2015年7月30日(木) 11時~18時 国立能楽堂
番外独鼓 《羽衣》 松山隆之 清水和音
《高砂》 鵜澤光 飯冨孔明
番外素囃子 《天女之舞》
竹市学 田邊恭資 原岡一之 梶谷英樹
舞囃子
《鶴亀》 梅若紀長→梅若万三郎
一噌康二 社中の方 高野彰 吉谷潔
《熊坂》 山中迓晶
竹市学 社中の方 安福光雄 梶谷英樹
《羽衣》 北浪貴裕
一噌康二 社中の方 原岡一之 梶谷英樹
《定家》 清水寛二
竹市学 社中の方 安福光雄
(休憩)
能 《橋弁慶》 シテ 武田文志 トモ 佐川勝貴
アイ 野村又三郎 野口隆行
笛 帆足正規 小鼓 社中の方 大鼓 大倉栄太郎
後見 松木千俊 坂井音晴
(休憩)
番外舞囃子 《石橋・獅子》 馬野正基
竹市学 大山容子 原岡一之 吉谷潔
独鈷(小鼓は社中の方)
《鵜之段》 佐久間二郎
《松虫》 山中一馬
《敦盛》 宇高竜成
《融》 工藤寛
舞囃子
《百万》 坂井音晴
帆足正規 社中の方 高野彰 吉谷潔
《二人静》 鵜澤久 鵜澤光
一噌康二 社中の方 高野彰
《当麻》 岡久広
竹市学 社中の方 安福光雄 吉谷潔
独鈷
《巴》 辰巳満次郎
《蝉丸》 前田親子
《半蔀》 津村禮次郎
《笠之段》 高橋章
舞囃子 《邯鄲》 浅見慈一
竹市学 社中の方 安福光雄 吉谷潔
《三井寺》 津村禮次郎
一噌康二 社中の方 安福光雄
《歌占》 松木千俊
一噌康二 社中の方 高野彰
番外一調 《善知鳥》 観世銕之丞 大倉源次郎
《勧進帳》 岡久広 古賀裕己
(地謡出演シテ方)
佐川勝貴 桑田貴志 小島英明 伊藤嘉章 長谷川晴彦 長山桂三
佐久間二郎 松山隆之 浅見慈一 馬野正基 観世銕之丞 清水義也
北浪貴裕 藤波重孝 下平克宏 岡久広 上田公威 鵜澤久 山中迓晶
清水寛二 津村禮次郎 坂井音晴 鵜澤光
能楽公演の少ない渇いた真夏に恵みの雨ような小鼓方・古賀裕己師の社中会。
舞囃子のシテ方では麻の紋付き率が高く、見所の女性客では紗の着物率が高かった。
目で涼を感じる日本人ならでは。
暑い夏を楽しもう!
盛りだくさんだったので、印象に残ったことなどを以下にメモ。
舞囃子《鶴亀》
近眼なので見間違いかと思ったけれど、
舞台にいらっしゃるのはどう見ても梅若紀長師ではなく万三郎さん。
代役(?)なのかしら。
(うれしいサプライズだけれど、紀長師、どうされたのだろう。)
光源氏が年を重ねたらこんなふうに舞うのかと思わせる典雅な舞姿。
生まれや育ちからして常人と違うような気がする。
一噌康二師も復帰されていてひと安心。
舞囃子《熊坂》
迓晶さん、キレのある長刀さばき。
激しい動きの中にも華やかな品があり、好みの芸風です。
舞囃子《羽衣》
北浪師、ふわりとまとった真っ白な麻の紋付きは羽衣を思わせ、清々しい天女だった。
能《橋弁慶》
シテの武田文志さん、一段とグレードアップされていて、
素人の子方さん相手の難しい役をうまくこなされていた。
又三郎さんの存在感の大きい間狂言も面白い!
そして個人的に大注目は、京都森田流笛方の帆足正規(ほあしまさのり)師。
おそらく80代だと思うけれど、高齢でこれほど姿勢のきれいな囃子方を見たことがない。
肺活量もそれほど衰えず、ややかすれ気味のヒシギを除けば美しい音色。
プロフィールを拝見すると、貞光義次に師事したとのことだけれど、芸系がよく分からない。
田中一次系でもないし、強いて言うと、京都の杉家と東京の寺井家を足して二で割って、
プラスαで何かを加えて、何かをさらに引いたような?
とにかく、現在の東京でよく聴く笛方では近い人はいない。
京大出身で狂言作家でもあるという異色の笛方さん。
中谷明師もたしか東大出身だったかな。
森田流には異色の笛方がいらっしゃるのですね。
東京ではめったに聴けないので、貴重な体験でした。
番外舞囃子《石橋・獅子》
大好きな笛方・太鼓方が抜きんでた《獅子》。
元伯ファンがこんなことを言ってはなんだけど、
こと《獅子》(石橋)に関しては、
笛は藤田流、太鼓は金春流がより華やかでダイナミックになると思う。
竹市さんの笛はシャープでエッジが効いてて、ただただ、かっこいい!
露ノ手の小鼓の静謐な間が美しかった。
独鼓
前半・後半合わせると、四流が出そろった豪華な独鼓。
利き酒ならぬ、「利き謡」を堪能した。
《鵜之段》の佐久間二郎師、うまいですね!
九皐会系というか、観世喜之・喜正系の少し鼻にかかったような独特の謡。
金春流の《松虫》。語尾が少し伸びるようなところが特徴的なのかな。
金剛流の《敦盛》。
宇高竜成師、上手い! 凄すぎる!
思いを須磨の山里のかかるところに住居して
須磨人になりはつる一門の果てぞかなしき
聴き惚れてジーンとくる。
彼の謡から発せられる一言一句が透明な珠のように美しく、
それがひとつひとつ響きながら弾けて、《敦盛》の世界を丁寧に描きだしてゆく。
若いのに、恐るべき実力派。
京都だけでなく、ぜひぜひ、東京でも公演をしてください!
