって見えたりするというから、笹紅(京紅)のような高価な染料が使われていたのだろうか。

普通の着物でも昔の良いものは、織りにも染めにも上質な糸や染料が使われていたから、能装束ではなおさらだろう。

ご自身で舞っていても気持ちの良い舞台なのだそうです。


ただし、雨の日や湿度の高い日は、舞台の床が湿気で滑りにくくなるので、以前はそういう場合、鹿革足袋を履いていたという。
また、屋外の舞台はすぐに足袋が汚れてしまうため、中入りで足袋を履き替えなくてはならないとのこと。



その他、西本願寺書院内の敷舞台の映像も素晴らしく、松鶴図の障壁画や鴻の欄間に囲まれた座敷の舞台は圧巻。


西本願寺以外の普通の能舞台のなかで、舞いにくい能楽堂のお話も面白かった。


九郎右衛門さんのお話によると、舞台の四本の柱を二本同時に見ることはできないので、瞬間瞬間で三角測量のようなことをして自分の位置や見えない柱の位置を把握し、舞っているとのこと。

あの驚異的な空間認識能力は、一瞬ごとの脳内三角測量によるものなんですね。



おもに正中から目付柱までの距離によって、能舞台の広さor狭さを感覚的に感じるというのも興味深い。

能面の裏側で展開されるシテ独自の世界・次元・感覚についてもっとお話を聞いてみたかった。
そこには観る側からはうかがい知れない未知の世界が開けている気がする。



講座終了後、講堂の外に出ると、はるか前方に黒紋付姿の九郎右衛門さんと研究者の方々の行列が、浅草の襲名のお練りのように歩いてゆくのが見えた。

この日の翌日には、わたしの地元のT市で九郎右衛門さんの《清経》の事前講座が開催される。
この事前講座は明月能(ホール能だけど)とともに大変評判がよく、T市在住の人がうらやましい。
東京ではもう当分、九郎右衛門さんの御舞台は拝見できないもの……。









2016年7月26日火曜日

能・狂言とゆかりの寺「泉涌寺」~またまた勃発!仏舎利盗難事件

2016年7月25日(月)14時40分~16時10分 29℃ 武蔵野大学雪頂講堂

宝生流シテ方・和久荘太郎
武蔵野大教育リサーチセンター・生駒哲郎
聞き手 能楽資料センター長・三浦裕子

(1)泉涌寺と仏舎利について  生駒哲郎
  実際にあった仏舎利盗難事件

(2)演者から観た能《舎利》    和久荘太郎
   見どころ、小道具、面の紹介、裏話など
   →これが面白かった!



泉涌寺といえば大学時代、美術史の講座で「楊貴妃観音」を観に行った記憶があります。

繊細華麗な宝冠・瓔珞を身につけた端正ながらも肉感的な顔立ちはまことに艶麗で、伏せ目がちなまなざしが絶世の美女の倦怠と憂鬱を思わせたものでした。
そしてなによりも肌の質感がヌメッとしていて、官能的な潤いさえ感じさせたのです。



その楊貴妃観音もこの日のテーマの仏舎利とともに、泉涌寺を再興した俊芿の弟子・湛海によって南宋から請来されました。


まずは、そんな泉涌寺と仏舎利のお話。


生駒哲郎氏のお話によると仏舎利には、普通の仏舎利(砕身舎利)と仏牙舎利(仏の歯)があり、普通の舎利はどんどん増えていく(*)のだが、牙舎利は増えないゆえに極めて貴重とのこと。

(*)仏舎利が増えると言うのは、たとえば、東寺では仏舎利が二千個以上あるらしいが、毎年寺のトップである「一の長者」が仏舎利の数を数えると、その数が(不思議なことに?)増えていくため、増えた分を天皇の親族や公家に分配し、公家たちはその仏舎利を胎内施入した仏像をつくらせたという。

いっぽう、数の増えない仏牙舎利は、足利家の菩提寺たる相国寺や、天皇の「み寺」である泉涌寺に奉納され、前者は「武家の王権の象徴」、後者は「天皇の王権の象徴」になったとのこと。



