梅若万三郎の《野宮》前場からのつづき
能《野宮》シテ六条御息所 梅若万三郎
ワキ殿田謙吉 アイ茂山七五三
赤井啓三 久田舜一郎 亀井忠雄
後見 中村裕 加藤眞悟
地謡 西村高夫 伊藤嘉章 八田達弥 馬野正基
遠田修 長谷川晴彦 梅若泰志 青木健一
後場は小林秀雄風に、「千駄ヶ谷の能楽堂で、万三郎の《野宮》を見た……美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」と綴りたくなるほど閑麗な名舞台だった。
【後場】
ヒシギが鳴り、大小鼓が冷え寂びた一声の音色を響かせてゆく。
重い過去が絡みついた牛車に乗る風情で、後シテの御息所が登場する。
長絹は茶色に見えるほど退色した紫長絹。
薄柿色の大口も裾が少し擦り切れている。
薫香焚きしめた上質の古い装束が、色香の褪せつつある御息所の姿をあらわしている。
しかし、加茂祭の車争いの再現から御息所に変化が訪れる。
前場では深井のように老けて見えた増の面が、にわかに生気を帯び、冷たい美しさをたたえながら、みるみる若返ってゆく。
「(パッと寄りて)人々、長柄に取りつきつつ」で、シテは脇正で伸ばした右腕に左袖を掛け、
「人だまひの奥に押しやられて」で、身をよじるように後ずさり、
悄然とした面持ちで舞台を二巡りする。
ここの地謡も最高に素晴らしく、御息所の受けた屈辱が身に迫るよう。
いや、屈辱を受けたというよりも、彼女は深く傷ついたのだ。
どうしようもないほど深く傷ついて、底知れぬ孤独の中で途方に暮れていた。
気位は高いけれど、心が脆く、傷つきやすい繊細な女性。
万三郎の後シテはそんな慎み深く、嫋やかな素顔の御息所だった。
〈序ノ舞〉
万三郎の序ノ舞には、無駄なもの余分なものがことごとく削ぎ落とされ、能の精髄・芸の神髄だけが舞っているような不思議な軽やかさ――物理的ではなく、精神的な軽やかさ――があった。
物理的法則や肉体的限界を超越した、何物にもとらわれない自由な軽やかさ。
それは、東宮妃時代の御息所の心の軽やかさ、華やぎにも通じていた。
〈破ノ舞〉
「野宮の夜すがら、なつかしや」で、源氏の面影を重ねるように鳥居に駆け寄り、後ずさりした御息所は、ここで初めて涙を見せ、抑えに抑えていた思いがほとばしる。
熱く、静かな二度のシオリ。
そこから九月七日の最後の夜を追懐する破ノ舞へ。
この破ノ舞は、熱情に駆られたわが身を俯瞰するような、どこか醒めたまなざしを感じさせる。
もしかすると御息所は僧侶の法力を借りずともすでに自己昇華していて、彼女にとって妄執を晴らすなどということは、もはや大した問題ではないのかもしれないとも思わせた。
万三郎の破ノ舞は、ドロドロした情念や妄念とは無縁であり、
ただ甘美な痛みを噛みしめて、陶然と舞う美しい女がそこにいた。
〈終曲〉
「伊勢の内外の鳥居に出で入る」で、左足を鳥居から出して引く型はなく、
代わりにシテは鳥居に向かってためらいがちにジグザグに前進し、鳥居に触れることなく後退して通り過ぎる。
そのまま橋掛りに行き、一の松で「また車にうち乗りて」と左足拍子で車に乗り込み、しばらくこちらをじいっと見つめた。
凄絶なまでに美しい高貴な女性。
わたしはこの瞬間、万三郎演じる御息所にほとんど恋をしていた。
そして二の松で、「火宅の門をや出でぬらん」と鳥居を振り返り、憂いをふくんだまなざしで再び見所を見込む。
ゾクッとするほどの美しさ。
これほどまでに美しいひと、愛しいひとが行ってしまう、わたしを置き去りにして。
シテの姿が幕の奥へと消える時、
御息所に去られたあとの光源氏の気持ちがわかる気がした。
0 件のコメント:
コメントを投稿