満次郎さんの《巴》と《笠之段》(高橋師と連吟)。
やっぱりこの人の謡はいい!
一時期ちょっと離れていたけれど、また満次郎さんの舞台を拝見しようと思った。
舞囃子《二人静》
鵜澤母子の相舞。
ふつう、若い人のほうが早くなってしまうのに、
こんなにそろった相舞見たことない、っていうくらいそろっていた。
こうやって相舞のお稽古をしながら、師匠の間の取り方や緩急のつけ方を
身体で覚えていくのかしら。
舞囃子《邯鄲》
クリームイエローの麻の紋付に若草色の袴という爽やかな出立の浅見慈一さん。
吉谷&竹市コンビが冴える、冴える!
ただ、盧生が夢から覚める前後の拍子が急転するところが
社中の方には難しかったようで、テンポが遅れて、プロの囃子方と合わず、
吉谷さんがしきりに社中の方のほうを見ながら打ってらっしゃったのが印象的だった。
番外一調
銕之丞氏の大迫力の気合の入った熱唱。
源次郎さんの音色のクオリティが高い!
やはり別格です。
初めて聴く古賀裕己さんの一調。
性格のまっすぐな方なのでしょうか、力みや衒いのないまっすぐな鼓。
心に響く掛け声と岡久広師の渋みのある謡が響き合う……。
楽しい社中会、ありがとうございました!
"It could be said that the image of Yugen―― a subtle and profound beauty――is like a swan holding a flower in its bill." Zeami (Kanze Motokiyo)
2015年7月30日木曜日
2015年7月22日水曜日
江戸の里神楽《天孫降臨》《山神》
7月20日の夕方、ゆかたを着て大國魂神社のすもも祭へ。
山本頼信社中(社家の社中)による江戸の里神楽を見学しました。
大國魂神社の神楽殿 かがり火が焚かれて幻想的な雰囲気 |
(ブログ掲載の許可をいただいたので紹介していきます)。
先導役のサルタヒコ |
左から、サルタヒコ、アメノウズメ、ニニギノミコト |
ニニギノミコトがアメノウズメなどの神々を引き連れて、高天原から地上に降臨。
右端が、男前の面をかけたニニギノミコト。
中央のアメノウズメは、おっとりした愛され顔の美人さん。
サルタヒコとアメノウズメの結婚を祝って踊るひょっとこ |
ニニギノミコトの御前で舞を舞うサルタヒコとアメノウズメ |
めでたく夫婦になったサルタヒコとアメノウズメは、相生の舞を舞う。
シャン、シャン、シャン |
鈴を振りながら舞う「相生の舞」は、夫の地元の美保神社で見た巫女舞に似ていた。
ニニギノミコト |
山神 |
続いて演じられた《山神(さんじん)》。
一日の舞台の最後に、舞台と道具を浄めるための祝言性の高い演目。
先ほどのサルタヒコと同じ面で、たぶん演者も同じ人だと思う。
お囃子はメインが大太鼓、大拍子、笛、それに時折、拍子木と釣鐘が加わるという構成。
こうした商業目的ではない民俗芸能が継承されていることに、ただただ感激!
夜の部の上演時間は1時間15分ほど。
上演までの時間つぶしに宝物殿に入ったのですが、これが予想外に良かったのです。
宝物殿の1階には巨大な大太鼓や神輿がずらり。
圧巻は、くりぬき胴では日本一大きいとされる直径2.5mのメガ太鼓!
皮も巨大雄牛の一枚皮が両面に張られていて、目を見張ります。
(いったいどんな音がするのだろう?)
宝物殿2階には、能面作家・小倉宗衛氏が奉納した能面が陳列され、
能楽ファンには嬉しい限り。
近年の作品とは思えないほど、古色を帯びた緩みのない造形で、
特に冷たい品格のある増女が素晴らしく、この面を使った舞台が見てみたくなりました。
(何年か前の式典では、大國魂神社が所蔵する小倉氏作の万媚を使った《紅葉狩》が、
金春流によって上演されたそうです。)
からす扇・からす団扇 |
「からす扇・からす団扇」は五穀豊穣・悪疫防除の意味を持ち、
これらで扇ぐと、害虫が駆除され、病気が治癒するとされています。
本殿前で販売されていました。
カラスの模様が可愛い。
カラスっぽい?神楽殿の蟇股 |
神楽殿の蟇股もカラスを象っているのかしら?
梅若会定式能7月《鵜飼・空之働》
能 《鵜飼・素働→空之働》 シテ 梅若紀彰
ワキ 森常好 ワキツレ 舘田善博 アイ 河野佑紀
一噌庸二→小野寺竜一、住駒光彦、柿原光博、観世元伯
地謡 梅若長左衛門 山崎正道 鷹尾維教 角当直隆
松山隆之 河本望 井上和幸 梅津千代可
後見 山中迓晶 赤瀬雅則
《鵜飼》のシラバタラキってどんなのだろう、とワクワクしていたのですが、
小書の表記ミスとのことで、「空之働(むなのはたらき)」に変更。
「空之働」も珍しい小書らしく、その名の通り、
後シテは(謡う以外は)坐禅中の禅僧のように安座したまま何もしません。
何もしないことで、仏教の大いなる世界観を表すという途轍もない小書。
【前場:ワキとアイの問答】
安房の清澄から甲斐の石和にやって来た旅僧一行が、里人に一夜の宿を求めるが、土地の大法によって旅人に宿を貸すのは禁じられていると断られ、代わりに川崎の御堂に泊まるよう勧められる。ただし、その御堂には、夜な夜な光るものが上がってくるので用心するよう忠告される。
このあたり、世阿弥作の《鵺》とよく似ていて、
おそらくこの部分も、榎並左衛門五郎作の本曲に世阿弥が改変を加えた箇所だと言われている。
いずれにしろ、旅人を冷遇する里人たち(集団)の無情を描くことで、鵺や鵜飼(密漁者)といった暗黒の世界に住むアウトロー的存在の憐れさや隠された心根の優しさを後の場面で浮き彫りにするという、効果的な伏線となっている。
【前シテの登場→ワキとの問答】
一声の囃子とともに、松明を振り立てながら前シテ登場。
どこか悲しげで品格のある尉面。
鵜舟にともす篝火の消えて闇こそ悲しけれ
シテの梅若紀彰さんは、独特の陰影と奥行きを感じさせる魅力的な役者さん。
(誰もが持つ)人間のダークサイドを垣間見せるこうした役がよく似合う。
御堂で休んでいた僧たちは、鵜を引き連れてやって来た鵜飼と出会い、殺生をやめるよう諭す。
会話の中で従僧はこの鵜飼こそ、数年前に一夜の宿を貸してくれた人物だと気づく。
この時のワキツレの「いかに申し候」というタイミングや言い方に、その人の力量が出ると思うのだけれど、舘田さんの詞には唐突感はなく、もやもやとした記憶がふーっと意識の表面に浮上して形になったような自然な切り出し方だった。
【鵜之段】
従僧をもてなした鵜飼は、一殺多生のことわりによって里人たちに簀巻きにされて溺死したことを告げ、自分こそその鵜飼の霊であると明かす。
法や正論を盾に異端者を排除するマジョリティーの狂乱的暴力性がこの曲のサブテーマになっているように思わせる。
邪悪なのは、殺生を行う鵜飼なのか、殺生を私刑によって裁く里人たちなのか。
鵜飼は僧侶に回向を頼み、懺悔の徴として鵜漁の様子を再現する。
この鵜之段はさすがだった!