面白かったのは、東大寺を再建した重源が、仏舎利を納入して大仏を復活させるために、東大寺に縁の深い偉人たち(鑑真・空海・聖徳太子・聖武天皇)ゆかりの舎利を、他の寺から弟子たちに盗ませたという事実。

重源ってけっこうファナティックな人だったんだ。



(ヨーロッパでも、とくに中世では教会同士による聖遺物盗難(フルタ・サクラ)があったから、こういうところは洋の東西を問わず変わらないんですね。 宗教的な権威づけ、求心力の強化には、実体のある聖遺物や仏舎利が欠かせなったということなのでしょう。)




つづいて、和久荘太郎さんのお話。
(そういえば和久さんの社中会は「和久」の語呂合わせで「涌宝会」というのですが、なんとなく、泉涌寺との縁を感じさせる名前ですね。霊泉が涌くって宝が涌くように有り難いもの。)

和久さんは人気シテ方さんらしく爽やかかつ華やかで、お話がうまい!

過去に二度《舎利》のシテを舞われて、今度の12月にはツレを勤められるそうです(シテは辰巳満次郎さん)。
それで、若い頃にはショー的な部分の多い後場が見せ場と思っていたけれど、技術だけでなく、心(曲への向き合い方)が変化する中で、実は前半の寂び寂びとした雰囲気がこの曲の醍醐味ではないかと思うようになったとのこと。



とくに、(ここは和久さんが実演で謡ってくださったのですが)上ゲ哥の「月雪の古き寺井は水澄みて……心耳を澄ます夜もすがら、げに聞けや峰の松、谷の水音澄みわたる、嵐や法を唱ふらん」のところなど、泉涌寺の清浄な雰囲気がしみじみとあらわれていて、文章の出来が素晴らしいと、三浦先生とともにおっしゃっていました。



それから、小道具・面の紹介のところも面白く、
宝生流の舎利玉は観世流のものとは違っていて、観世流はミニチュアの舎利塔のようなものが載っているのに対し、宝生流のはネギ坊主のような擬宝珠の形をした金ぴかの舎利玉が台のうえに載っています。


それから仏舎利を盗む時の、「くるくるくると、観る人の目を眩めて、その紛れに牙舎利を取って、天井を蹴破り」のところで、仏舎利を載せていた三宝を踏みつぶすのですが、この踏みつぶすのが結構大変で、和久さんはかつて東急ハンズでバルサ材を調達し、上下ともバルサ材を使ったら、踏みつぶした時に足がめりこんで、(コントみたいですが)そのまま足が抜けなくなってしまったので、試行錯誤を重ねて下だけバルサ材を使ったら、うまくいったとのこと。

このあたりのお話はとても面白くて、爆笑してしまいました(笑)。




さらに、三宝の踏みつぶし方も流儀によって異なり、
観世・宝生は三宝を踏み割るけれど、
金剛・金春は三宝を蹴飛ばし、
喜多流は、蹴破って客席のほうに蹴飛ばし、お客さんに取ってもらう(?)そうです。




また、打杖の色は黒垂なら紺、赤頭なら赤、白頭なら白というふうに、髪の色に合わせるとのこと。
ふむふむ。



和久さんが御持参してくださった面も、後シテは顰、後ツレは天神という造形の見事な面で、宝生流では天神の面は、この《舎利》と類曲《大会》の後ツレ、そして《金札》の後シテでしか使わないそうです。


最後に、生駒先生は仏舎利にまつわる生身信仰について語り、
和久さんは足疾鬼の釈迦への愛とそれによる仏舎利への執着、つまり足疾鬼の人間らしさについて語っていらしたことが印象的でした。







