2018年6月5日火曜日

粟田神社と粟田口~《小鍛冶》と《粟田口》の聖地

三条通をはさんで合槌稲荷神社の向かいに立つのが、粟田神社。
(同じく、地下鉄東西線東山駅から徒歩3分)

こちらも能《小鍛冶》の聖地で、三条小鍛冶宗近を祀る末社があります。


旧社名「感神院新宮」

主祭神は、素戔嗚尊(牛頭天王)と大己貴命。

八坂神社(感神院祇園社)と祭神が同じことから、かつては感神院新宮と呼ばれていたといいます(明治期に「粟田神社」と改名)。

御由緒によると、粟田祭で神輿に先行して巡幸する「剣鉾」は祇園祭の「山鉾」の原形と考えられ、室町時代、祇園会が行われない際には粟田祭が祇園会の代わりになったそうです。

刀剣の神様だから、魔を祓う凄い威力があると信じられていたのですね。






鍛冶神社


鳥居から本殿へは石階段をけっこう登っていきます。

参拝者はほとんどなく、ちょうど石段を下りてくる羽織袴の若い男性とすれ違いました。能楽師さんではないけれど一般の人でもない感じ。長唄(三味線)か何かの方でしょうか。
(長唄にも《小鍛冶》がありますから、舞台の成功祈願?)

京都では和装をさりげなく、素敵に着こなす男性をよく見かけます。




↓石段の途中にある駐車場の片隅にあるのが、小鍛冶宗近を祀る鍛冶神社。



刃物・鍛冶の守神、勝運・開運の神「鍛冶神社」


立看板の「祭神」の下(右端)に、「三条小鍛冶宗近命」と記されているのが見えるでしょうか。
「とにもかくにも宗近」が神様になりはったんですね。


ほかには、鎌倉中期の名工・粟田口藤四郎吉光と、天目一筒神(鍛冶・製鉄の神&ひょっとこ(火男)の原型)が祀られています。



境内からの見晴らし

石段を登りきると小高い境内。平安神宮の赤い鳥居がよく見えます。
自然と伝統が調和した、美しい風景。




舞殿

本殿の正面にある舞殿。
10月半ばの粟田祭の際には、ここで舞楽が奉納されるそうです。
行ってみたいなー。




能舞台(神楽殿?)

鏡板に影向の松が描かれているので、能舞台でしょうか。
本殿の斜め脇にあるのですが、お祭りの際に使われた張り子のキャラクターが飾られていて、能舞台としては全然使われていないようす。

もったいない……。
通常の能舞台よりも小さめなので、ここで本格的な能の上演は難しいのでしょうが、小鍛冶の聖地で能《小鍛冶》を観てみたいものです。




本殿

こちらが御本殿。青紅葉が涼やか。




狛犬さん

どこか愛嬌のある狛犬さん。




北向稲荷社


雪丸稲荷を祀る北向稲荷

三条小鍛冶宗近の合槌を打った雪丸稲荷を祀る北向稲荷社。




粟田口の碑


粟田神社をあとにして坂を下っていくと、京の七口(京に通じる主要出入口)のひとつ、粟田口の碑があります。




京都市の立看板



京都市によると、「粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲にわたる地名」のことだそう。

平安末以降、この付近は刀鍛冶たちの居住地となり、粟田口産の名刀は「粟田口」と呼ばれました。
これが狂言《粟田口》のモティーフになるのは周知のとおり。

能・狂言の世界に浸りながら京の町を歩くと、過去と現在、虚構と現実が何の矛盾もなく共存しているのを感じます。




明智光秀の塚


粟田口の碑から白川沿いに出て、少し奥まった路地に入ると、日本の歴史を大きく変えた人物が、しずかに、ひっそりと祀られた祠があります。





これも京都市によると、天王山の戦いで敗れた明智光秀は、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われて自刃。

家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝えられているそうです。


こんなふうに、狭い路地の片隅にひっそりと祀られた塚を目にすると、陸奥行脚の途中で、実方の塚を見て歌を手向ける西行法師になったような気分になります。


西行のようにふさわしい歌は詠めないので、光秀の辞世を記しておきます。
(「名をも惜まじ」というところが、明智光秀の生きざまをあらわしているように思います。)



心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ











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