2016年2月13日土曜日

能と土岐善麿 《実朝》を観る ~能《実朝》前場

能と土岐善麿《実朝》を観る ~おはなしと解説からのつづき

能《実朝》シテ老翁/実朝 狩野了一  
     ワキ舘田善博 アイ深田博治
      藤田貴寛 森澤勇司 柿原光博 大川典良

       後見 塩津哲生 佐藤寛泰
      地謡  長島茂 友枝雄人 内田成信 金子敬一郎
          粟谷充雄 大島輝久 友枝真也 塩津圭介


1950年に染井能楽堂で初演された新作能《実朝》。
この日は詞章のプリントも配布されました(嬉しい心遣い)。

実朝の十数首の歌が盛り込まれた詞章は流麗な韻律をもちつつ、格調高く端正で、歌人で作詞者たる善麿のセンスが生かされ、曲全体の構成も無駄がなくスッキリと整った印象。


実朝を題材にしているので、《忠度》のように和歌に関する執心がテーマかと思いきや、渡宋を夢見て唐船を造らせたものの、船が大きすぎたため海に浮かべることができずに浜辺で朽ち果ててしまったことを嘆き、渡海という見果てぬ夢への執心と、その思いを詠んだ歌「大海の磯もとどろに」が本曲の主題となっています。


喜多流の変化に富む謡によって、寄せては返す波のリズムや荒れ狂う大波の激しさがドラマティックに表現され、「大海ノ舞」という早舞の替がとても印象深い素敵な曲でした。


前場

次第の囃子でワキの旅僧(舘田善博)登場。

ダークグレーの無地熨斗目着流しにベージュの水衣、
右手に扇、左手に緑の房が美しい数珠。
常座で、次第→名ノリ「都がたより出たる僧にて候」→下歌→道行
着きゼリフ「鎌倉由比の浦とやらんに着きて候」のあと、脇座へ。



一声の囃子が奏され、幕があがり、前シテは幕内でしばらく佇んでから登場。
こちらはブルーグレーの無地熨斗目着流しに茶色の水衣。
面は三光尉。
顎髭が短めで、どこか精悍な感じの尉面です。
シテの狩野了一師は小顔なのか、面はジャストサイズ。

尉髪の髷が水平に長くピンと伸びて額から大きく飛び出し、リーゼントっぽく見えます。
(狩野さんが高齢になったらこうなるのかなと思わせる枯れないかっこいい老人です。)
左手には棹。



辺りには船はないのに漕ぎ出そうとしている老人を見て不審に思った旅僧は老人に、どこまでいくつもりかと声をかけます。


老人が、どこまでいくのは自分にも分からないけれど、唐国に憧れる思いが強くて岸辺から去りがたいと答えると、僧はその昔、源実朝の渡宋への夢が破れたことを思い出す。


シテはクドキで、実朝がつくらせた大船が巌のごとく動かないまま浜辺で朽ち果てたことを語り、「渡宋の志もつひに空しくなる」で、絶望したように竿をぼとりと落とす。


これを見た僧は、将軍の亡魂が今でも迷い出ているのだと察して、実朝の最期をくわしく語るよう老人に促す。



ここからクリ・サシ・クセに入り、シテは正中へ行き、下居して腰に差していた扇を手にする。


居グセでは、実朝暗殺当日の鶴岡八幡宮拝賀前のようすが地謡によって語られます。

束帯の下に(護身用の)腹巻をつけるよう助言を受けたがつけなかったこと。
出かける前に庭の梅の香に誘われて、「いでていなば、主なき宿となりぬとも、軒端の梅よ、春を忘るな」と一首詠じたことなど。


舞台はこうしたしみじみとした「静の場面」から一転して、公卿による実朝暗殺の「動の場面」となり、喜多流の強吟が劇的緊迫感を高めます。



浩々としてかがり火に、雪はかかやく石段の、上にあたってきらめく一閃

映画を見るように情景が鮮やかにイメージできる見事な詞章です。



ここからシテはパッと立ち上がり、扇で暗殺者の太刀さばきと討たれた実朝の最期を一人二役で再現。

「大太刀鋭く切ってかかるに、おん身をかはすひまもなく」で、シテは刀をかわすように時計回りにクルリとまわり、
「尊体かしこくあけに染まって、雪の上にぞ倒れ給ふ」で、後ろによろよろと下がり大小前でガックリと安座。


「そのひまにみしるしを、血しほのままに掻きいだき」で、シテはふたたび立ち上がって、常座で開いた扇を水平にして両手で持ちあげ、
「今こそ別当阿闍梨公卿、父の敵を討ったれと」で足拍子、
「呼ばわる声も夜あらしに、とどろきかはす磯の浪、おとすさまじく更けにけり」で、送り笛とともに悲しげな足取りで中入り。



能と土岐善麿《実朝》を観る ~能《実朝》後場につづく


0 件のコメント:

コメントを投稿