宝生の能楽堂で、浅見真州の「当麻」を見た。
何故、あの夢を破る様な笛の音や小鼓・大鼓の音が、いつまでも耳に残るのであろうか。夢はまさしく破られたのではあるまいか。舞衣の袖が翻り、蓮を載せた天冠がきらめき、中将姫は、いまだ眼の前を舞っているかのようであった……。
と、小林秀雄風に綴ってみたけれど、昨日の銕仙会定期公演〈5月〉は単純に、よかった、素晴らしかった、感動した、といった言葉では括れない舞台だった。
囃子方は一噌仙幸(笛)、大倉源次郎(小鼓)、柿原崇志(大鼓)、 観世元伯(太鼓)、
地謡は地頭に観世銕之丞、副地頭・浅井文義、西村高夫、清水寛二、柴田稔、馬野正基、北浪貴裕、長山桂三。
後見は野村四郎、浅見滋一と、最高の陣営だけに、見る側〈私〉の期待も大きかった。
普段と変わらず、気迫はあるけど無駄な力が一切抜けた安定感のある演奏だった。
(観世元伯さんは「失意泰然・得意淡然」が座右の銘だそうだけれど、舞台上でこの言葉から外れた姿を見たことがない。演奏も、掛け声も、バチさばきも常に素晴らしく、座っている時の佇まいは悟りを得た人のよう。)
(観世元伯さんは「失意泰然・得意淡然」が座右の銘だそうだけれど、舞台上でこの言葉から外れた姿を見たことがない。演奏も、掛け声も、バチさばきも常に素晴らしく、座っている時の佇まいは悟りを得た人のよう。)
足の運びも、謡も、立ち姿もとてもきれいだし、舞台に華を添えつつも、シテをたてるというツレとしての本分も決して忘れない。
癖のない正統派という感じだろうか。
銕仙会のみならず、観世流の能楽師がこの方をツレに選ぶのも分かる気がする。
「重いものは軽く、軽いものは重く」って茶道でも言うから。
この方の絶頂期を知っているファンの方々はその姿と二重写しになって見えるのだろうか。
お能を最近見始めた私にはこの方の現在の姿しか記憶に刻まれない。
お能を最近見始めた私にはこの方の現在の姿しか記憶に刻まれない。
シテの現在の姿しか見えない私には、心に突き刺さるものがなかった。
追記:後シテに使われたのは是閑作の増女。
歌舞の菩薩となっただけでなく、「仏も我もなかりけり」の言葉通り、憧れの「俤人」たる阿弥陀如来と一体となった中将姫の高貴な神々しさを表すのにぴったり。
面の角度によっては、ベルニーニの《聖テレジアの法悦》に見られる、神(ここでは阿弥陀如来)との合一による神秘的恍惚の最中に中将姫がいるかのような表情にも見えた。
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