左手に持った扇を、鵜を解き放つようにパッと開き、水底を見込んで魚を追いまわし、追いこんだ魚を扇ですくい上げる――。
鵜舟から降りて水に浸かる鵜飼、暗い水面に映る篝火、威勢よく解き放たれる若鵜たち、驚いて追いまわされる魚たちの黒い影。
舞と謡によって鵜飼の情景が、躍動する鳥と魚と人間の姿がありありと目に浮かび、水の音まで聞こえてくるよう!
罪も報いも後の世も、忘れ果てておもしろや
紀彰さんの鵜飼は漁に興じながらも、一抹の悲しみを感じさせる。
「おもしろうてやがて悲しき」の句のように、その悲しみの影はしだいに色濃くなっていく。
闇路に帰るこの身の名残惜しさをいかにせん。
殺生の宴は終わった。
悲しみの影はいよいよ濃くなり、鵜飼はワキの前で合掌したのち、漆黒の闇へと消える。
水墨画のように悲しみの濃淡で描きだされた鵜之段だった。
【中入り】
間狂言のさなか、舞台裏からダダダダッ、ドドドドッと駆けまわる足音。
きっと汗だくの修羅場のような状態なのだろうか。
【後シテ登場】
待謡が終わらぬうちに、後シテが半幕で登場して、両手で前髪を掻きあげた後、
いったん下がって、ふたたび早笛とともに登場。
《鵜飼》の早笛はあまり速くなく、閻魔大王の登場にふさわしい重厚感がある。
面は小癋見なのかなー、なんだかとってもいかつい、小癋見らしいコミカルさのない恐ろしい感じのする面。
本舞台に入ると、正中でいきなり飛び安座。
そして前述のごとく、じっと安座のまま謡う。
シテの息が上がって謡が乱れ、「空之働」という小書の困難さが伝わってくる。
真如の月や出でぬらん
ここでようやく後シテは立ち上がって、(玄祥師による解説によると)イロエ的な働キが演じられる。
要するに、舞台をめぐる舞事なのですが、この部分は短く、後シテはふたたび飛び安座して、ふたたび座ったまま――。
これを見、彼を聞く時はたとひ悪人なりとても
ここでようやく閻魔大王はふたたび立ち上がって、なんと、そのまま退場!?
ワキが後を受けて留拍子(だったかな? 呆気にとられてよく憶えていない。)
禅の老師が謎めいた公案を残したまま立ち去ったような、
そんな余韻と困惑のうちに舞台は幕を閉じたのだった。
2015年7月20日月曜日
梅若会定式能7月《弱法師・盲目之舞》~狂言《伊文字》
能《弱法師・盲目之舞》 シテ 角当直隆
ワキ 高井松男、 アイ 野村万蔵
杉信太朗、鵜澤洋太郎、國川純
地謡 梅若玄祥 山本博通 内藤幸雄 山崎正道
井上燎治 鷹尾維教 鷹尾章弘 土田英貴
後見 松山隆之 小田切康陽
仕舞《大江山》 川口晃平
《水無月祓》 鷹尾維教地謡 松山隆雄 赤瀬雅則 上田英貴 小田切亮磨
狂言《伊文字》 野村萬、野村虎之介、野村万蔵、野村晶人
元雅作品のなかでいちばん好きな《弱法師》。
日想観のシーンは特に好きで、
弱法師のようにあちこちぶつかりながら不器用にヨロヨロと生きている自分だけれど、
心の中に平安を見出して、穏やかに過ごしたい思うのでした。
元雅が描いた俊徳丸のキャラクターも胸にジーンとくる。
讒言によって親に捨てられ、絶望と過酷な放浪生活によって盲目になっても、
親や讒言者を恨むことなく、すべては自分の前世の過ちが招いたことだとして、
自省・自責の念にとらわれている、そんないたいけな少年なのです。
――なのですが、
登場したシテの姿は意表を突くものでした。
よく見るボサボサの黒頭ではなく、鬘を首の後ろで束ねた姿で現れたのですが、
髪型が変わると、こんなにもイメージが変わるものなのか、と。
ものにもよるけれど、弱法師面は眉間や頬のしわで苦悩を表しているので、
髪を束ねるとそれが際立って、年かさの女性に見えてしまう。
そんなわけで、「いたいけな少年」のイメージがガラガラと崩れ去り、
それが障壁となって物語の世界へなかなか入っていけない。
シテ自身は杖の扱いも、耳で見るような仕草もうまく、
梅の花の香りを聞く場面はとりわけ印象的で、
玄祥師地頭の地謡も、お囃子も申し分なかった。
* * *
俊徳丸の絶望とか、現実の謙虚な受け止め方とか、絶望の果てに一瞬見出した光明とか、
見えない目で見た心の中の懐かしい光景とか、
自分を捨てた親に対してさえ、やつれ果てたわが身を恥じる気持ちとか、
そういうものを観客に感じさせるのってとても難しいと思う。
その人が人生の中でもがき苦しんだことや傷ついたこと、挫折したことなどが
こういう曲の表現にも滲み出て、生かされるのだろうか。
それとも、そう単純なものではないのだろうか。
仕舞2番。
川口さんは謡いがうまい。
鷹尾さんの仕舞は初めて拝見しますが、こちらもきれい。
どちらもすっきり清涼感のある舞姿。
狂言《伊文字》。
楽しかった!
