こちらは、能《誓願寺》の舞台となった誓願寺。
和泉式部が帰依したころの誓願寺は奈良にあり、宗派も三論宗だったようです。
その後、鎌倉時代に京都の一条小川に移転し、さらに秀吉時代に現在の三条寺町に移され、宗派も鎌倉期に浄土宗になったとされています。
和泉式部が御本尊に教えを受けたころとは大きく様変わりした誓願寺ですが、能《誓願寺》ではすでに念仏の大道場として描かれ、現在とそう変わらないお寺だったのかもしれません。
行ってみると、なんと、「リレー説教大会」なるものが催され、門前では若い僧侶の方々がビラ配りをしていて、「どうぞ! どうぞ!」と本堂へ案内されました。
本堂には立派な阿弥陀如来像が。
誓願寺のもともとの本尊は、天智天皇の勅願により、名仏師・賢問子・芥子国父子が造立したものでした。
賢問子と芥子国は、夜になると地蔵菩薩と観音菩薩に姿を変えて勅願仏を彫っていたという伝説が残されています。
両菩薩は春日大明神の本地であることから、阿弥陀如来は春日大明神がつくられたものとして崇められてきたといいます。
和泉式部が帰依したのも、この賢問子・芥子国が彫った阿弥陀如来でした。
しかし残念ながら、天智天皇勅願の仏像は焼失し、現在安置されているのは、明治期の神仏分離により、石清水八幡宮から移されてきた阿弥陀如来(鎌倉~南北朝期作)だそうです。
とはいえ、八幡神の本地仏として石清水八幡で大切に崇拝されてきただけあって、現在の阿弥陀様も素晴らしい仏像です。
美しいので、仏像のアップ。
(こちらのお寺は太っ腹で、本堂の中も写真撮影OKとのこと。)
「リレー説教大会」というのは、落語の元祖で、優れた説教師でもあった誓願寺第55世策伝上人の遺勲を受け継ぐべく開催されている大会だそうです。
策伝上人は、滑稽な話を集めて『醒睡笑』を著しました。
その『醒睡笑』をもとにして、《子ほめ》《牛ほめ》《唐茄子屋政談》《たらちね》などの落語作品がつくられたというから、たしかに落語の元祖、誓願寺が落語発祥の地と言われるのもうなずけます。
僧侶の方々がやわらかい京都弁で語る説教は、なんとなく落語っぽい。
こちらに来て感じるのは、とくに関西の浄土宗・真宗系の僧侶の方々は、皆さん、噺家なみにお話がうまいということ。
親しみやすい話術のうまさは、ここでは僧侶の必須条件なのかも。
この本堂では落語の奉納以外にも、《誓願寺》の能楽奉納も行われているそうです。
さて、そのまま新京極商店街を歩いていくと、誠心院の山門が見えてきます。
誠心院の初代住職が、和泉式部です。
和泉式部は、藤原道長の娘・彰子に仕えていました。
彰子の勧めにより、藤原道長が和泉式部のために建てた東北寺境内の小御堂が、誠心院の起こりとされています。
山門の右横には、魔尼車(マニ車)の一種「鈴成り輪」がありました。
お寺の解説によれば、和泉式部の古い灯籠の竿と台座を使ったもので、一回廻せば経典を一回読誦した功徳が得られ、さらに知恵授けや恋授けの御利益があるとのこと。
誠心院には、江戸時代の和泉式部縁起絵巻が伝わっており、境内には絵巻のパネルが飾られています。
絵巻の上巻には、娘の小式部に先立たれた和泉式部が、書写山円教寺を訪ねて、そこで性空上人の教えを受け、さらに誓願寺に籠り、本尊の教えによって六字名号を日々唱え、女人往生するまでの物語が綴られています。
↑の図は、和泉式部が誓願寺に参拝したときの様子。
下巻は、能《誓願寺》を絵巻物にしたような内容で、最後は、歌舞の菩薩となった和泉式部が二十五菩薩とともに一遍上人の前にあらわれるさまが描かれています。
↑の図に描かれているのは、和泉式部の墓(宝篋印塔)。
こちらが現在の誠心院。
本堂の脇から裏手にまわると、
式部千願観音像がビル群の前に安置されていました。
和泉式部の面影を偲ぶ、千人の願いを込めた、万人に利益を施す聖観音菩薩という思いでつくられたそうです。
和泉式部誠心院専意法尼の墓所(宝篋印塔)
能《誓願寺》の詞章に、シテ「わらはが住家はあの石塔にて候」、ワキ「不思議やな、あの石塔は和泉式部の御墓とこそ聞きつるに、御住家とは不審なり」というくだりがあります。
誠心院によると、この誠心院境内にある宝篋印塔こそ、能《誓願寺》に登場する石塔だということです。
能の舞台は誓願寺だけれど、石塔(和泉式部の墓)は誠心院にあるということ?
江戸期のものということですが、おそらく色が黒ずんでいる彫りの浅いものが江戸期の作で、彫りが深く石が白い像は、もう少し時代が下るのかもしれません。
実際の誓願寺は大きく様変わりして、和泉式部の気配が感じられなかったのですが、こちらの誠心院では、和泉式部信仰がいまなお深く根づいていて、能《誓願寺》の世界を味わうことができたように思います。
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