2016年11月9日水曜日

友枝昭世の《野宮》後場~友枝會

2016年11月6日(日) 13時~17時15分   国立能楽堂
友枝会~《野宮》前場からのつづき

能《野宮》シテ友枝昭世 
  ワキ宝生欣哉 アイ野村万蔵
  一噌仙幸→一噌隆之 曾和正博 柿原崇志
  後見 中村邦生 佐々木多門
  地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 出雲康雅 長島茂
     大島輝久 内田成信 金子敬一郎 佐藤寛泰

狂言《鐘の音》シテ野村萬 アド能村晶人

能《国栖》シテ友枝雄人 ツレ姥 友枝真也 
   ツレ天女 友枝雄太郎 子方 内田利成
   ワキ工藤和也ワキツレ則久英志 御厨誠吾→代演
   アイ野村虎之介 野村拳之介
   一噌隆之 観世新九郎 大倉慶乃助 観世元伯
   後見 内田安信 塩津哲生
   地謡 大村定 粟谷明生 狩野了一 谷大作
      塩津圭介 粟谷浩之 粟谷充雄 佐藤陽





【後場】
〈一声→後シテの出〉
前シテの時とはまったく違う、牛車に乗った貴婦人を思わせる優雅な律動感のあるハコビ。

シテの出立は神々しく輝く白地長絹に、艶やかな京紫の色大口。
面は前シテと同じだろうか。

斎宮とともに伊勢に下った御息所と、心を野宮に残したままの御息所。
心身ともに半聖半俗の御息所の存在が装束にもあらわされている。



〈シテ・ワキの掛け合い〉
シテは常座に入り、ワキとの掛け合い。車争いの様子が再現される。

ここのワキの謡「所狭きまで立て並ぶる」や「御車とて人を払ひ、立ち騒ぎたるその中に」「車の前後に」がいつになく強い調子に感じる。

この欣哉さんの強い謡には車争いの臨場感を高めるとともに、シテの気持ちの昂ぶりを代弁する働きもあり、非常にドラマティックな場面となっていた。

(御息所も、自分の気持ちをこれほど理解し同調してくれる人にこれまで出会ったことがないのではないだろうか。
だからこそ欣哉さん扮する僧の前で、抑えに抑えた思いを解き放ち破ノ舞に至るのだと、その心のプロセスがよくわかるシテとワキの掛け合いだった。)



〈車争い→序ノ舞〉
御息所の妄執の元凶となる屈辱シーン。
人々ながえに取り付きつつ」で、右袖巻き上げ、
「人だまひの奥に押しやられて」で、押しやられるように後ずさりし、
「身のほどぞ思ひ知られたる」で、顔を隠すように右袖を二度上げ、
「身はなほ牛(憂し)の小車の廻り廻りきて」で、閉じた扇を左肩上にあげ、肩越しに牛車を引くようにして舞台を小さくまわる。

そして、観世流では「昔を思ふ花の袖」のところが、喜多流では「昔に帰る花の袖」となり、よりいっそう旧懐の舞としての遡及的要素が強くなる。


序ノ舞の、白い長絹に達拝の姿は巫女的なイメージ。
嫉妬や恨みなどの負の感情を知らなかった、無垢で幸せな頃の清らかな舞。


喜多流の序ノ舞だからだろうか(それとも昭世師の独創だろうか)、二段オロシでは地謡前で右袖を巻き上げるなど、全体的に舞台上手に比重を置いた序ノ舞。
(上掛りでは脇正で右袖を被くなど、舞台下手側に比重が置かれる。)



〈破ノ舞→終曲〉
地面におりた露に、月の光が反射してキラキラと美しく光る森のなか、
この露を払いつつ源氏が訪れたあの日のことをシテは思い出す。

露打ち払ひ」で、開いた扇で露を払い、
「(訪はれし我もその人も)ただ夢の世と古りゆく」で、声なき嘆きとともに後退し、
「誰松(待つ)虫の音はりんりんとして」で、耳を澄ます。

彼女が聴きたかったのは虫の音か、それとも、ここを訪れる源氏の足音なのか。

御息所もまた、松風や井筒の女のように「待つ女」なのだと思った。


ここで、シテは思いが一気にあふれ出たように鳥居に駆け寄り、手を伸ばす。
おそらく彼女にとって鳥居は、あの日の象徴であり、源氏の姿そのものなのだ。

その鳥居に触れそうで、触れない。
ほんとうは触れたいのに、思いきり抱きしめたいのに、理性でぐっと思いとどまる。



理性と感情に引き裂かれ、ときには生霊となりながらも、感情と理性のあいだで苦悩し、ひとりで闘い抜いたのが友枝昭世の御息所だった。

(この場面をいま思い出すだけで、彼女の孤独な闘い、孤独な葛藤が胸に迫ってきて、涙があふれてくる。)



自己矛盾に翻弄されたシテは狂おしい破ノ舞を舞い、鳥居から出ることもなく、本舞台の上で車にうち乗り、「火宅~」で終わる地謡とともに、ふたたび迷妄のなかへと還っていった。











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