「伊の字のついた国の名」が耳の中でリフレインする。
万蔵さんがいると舞台が引き締まる。
神仏に配偶者を祈願する「申し妻」。
今も昔も、神仏は婚活の強い味方なのですね。
2015年7月19日日曜日
梅若会定式能7月 《采女・美奈保之伝》
2015年7月19日(日) 13時開演 梅若能楽学院会館
能《弱法師・盲目之舞》 シテ 角当直隆
ワキ 高井松男、 アイ 野村万蔵
杉信太朗、鵜澤洋太郎、國川純
地謡 梅若玄祥 山本博通 内藤幸雄 山崎正道
井上燎治 鷹尾維教 鷹尾章弘 土田英貴
後見 松山隆之 小田切康陽
地謡 松山隆雄 赤瀬雅則 上田英貴 小田切亮磨
〈休憩〉
槻宅聡、曽和正博、大蔵慶之助
地謡 角当行雄 鷹尾章弘 山本博通
山中迓晶 川口晃平 井上和幸
後見 梅若長左衛門 松山隆雄
〈休憩〉→なし
一噌庸二→小野寺竜一、住駒光彦、柿原光博、観世元伯
地謡 梅若長左衛門 山崎正道 鷹尾維教 角当直隆
松山隆之 河本望 井上和幸 梅津千代可
後見 山中迓晶 赤瀬雅則
梅雨も明け、夏休みも始まって、夏本番!
大盤振る舞いの豪華な番組には、水をテーマにした二曲が含まれ、
猛暑のなか透明なミストを浴びながら鑑賞するような涼やかな7月の定式能でした。
(それにしても鵜飼の小書や笛方が変更になったり、二回目の休憩がスルーされたりで(笛方は仕方がないにしても)変更が多すぎです……。一部の方々の心はすでに山形とギリシャに行っていたのかもしれないけれど、せめて二回目の休憩ナシは事前に言ってほしかった……。)
《采女・美奈保之伝》がとりわけ素晴らしい舞台だったので、
順番が前後しますが、感動冷めやらぬうちに《采女》から感想を。
【名ノリ笛→道行】
名ノリ笛に乗って、諸国一見の僧&従僧登場。
京の都から奈良坂を過ぎて、春日の里に到着します。
横から見ると、福王さんがワキツレ2人に比べて、
胸からお腹にかけて大量の詰め物(補正?)をしているのが分かる。
以前、矢野昌平さんも不自然なくらいたくさん詰め物をしていたから、
これが福王流がワキを演じる時の着付け方なのだろうか。
(細身の人は細身のまま、格別恰幅良く見せる着付けをしない下掛宝生とは対照的。)
個人的には、痩せて枯れた風情のほうが諸国一見の僧のイメージに合う気がする。
【シテ登場→猿沢池案内】
会田昇師のお舞台は初めて拝見するのですが、
揚幕の奥から現れたのは、その愛らしさに思わず微笑んでしまうくらい麗しい里女。
朱と白の段替えの唐織に、面は若女でしょうか。
普通の若女よりは増に近い感じで、穏やかな雰囲気を持ちつつも
目鼻立ちのはっきりした現代風の美人です。
「美奈保之伝」の小書なので、
彼女が僧たちを春日社に案内してその由来を語る部分はカットされ、
シテはいきなり、「のうのう、あれなる御僧に申すべきことの候」と言って猿沢の池を案内し、
昔、帝の衰寵を恨んでこの池に身を投げた采女を弔ってほしいと頼み、池の中へと消えていく。
湖面に乱れ浮く水中花のような采女の姿を描写するシテとワキの掛け合いが美しい。
【後場→ワキ待謡→シテ一声】
待謡とお囃子が響くなか、ひっそりと揚幕があがり、
水中の藻に見立てた緑色の無地熨斗目をかずいたシテが
橋掛りを音もなくスーッと進み、一の松で熨斗目を落として、湖面に浮かびあがる。
後シテは鮮やかな水色の色大口に、柳と流水が見事に折り込まれた紫の長絹。
露も鬘帯も水色で、aquaづくしの爽やかでセンスの好い出で立ち。
会田師は面の扱いが巧みで、とても表現力豊かなシテ方さん。
何も大仰なことはなさらないのですが、息の詰め方や間の取り方で
シテの心情や情景を繊細に描写し、観客をぐいぐい引き込んでいきます。
ワキとのやり取りの後、クリ・サシ・クセはカットされ、序の舞(水上の舞)になります。
この序の舞の時の槻宅さんの笛が曲趣にぴったりで素晴らしかった!