2016年7月22日金曜日

下掛宝生流 能の会 【事前講座】

2016年7月22日(金)18時半~19時半 22℃  国立能楽堂大講義室

担当:則久英志 舘田善博 野口能弘 御厨誠吾

(1)《紅葉狩》ワキ一声→ワキツレ一声 実演と解説

(2)みんなで謡おうワキ一声

(3)《紅葉狩》クセの上羽「よしや思へばこれとても」から「気色かな」までの謡の実演

(4)能と下掛宝生流の歴史
  詳しくは、下掛宝生流サイトへ

(5)ワキの装束について

(6)能《紅葉狩》の見どころ



ワキ方ウィーク第二弾は、下宝能の会の事前講座。
なかなか聞けないワキ方の貴重なお話、とっても勉強になりました。


お話は則久さんと御厨さんが御上手で、とくに則久さんは全体の進行を俯瞰しながら、脱線しそうになると軌道修正したりと、講座をグッと引き締めていらっしゃいました。
落ち着きがあってさすがです。



実演も豊富に披露してくださって、ワキの登場の型どころのお話など、今までただボーっと観ていただけでしたが、なるほど、そういう意味があるのかと。

「駒の足並勇むらん」のところで、ワキが爪先立ったりする型をするのは、ワキ・平惟茂を乗せた馬が風の音に興奮するさまを表わしているそうです。



道行では、鹿を追って山を登っていくと、酒宴をしているやんごとなき美女たちがいる様子が謡われています。
(御厨さんが、「いわば女子会ですね。でもイマドキの若い男性と違って惟茂は品がいいから、邪魔しないようにそっと立ち去ろうとするのですが、今も昔も女性のほうが積極的で……」みたいな説明をされて、会場爆笑。かくいう私(御厨さん)も昨夜も朝の2時まで飲み過ぎちゃってリアル惟茂状態……というお話になりかかったところで、則久さんがすかさず軌道修正するというなかなかのファインプレーです(笑))




ワキの謡を一緒に謡うというコーナーでは、スクリーンに謡本の文字が映し出されたのですが、わたしは近眼で文字の一部しか読めず、ゴマ点はほんとうにゴマにしか見えなかったので(見えてもゴマ点の意味はわたしにはわからないのでした (・・;))、耳で聴いてそのまま謡うだけだったのですが、用意の良い方は謡本を持参されていました。 スバラシイ!




ワキの謡は強吟だそうです。
ワキは舞台の場面を設定する扇の要のような存在で、そんなワキ方にとって大事なのは謡だと、宝生閑師もおっしゃっていたそうです。

またシテ方とワキ方の謡の違いは、シテは非現実的な存在なので節を細かく繊細に謡うのに対し、ワキは現実の男性という設定なので息を強く、武骨に謡うとのこと。
ワキはとくに強く謡うことが大切だそうです。
(則久さん曰く「腹筋にずっと力を入れて謡うので、腹部のエクササイズにもなりますよ」)



あと、装束の説明で興味深かったのが、衿の色のお話。
《紅葉狩》の平惟茂役では、浅黄色(内側)と朱色(外側)の衿を重ねて着るのですが(シテに遠慮して「白」ではなく「浅黄色」の衿を使うそう)、ワキ方が衿を重ねて着るのはこの《紅葉狩》と《張良》だけだそうです。

いうまでもなく《張良》は一子相伝、《紅葉狩》が師からの直伝だからとのこと。
ワキ方にとって《紅葉狩》がどれだけ重い曲なのかが分かります。

また、着流し僧には樺色(肌色)の衿をつけるそう。



今度の下宝能の会では《紅葉狩》のクセをワキ(欣哉さん)が舞うのですが、この日講座を担当されたワキ方さんのなかではワキがクセを舞うのをご覧になったことのある方は一人もいらっしゃらないそうです。

欣哉さんだけ閑師が舞うのをご覧になったとのこと。
それほど珍しいものなのですね。

ワキがクセを舞う際の見どころは、美女たちばかりに舞わせてはなんだから、俺もひとさし舞ってやろう、という惟茂の男ぶり、粋な感じ。ここをぜひ観ていただきたいとおっしゃっていました。






