2018年1月26日金曜日

友枝昭世の《鉢木》前場~国立能楽堂特別公演

2018年1月25日(木) 13時~16時 国立能楽堂

能《鉢木》シテ佐野常世 友枝昭世
    ツレ常世妻 狩野了一
    ワキ最明寺時頼 森常好 二階堂某 森常太郎
    アイ早打 炭光太郎 二階堂従者 小笠原匡
    松田弘之 成田達志 亀井忠雄
    後見 中村邦夫 友枝雄人
    地謡 香川靖嗣 粟谷能夫 粟谷明生 長島茂
       友枝真也 内田成信 佐々木多門 大島輝久


首都圏の大雪から数日たったこの日もまだ雪がだいぶ残っていて、能楽堂の中庭はミニチュアの雪景色。《鉢木》のために誂えたような上演日和。

それにしても、《鉢木》は難しい曲です……。
友枝昭世師は亡霊・精霊など、現実を超えた夢の世界が似合う舞の名手。
「能ではなく芝居」と言われるこの現在物のシテは舞もほとんどなく、どちらかというと、ニンにない役柄かもしれない(観世寿夫も《鉢木》を好まなかったというし)、だからこそ昭世師ならではの《鉢木》が生まれたのかもしれません。



【前場】
ツレは出し置きで地謡前に静かに座り、最明寺時頼扮する旅僧と、一夜の宿をめぐってやり取りをする。

狩野了一さんはもしかすると、友枝昭世のツレを最も多く勤めていらっしゃるのではないだろうか。謡も合わせやすく、姿も端正、昭世師が絶大な信頼を寄せていらっしゃるのがよくわかる。
この日の常世妻役も、慣れない貧乏暮らしを切り盛りして、落魄した夫を支えつつ、掌でコロコロ転がしている……というキーパーソン的な役どころを、もとは武家の奥方らしく、品よく美しく演じていて凄く良かった。



〈シテの出〉
幕が上がり、素襖裃姿で現れたシテは、雪原の彼方に霞んでいるように見える。
雪の湿り気を感じさせる、少し重みのあるハコビ。
一の松に立ち、かすかに辺りを見渡すようにして第一声を発する。
その声音は、わたしには少し意表を突くものだった。


ぁ、あぁ……降ったる雪かな


なにかこう、戦禍の後の焼け野原を目にした時のような声。
すべてが灰燼に帰して何もかも失い、呆然と立ち尽くす人が発したような声。
愁嘆のその向こうにある、形容しがたい感情から絞り出された声だった。

「袂も朽ちて袖せばき」で、石川啄木がじっと手を見るように、左袖をむなしく見つめ、「あら面白からずの雪の日かな」に、厭世観を滲ませる。


この場面ではピンとこなかったのだが、次の場面、その次の場面と展開するうちに、常世の心理描写が入念に計算されているのが伝わってきた。


冒頭の厭世観、人間不信、人間的な感覚・温情の鈍麻があったからこそ、一夜の宿を拒む次の場面につながってくる。

この時の一抹の後悔が、妻の助言によって悔恨・懺悔の情へと膨らみ、夕闇迫る雪原で僧侶の姿を必死で探すうちに、人間的な感情や心のゆとりを取り戻し、僧が佇む雪景色に感興を催して「駒とめて袖打ち払ふ陰もなし」の定家の歌を引くに至り、さらには秘蔵の鉢木でのもてなしへとつながってゆく。



〈薪ノ段→いざ鎌倉の覚悟〉
正先に、雪をかぶった鉢木の作り物が出され、いよいよ薪ノ段。

「捨人のための鉢木切るとても」で扇を開き、まるで我が子を斬るような、覚悟と逡巡が入り混じる。
次の「雪打ち払い見れば面白やいかにせん」で、未練ありげに鉢木をしばし見つめたのち、扇を閉じる。

秘蔵の鉢木は、過去の栄華の象徴。
梅、桜、松と、大事な植木を伐るたびに、過去への未練も断ち切っていく。

それはおそらく常世が日頃から願いつつも、どうしてもできなかったことなのだろう。
過去の威光、過去の自分を断ち切れないことが、現在の苦しみとなっていた。
僧を薪でもてなすことは、常世にとって、過去と決別するまたとないチャンスなのだ。


そうしてすべてを断ち切り手放したあとに、
常世に残ったのはただひとつ、武士としての意地と矜持。


ボロボロの具足に錆びた長刀、痩せた馬を最明寺に指し示し、
「鎌倉に御大事あれば」「あの馬に乗り」と、
下居のまま片足を、バンッ!、とひとつ足拍子して、
見得を切るようなその姿に、サムライの美学が凝縮されていた。




《鉢木》後場につづく











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