無音の足拍子で水面に浮かぶさまを表し、
袖を返さない舞で、水に濡れた風情を表現する。
水に揺らめくように身を沈め、わが身とわが愛を哀悼する。
愛に敗れ、忘れ去られた数多の采女たちに鎮魂の舞を捧げる。
笛が盤渉調に転じ、采女はさらに深く、舞のなかに没入する。
水、水、水……。
笛の音も、装束も、舞も。
水の非在によって実在以上に鮮明に水をイメージさせるという能の表現テクニック。
五感で水を感じながら、私は胸が震えた。
能は、やはり、頭で考えるのではなく、心と身体で感じるものなのだ。
シテは舞の途中で橋掛りに行き、二の松あたりで、欄干の下の水底をのぞき込む。
遠い日の影。 懐かしい人。 届かぬ思い。
シテがそこに見たものを、観客も想像し、自分の思いと重ね合わせる。
長い「間」。
《井筒》を思わせる水鏡の型。
この時のシテの姿があまりにも甘美な切なさを湛えていて、涙が自然にあふれてくる。
地謡もワキも、シテの心に寄り添うように感じられるのも良かった。
シテが揚幕の奥に消えてきちんと間を置いてから、余韻をそっとなぞるように、
ワキが静かに立ちあがり、おごそかに去っていく。
こんなふうに「間」を最後の最後まで大切にする丁寧な舞台と演者が好きだ。
能《弱法師・盲目之舞》 シテ 角当直隆
ワキ 高井松男、 アイ 野村万蔵
杉信太朗、鵜澤洋太郎、國川純
地謡 梅若玄祥 山本博通 内藤幸雄 山崎正道
井上燎治 鷹尾維教 鷹尾章弘 土田英貴
後見 松山隆之 小田切康陽
仕舞《大江山》 川口晃平
《水無月祓》 鷹尾維教地謡 松山隆雄 赤瀬雅則 上田英貴 小田切亮磨
狂言《伊文字》 野村萬、野村虎之介、野村万蔵、野村晶人
〈休憩〉
能《采女・美奈保之伝》シテ 会田昇
ワキ 福王和幸 ワキツレ村瀬彗、村瀬提 アイ 能村晶人槻宅聡、曽和正博、大蔵慶之助
地謡 角当行雄 鷹尾章弘 山本博通
山中迓晶 川口晃平 井上和幸
後見 梅若長左衛門 松山隆雄
仕舞 《頼政》 梅若玄祥
地謡 山崎正道 小田切康陽 川口晃平 山崎友正
能
《鵜飼・素働→空之働》 シテ 梅若紀彰
ワキ 森常好 ワキツレ 舘田善博 アイ 河野佑紀地謡 梅若長左衛門 山崎正道 鷹尾維教 角当直隆
松山隆之 河本望 井上和幸 梅津千代可
後見 山中迓晶 赤瀬雅則
梅雨も明け、夏休みも始まって、夏本番!
大盤振る舞いの豪華な番組には、水をテーマにした二曲が含まれ、
猛暑のなか透明なミストを浴びながら鑑賞するような涼やかな7月の定式能でした。
(それにしても鵜飼の小書や笛方が変更になったり、二回目の休憩がスルーされたりで(笛方は仕方がないにしても)変更が多すぎです……。一部の方々の心はすでに山形とギリシャに行っていたのかもしれないけれど、せめて二回目の休憩ナシは事前に言ってほしかった……。)
《采女・美奈保之伝》がとりわけ素晴らしい舞台だったので、
順番が前後しますが、感動冷めやらぬうちに《采女》から感想を。
【名ノリ笛→道行】
名ノリ笛に乗って、諸国一見の僧&従僧登場。
京の都から奈良坂を過ぎて、春日の里に到着します。
横から見ると、福王さんがワキツレ2人に比べて、
胸からお腹にかけて大量の詰め物(補正?)をしているのが分かる。
以前、矢野昌平さんも不自然なくらいたくさん詰め物をしていたから、
これが福王流がワキを演じる時の着付け方なのだろうか。
(細身の人は細身のまま、格別恰幅良く見せる着付けをしない下掛宝生とは対照的。)
個人的には、痩せて枯れた風情のほうが諸国一見の僧のイメージに合う気がする。
【シテ登場→猿沢池案内】
会田昇師のお舞台は初めて拝見するのですが、
揚幕の奥から現れたのは、その愛らしさに思わず微笑んでしまうくらい麗しい里女。
朱と白の段替えの唐織に、面は若女でしょうか。
普通の若女よりは増に近い感じで、穏やかな雰囲気を持ちつつも
目鼻立ちのはっきりした現代風の美人です。
「美奈保之伝」の小書なので、
彼女が僧たちを春日社に案内してその由来を語る部分はカットされ、
シテはいきなり、「のうのう、あれなる御僧に申すべきことの候」と言って猿沢の池を案内し、
昔、帝の衰寵を恨んでこの池に身を投げた采女を弔ってほしいと頼み、池の中へと消えていく。
湖面に乱れ浮く水中花のような采女の姿を描写するシテとワキの掛け合いが美しい。
【後場→ワキ待謡→シテ一声】
待謡とお囃子が響くなか、ひっそりと揚幕があがり、
水中の藻に見立てた緑色の無地熨斗目をかずいたシテが
橋掛りを音もなくスーッと進み、一の松で熨斗目を落として、湖面に浮かびあがる。
後シテは鮮やかな水色の色大口に、柳と流水が見事に折り込まれた紫の長絹。
露も鬘帯も水色で、aquaづくしの爽やかでセンスの好い出で立ち。
会田師は面の扱いが巧みで、とても表現力豊かなシテ方さん。
何も大仰なことはなさらないのですが、息の詰め方や間の取り方で
シテの心情や情景を繊細に描写し、観客をぐいぐい引き込んでいきます。
ワキとのやり取りの後、クリ・サシ・クセはカットされ、序の舞(水上の舞)になります。
この序の舞の時の槻宅さんの笛が曲趣にぴったりで素晴らしかった!