2016年7月20日水曜日

能・狂言とゆかりの寺 戦う僧侶・悪鬼退散~比叡山延暦寺

2016年7月20日(水)14時40分~16時20分 29℃ 武蔵野大学 雪頂講堂

プロローグ「比叡山延暦寺の概要」 三田誠広文学部教授

公開講座本番 殿田謙吉×三浦裕子

(1)下掛宝生流・殿田謙吉氏プロフィール紹介

(2)角帽子着付け(通常タイプと沙門タイプの2通り)

(3)延暦寺関連の主な能
 ①延暦寺の僧侶が登場するもの
  《葵上》《是界》《雷電》《大会》

 ②延暦寺の僧兵だった武蔵坊弁慶が登場するもの
  《安宅》

 ③比叡山横川の恵心院に隠棲した恵心僧都(源信)が登場するもの
   《草薙》《満仲》

 ④その他
  《大江山》:比叡山を追放された酒呑童子
  《白鬚》:比叡山が仏教結界の地になる謂れが語られる





今週はワキ方ウィーク!
第一弾は武蔵野大学での殿田謙吉さんの講座です。

この日の殿田さんは真っ白な麻の着物に青灰色の袴という涼しげな出で立ち。
地声は初めて聴きましたが、演技派ハリウッド俳優の映画の吹き替えをしてほしいくらい渋くて深みのある好い声。

(声はもちろん、この方、視線が好いのです。亡霊の心に寄り添い、亡霊が身の上を語りたくなるような思いやりをこめた包容力のある視線。 それから《紅葉狩》の時の、美女にたぶらかされたトロンとした目。男心がとろける時のトロンとした目つきを品位を下げずに表現するところが凄い。)




殿田謙吉プロフィール
殿田家は町役者(金沢前田藩の能役者の身分。町人として生業をもつ傍ら能楽の技芸を伝えた兼業能役者)の家系で、謙吉さんは五代目にあたります。


父君の殿田保輔さんは松本謙三に師事し、その芸風を受け継いでいらっしゃるとのこと。

(ということは、謙吉さんの「謙」は松本謙三にちなんでいるのかも。ここにお父様の思いが込められているような気がします。「親父とは仲が悪い」と殿田さんはおっしゃってたけれど、こうして能楽師として御活躍されているんですから、めっちゃ孝行息子やん!)


初舞台は小学五年の時の《小鍛冶》のワキツレ勅使・橘道成。小六の時には《鉄輪》の浮気夫の役を勤めたそうです←早熟な小学生だったんですねー。




【角帽子着付け】
このあと角帽子の着付実演をしてくださったのですが、これが面白い。
殿田さんがモデルの男性に着付けをされるのですが、最初は普通の角帽子。


まずは、シャッポ(と聞えたのだけど、chapeauを語源とするシャッポのこと?)という、緩めの羽二重のようなものを被って、角帽子に整髪料などがつかないようにします。

次に、額の部分を押さえたまま角帽子を被り、頭頂部を適度な形にとがらせて、細長い緞子を後ろに長く垂らし、その上から下紐を縛ります。



沙門になると、角帽子の後ろの垂れている部分を後頭部で折り返し、その上から紐で縛ります。
沙門帽子は、シテでは《景清》等、ワキでは《是界》や《大会》等の比叡山の高僧といった高位の人物の時に用いるそうです。
前から見ると、角帽子の左右に小山がピンピンと立っているように見えるのが沙門の特徴。




【ワキによる比叡山関係の僧侶役】
 
ここからは殿田さんのお話で興味深かったことの簡単なメモ。


ワキの仕事で一番大変なのは、何と言っても「じっと座っていること」。
ワキの役柄中、僧侶の役は5分の2(40%)を占める。



【数珠の房の色の決まり】
僧侶役のワキの必須アイテム、数珠にもいろんな種類や決まり事があます。
まずは普通の数珠。
これは下宝では輪にしてもたず、両房が真ん中に来るようにぶら下げて持つ。


