京都文化博物館「北野天満宮 信仰と名宝」関連イベントのつづきです。
現地を散策して、歴史的背景を知ってから展覧会を鑑賞すると、いっそう興味が湧きます。ブンパクには今月中に行く予定なので楽しみです♪
東向観音寺(朝日寺) |
北野天満宮二の鳥居のすぐ近くにあるのが、806年、桓武天皇の勅願により建立された朝日寺(現・東向観音寺)。
もともと朝日寺が、北野のこの地に建っていました。しかし、947年に菅原道真廟が移されたことから、朝日寺の最鎮らが北野天満宮を建立。朝日寺は北野天満宮の神宮寺になったそうです。
「東向観音寺」と呼ばれるようになったのは、その向かいにも観音堂(西向観音)があったため。しかし、西向観音は廃絶され、東向観音寺だけが残りました。
961年には、菅原道真御作とされる十一面観音が筑紫観世音寺より招来され、新たにこの寺の本尊になったといいます。この十一面観音像は、25年に1度だけ開帳される秘仏。次回公開されるのは8年後の3月だそうです。
お堂のなかに上がらせていただいたのですが、内部は、礼堂の奥に本堂がある形式で、北野天満宮の「拝殿ー本殿」をつなぐ形式を踏襲しています。
また、十一面観音は菅公の本地仏とされていることから、この寺でも本尊の左隣に菅原道真像が安置されています。
いまでも神仏習合の香りが色濃く残るお寺ですね。
土蜘蛛灯籠の由来 |
「土蜘蛛」灯籠の火袋 |
(由来碑には、土蜘蛛灯籠の所有者の家運が傾いたことから「土蜘蛛の祟り」とされ、東向観音寺に奉納されたと記されています。お寺めぐりをしていると、同様の理由で幽霊画などが奉納されているのをよく目にします。)
土蜘蛛灯籠の前で手を合わせると、網の張った祠が、能《土蜘蛛》の蜘蛛塚の作り物のように見えてきます。土蜘蛛さん、どうぞ安らかに。
伴氏廟 |
これも副住職のお話によると、もとは北野天満宮の境内にあったものが、明治期の神仏分離令により東向観音寺に移されてきたそうです。
関西ではこうした事例が後を絶ちません。
北野廃寺跡 |
ここは、太秦から続く大地の東端に位置することから秦氏との関連が指摘されています。
発掘調査では、「鵤室(いかるがむろ)」と墨書された平安前期の施釉陶器が4点発掘され、一説では、この寺に聖徳太子信仰にかかわる建物が存在していたといわれています。
天神川(紙屋川) |
御土居の堀としても使われた天神川は、江戸時代までは「紙屋川」と呼ばれていました。
古代よりこの川の水で紙漉きが行われたといいます。古代の紙はきわめて貴重なので、何度も再生利用したため灰色をしていました。顕微鏡で見ると、再利用された紙に以前に記された文字が見えるそうです。
この川の水でつくられた紙が、宮中のさまざまな文書に使われていたのですね。
かつてここは、渡来系技術集団の集住地だったのでしょうか。
上七軒の花街の提灯には「五つ団子」の紋章が。 |
上七軒の起源は室町時代にまでさかのぼります。
1444年、麹の製造をめぐって北野天満宮が室町幕府から攻撃を受け、社殿の一部を焼失。社殿修復の際に残った資材を用いて、七軒の茶屋が建てられました。これが上七軒の始まりです。
その後、応仁の乱で衰退しかけた北野界隈に再び活力を与えたのが、豊臣家でした。1587年、北野大茶湯のおりに、秀吉の休憩所になったのが上七軒です。このとき、名物のみたらし団子を秀吉に献上したところ、おおいに喜ばれ、みたらし団子を商う特権が七軒茶屋に与えられました。
上七軒の花街が五つ団子の紋章を用いているのは、この逸話に由来するそうです。
さらに上七軒は、出雲阿国の「かぶき踊り」が初めて上演された場所でもあります。
そう、歌舞伎発祥の地は四条河原ではなく、ここ上七軒だったのです! と、学芸員さんたちはおっしゃっていました。
いずれにしろ、室町時代末から近世初頭にかけて、ここは御茶屋や遊女屋が立ち並ぶ一大歓楽街だったのですね。
2年前に発見され、京都文化博物館特別展「北野天満宮 信仰と名宝」で初公開される《洛外名所遊楽図屏風》には、当時の北野界隈のにぎわいが生き生きと描かれています。
学芸員さん、東向観音寺の副住職さん、ありがとうございました!
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