2019年7月13日土曜日

映画『世阿弥』上映会~湊川神社例祭奉祝

2019年7月12日(金)湊川神社・神能殿

挨拶  湊川神社宮司 垣田宗彦
トーク 内田樹

映画『観世能楽堂』(1973年)上映
映画『世阿弥』(1974年)上映
 企画:鹿島守之助
 作・出演:白洲正子
 出演能楽師:
 三世梅若実、四世梅若実
 松本健三 山本東次郎
 藤田大五郎/田中一次
 幸祥光/北村一郎
 安福春雄
 金春惣右衛門
 

湊川神社の御祭神・楠木正成の新暦命日にあたるこの日、幻の鹿島映画『世阿弥』の上映会が開催された。正面席が関係者・崇敬会専用だったこともあり、見所は超満員。補助席も満席で、立ち見の人も大勢いたくらい。

【鹿島映画『世阿弥』】
映画『世阿弥』の内容は、解説の内田樹氏が「白洲正子のムービーエッセイ」と言うように、能や世阿弥に関する白洲正子のエッセイの断片を抜き出して編集し、映像に仕立てたもの(内田樹氏いわく「ヘンな映画」 (;^_^A))。


観阿弥・世阿弥父子の姿に、先代梅若実と当代実父子の舞台映像を重ね合わせ、白洲正子が世阿弥の足跡をたどるように播磨・龍野、伊賀、今熊野、そして佐渡をめぐってゆくのだが、この映画のほんとうの趣旨は、後述するように、世阿弥の親戚筋とされる永富家(鹿島建設中興の祖・鹿島守之助の生家)の由緒を世阿弥の生涯にさりげなく織り込んで映像化することにあるらしい。→まあ、そうですよね。でないと、巨額の費用を投じて映画をつくったりはしないもの。

映画のなかでひときわ目を引いたのが、少年時代の当代実師の舞姿。

当代実師が12,3歳のころの映像だろうか。
千歳と鞨鼓を舞うその姿は、美童時代の世阿弥もかくやらんと思わせるほど、キリリと引き締まった表情と型のラインが美しく、舞の動きがなんともいえぬ優雅な風情をかもしている。

「児姿は幽玄の本風なり」という世阿弥のことばもうなずける。
白洲正子が子方時代の実師にハッとさせられ、魅了されたのもよく分かる。
少年実師の出番は少ないのだが、彼の映像がこの映画のなかでもっとも華やかに輝いていた。


二代梅若実の映像はよくテレビでも放送されるが、先代(三代)梅若実の舞台映像はもしかするとはじめて観るかもしれない。

映画では《井筒》《阿漕》《羽衣》の映像が流れたのだが、《井筒》の前シテはボリュームのある肉付きで、つねに背中を丸めた前かがみの姿勢をとり、アゴが前に突き出ていて、独特の存在感。


映像のつくりやカメラアングル、黒い背景に浮かび上がる地謡の「引き」の映像など、いかにも70年代風で、シテが井筒をのぞき込むところでは、井戸の水面に後シテの顔が映るという加工が施されている(この映像、どこかで見たことがあるような……)。
たしかに、いろんな意味で貴重な映像だ。


貴重といえば、白洲正子の映像も貴重だった。
写真で見るかぎり、もっと線の細い人かと思っていたが、意外とガッチリしていて、手も足も、全体的に太さと重量感がある。おそらく白洲正子が60代の頃だと思うが、全国を精力的に旅した人ならではのスタミナと精神力を感じさせる。


また、春日若宮おん祭で若宮をお旅所にお遷しする「遷幸の儀」が映し出され、能《翁》の翁渡りはこうした神渡りの儀式を模したものだという説が展開されたのも、興味深かった。




【上島文書(伊賀観世系譜)】
鹿島映画『世阿弥』は、俗に「上島文書」と呼ばれる、伊賀の旧上島家所蔵の観世家系譜資料(伊賀観世系譜)が本物であることを前提として作られている。
(上島文書の真偽については能楽研究者のあいだで物議を醸し、現在では偽書であるという見方が有力となっている。それについては表章著『昭和の創作「伊賀観世系譜」梅原猛の挑発に応えて』にくわしい)。

いずれにしろ鹿島映画『世阿弥』が上島文書の内容を全面的に肯定して制作されたのは、映画の企画者である鹿島守之助が、伊賀観世系譜において世阿弥の母方にあたる永富家の出身だからにほかならない。


以下は内田樹氏が解説で語ったことの引用;

伊賀観世系譜において観阿弥の伯父とされる楠木正成は、南朝の後醍醐天皇が動員した悪党(ゲリラ的地侍集団)の代表者であり、後醍醐天皇の周辺には悪党以外にも、巫女・遊女・聖などの遊行芸人や山賊といった「異類の者たち」が集まっていた。

だが、南北朝合一(南朝の敗北)とともに「異類の者たち」は敗者となり、観阿弥・世阿弥と近縁だった芸能者たちも差別の対象となって、アウトカースト的存在に堕ちていった。

世阿弥はそうした敗者への鎮魂の念を『平家物語』を典拠とする修羅能に託したのではないだろうか。

江戸時代の歌舞伎がそうであるように、室町時代においてもリアルタイムの政治情勢を劇中に取り上げることはできなかった。そのため、舞台を源平合戦の時代に移したのだろう。南朝側の犠牲者への追悼を込めた修羅能。彼らを殺した張本人である足利将軍にそうした修羅能を見せたところが世阿弥の凄さだと思う(内田樹氏の解説の引用おわり)。


上記の内田樹氏の視点は非常におもしろい!
たしかに南北合一の時期を境に、遊女や巫女、聖(ひじり)たちはその聖性を剥奪され、賤視される傾向が強くなる。ブラックホールへ吸い込まれるように社会の底辺へ落ちていく芸能者仲間を尻目に、世阿弥たちは権力者の愛顧に必死にすがった。その命がけのサヴァイヴァル戦略は、数々の伝書のなかにさまざまな言葉で記されている。

落ちていく仲間の芸能者と、権力者の側にとどまった世阿弥。
彼らに対する後ろめたさ、罪の意識が強くなればなるほど、鎮魂を込めた曲への制作意欲が世阿弥のなかで高まっていったのかもしれない。




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