苛高(いらたか)数珠(そろばん玉のように角がとがっている数珠。揉むと高い音がする)は調伏(イノリ)の時に用い、房の色に決まりがある。


イノリのときは、必ず緋房が前に来るのが決まり。

緋房×緋房=《道成寺》など
緋房×浅黄房=山伏物
緋房×紺房=《黒塚(安達原)》
(両方とも茶房を用いることもたまにある)

また、苛高数珠は縦に重ねて揉まないと音が鳴りにくい。

数珠の材質には黒檀と紫檀がある。
《葵上》の詞章「赤木の数珠の苛高をさらりさらりと押し揉んで」とあるように、紫檀の数珠は《葵上》などに用いる。



【水衣の色の決まり】
シテの役が尉や釣り人だと、シテの水衣の色が茶色系のことが多いので、シテの装束の色とかぶらないようにワキ方は気を配る。
それゆえ多い時は水衣を5~6枚持参してシテの衣の色と重ならないようにすることも。
(楽屋と舞台とでは衣の色の映り方・見え方が異なるので、そのことにも留意する。)

律師(僧綱のなかでは一番低位)の場合、木蘭色(薄茶色)の衣
僧都(僧綱のなかでは真ん中)の場合、萌黄色の衣
                     
大僧都になると、松襲(まつがさね)という表が萌黄、裏が紫の襲の色目。
位の高い僧正(《石橋》や《道成寺》の僧)になると、薄い紫の衣に、金襴入り沙門など。


最高位の僧の場合、紫の代わりに緋色の衣を着ることもあるが、殿田さんくらいの年齢だと「まだ生々しい」とのこと。

もう少し脂(男くささ)が抜けて枯れた感じにならないと、緋色の衣は生々しく見えるということなのでしょうか。
そういわれるとそうなのかも。

  




【イノリのスピード感】
それから、イノリのスピード感や重みについても曲によって違っていて、
《黒塚(安達原)》では、一番機敏に動かねならず、
《道成寺》では、速さ(機敏さ)に加えて、強さが要求され、
《葵上》では、シテ(六条御息所)の品格に合わせて、どっしりとした重みが必要だそうです。




【比叡山の僧として演じるうえでの意識】
さらに、殿田さんが勤めた各曲の映像を見ながら、三浦先生の質問にワキの視点で回答。

《葵上》
「横川の小聖は恵心僧都がモデルという説があり、そのことは意識されていますか」という山中さんの質問に対して、殿田さんはまったく意識していないとのこと。

また、「空之祈」の小書の時は、ひたすら小袖(葵上)のほうを向いて祈り続けるので、スピード感を出さずにどっしりとした重みを出し、装束も山伏姿に兜巾ではなく沙門をつけるそう。


《是界》
ワキは比叡山の僧侶だけれど、日本の神仏が総力で中国の天狗を追い払う話なので、「比叡山の僧侶」ということは(殿田さんは)特に意識はしていない。

それよりもむしろ、天狗の愛すべき間抜けさがこの曲の魅力という趣旨のことをおっしゃっていました。



《雷電》
シテ・菅原道真の師・天台座主の法性坊役なので、「道真の師」という意識を持って勤めるとのこと。
《雷電》ではスペクタクルな後場が注目されやすいが、殿田さんは特に前場に重きを置いていて、「王土に住めるこの身なれば、勅使三度に及ぶならば、いかでか参内申さざらん」というワキの台詞を境に、シテが豹変して、石榴をかみ砕き吐きつけるシーンへと変わるドラマティックな場面展開に注目してほしい御様子でした。

また、最近では前場・後場のコントラストを利かせるべく、ワキは前場で小格子厚板着流姿→後場で小格子厚板+水衣・大口・袈裟・沙門をつけたりすることも多くなったとのこと。
こういうところも注目したいですね。


というわけで、ワキ方さんのお話がうかがえる貴重な機会、とても勉強になりました。


最後は、殿田さんから「下掛宝生流 能の会」の宣伝。
下宝能の会、事前講座・本公演ともにとても楽しみです。