無音の足拍子で水面に浮かぶさまを表し、
袖を返さない舞で、水に濡れた風情を表現する。
水に揺らめくように身を沈め、わが身とわが愛を哀悼する。
愛に敗れ、忘れ去られた数多の采女たちに鎮魂の舞を捧げる。
笛が盤渉調に転じ、采女はさらに深く、舞のなかに没入する。
水、水、水……。
笛の音も、装束も、舞も。
水の非在によって実在以上に鮮明に水をイメージさせるという能の表現テクニック。
五感で水を感じながら、私は胸が震えた。
能は、やはり、頭で考えるのではなく、心と身体で感じるものなのだ。
シテは舞の途中で橋掛りに行き、二の松あたりで、欄干の下の水底をのぞき込む。
遠い日の影。 懐かしい人。 届かぬ思い。
シテがそこに見たものを、観客も想像し、自分の思いと重ね合わせる。
長い「間」。
《井筒》を思わせる水鏡の型。
この時のシテの姿があまりにも甘美な切なさを湛えていて、涙が自然にあふれてくる。
地謡もワキも、シテの心に寄り添うように感じられるのも良かった。
シテが揚幕の奥に消えてきちんと間を置いてから、余韻をそっとなぞるように、
ワキが静かに立ちあがり、おごそかに去っていく。
こんなふうに「間」を最後の最後まで大切にする丁寧な舞台と演者が好きだ。
2015年7月12日日曜日
銕仙会7月公演 《善界・白頭》
能《善界・白頭》 シテ 片山九郎右衛門
ツレ観世淳夫 ワキ 宝生欣哉 則久英志 御厨誠吾 アイ山本則秀
竹市学 成田達志 佃良勝 観世元伯地謡 鵜澤光 長山桂三 北浪貴裕 馬野正基
西村高夫 阿部信之 山本順之 清水寛二
後見 大槻文蔵 谷本健吾
発表当初から楽しみにしていた九郎右衛門さんの《善界・白頭》。
三役が公表されてからはなおさら必見の舞台となりました。
だって凄いじゃないですか、シテといい、囃子方といい、ワキといい、
(そして後見も地謡も)善界にはこれ以上ないっていうくらいの配役が勢ぞろい!
【次第→道行】
次第の囃子とともに、大天狗・善界坊が唐の国から空を渡って日本にやってきます。
前シテは山伏に扮した天狗という役柄上、直面で演じられることが多いようですが、
この日はシテ・ツレともそれぞれ「多賀」と「怪士(高津紘一作)」の面をかけていました。
シテがつけている多賀(鷹)の面は怪士系の能面なのですが、
伏せ目がちに眉間にしわを寄せている表情など、
どこか悲しげで、悩み多き異人といった面持ち。
九郎右衛門さんが表現したかった善界坊の胸の内が垣間見える気がします。
この日のシテは第一声から声が少し割れていて、本調子ではないように感じました。
(九郎右衛門さんは、シテと地頭の役が怒涛のようにまわってくる殺人的スケジュールを日々こなしていらっしゃるのだから、絶好調ではないのは全く致し方ない。
それよりも、これだけ連続する舞台のひとつひとつを
これほどまでに高いレベルとクオリティーを保ちながら演じていらっしゃるのはまさに神業。
この日も後場でその神業が発揮されたのでした。)
早々と愛宕山に着いた善界坊。
日本人を魔道に引き込むべく、天狗仲間の太郎坊に協力を仰ぎます。
ツレ(太郎坊)の淳夫さんは背格好が九郎右衛門さんと同じくらいで、
面と装束をつけると一瞬見分けがつかないくらい(地声も九郎右衛門さんとよく似ている)。
以前も書いたけれど、ハコビも九郎右衛門さん譲りでとってもきれい。
【クリ・サシ・クセ】
さて、日本の天台山・比叡山を攻略する秘策を練る善界坊と太郎坊だが、
いつしか2人の密議は日本の神仏の威力を礼讃する内容になっていく。
然りとはいへども輪廻の道を去りやらで魔境に沈むその嘆き。
思ひ知らずや我ながら過去遠々の間にさずが見仏聞法のその結縁の功により
三悪道を出でながらなほも鬼畜の身を借りて
いとど仏敵法敵となる悲しさよ
クセの中で思わず弱音を吐く善界坊。
このクセの部分は「白頭」の小書がつくと省略されることもあるそうだけど、
おそらくこの箇所こそ九郎右衛門さんが表現したかった善界坊の素顔だと思う。
(だから今回は詞章の省略はなしでした。)
本音の部分では仏法に心を寄せながらも、
天狗の首領に生まれついたばかりに仏敵として生きなければならない。
嘆き、迷いつつも、天狗としての本分を全うしようとする健気(?)な善界。
憐れでユーモラスな天狗のキャラクターを描いたこのクセこそ《善界》の醍醐味。
【来序中入】
ここから元伯さんの太鼓が入って来序。
見た目も中身も脂の乗った名手ぞろいのこの日のお囃子。
すでに来序で、ゲートが開くのを待つ出走馬のような攻めの息遣いが感じられて、
後場への期待が高まってゆく。
【後場】
牛車に乗ったワキの比叡山僧正が登場。
(ワキの欣哉さんが現れて、ワキ座に置かれた作り物に入って、床几に座る)。
すると、暴風が吹き荒れ、草木山河が振動し、雷がとどろく。
【大ベシ】
大ベシの囃子が二巡ほどしてかなり間を持たせたあと、ずっしりと重い位で後シテが登場。
(面は洞水作・大癋見)
いつも思うけれど、九郎右衛門さんはこういう間の取り方・位の取り方が絶妙。
本音を吐露した前シテとは打って変わって、
妖気すら感じさせる威厳のある天狗の首領に見事に変身していた。
このあたりなんとなく、片山家当主として生まれた九郎右衛門さん自身の姿と重なって見える。
【イロエ→働】
不思議や雲の中よりも 邪法を唱する声すなり
雲に乗った善界の音のない足拍子が天空にこだまする。
ここからイロエ→舞働と、観客に息もつかせない大迫力のスピーディーな展開。
舞台にいるのは天狗に扮した九郎右衛門さんではなく、異界に生きる天狗そのもの。
翼を広げた天狗が天を駆けながら舞っているとしか思えないほど、
リアルで不思議な躍動感。
お囃子と地謡がドラマティックに盛り上げ、シテの動きと一体となり、
見る者は目眩がするような高揚感に包まれる。
ああ、感動が追いつかない。
舞台の展開のほうが速すぎて、感動が追いついていけない。
一瞬、一瞬を、目に、耳に、頭に刻みつけたいのに、感覚が追いついていけない。
天狗の人間離れしたスピード感。
わけがわからないまま涙があふれてくる。
さしもに飛行を羽根も地に落ち、力も槻弓の
翼の折れた天狗はジャンプして地に伏せ組落ちの型をして、
立ち去ると見えしがまた飛び来たり
橋掛りに行って、欄干に片足を載せ、
さるにてもかほどに妙なる仏力神力
今より後は来るまじと
手にしていた数珠を悔し紛れに僧正めがけて放り投げ、
(数珠は見事に舞台中央脇正面寄りに着地)
声ばかり虚空に残って、姿は雲路に入りにけり
タタタタタと橋掛りを駆け抜け、揚幕の奥へと潔く、消えていった。
時空を超えた永遠のアンチヒーロー、最高にかっこいい!!
