関東では松の内は7日までだそうですが、能楽堂の前には角松が。 |
解説・能楽あんない 林 望
狂言《麻生》麻生何某 山本東次郎
藤六 山本則重 下六 山本則秀 烏帽子屋 山本則俊
一噌庸二 田邊恭資 白坂信行 林雄一郎
能《仲光・愁傷之舞》 藤原仲光 大槻文蔵
多田満仲 観世銕之丞美女丸 長山凜三 幸寿丸 谷本悠太朗
恵心僧都 宝生閑→宝生欣哉 従者 山本則孝
一噌庸二 大倉源次郎 白坂信行
後見 赤坂禎友 武富康之
地謡 浅見真州 浅井文義 泉雅一郎 阿部信之
浅見慈一 長山桂三 谷本健吾 安藤貴康
超豪華キャストの1月普及公演。
閑師は療養中のため休演でしたが、
欣哉さんが年末の《定家》に続いての名演で感動的な舞台でした。
まずは、リンボウ先生の解説から。
現行の《仲光》(観世流以外では《満仲》という)は、
江戸期には廃曲同然だったのを明治7年に梅若実が復曲したものだそう。
(梅若ではこの時代から復曲がさかんだったのですね。)
また、室町期に流行した幸若舞の《満仲》という曲を脚色して能にしたのが
《仲光》ではないかとのこと。
恵心僧都が美女丸を連れて唐突に現れるのも、
当時の人々ならだれもが知っていたであろう幸若舞の内容を踏まえて
《仲光》が作曲されているから、現代人の目には唐突に見えるだけだろうと
リンボウ先生はおっしゃっていました。
幸若舞《満仲》では、満仲の屋敷を出た美女丸が
比叡山近辺の神社に置かれていたのを、
恵心僧都が見つけて保護したくだりが語られるそうです。
また、「美女丸」という風変わりな名前がつけられているのは、
男児に立派な名をつけると鬼や魔物に魅入られて早世すると考えられたため、
弱々しい女性のような名前をつけ、さらに女装をさせていたからとのこと。
なるほどー。
西洋美術でも女の子のドレスを着た男の子の絵をよく目にするけれど、
男の子は死亡率が高かったので洋の東西を問わず同様の慣習があったのですね。
リンボウ先生の解説にはなかったけれど、
美女丸はその後修行を積んで源賢(げんけん)阿闍梨という高僧となり、
幸寿の回向のために寺院を建立したと言われています。
また、美女丸が最初に預けられていた中山寺は、
わたしが子供の頃、祖父母に連れられて近くの清荒神とともによく訪れたお寺。
観光地というわけではなく、境内にはレトロな出店が立ち並ぶ
関西人にとってはなじみ深い庶民的な寺院です。
狂言《麻生》
上演時間40分の大曲にして稀曲。
シテの麻生何某は在京していましたが、
訴訟が解決したために故郷の信濃に帰ることになります。
帰郷のための晴れ姿として小袖上下と烏帽子を藤六と下六がすでに用意していて、
使用人の行き届いた配慮に感動する麻生何某。
下六が烏帽子やに烏帽子を取りに行っている間に、
藤六が麻生のちょんまげを烏帽子髪に結い直すのですが、
その時の則重さんの手つきが、じつにきめ細かく美しい。
まずは、葛桶から膠鯉煎(きょうりせん)という鬢付油を取り出して、
麻生の髪を丁寧に撫でつけていきます。
それから、ポニーテールのように結った髷(これはカツラ)の紐をはずして、
優しい手つきで梳っていきます。
なんだか、とっても気持ちよさそう。
わたしもやってほしいくらい。
最後に、河童の皿のような五体付けという装飾を頭頂部につけ、
髻を高く結いあげてできあがり!
男の人が髪を結う姿ってカッコよく見えるから不思議。
そうこうしているうちに、下六が烏帽子屋からできたてホヤホヤの烏帽子を受け取ります。
膠がまだ乾いていないので、烏帽子を竹棒に差して麻生の館に戻ろうとするのですが、
どの家も正月の注連縄飾りをしているため、帰る家が分からない。
迎えにきた藤六とともに屋敷が分からなくなった二人は、
「信濃の国の住人、麻生殿の身内に藤六と下六が……」と囃子ながら家を探し回ります。
ここから囃子が入って、舞台は一層華やかに。
やがて麻生も二人の囃子を聴いて浮かれついでに舞いはじめ、
藤六と下六も無事に戻って、最後はめでたくシャギリ留。
なんとなく東次郎さんの調子がノッていないような気もしたけれど、
当時の習俗なども分かって興味深い曲でした。
国立能楽堂普及公演《仲光》につづく
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