2015年7月11日土曜日
銕仙会7月公演 《浮舟》
2015年7月10日(金) 18時開演 宝生能楽堂
●能《浮舟》 シテ 柴田稔
ワキ 大日方寛 アイ山本則重
栗林祐輔 曾和正博 亀井広忠
地謡 安藤貴康 岡田麗史 野村昌司 浅井文義
浅見慈一 浅見真州 泉雅一郎 小早川修
後見 長山禮三郎 観世銕之丞
●狂言《土筆》 山本泰太郎 山本凜太郎
地謡 鵜澤光 長山桂三 北浪貴裕 馬野正基
西村高夫 阿部信之 山本順之 清水寛二
後見 大槻文蔵 谷本健吾
締め切りと大きな法事を終えて、久しぶりの観能!
前日までの梅雨模様が嘘のように晴れあがった夏空の広がる銕仙会7月公演へ。
まずは、能《浮舟》から。
柴田稔師の舞台を拝見するのは初めてだけれど、首と右手の震えが気になってしまう。
不随意運動だからご本人の意思ではいかんともし難いのかもしれない。
舞いも謡も、他の部分が良いだけに、身体の震えが残念でもったいない。
シテの面は、甫閑作の増女。
古風な顔で、目鼻立ちがぼんやりしている女面なので、
優柔不断で運命に翻弄される浮舟のキャラクターにぴったり。
清楚な浅葱色の水衣が彼女の可憐さを引き立てている。
地謡が素晴らしく、夕暮れ時の宇治川の美しい情景を切々と謡い上げてゆく。
さなきだにいにしえの恋しかるべき橘の小島が崎を見渡せば
河より遠の夕煙立つ河風に行く雲のあとより雪の色添えて山は鏡をかけまくも
地謡のこの部分と間狂言で引用された浮舟の歌は、
匂宮に抱かれたまま、月夜の宇治川を小舟に揺られていく浮舟が詠んだ歌で、
彼女自身の性格とその後の運命を暗示している。
橘の小島の色はかはらじを
この浮舟ぞゆくへ知られぬ
(常緑樹である橘の葉の色は変わらないけれど、
好色な人間であるあなたの恋心はきっと色褪せてしまうでしょう。
そうなれば、櫂のない小舟のような私はどうなってしまうのでしょう……。)
浮舟は光源氏の弟・八の宮の娘だが、妾腹の子のため認知されず、
母の再婚とともに東国へ下り、再婚先でも養父から疎んじられ、
養父の実子でないために縁談相手からも婚約を破棄される。
都に戻り、薫の大将に見そめられ囲われるが、
薫が彼女を見そめたそもそもの理由は、
亡くなった思い人である大君のことが忘れられず、
その身がわりとして、大君の腹違いの妹・浮舟に思いを寄せたからに他ならない。
薫なりに浮舟を愛してはいたけれど、妻に迎える気持ちなどはなからなく、
あくまで気易く心を許せる逢瀬の相手として愛したにすぎなかった。
浮舟に激しい恋心を抱いた匂宮とて、
彼女に永遠の愛を誓う歌を詠みながらも、その直後には、
浮舟との関係に飽きたら、過去の愛人たちと同じように、
彼女を女一の宮(匂宮の姉)に女房として差し出すことを考えている。
つまり、浮舟は最初から「愛人カテゴリー」に振り分けられていて、
それ以上でもそれ以下でもないのだ。
ただの純愛ではなく、男性の普遍的な心理を描いているところが源氏物語の凄いところ。
(逆に、源氏物語の女性については六条御息所以外みんな「いい子」すぎる気がする。)
匂宮よりも誠実な薫の愛人の座におさまることが、
よるべのない自分にとって最良の生き方だと心の中では思いつつも、
プレイボーイの匂宮との情事を拒めない自分。
浮舟は三角関係に悩んだというよりも、自分の淫乱さ、優柔不断さに
自己嫌悪を抱いたのだと思う。
自らの理性と情念の乖離に悩んだ末、
彼女にとって一切の色恋的な外的刺激を断つ方途が、
自殺であり、出家だったのだ。
――そんなことを考えながら舞台の進行を眺めていると、
気がつけば、すでに居グセに移っていた。
不動の状態だと、シテの身体の震えもなく、こちらも能の世界にすんなりと入っていける。
有明の月澄み昇るほどなるに
シテは目付柱の上方(西の空)を仰ぎ見て、遠い昔に思いをはせる。
宇治川の水面に映る冷たい月。
氷の張った水際に打ち寄せる舟。
甘美な恋のひとときと、その後の迷い、苦しみ、涙、嘆き……。
このときのシテの佇まいがとても美しく、
浮舟が見ている世界が、見る側の目の前にも広がっていく。
中入り後の、後シテの出で立ちは唐織脱下ではなく、朱色の紋大口に白綾。
身投げした時の様子を表しているのだろうか。
鬘をひと房ずつ左右に垂らしていて、野に咲く花のように可憐で愛らしい。
たしかにこういう女性なら、堅苦しい公務や家庭を離れた密やかな世界で
大事に囲っておきたくなるのもうなずける。
* * *
私の中の浮舟は、
三島由紀夫の『豊饒の海・天人五衰』で月修寺門跡となった聡子の姿と重なる。
浮舟も年を重ねれば、聡子のようにかつて苦悶した愛の思い出を
すべて忘却の彼方に葬り去ることができるのだろうか。
銕仙会7月公演《善界・白頭》につづく
●能《浮舟》 シテ 柴田稔
ワキ 大日方寛 アイ山本則重
栗林祐輔 曾和正博 亀井広忠
地謡 安藤貴康 岡田麗史 野村昌司 浅井文義
浅見慈一 浅見真州 泉雅一郎 小早川修
後見 長山禮三郎 観世銕之丞
●狂言《土筆》 山本泰太郎 山本凜太郎
●能《善界・白頭》 シテ 片山九郎右衛門
ツレ
観世淳夫 ワキ 宝生欣哉
則久英志 御厨誠吾 アイ山本則秀
竹市学 成田達志
佃良勝 観世元伯地謡 鵜澤光 長山桂三 北浪貴裕 馬野正基
西村高夫 阿部信之 山本順之 清水寛二
後見 大槻文蔵 谷本健吾
締め切りと大きな法事を終えて、久しぶりの観能!
前日までの梅雨模様が嘘のように晴れあがった夏空の広がる銕仙会7月公演へ。
まずは、能《浮舟》から。
柴田稔師の舞台を拝見するのは初めてだけれど、首と右手の震えが気になってしまう。
不随意運動だからご本人の意思ではいかんともし難いのかもしれない。
舞いも謡も、他の部分が良いだけに、身体の震えが残念でもったいない。
シテの面は、甫閑作の増女。
古風な顔で、目鼻立ちがぼんやりしている女面なので、
優柔不断で運命に翻弄される浮舟のキャラクターにぴったり。
清楚な浅葱色の水衣が彼女の可憐さを引き立てている。
地謡が素晴らしく、夕暮れ時の宇治川の美しい情景を切々と謡い上げてゆく。
さなきだにいにしえの恋しかるべき橘の小島が崎を見渡せば
河より遠の夕煙立つ河風に行く雲のあとより雪の色添えて山は鏡をかけまくも
地謡のこの部分と間狂言で引用された浮舟の歌は、
匂宮に抱かれたまま、月夜の宇治川を小舟に揺られていく浮舟が詠んだ歌で、
彼女自身の性格とその後の運命を暗示している。
橘の小島の色はかはらじを
この浮舟ぞゆくへ知られぬ
(常緑樹である橘の葉の色は変わらないけれど、
好色な人間であるあなたの恋心はきっと色褪せてしまうでしょう。
そうなれば、櫂のない小舟のような私はどうなってしまうのでしょう……。)
浮舟は光源氏の弟・八の宮の娘だが、妾腹の子のため認知されず、
母の再婚とともに東国へ下り、再婚先でも養父から疎んじられ、
養父の実子でないために縁談相手からも婚約を破棄される。
都に戻り、薫の大将に見そめられ囲われるが、
薫が彼女を見そめたそもそもの理由は、
亡くなった思い人である大君のことが忘れられず、
その身がわりとして、大君の腹違いの妹・浮舟に思いを寄せたからに他ならない。
薫なりに浮舟を愛してはいたけれど、妻に迎える気持ちなどはなからなく、
あくまで気易く心を許せる逢瀬の相手として愛したにすぎなかった。
浮舟に激しい恋心を抱いた匂宮とて、
彼女に永遠の愛を誓う歌を詠みながらも、その直後には、
浮舟との関係に飽きたら、過去の愛人たちと同じように、
彼女を女一の宮(匂宮の姉)に女房として差し出すことを考えている。
つまり、浮舟は最初から「愛人カテゴリー」に振り分けられていて、
それ以上でもそれ以下でもないのだ。
ただの純愛ではなく、男性の普遍的な心理を描いているところが源氏物語の凄いところ。
(逆に、源氏物語の女性については六条御息所以外みんな「いい子」すぎる気がする。)
匂宮よりも誠実な薫の愛人の座におさまることが、
よるべのない自分にとって最良の生き方だと心の中では思いつつも、
プレイボーイの匂宮との情事を拒めない自分。
浮舟は三角関係に悩んだというよりも、自分の淫乱さ、優柔不断さに
自己嫌悪を抱いたのだと思う。
自らの理性と情念の乖離に悩んだ末、
彼女にとって一切の色恋的な外的刺激を断つ方途が、
自殺であり、出家だったのだ。
――そんなことを考えながら舞台の進行を眺めていると、
気がつけば、すでに居グセに移っていた。
不動の状態だと、シテの身体の震えもなく、こちらも能の世界にすんなりと入っていける。
有明の月澄み昇るほどなるに
シテは目付柱の上方(西の空)を仰ぎ見て、遠い昔に思いをはせる。
宇治川の水面に映る冷たい月。
氷の張った水際に打ち寄せる舟。
甘美な恋のひとときと、その後の迷い、苦しみ、涙、嘆き……。
このときのシテの佇まいがとても美しく、
浮舟が見ている世界が、見る側の目の前にも広がっていく。
中入り後の、後シテの出で立ちは唐織脱下ではなく、朱色の紋大口に白綾。
身投げした時の様子を表しているのだろうか。
鬘をひと房ずつ左右に垂らしていて、野に咲く花のように可憐で愛らしい。
たしかにこういう女性なら、堅苦しい公務や家庭を離れた密やかな世界で
大事に囲っておきたくなるのもうなずける。
* * *
私の中の浮舟は、
三島由紀夫の『豊饒の海・天人五衰』で月修寺門跡となった聡子の姿と重なる。
浮舟も年を重ねれば、聡子のようにかつて苦悶した愛の思い出を
すべて忘却の彼方に葬り去ることができるのだろうか。
銕仙会7月公演《善界・白頭》につづく
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